12 / 21
第十二章 光の種子
しおりを挟む
一九四五年七月十六日、東京・駒込。
湿気を含んだ夜気が、理化学研究所の建屋にまとわりつく。地下実験室の灯りは薄く、計器のガラス面だけが静かに光を返す。
「冷却循環、安定。圧力、基準内」
佐倉美鈴が読み上げ、記録紙に万年筆を滑らせる。
「中性子源、準備よし」
化学班長の声。
仁科芳雄は眼鏡を外し、ひと呼吸おいて言った。
「よろしい。臨界は爆発ではない。 反応が自分で続く“境目”だ。境を越えて走らせない。止めると決めたら、迷わず止める」
豊橋少佐が頷く。
「陸軍は“成功”を求めていますが、成功の定義は我々が決めます」
「そうだ。原爆の本質は“爆ぜる力”ではなく、“世界がどうやって燃えるかという理(ことわり)”だ」
装置は簡素だが、今できる最良の配列だった。円筒の反応槽に封じた高濃度の金属、周囲に並ぶ黒鉛の反射体、控えめな減速材。計測器は古くとも正直で、針一本に至るまで校正済み。制御棒には非常動作のワイヤが追加され、レバーのそばには赤い札が結わえられている。札には美鈴の字で、太く「止」とだけある。
「――開始」
スイッチが入り、カチ、と乾いた音。数秒ののち、カウンタがカリカリと爪を立てるように鳴り始め、針が目に見えないほどの速さで立ち上がった。
「一次カウント、上昇。雑音域を脱しました」
空気が変わる。汗の蒸気が、ほんのわずかに重くなる。
「反射体、一枚」
美鈴が黒鉛ブロックを指示どおり“寄せる”。
針の振れが、さっきより滑らかに、深くなる。
「上昇、持続。時定数、延長」
仁科は腕時計を外し、机に置いた。
「時間は計らなくていい。境目を“聴け”」
「二枚」
針が呼吸を覚えたかのように波打ち、やがて一定の傾きで上がっていく。
「定常臨界の気配……」
誰かが呟き、すぐに口をつぐむ。
「三枚目は半枚。ゆっくりだ」
美鈴が黒鉛の角を指で押す。紙がすれるような微かな音。
その瞬間、計器ははっきりと性格を変えた。上昇の曲線が弧を描き、線に“意志”が宿る。
「指数的――」
美鈴の声が掠れる。
仁科は頷いた。
「ここが臨界だ。ここから先が“超”だ。」
「先生、まだ余裕はあります」
「余裕があるうちに、戻る」
仁科がレバーに手をかける。
「止」札の赤が、汗ばんだ指に擦れて滲む。
彼は一拍だけ、装置全体の“音”を聴いた。金属の軋み、冷却水の細い鳴き、遠心分離系の低い唸り――それらが、ひとつの和音になっていた。
「――いま」
制御棒が滑り込み、カウントがわずかに跳ねて、ゆっくりと落ちる。
緊急弁が短く吐息を漏らし、白い蒸気がランプの光で薄く見えた。
沈黙。風が換気口を抜ける音だけが残る。
やがて豊橋が、息を押し殺すように訊いた。
「……到達したのですね」
「到達し、止めた」
仁科の声は低いが、確かなものを踏んだ足音があった。
「いま、ここで起きたのは原爆の心臓が打ち始める瞬間だ。だが、我々は鼓動を聞くだけで、走らせなかった」
美鈴は記録紙を抱えた。黒い線が、確かに臨界を示す弧を描いている。
「先生、これは……」
「存在の証明だ。破壊の設計図ではない。人間が“どこまで近づけるか”の地図だよ」
彼は白衣の袖で額の汗を拭き、静かに続けた。
「覚えておくんだ、佐倉君。臨界は“爆発”ではない。 爆発は、材料、形、時間、圧力――すべてを一瞬で“超臨界”に押し上げる装置がつくる。いま我々がしたのは、その手前で世界の縁を覗くことだ」
美鈴は頷き、記録紙の余白に大きく書いた。
《臨界到達、直後遮断。超臨界へ移行せず》
インクが乾くまでのあいだ、指先が震えているのに気づき、深く息を吐いた。
「報告は最小限だ」
豊橋が言う。
「軍は“実戦化”の手順を問うでしょう」
「答えはひとつだ」
仁科はレバーから手を離し、「止」の札を見つめた。
「『しない』。」
豊橋は短く敬礼した。
