【完結】獣王の番

なの

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第六章:裏切りと決意

第二十四話:冷酷な再会

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ユリアンが、数名の護衛だけを連れてセレスタ軍の陣地へと向かう道中は、重い静寂に包まれていた。
馬の蹄の音と鎧の擦れる音だけが、冬の訪れを告げる冷たい空気の中に虚しく響く。木々の葉はとうに落ち、寒々しい枝が空に向かって伸びている。その様子が、これから待ち受ける運命を暗示しているかのようだった。

(これで、いいんだ)

ユリアンの心は、不思議と凪いでいた。
これから敵国の懐に飛び込むというのに恐怖よりもむしろ、使命感が全身を支配している。

愛する人を、そして二つの国を自らの手で救いたい。その強い想いだけが、凍てつく空気の中で唯一の熱源となって胸を満たしていた。

セレスタ軍の偵察部隊がユリアンの一行を見つけるのに、そう時間はかからなかった。森を抜けた開けた平原で、十数騎の騎馬隊が彼らを取り囲む。

白旗を掲げたユリアンは、馬上から引きずり下ろされるようにして捕らえられ、全ての武器を取り上げられた。護衛の騎士たちも同様に拘束され、別々の場所へと連行されていく。
厳重な警戒の中、ユリアンは一人、陣地の中央に鎮座する一際大きな天幕へと連れて行かれた。

陣地は、獣王国の華やかさとは無縁の殺伐とした空気に満ちていた。
兵士たちの顔には疲労と不信感の色が浮かび、誰もがユリアンに冷たい視線を投げかける。
彼らにとってユリアンは、国を捨てて敵国の王に嫁いだ裏切り者なのだ。

天幕の中は、外の空気にも増して冷え切っていた。
獣王国の豪奢なそれとは対照的に、戦いのためだけに設えられた機能的で無機質な空間。
その中央に置かれた無骨な椅子に、一人の男が深く腰掛けている。

銀に近い白金色の髪に、氷のように冷たい青い瞳。
寸分の狂いもなく整った顔立ちは、まるで精巧な彫像のようで、一切の人間的な温かみを感じさせない。

「……久しいな、ユリアン」

男は、ユリアンの名を呼んだ。その声は、蛇が地を這うように、ねっとりと耳にまとわりつく。

彼こそが、ユリアンの故郷、セレスタ王国の王子にして、この軍の総大将。
そして――かつてユリアンを政略の駒として獣王国へ送り込み、家族の情を一度として与えることのなかった実の兄であった。

「兄上……」

ユリアンは、か細い声で、目の前の男を呼んだ。
血の繋がった実の兄。だが、その胸に湧き上がったものは、再会を喜ぶ懐かしさなどではなかった。
脳裏に蘇るのは冷たい視線と侮蔑の言葉ばかり。ユリアンが彼から兄らしい情を向けられた記憶は、一度たりともなかった。血の繋がりなど、この男の前では何の意味も持たない。
彼にとってΩであるユリアンは、一族の誇りを汚す忌むべき存在であり、ただ利用するためだけの道具でしかなかったのだから……。

「何の用だ?獣王の寵愛を受け、安穏と暮らしているのではなかったのか?」

兄は唇の端を歪め、嘲るような笑みを浮かべる。

「それとも、故郷が恋しくなって泣きついてきたか?だとしたら、随分と都合のいい話だな」

「……戦いを、おやめください」

ユリアンは震える膝に力を込め、真っ直ぐに兄の瞳を射抜くように見つめた。ここで怯んではいけない。

「この争いで救われる者は誰もいません。誰も幸せにはなりません。多くの民の血が流れ、憎しみだけが残るだけです」

一瞬、沈黙が落ちる。
そして次の瞬間、王子は堪えきれぬといったように肩を震わせ、やがて声を上げて愉快そうに笑い出した。天幕の中に、乾いた狂的な笑い声が響き渡る。

「――幸せ、だと?
ハッ、随分と獣王に染まったものだな。俺が望んでいるのは、そんな生温い感傷ではない。完全なる支配だ。そして、そのために、お前の力が必要なのだ、ユリアン」

