上 下
75 / 77
第10章 片翼のリクと白銀のルーク編

98話 封印の地

しおりを挟む


《魔王は、我が子を千尋の谷に落とす》

 魔族の世界には、このような諺があった。
 歴代の魔王は我が子を谷底に落とし、生き残った者だけを後継者として育て上げる。この習慣は、魔王だけでなく、有力な魔族の間においても盛んに行われてきた。


 レーヴェン・アドラーもその試練を潜り抜け、成長した一人であった。
 彼は、いまでもその日のことを思い出す。幼い頃、兄弟たちと共に父に連れられ、訪れた崖の下を覗き込んだとき、腹の底から冷たくなっていくような恐怖を感じたのを覚えている。崖の遥か下に海が広がっていた。波こそ穏やかだが、崖際に生える松の木が点のようで、相応高い場所に立っているのだと実感した。ここから落ちたら、確実に死ぬ。
 幼いレーヴェンは微かに震え、父の腕に触れようと手を伸ばした矢先だった。

『ここで死ぬ程度の弱者は、アドラー家にいらない』

 それだけ言うと、父は彼を谷底へ蹴り落した。
 其の直後、彼の後ろから続く兄弟の悲鳴。振り返る暇もなく、その安否を心配する余裕もなかった。身体が崩れそうな衝撃に耐え、波に逆らうように手足を動かしながら呼吸をする。呼吸、というよりも、喘ぎだっただろう。時折、空気と一緒に喉に張り付くような海水も飲み込んでしまう。
 苦しくて、辛くて、疲れて、手足は鉛のようで、もう動けなくなった頃、気がつけば浜辺に打ち付けられていた。背中の翼が体の一部にもかかわらず鉄の塊のように重く、自分を圧迫してくるように思えた。
 白い浜辺に頬をつけ、ぼんやりと遠くを眺める。白い砂地の向こう側に、ぽつん、ぽつんと誰かが倒れている。見覚えのある服だった。髪や服が潮風に揺れ、ひらりひらりと動いている。
 兄弟の名前を叫ぼうとしたが、喉が渇いたせいだろうか。口から出たのは、隙間風のような音だった。声も出なければ、動くことも億劫で、次第に瞼も重くなってくる。子どもながら、直観的に「死」が迫っている事実を痛感した。

 兄弟は死んだ。おそらく、自分も死ぬ。

 その事実に直面し、彼の心は震えた。
 身体のあちらこちらが軋み、骨の内側から滲むような痛みが全身に広がっている。海水のせいで身体は冷え切り、震えが止まらない。死んですべての苦しみから解放されれば、どれほど身体が楽になるのだろう。とても魅力的な考えに、そのまま覆いかぶさるような眠気に意識を委ねてしまいたい。しかし、それと同時に――死にたくない、と願う自分もいた。
 こんなところで死にたくない。まだ、生きていたい。
 少しでも海から遠ざかり、家に帰りたい。その一心で、指を動かす。懸命に動かすが、指は砂を掻くばかりで、全く進まない。それでも、身体の奥から力を振り絞り、先に進もうとする――

 そんなとき、だった。

『どうしたんじゃ、小僧?』

 白い足が見えた。
 視線を上げてみれば、幼女が不思議そうに覗き込んでいる。立派な角に、目が覚めるような金色の髪、くるりとした好奇心旺盛な瞳、きめ細かい白い肌――

『お前、まだ生きていたいのじゃな』

 幼女は鞄から水筒を差し出し、彼の口に近づけた。

『生きていたいなら、飲むがよい。死にたいなら飲むな。
 妾は強い意思を持つ魔族が好みじゃ。魔王軍は強くあらねばならぬからの』

 彼が水筒を口に含むと、少女は笑顔を浮かべた。
 それは、まさに砂漠に咲いた一輪の花のようだ。その可憐な微笑みに、目が吸いつけられてしまった。

 その魔族こそ、シャルロッテ・デモンズ。
 魔王封印後、代行の地位についた少女であった――。







 ※


 そこは、闇だった。
 ルーク・バルサックは急く気持ちを抑え、ごつごつとした壁に手をつきながら進んでいた。
 最初こそ外の光は届いていたが、ほんの数十メートル進んだ辺りで、視界は完全な闇に閉ざされてしまった。暗いなかにいても、たとえば、夜に移動していたとしても、闇に目が慣れることはあるだろう。しかし、ここは完全な暗闇。光が全くない世界で、目が慣れるということは訪れない。懸命に目を凝らしてみても、闇、闇、闇――。
 たった数分しか経過していないはずなのに、十分以上過ぎてしまったような錯覚を受ける。
 だから、そのわずかな光を見たとき、ほっと安堵の息を零してしまった。
 明かりの正体は、薄緑色の苔だった。苔は仄かに光を帯び、通路を薄暗く照らしていた。岩壁にこびりつく苔明かりを頼りに、一歩、また一歩と慎重に進んでいく。

