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手袋 -6-
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ウミは十六歳の誕生日を迎えた。迎える事ができた…というべきなのか、それとも迎えさせられた、というべきかは解らない。正直、僕は誕生日という物があまり好きではない。一年のうち、たった一日、何故かその日だけは、なんとか満足のいく時間を過ごさなければならないという妙なプレッシャーを抱いてしまう。他の日と比較して、何が違う、という訳ではないのに。そして、大抵、特になんともなく、この過ごし方でよかったのだろうか、といった寂しい気持になる。ウミが同じような感情を誕生日に対して抱いているかは不明だけれど、それに関係なく燐光石の苦痛は今日もやってくる。
手袋は完成していたが、色々と気が重かった。こんな物を渡してよいのか、というのもそうだし、こんな状況でウミにおめでとうを言ってよいものかも迷った。そんな僕を見かねてか、アメリが話かけてくれた。
「手袋は忘れずに用意した?」
僕は、鞄から完成した一双のミトン手袋を取り出した。難しくて解らない編み方の場所についてはごまかしてあるのが明らかに見て取れるが、それでも形にはなっている。アメリは、へえ、頑張ったんだね、と評価してくれた。
「けれど、どうやって渡したらいいのかも解らないや」
「何も気になんかせずに、普通に渡せばいいんじゃないかな。気持ちの問題だもん。でも、せっかくだから何かラッピングした方がいいかもしれないね。手伝ってあげるね」
放課後、図書室のカウンターで、アメリは器用に、僕が編んだ手袋を包んでくれた。手袋と同じ、淡いグレーの包装用紙に、ピンクのリボンをつけてくれた。おかげでかなり見栄えが良くなった。ありがとうを言うと、アメリは、どういたしまして、と返事した。
「リュウくんにお願いされて、姉さんと連絡をとってるの」
委員長か…。
「僕、委員長とは喧嘩をした状態で、それっきりになってるんだよね…」
「気にしてたんだ…。大丈夫だよ、姉さん、引きずるタチじゃないから。でも、姉さんもウミがここまで悪くなるなんて思ってなかったから…そこは、許してあげて欲しいな」
皆、色々な感情を抱きながら、なんとかこの状況を切り抜けようと必死なんだ。ウミがどうなるかも、自分たちがどうなるかも解らない。そんな不安の波の中で誰もが溺れかけている。
「それで、委員長とは? ウミの脱出の話をしてるんだよね?」
アメリは首肯した。
「明日の夜中に出発して、朝に陸に到着できれば、タクシーで迎えに来てくれるって」
そうか、それなら、僕とウミと委員長の三人で乗り込んで、どこか病院へ向かう事はできそうだ。出発時間を夜中にするしかないのは理解できるが、そうすると、ウミは今日明日と二回の浄化に耐えなければならない。あと三割ずつ繰り越しを行えば…なんとか体力は持つだろうか。
「アメリは、来ないよね?」
「うん。ウミとちゃんとお別れできないのは寂しいけれど…リュウくんから、来るなって言われちゃってるし…本当を言うと、わたしも怖いしね…」
夕方、僕はラッピングされた手袋を手挟んで、神社へと向かった。先に渡すのがいいのか、浄化が終わった後に渡すのがいいのか、悩んだ。けれど、浄化後だと、ウミはとてもじゃないけれど誕生日を祝うような状況ではないだろうから、先に社へ向かって、渡す方がよいだろうか…。
「よう、来たな」
石段を登ったところで、声をかけられた。見ると、町医者が最上段に腰かけて、煙草をくゆらせていた。隣には、保健教師もいる。
「なんでこんなところにいるんですか?」
僕は率直に訊いた。町医者は、おいおい、体調確認の日だろ、と答えた。
「あの娘、もう左腕もかなり危ない状態だ。自衛隊の兄ちゃんと相談して決めようとは思うが、前回のような急な壊死が起こる可能性があるから、早急に切断するのが賢明だろう。恐らく、内臓や骨はもっとマズイ事になっているだろうがな…」
保健教師は、何度もハンカチを目に押し当てて、涙を堪えている様だった。この人は恐らく、ウミの体調の変化をきちんと気づけなかった事に対して責任を感じているのだろう…。いや、もしかすると、ギリギリまで体調不良を表沙汰にしないようにウミにお願いされていたのかもしれない。どちらにしろ、ウミの事を本当に案じてくれている一人であることには間違いないだろう。