「ならば護衛は、これまで以上に“する”。外からも内からも」
地上に上がると、空はまだ濃い灰色だった。雲が低く、東の端が少しだけ薄い。
警備兵が空を仰ぐ。
「雷、来ますかね」
「いや、音がしない」
雲の縁が稲妻の前触れのように一瞬だけ白み、すぐ消えた。
それは光ではない。たまたまの明滅かもしれない。
ただ彼らは、同時に胸の奥で思った――地球のどこか、見えない距離の向こうでも、いま同じ境目が踏まれている、と。
深夜、実験棟。灯が落ち、警備交替のわずかな間隙。
影が一つ、計器卓の背後を滑った。
足音は床の鳴りを避け、壁際をなぞる。
乾いた指が、温もりの残る記録紙に触れた。数枚を抜き、懐から小さな乾板カメラを出す。
カシャ、とほとんど音のない露光。さらに数枚。
金属が擦れる微音に肩が跳ねる。懐に押し込み、踵を返す。
「誰だ!」
廊下の先で、豊橋の声。
影は工具箱を蹴り、非常扉の隙間へ身を細くして滑り込んだ。
外は小雨。駐輪の端に置かれた自転車の鍵を抜き、闇に溶ける。
豊橋が飛び出した時には、路地の向こうに小さな尾灯が遠ざかっていた。
残ったのは濡れた床と、落ちた懐中電灯。
その灯りの輪に、踏みつけられた封筒の断片があった。
ローマ字で短く――
“Riken – Critical achieved.”
豊橋は封筒の欠片を拾い、雨の中で拳を握った。
「……逃したか」
自分を責めるより、時代そのものを責めるような声だった。
その夜更け、短波機が微かな雑音に混じって砂漠の地名を拾う。
「……ニューメ……コ……」
聞き取れたのはそれだけ。
仁科はスイッチを切り、静かに言った。
「確かめる術はない。だが、人類は今日、二度目の朝を迎えた」
門は早く閉じられ、警備は増員された。地下では使い終えた黒鉛が布に包まれ、記録紙が封蝋で綴じられる。
原爆への道は、たしかにここへ通じている。
だが彼らは踵を返し、別の道を選んだのだ。
遠心分離機の低い唸りが、最後の祈りのように長く続いた。
湿気を含んだ夜気が、理化学研究所の建屋にまとわりつく。地下実験室の灯りは薄く、計器のガラス面だけが静かに光を返す。
「冷却循環、安定。圧力、基準内」
佐倉美鈴が読み上げ、記録紙に万年筆を滑らせる。
「中性子源、準備よし」
化学班長の声。
仁科芳雄は眼鏡を外し、ひと呼吸おいて言った。
「よろしい。臨界は爆発ではない。 反応が自分で続く“境目”だ。境を越えて走らせない。止めると決めたら、迷わず止める」
豊橋少佐が頷く。
「陸軍は“成功”を求めていますが、成功の定義は我々が決めます」
「そうだ。原爆の本質は“爆ぜる力”ではなく、“世界がどうやって燃えるかという理(ことわり)”だ」
装置は簡素だが、今できる最良の配列だった。円筒の反応槽に封じた高濃度の金属、周囲に並ぶ黒鉛の反射体、控えめな減速材。計測器は古くとも正直で、針一本に至るまで校正済み。制御棒には非常動作のワイヤが追加され、レバーのそばには赤い札が結わえられている。札には美鈴の字で、太く「止」とだけある。
「――開始」
スイッチが入り、カチ、と乾いた音。数秒ののち、カウンタがカリカリと爪を立てるように鳴り始め、針が目に見えないほどの速さで立ち上がった。
「一次カウント、上昇。雑音域を脱しました」
空気が変わる。汗の蒸気が、ほんのわずかに重くなる。
「反射体、一枚」
美鈴が黒鉛ブロックを指示どおり“寄せる”。
針の振れが、さっきより滑らかに、深くなる。
「上昇、持続。時定数、延長」
仁科は腕時計を外し、机に置いた。
「時間は計らなくていい。境目を“聴け”」
「二枚」
針が呼吸を覚えたかのように波打ち、やがて一定の傾きで上がっていく。
「定常臨界の気配……」
誰かが呟き、すぐに口をつぐむ。
「三枚目は半枚。ゆっくりだ」
美鈴が黒鉛の角を指で押す。紙がすれるような微かな音。
その瞬間、計器ははっきりと性格を変えた。上昇の曲線が弧を描き、線に“意志”が宿る。