「ッ!」

 少し先の曲がり角に、一段と明るい光が差し込んでいる。
 十中八九、あの先が封印の地――つまり、最終決戦の場所だ。ルークは曲がり角の手前の壁に身を預ける。片方の手で残りの矢を確認し、もう片方の手で剣を握りなおす。

 あと少し。
 この角を曲がれば、ついに最終決戦だ。
 ルークは気合を入れなおすように、ゆっくりと息を吐いた。そして、ゆっくりと顔をのぞかせた。ずっと暗いところを歩いてきたからだろう。わずかな光であっても、目が眩みそうになった。目を細め、少しでも向こう側を確認しようとする。

 そこは、石室のようだった。
 湿気の臭いが漂う少し開けた空間は、どことなく寂寥の気配を強く感じた。ぽつんと石柩が安置されていた。煌々と燃え上がる松明が壁際に沿って掲げられており、柩を怪し気に照らし出している。その石柩の上に誰かが横になっていた。その横顔が、松明の炎に照らし出されたとき、はっと息をのんだ。

「……王女だ」

 ルークは唾をのみ、ゲームの知識と照らし合わせる。
 あの石柩に、王家の血と退魔四家直系の血を捧げる。さすれば、魔王が復活し、この世が混沌に陥る。この位置からだと、王女の生死まで確認することはできなかった。ただ、王女のほかに誰か――たとえば、ルークのほかに退魔四家の血を引く者、ラクやリクがささげられた様子も見当たらない。だから、まだ復活しない。

 そう、まだ復活しない。
 彼女以外の人影は、見当たらなかった。ルーク以外の生贄を探しに行っているのだろうか。だとしたら不用心極まりない――が、こちらからしたら好都合だ。

「王女っ!」

 ルークは思いっきり地面を蹴りとばす。
 誰もいない今が好機。これを逃すわけにはいかない。たんたんたんっと足音が空間に木霊した。

「助けに来ました、王女。早く、ここから――ッ!?」

 しかし、近づいて気付いた。
 王女は微動だにしない。小さな鼻も、形のよい唇も、豊満な胸も、白い小枝のように細い指も、一ミリたりとも動かない。そう、まるで、人形のようだ。

「まさか、人形?」

 ルークをここにおびき寄せるための罠、だったのだろうか? そう考え、震える指で頬に触れると、青紫色の唇から一筋の血が流れ落ちる。その瞬間、昂っていた血の気が、急激に引いていくのを感じた。

 遅かった。
 間に合わなかったんだ。
 ルークは声を出すことがでできず、一歩も動くことができず、屍を見下すことしかできなかった。彼女がすでに死んだと分かった時点で、封印解除を防ぐため、王女の死体を連れて逃げなくてはならない。そう頭ではわかっているのに、動くことができなかった。浅い呼吸を繰り返し、極度に動揺した心を落ち着けようとする。
 そして、ゆっくりと長い息を吐いたとき、力強く羽ばたく音が沈黙を破った。

「――ッ!?」

 ルークが一気に視線が動いた。
 見上げるばかりの天井の奥から、黒い塊が急激に近づいてくる。その黒い塊の中に、鈍く光る刃を認めて、ようやく身体が呪縛から解放された。ルークは飛び跳ねるように王女から離れ、剣で迎え撃った。刃が鳴る鋭い音と火花が空間に広がる闇を綻びさせる。

「この女を助けに来るため、一人で来る度胸は認めてやろう、ルーク・バルサック」

 ルークは眉間にしわを寄せながら、黒い塊――レーヴェン・アドラーを睨みつける。
 巨石のように重い力が、ルークの身体に圧しかかってきた。痺れるような圧力に、歯を食いしばる。対峙する魔族が片手で抑えきれるほど容易い相手でないことくらい、最初から分かっていた。すぐに両手で剣を支え、防御から攻撃に転ずる。本音を言えば、このまま防御し続け、相手の隙を待ちたいところだが、いつまでも防御に徹していては、力負けしてしまうのは明白であった。

「ここに来たことを後悔するがいい」
「後悔なんて、するものか!」

 ルークは鎧の隙間に狙いを定め、慎重に、かつ素早く剣を振るう。
 退魔の力――白銀の光を使い、相手の眼を眩ませることができれば、もっと簡単にことは進むだろう。だが、レーヴェンの眩ませたところで、相手もルークの技などお見通しだ。なにしろ、彼には退魔の力を込めた矢ですら弾き返す巨大な翼がある。あれが瞬時に動き、鎧の代わりに彼の身を護るに違いない。