町医者と保健教師は、立ち上がった。
「俺たちは、もう行くわ。あとの事は任せた」町医者が言った。「あと、これを渡しておく」
町医者は、白衣のポケットから何やら取り出すと、僕に渡して来た。それは、小さな袋だった。
「これは…避妊具…?」
町医者は、僕の肩を叩くと、耳許に顔を寄せてきた。
「処女のまま死なせるのは、可哀想だろ? お前も、責任を果たしてやれ」
「今日はね、浄化はお休みにするよう、神主さんにお願いしたの」保健教師が言った。「いい思い出を…作ってあげてね」
保健教師はまた泣き出してしまった。町医者は、俺があのおばさんを説得してやったんだから感謝しろよ、と言った。
この避妊具は、今更、誰を、何から守る為のものなんだろうか…。
「これ…使えないよ」僕は、石段を下りていく二人の背中に向かって言った。「ウミがあんな状態なのに…使えないよ…!」
町医者は、煙草を地面に落とし、足で火を消した。それから僕の方を振り返ると、
「甘えるな!」と、大きな声で言った。「あの娘が死ぬ事に対する覚悟ができていないのは、もう、お前だけじゃないのか」
僕は、言葉がでなかった。二人は踵を返すと、石段をゆっくりと降りて行った。
僕は、重い足取りで社へと向かった。社には、いつも通り、明かりが灯されていたが、なんだか涙でぼやけて、現実味がなかった。この数ヵ月の出来事が全部夢で、今にも覚めれば良いのに、と思った。
扉をゆっくりと開けた。中は、ウミ一人きりだった。昨日と同じように布団に横たわり、小さく息を繰り返していた。けれど、僕が来た事に気が付くと、いつもの…もう、いつもの笑顔を作る程の元気はなかったが、それでも微笑んでくれた。
僕は、ウミの横に座り、顔を覗き込んだ。
「…調子はどう?」
ウミは、えへへ、と笑った。よくみると、ウミは薄化粧をしている。
「これで…大丈夫って言ったって…ユウくん、信じないくせに」
僕は、わざと声を出して笑い、そうだね、と答えた。
「今日は、ウミに、お誕生日おめでとうを言いに来たんだ」
ウミは、ゆっくりと頷いた。
「ありがとう…。よく、わたしの誕生日…わかったね。知っていてくれただけで…とっても嬉しい」
僕は、不意に滲みだした涙を袖で拭ってから、鼻を大きく啜った。
「それで、ウミにプレゼントがあるんだ…。ほら、アメリが包んでくれたんだよ」
リボンのついた包み紙をウミの見えるところに掲げると、ウミは目でそれを追った。僕は、できるだけ丁寧にリボンを外して、袋を開けた。それから、中身が何か解らないように、編み物の一部だけをラッピング包装紙から飛び出させ、これ、なんだか解る? と訊いた。ウミは、表情を明るくさせて、精一杯の笑顔を作ってくれた。
「手袋…ありがとう。がんばったんだね…」
ウミが即答したので、僕は驚いてしまった。
「知ってたの?」
ウミは頷いた。
「うん…。なんとなくね。だって…鞄から、編み針が見えてたから」
そうだったのか…。でも、気づいても、何も言わないでいてくれたんだ…。
僕は、手袋を取り出すと、自分の左右の指に手袋を差し込み、ウミが見やすいようにしてやった。
「ところどころ、うまくいってないんだけれどね。ほら、ここなんて編み目の数を間違えちゃって…。でも、この色、ウミに似合うかな、って思って」
「うれしい…」ウミが言った。「でも…ごめんね…せっかく…編んでくれたのに…。左手も、動かなくなっちゃったの。足も…もうダメみたい。こんなところ、ほんとは…見せたくなかったなあ」
「ごめん…ごめんね…」
僕には、こんな言葉しか見つからなかった。本当は恥ずかしがり屋のウミを、こんな姿にしてしまった事に対する謝罪なのか、その姿を見てしまった事に対する謝罪なのか、その姿だからこそ手袋が用をなさない事に対する謝罪なのか、自分でも解らなかった。
「ねえ…手袋…わたしの頬に、あててくれる?」
僕は頷くと、手袋をウミの両頬に、やさしく押し当てた。ウミは目を閉じると、大きく深呼吸をした。
「どう? 手袋の感覚、解る?」
「毛糸の香り…いい匂い。ユウくんの匂い…なのかな。それに、とても暖かい…」
