婚約破棄されましたが、私は愛よりも信じます。

夏乃みのり

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「……なんだこれは! この書類の山は一体どうなっているんだ!」


王宮の一室、第一王子カイルの執務室に、彼の絶叫が木霊しました。


かつてはヒーナが数時間で片付けていた、王国全土からの報告書、予算申請書、そして外交上の儀礼的な手紙。


それらが今や、カイルの身長を超えるほどの巨大な「紙の塔」となって、彼の視界を遮っています。


「殿下、落ち着いてください……。今、ミア様が美味しいハーブティーを淹れてくださいますから」


「お茶など飲んでいる暇があるか! この『関税調整案』の意味がさっぱり分からん! なぜ数字がこんなに……こう、数字なんだ!」


カイルが頭を抱えて叫びます。


「あ、カイル様ぁ。お待たせしました。お砂糖をたっぷり、三倍入れた甘いお茶ですよ。これを飲めば、難しいことなんて全部忘れられますわ!」


ミアが、ピンク色のフリルが付いたエプロン姿で、トレイを持って現れました。


「おお、ミア。……いや、今はそれどころではないのだ。この書類、ヒーナがいた頃は翌朝には終わっていたはずなのに、なぜ私がやると三日経っても一行も進まないんだ?」


「それは……ヒーナ様が、可愛げのない仕事中毒だったからですよ。カイル様はもっと、感性を大切にすべきですわ。あ、この予算申請書、紙の色が地味ですね。全部バラ色に変えちゃいましょう!」


「バラ色に……? そうか、それならやる気が出るかもしれん。よし、国庫からバラ色の紙を千枚発注しろ!」


「……殿下、申し上げにくいのですが。バラ色の特注紙を発注するための予算を承認するための書類が、その『紙の塔』の中ほどに埋まっております」


隅で死んだような目をしていた事務官が、ぼそりと呟きました。


カイルは塔を見上げ、絶望に顔を歪めました。


「……ヒーナ。あいつ、一体どうやってこれを処理していたんだ? あんなに不気味で、冷酷で、金計算しか取り柄のない女だったのに……」


「カイル様、そんな女のことなんて忘れましょう? そうだわ、明日はお庭でピクニックをしませんか? お空の青さを眺めれば、事務作業なんて些細なことに思えますわ!」


「そうだな。ミア、お前は本当に私の癒やしだ。……事務作業は、まあ、明日の私に任せるとしよう」


カイルはペンを投げ出し、ミアの細い肩を抱き寄せました。


その足元で、未処理の「食糧危機に関する緊急報告」が、虚しく風に揺れていました。


一方、その頃。
王都の端にある幽霊屋敷では、全く異なる空気が流れていました。


「……ふむ。王宮の事務停滞により、物流の認可が遅れているわね。これ、商人間で認可証の『裏取引』が発生するわ。ゼクス、今のうちに偽造……いえ、代替の証明書を発行する窓口を裏で作っておいて」


「承知しました。手数料は通常の三倍、『特急発行料』として徴収しましょう」


私は、快適に修繕されたソファ(元はゴミ捨て場にあったものを魔改造)に深く腰掛け、王都の経済図を眺めていました。


そこへ、一人の男が極秘裏に現れました。


フードを深く被り、周囲を警戒するその姿。……王宮の近衛騎士団長、ロラン卿です。


「……ヒーナ・ローウェル様。突然の訪問、お許しいただきたい」


「あら、団長様。うちのサロンは会員制ですが、紹介状はお持ちかしら?」


「いや、今日は客として来たのではない。……個人的な、いや、王国の安保に関わる『依頼』に来たのだ」


ロラン卿は、意を決したようにフードを脱ぎました。その顔は、過労とストレスでボロボロです。


「近衛騎士団の予算が、ミア様の『観賞用うさぎの飼育費』に流用されました。このままでは、冬の遠征用の防寒具が買えません。騎士たちが凍死してしまいます」


「……なるほど。それで、私に『寄付』でも募りにいらしたの?」


「いいえ。貴女なら、この『消えた予算』を、帳簿上の魔法でどこからか捻り出せるのではないかと思いまして……。報酬は、王宮の秘密金庫の『合鍵の型』でいかがでしょうか」


私は、持っていた羽ペンを止めました。


「秘密金庫の、合鍵……」


私の瞳に、怪しい光が宿ります。


「……ゼクス。明日の予定をすべてキャンセルして。騎士団の帳簿を、徹底的に『洗浄(クリーニング)』するわよ」


「かしこまりました。ヒーナ様。……いよいよ、王宮の心臓部を握りに行きますか?」


「ええ。カイル様がピクニックを楽しんでいる間に、私はこの国の『財布』をまるごと乗っ取って差し上げるわ」


私は、震える騎士団長の前に、一枚の契約書を差し出しました。


「騎士団長様。騎士たちの命、私が『時価』で買い取って差し上げますわ。……ただし、これからの騎士団は、王家ではなく『私』に忠誠を誓っていただきますけれど?」


幽霊屋敷に、冷徹で、かつてないほどに情熱的な高笑いが響きました。


婚約破棄から一週間。
悪役令嬢は、ついに国家の武力さえも、その経済力で侵食し始めたのです。
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