その声には、隠しきれない狂気が滲んでいた。
やはり、彼は知っていたのだ。ユリアンが予言の番であることを。

「お前が獣王を鎮める力を持つ『鎮めの番』であることは、我が国の古い文献にも記されていた。
獣王ライオネルは、その強大な力故に、常に内なる獣の暴走という致命的な弱点を抱えている。だが、お前がいれば、その弱点は克服される。
お前という『鍵』を我が手に収め、獣王を意のままに操る。そうすれば、この大陸の全てを手に入れることなど造作もない」

そのあまりにも身勝手で狂気に満ちた野望に、ユリアンは背筋が凍るのを感じた。この男は、本気でそう考えている。国や民のためではない。ただ己の支配欲を満たすためだけに、全てを犠牲にしようとしているのだ。

「……お断りします」

「はっ?」

「私は、ライオネルの番です。あなたの野望のための道具になるつもりは、ありません」

ユリアンの毅然とした答えに、王子の表情から、すっと笑みが消えた。氷の瞳が、侮辱された怒りで鋭く細められる。

「……そうか。獣に飼い慣らされるうちに、己の立場も忘れたらしい。
ならば力ずくで、お前を『ただの道具』に戻してやるまでだ」

王子が冷たく言い放ち合図をすると、天幕の陰から、数人の屈強な兵士が現れた。彼らは一切の躊躇なくユリアンを取り押さえ、その細い腕を背後にねじり上げて拘束する。

「何を……!離してください!」

「お前のその生意気な意志も、獣王に与えられたくだらん誇りも、全てここでへし折ってやる。
お前が、ただのΩとして、αである俺に媚び服従するように、な」

王子はゆっくりと立ち上がると、懐から小さな小瓶を取り出した。その中には、どろりとした粘度の高そうな紫色の液体が入っている。

「これは、Ωの発情を強制的に誘発させ、理性を焼き切る薬だ。
我が国の錬金術師が、古代の秘法を基に作り上げた逸品だ。これを飲めば、お前はもう思考することもなく、ただ本能のままにαを求める獣となる。
αである俺の命令に逆らうことなどできなくなるのだ」

そのおぞましい言葉に、ユリアンの全身から血の気が引いた。
そんなことをされれば、自分は本当に、ただの操り人形にされてしまう。
ライオネルへの想いも、彼と育んだ絆も、この国を救いたいという願いも、全てが汚され、踏みにじられてしまう。

「やめて……!やめてください……!」

ユリアンは必死に抵抗するが、大の男たちに押さえつけられ、身動き一つ取れない。抵抗すればするほど、腕に食い込む指の力が強くなる。
王子は、冷酷な笑みを浮かべながらユリアンの前に立つと、その顎を乱暴に掴み、無理やり上を向かせた。
小瓶の栓が抜かれ、甘ったるくも鼻をつく匂いが広がる。王子の手が、ユリアンの口をこじ開けようと迫る。

絶体絶命。もう、駄目だ――。
ユリアンが、全てを諦めて目を瞑りかけた、その時だった。

外から突如として、兵士のものとは思えぬ凄まじい絶叫と、激しい剣のぶつかり合う音が鳴り響いた。一つではない。いくつもの断末魔が重なり、陣地全体が恐慌に陥ったような騒ぎが伝わってくる。

「な、何事だ!?」

戸惑う王子と兵士たちの動きが一瞬止まる。その隙を突くかのように、轟音と共に天幕が切り裂かれた。

そして、逆光の中に立っていたのは、返り血と泥にまみれ、まるで地獄から蘇った鬼神のような形相をした、一人の男。

「――ユリアンッッ!!」

獣の咆哮そのもののような叫び声と共に、その男は中へと飛び込んできた。
陽光を反射して輝く黄金の髪を振り乱し、その琥珀の瞳は、燃え盛る怒りの炎を宿している。

獣王、ライオネルだった。


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