暫く、そうしてウミは呼吸を繰り返した。そして、満足がいった頃に、僕は手袋を、ウミの胸元に重ねて置いてやった。
「ウミ、聞いてくれる?」僕が言った。「今、野辺とアメリに協力してもらって、ウミをなんとか助ける方法を考えてるんだ」
ウミは、少し表情を曇らせた。
「ありがとう…。でも、どうやって…」
僕は、念のために周りを見渡した。
「詳しい事は秘密だけれど、ウミがこの島から出て、ちゃんと病院で診てもらえる様に、計画してるんだ」
「島から…って、いつ…?」
僕は頷いた。
「明日、浄化が終わったら、僕がウミを連れ出すよ。そしたら、一緒に島を出よう」
ウミは大きく呼吸をすると、首を横に振った。
「ユウくん…ダメだよ…。それはできないよ…。前にも…言ったよね…? 浄化を終わらせなきゃ…今までの、わたしとユウくんの努力が…無駄になっちゃうもん」
「ウミ、お願いだ。陸の大きな病院で診てもらえれば、今よりはずっと良くなるよ。そうしたら、また戻ってきて浄化の続きをする事だってできる。でも、今のままで続けたら…」僕は言葉を詰まらせた。「だから…一緒に島を脱出して欲しいんだ」
ウミは、暫く黙って呼吸を繰り返していた。が、やがて、ゆっくりと頷いた。
「うん…。ユウくんに、任せるね…」
それを聞いて、僕は安堵した。
「ウミは…どうしてこんなになってまで、浄化作業を続けようとしたの?」
僕は…今まで、訊くのを躊躇っていた質問を、ウミに投げかけた。
ウミは、僕の目を見つめると、小さく頷いた。
「…わたしね、本当の名前は…ウミ…じゃないんだよね…」
やっぱり…ウミは、知っていたんだ。
僕は、うんうん、と頷いた。
「それで? ウミの本当の名前は?」
「本当の名前はね…トリイコっていうの…。変な名前でしょ…? でも呼びづらいから…トリコって…稚さい時は…呼ばれていた気がするな…」
「大きくなってから、ウミ…になったんだね」
「…小学生に入る前くらいの頃…かな。父さんと母さんが…わたしの事…ウミって呼ぶようになったんだよね…。その時は…なんとも思わなかったな…。そういう物だと思っていたし…えへへ、今でも…なんとも思ってないや」
「ありがとう、もう、無理して話さなくてもいいよ。ちょっと休もう」
僕が言った。ウミは、大丈夫だよ、と答えた。
「トリイコは…不吉な名前だから…って、両親は言っていた気がする…。この島に伝わる…浄化の巫女の名前と…同じだから…って。だから…両親は、わたし以外の人に対しては…わたしが生まれた時から…わたしの名前はウミだって…伝えていたみたい…。浄化の巫女のお話…そのお話を聞いた時、わたし…本当に怖くて…毎日泣いていたの。でも…本当に噴火が起こって…気づいたのね…わたし…。いつ死ぬかが解っている事って…本当は…幸せな事なんだろうな…ってね。だって…死ぬまでに何をすればいいか…自分で全部決められるもの…。それに…誰かの為に命を使える事なんて…望んだってできない事なんだって…」
「ウミ…そんな…」
僕は、町医者がさっき言っていた言葉を反芻した。誰よりも早く運命を悟っていたのは、他ならないウミ自身だったんだ…。
「あとはね…死ぬときに…ユウくんがそばにいてくれて…家族や友達の笑顔を…思い出す事ができれば…わたしの人生は充分満足だった…って思える…かな…」
僕は思わず、ウミの感覚のない左手を握りしめた。その手は細く痩せ細り、とても冷たかった。僕は…とめどなく流れる涙を抑える事ができなかった。
「ウミ、僕が…助けてやる。僕が、つれだしてやる…。だから、死なないで…。死んでほしくないんだ」
ウミは優しく微笑んだ。そしてそのまま、僕が泣き続けるのを、黙って見つめてくれていた…。
やがて、ウミは大きく呼吸をすると、言った。
「いいよ…ユウくん…」僕は、涙を拭うと、ウミの顔を見つめた。穏やかな表情だ…。「来て…。わたし…こんなになっちゃったけれど…あなたのために、体を開く準備は、できてるもの…。ずっと…前からね…」
僕は…僕は、どうしてよいか、解らなかった。そこまでウミに言わせてしまった。でも、今、ここでウミを抱いてしまったら、もう、ウミは、生きる希望をなくしてしまうのではないかと思って、躊躇った。いや、生きる希望なんて…もう死ぬ覚悟はとっくにしているのは理解している。覚悟ができていないのは、やっぱり僕なんだ。僕が躊躇うのは、ウミの為じゃない、僕の為なんだ。僕は…僕は…ウミの為に、どうすればいいんだろう…。