 正直、勝てる自信はなかった。
 だがしかし、ここで負けるわけにはいかないのだ。
 ゲームのため? 世界のため? そんなこと、関係ない。

「僕は、自分のために、お前を倒す!」
「やってみろ、ルーク・バルサック」

 レーヴェンの身の丈ほどの大剣が細身の長剣を薙ぎ払う。風を逆巻きながら振り払われた剣に、退魔師とはいえ、ただの人間に過ぎないルークが抵抗できるわけがない。そのまま突風に吹き飛ばされ、壁に激突してしまった。

「くはっ!」

 背中に強い痺れが奔る。
 口の中に血の味が広がっていくのが分かった。ルークは風圧で切れた唇を舐め、できるかぎり素早く立ち上がる。ルークは剣を縦に構えると、凹凸のある地面を蹴り飛ばした。レーヴェンも、すかさずルークを迎え撃とうとする。その勢い、速さは尋常ではない一撃だった。しかし、ルークもただ闇雲に突撃したわけではない。

「――っいっけー!!」

 剣と剣が重なりある直前、ルークは剣の向きを変えた。レーヴェンの剣を華麗に受け流し、鋭く水平に放った。ただ、レーヴェンの首を狙った一撃は半歩届かず、薄らと赤い傷跡が彼の首元に奔る。ルークは内心、舌打ちをすると、そのまま次の一手を打つ。

「白銀よ!!」

 ルークはレーヴェンが攻撃に転ずる前に、素早く退魔の力を剣に集約させた。
 突然、至近距離で放たれる眩い閃光に、さすがのレーヴェンも眼を瞑ってしまう。もちろん、彼は魔王軍の中将まで上り詰めた男だ。眼を眩ませた隙に、敵が己の首を切り落とそうとしてくることくらい読めていた。反射的に翼を閉じ、身を守ろうとする。
 が、

「ルーク、そのまま押し通せ! 援護する!!」
「――ッ!!」

 出入り口付近から声援が響く。
 眼を瞑った状態では周囲の様子を把握できず、一瞬、そちらに気を取られたことが、レーヴェン・アドラーの命取りになった。
 ルーク自身も目が眩んだが、そこは己の勘と記憶、そして磨き上げてきた剣技の精度に身を委ね、レーヴェンの首を狙う。自分の後を追ってきたラクの声援に励まされ、躊躇いなく首を狙った。唯一、誤算だったのは、ルーク自身も目が眩んだ結果、首ではなく、左肩から左腕にかけて斜めに切り落としてしまったことである。
 退魔力を沈め、空間全体に満ち溢れていた光が収まったとき、レーヴェン・アドラーは肩で荒い息をしていた。見事なまで立派な両翼は見る影もない。切断面からは、川のように大量の血を流していた。

「はぁ……はぁ……仕留め、損ねた」
「いや、我が弟ながら良くやったと思うぞ」

 気がつけば、ラクが誇らしげな顔で横に並んでいた。
 戦場にふさわしくない白衣姿だったが、そこらかしこ血がこびりついている。

「ラク姉……その恰好……」
「なに、また着替えれば良いだけだ。
 ……よく頑張ったな、ルーク。あとは、私に任せろ」

 そう言いながら、ラクは手榴弾を取り出した。
 ラクの爆弾の威力は折り紙付きだ。たった一つで、確実にレーヴェンを木っ端みじんにすることができる。幸い、左翼を失い、彼は宙へ逃げることもできないし、身体を守ることもままならない。想像を絶する痛みを抱えたまま、投げつけられる爆弾から身を避けることはできないだろう。

 外のゴルトベルクは、もう死に体。
 内のレーヴェンも、なかば戦闘不能。

 この二人さえ倒すことができれば、残りの魔族は敵ではない。
 魔王解放は阻止され、封印の地は再び眠りにつく。

 これで、ようやく世界の滅亡を阻止することができるのだ。

「「これで、終わりだ――ッ!!」」

 バルサック姉弟の声が重なり、ラクの手から手榴弾が放たれた。









 次の瞬間だった。

「させない」

 赤い少女が彼らの間に飛び込んでくる。
 少女は目を見張る速さでレーヴェンの前に躍り出ると、立ち止まることなく、瞬時にハルバートを振るった。巨塊なハルバートは手榴弾を打ち返し、製作者の目と鼻の先で炸裂した。

「ら、ラク姉っ!?」

 ルークはラクに駆け寄ろうとしたが、激しい閃光と爆風に逆らって進むことができない。閃光と爆風が収まったとき、そこには誰もいない。原形のとどめないほど黒く焼け焦げた服と、それに包まれていたと思われる汚臭を放つ塊だけが残されている。

「……あっけない死に方。
 だけど、悲しむことはないわ、ルーク・バルサック」


 爆発の残り火が、手榴弾を打ち返した少女――リク・バルサックの微笑みを怪しく照らし出している。
 ルークはあまりにも急変した事態についていくことができず、血を分けた姉の不敵な笑みを呆然と眺めることしかできなかった。



しおりを挟む
1 / 4

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!


処理中です...