僕はウミの目を見つめながら、幾度となく、ウミの頭を、撫ぜた…。
手袋は完成していたが、色々と気が重かった。こんな物を渡してよいのか、というのもそうだし、こんな状況でウミにおめでとうを言ってよいものかも迷った。そんな僕を見かねてか、アメリが話かけてくれた。
「手袋は忘れずに用意した?」
僕は、鞄から完成した一双のミトン手袋を取り出した。難しくて解らない編み方の場所についてはごまかしてあるのが明らかに見て取れるが、それでも形にはなっている。アメリは、へえ、頑張ったんだね、と評価してくれた。
「けれど、どうやって渡したらいいのかも解らないや」
「何も気になんかせずに、普通に渡せばいいんじゃないかな。気持ちの問題だもん。でも、せっかくだから何かラッピングした方がいいかもしれないね。手伝ってあげるね」
放課後、図書室のカウンターで、アメリは器用に、僕が編んだ手袋を包んでくれた。手袋と同じ、淡いグレーの包装用紙に、ピンクのリボンをつけてくれた。おかげでかなり見栄えが良くなった。ありがとうを言うと、アメリは、どういたしまして、と返事した。
「リュウくんにお願いされて、姉さんと連絡をとってるの」
委員長か…。
「僕、委員長とは喧嘩をした状態で、それっきりになってるんだよね…」
「気にしてたんだ…。大丈夫だよ、姉さん、引きずるタチじゃないから。でも、姉さんもウミがここまで悪くなるなんて思ってなかったから…そこは、許してあげて欲しいな」
皆、色々な感情を抱きながら、なんとかこの状況を切り抜けようと必死なんだ。ウミがどうなるかも、自分たちがどうなるかも解らない。そんな不安の波の中で誰もが溺れかけている。
「それで、委員長とは? ウミの脱出の話をしてるんだよね?」
アメリは首肯した。
「明日の夜中に出発して、朝に陸に到着できれば、タクシーで迎えに来てくれるって」
そうか、それなら、僕とウミと委員長の三人で乗り込んで、どこか病院へ向かう事はできそうだ。出発時間を夜中にするしかないのは理解できるが、そうすると、ウミは今日明日と二回の浄化に耐えなければならない。あと三割ずつ繰り越しを行えば…なんとか体力は持つだろうか。
「アメリは、来ないよね?」
「うん。ウミとちゃんとお別れできないのは寂しいけれど…リュウくんから、来るなって言われちゃってるし…本当を言うと、わたしも怖いしね…」
夕方、僕はラッピングされた手袋を手挟んで、神社へと向かった。先に渡すのがいいのか、浄化が終わった後に渡すのがいいのか、悩んだ。けれど、浄化後だと、ウミはとてもじゃないけれど誕生日を祝うような状況ではないだろうから、先に社へ向かって、渡す方がよいだろうか…。
「よう、来たな」
石段を登ったところで、声をかけられた。見ると、町医者が最上段に腰かけて、煙草をくゆらせていた。隣には、保健教師もいる。
「なんでこんなところにいるんですか?」
僕は率直に訊いた。町医者は、おいおい、体調確認の日だろ、と答えた。
「あの娘、もう左腕もかなり危ない状態だ。自衛隊の兄ちゃんと相談して決めようとは思うが、前回のような急な壊死が起こる可能性があるから、早急に切断するのが賢明だろう。恐らく、内臓や骨はもっとマズイ事になっているだろうがな…」
保健教師は、何度もハンカチを目に押し当てて、涙を堪えている様だった。この人は恐らく、ウミの体調の変化をきちんと気づけなかった事に対して責任を感じているのだろう…。いや、もしかすると、ギリギリまで体調不良を表沙汰にしないようにウミにお願いされていたのかもしれない。どちらにしろ、ウミの事を本当に案じてくれている一人であることには間違いないだろう。
町医者と保健教師は、立ち上がった。
「俺たちは、もう行くわ。あとの事は任せた」町医者が言った。「あと、これを渡しておく」
町医者は、白衣のポケットから何やら取り出すと、僕に渡して来た。それは、小さな袋だった。
「これは…避妊具…?」
町医者は、僕の肩を叩くと、耳許に顔を寄せてきた。
「処女のまま死なせるのは、可哀想だろ? お前も、責任を果たしてやれ」
「今日はね、浄化はお休みにするよう、神主さんにお願いしたの」保健教師が言った。「いい思い出を…作ってあげてね」
保健教師はまた泣き出してしまった。町医者は、俺があのおばさんを説得してやったんだから感謝しろよ、と言った。
この避妊具は、今更、誰を、何から守る為のものなんだろうか…。
「これ…使えないよ」僕は、石段を下りていく二人の背中に向かって言った。「ウミがあんな状態なのに…使えないよ…!」
町医者は、煙草を地面に落とし、足で火を消した。それから僕の方を振り返ると、
「甘えるな!」と、大きな声で言った。「あの娘が死ぬ事に対する覚悟ができていないのは、もう、お前だけじゃないのか」
僕は、言葉がでなかった。二人は踵を返すと、石段をゆっくりと降りて行った。
僕は、重い足取りで社へと向かった。社には、いつも通り、明かりが灯されていたが、なんだか涙でぼやけて、現実味がなかった。この数ヵ月の出来事が全部夢で、今にも覚めれば良いのに、と思った。
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僕は、ウミの横に座り、顔を覗き込んだ。
「…調子はどう?」
ウミは、えへへ、と笑った。よくみると、ウミは薄化粧をしている。
「これで…大丈夫って言ったって…ユウくん、信じないくせに」
僕は、わざと声を出して笑い、そうだね、と答えた。
「今日は、ウミに、お誕生日おめでとうを言いに来たんだ」
ウミは、ゆっくりと頷いた。
「ありがとう…。よく、わたしの誕生日…わかったね。知っていてくれただけで…とっても嬉しい」
僕は、不意に滲みだした涙を袖で拭ってから、鼻を大きく啜った。
「それで、ウミにプレゼントがあるんだ…。ほら、アメリが包んでくれたんだよ」
リボンのついた包み紙をウミの見えるところに掲げると、ウミは目でそれを追った。僕は、できるだけ丁寧にリボンを外して、袋を開けた。それから、中身が何か解らないように、編み物の一部だけをラッピング包装紙から飛び出させ、これ、なんだか解る? と訊いた。ウミは、表情を明るくさせて、精一杯の笑顔を作ってくれた。
「手袋…ありがとう。がんばったんだね…」
ウミが即答したので、僕は驚いてしまった。
「知ってたの?」
ウミは頷いた。
「うん…。なんとなくね。だって…鞄から、編み針が見えてたから」
そうだったのか…。でも、気づいても、何も言わないでいてくれたんだ…。
僕は、手袋を取り出すと、自分の左右の指に手袋を差し込み、ウミが見やすいようにしてやった。
「ところどころ、うまくいってないんだけれどね。ほら、ここなんて編み目の数を間違えちゃって…。でも、この色、ウミに似合うかな、って思って」
「うれしい…」ウミが言った。「でも…ごめんね…せっかく…編んでくれたのに…。左手も、動かなくなっちゃったの。足も…もうダメみたい。こんなところ、ほんとは…見せたくなかったなあ」
「ごめん…ごめんね…」
僕には、こんな言葉しか見つからなかった。本当は恥ずかしがり屋のウミを、こんな姿にしてしまった事に対する謝罪なのか、その姿を見てしまった事に対する謝罪なのか、その姿だからこそ手袋が用をなさない事に対する謝罪なのか、自分でも解らなかった。
「ねえ…手袋…わたしの頬に、あててくれる?」
僕は頷くと、手袋をウミの両頬に、やさしく押し当てた。ウミは目を閉じると、大きく深呼吸をした。
「どう? 手袋の感覚、解る?」
「毛糸の香り…いい匂い。ユウくんの匂い…なのかな。それに、とても暖かい…」
暫く、そうしてウミは呼吸を繰り返した。そして、満足がいった頃に、僕は手袋を、ウミの胸元に重ねて置いてやった。
「ウミ、聞いてくれる?」僕が言った。「今、野辺とアメリに協力してもらって、ウミをなんとか助ける方法を考えてるんだ」
ウミは、少し表情を曇らせた。
「ありがとう…。でも、どうやって…」
僕は、念のために周りを見渡した。
「詳しい事は秘密だけれど、ウミがこの島から出て、ちゃんと病院で診てもらえる様に、計画してるんだ」
「島から…って、いつ…?」
僕は頷いた。
「明日、浄化が終わったら、僕がウミを連れ出すよ。そしたら、一緒に島を出よう」
ウミは大きく呼吸をすると、首を横に振った。
「ユウくん…ダメだよ…。それはできないよ…。前にも…言ったよね…? 浄化を終わらせなきゃ…今までの、わたしとユウくんの努力が…無駄になっちゃうもん」
「ウミ、お願いだ。陸の大きな病院で診てもらえれば、今よりはずっと良くなるよ。そうしたら、また戻ってきて浄化の続きをする事だってできる。でも、今のままで続けたら…」僕は言葉を詰まらせた。「だから…一緒に島を脱出して欲しいんだ」
ウミは、暫く黙って呼吸を繰り返していた。が、やがて、ゆっくりと頷いた。
「うん…。ユウくんに、任せるね…」
それを聞いて、僕は安堵した。
「ウミは…どうしてこんなになってまで、浄化作業を続けようとしたの?」
僕は…今まで、訊くのを躊躇っていた質問を、ウミに投げかけた。
ウミは、僕の目を見つめると、小さく頷いた。
「…わたしね、本当の名前は…ウミ…じゃないんだよね…」
やっぱり…ウミは、知っていたんだ。
僕は、うんうん、と頷いた。
「それで? ウミの本当の名前は?」
「本当の名前はね…トリイコっていうの…。変な名前でしょ…? でも呼びづらいから…トリコって…稚さい時は…呼ばれていた気がするな…」
「大きくなってから、ウミ…になったんだね」
「…小学生に入る前くらいの頃…かな。父さんと母さんが…わたしの事…ウミって呼ぶようになったんだよね…。その時は…なんとも思わなかったな…。そういう物だと思っていたし…えへへ、今でも…なんとも思ってないや」
「ありがとう、もう、無理して話さなくてもいいよ。ちょっと休もう」
僕が言った。ウミは、大丈夫だよ、と答えた。
「トリイコは…不吉な名前だから…って、両親は言っていた気がする…。この島に伝わる…浄化の巫女の名前と…同じだから…って。だから…両親は、わたし以外の人に対しては…わたしが生まれた時から…わたしの名前はウミだって…伝えていたみたい…。浄化の巫女のお話…そのお話を聞いた時、わたし…本当に怖くて…毎日泣いていたの。でも…本当に噴火が起こって…気づいたのね…わたし…。いつ死ぬかが解っている事って…本当は…幸せな事なんだろうな…ってね。だって…死ぬまでに何をすればいいか…自分で全部決められるもの…。それに…誰かの為に命を使える事なんて…望んだってできない事なんだって…」
「ウミ…そんな…」
僕は、町医者がさっき言っていた言葉を反芻した。誰よりも早く運命を悟っていたのは、他ならないウミ自身だったんだ…。
「あとはね…死ぬときに…ユウくんがそばにいてくれて…家族や友達の笑顔を…思い出す事ができれば…わたしの人生は充分満足だった…って思える…かな…」
僕は思わず、ウミの感覚のない左手を握りしめた。その手は細く痩せ細り、とても冷たかった。僕は…とめどなく流れる涙を抑える事ができなかった。
「ウミ、僕が…助けてやる。僕が、つれだしてやる…。だから、死なないで…。死んでほしくないんだ」
ウミは優しく微笑んだ。そしてそのまま、僕が泣き続けるのを、黙って見つめてくれていた…。
やがて、ウミは大きく呼吸をすると、言った。
「いいよ…ユウくん…」僕は、涙を拭うと、ウミの顔を見つめた。穏やかな表情だ…。「来て…。わたし…こんなになっちゃったけれど…あなたのために、体を開く準備は、できてるもの…。ずっと…前からね…」
僕は…僕は、どうしてよいか、解らなかった。そこまでウミに言わせてしまった。でも、今、ここでウミを抱いてしまったら、もう、ウミは、生きる希望をなくしてしまうのではないかと思って、躊躇った。いや、生きる希望なんて…もう死ぬ覚悟はとっくにしているのは理解している。覚悟ができていないのは、やっぱり僕なんだ。僕が躊躇うのは、ウミの為じゃない、僕の為なんだ。僕は…僕は…ウミの為に、どうすればいいんだろう…。
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翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。
この物語の始まりである。
この物語はフィクションです。
この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。
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