「指数的――」
美鈴の声が掠れる。
仁科は頷いた。
「ここが臨界だ。ここから先が“超”だ。」
「先生、まだ余裕はあります」
「余裕があるうちに、戻る」
仁科がレバーに手をかける。
「止」札の赤が、汗ばんだ指に擦れて滲む。
彼は一拍だけ、装置全体の“音”を聴いた。金属の軋み、冷却水の細い鳴き、遠心分離系の低い唸り――それらが、ひとつの和音になっていた。
「――いま」
制御棒が滑り込み、カウントがわずかに跳ねて、ゆっくりと落ちる。
緊急弁が短く吐息を漏らし、白い蒸気がランプの光で薄く見えた。
沈黙。風が換気口を抜ける音だけが残る。
やがて豊橋が、息を押し殺すように訊いた。
「……到達したのですね」
「到達し、止めた」
仁科の声は低いが、確かなものを踏んだ足音があった。
「いま、ここで起きたのは原爆の心臓が打ち始める瞬間だ。だが、我々は鼓動を聞くだけで、走らせなかった」
美鈴は記録紙を抱えた。黒い線が、確かに臨界を示す弧を描いている。
「先生、これは……」
「存在の証明だ。破壊の設計図ではない。人間が“どこまで近づけるか”の地図だよ」
彼は白衣の袖で額の汗を拭き、静かに続けた。
「覚えておくんだ、佐倉君。臨界は“爆発”ではない。 爆発は、材料、形、時間、圧力――すべてを一瞬で“超臨界”に押し上げる装置がつくる。いま我々がしたのは、その手前で世界の縁を覗くことだ」
美鈴は頷き、記録紙の余白に大きく書いた。
《臨界到達、直後遮断。超臨界へ移行せず》
インクが乾くまでのあいだ、指先が震えているのに気づき、深く息を吐いた。
「報告は最小限だ」
豊橋が言う。
「軍は“実戦化”の手順を問うでしょう」
「答えはひとつだ」
仁科はレバーから手を離し、「止」の札を見つめた。
「『しない』。」
豊橋は短く敬礼した。
「ならば護衛は、これまで以上に“する”。外からも内からも」
地上に上がると、空はまだ濃い灰色だった。雲が低く、東の端が少しだけ薄い。
警備兵が空を仰ぐ。
「雷、来ますかね」
「いや、音がしない」
雲の縁が稲妻の前触れのように一瞬だけ白み、すぐ消えた。
それは光ではない。たまたまの明滅かもしれない。
ただ彼らは、同時に胸の奥で思った――地球のどこか、見えない距離の向こうでも、いま同じ境目が踏まれている、と。
深夜、実験棟。灯が落ち、警備交替のわずかな間隙。
影が一つ、計器卓の背後を滑った。
足音は床の鳴りを避け、壁際をなぞる。
乾いた指が、温もりの残る記録紙に触れた。数枚を抜き、懐から小さな乾板カメラを出す。
カシャ、とほとんど音のない露光。さらに数枚。
金属が擦れる微音に肩が跳ねる。懐に押し込み、踵を返す。
「誰だ!」
廊下の先で、豊橋の声。
影は工具箱を蹴り、非常扉の隙間へ身を細くして滑り込んだ。
外は小雨。駐輪の端に置かれた自転車の鍵を抜き、闇に溶ける。
豊橋が飛び出した時には、路地の向こうに小さな尾灯が遠ざかっていた。
残ったのは濡れた床と、落ちた懐中電灯。
その灯りの輪に、踏みつけられた封筒の断片があった。
ローマ字で短く――
“Riken – Critical achieved.”
豊橋は封筒の欠片を拾い、雨の中で拳を握った。
「……逃したか」
自分を責めるより、時代そのものを責めるような声だった。
その夜更け、短波機が微かな雑音に混じって砂漠の地名を拾う。
「……ニューメ……コ……」
聞き取れたのはそれだけ。
仁科はスイッチを切り、静かに言った。
「確かめる術はない。だが、人類は今日、二度目の朝を迎えた」
門は早く閉じられ、警備は増員された。地下では使い終えた黒鉛が布に包まれ、記録紙が封蝋で綴じられる。
原爆への道は、たしかにここへ通じている。
だが彼らは踵を返し、別の道を選んだのだ。
遠心分離機の低い唸りが、最後の祈りのように長く続いた。
0
あなたにおすすめの小説
鋼鉄海峡突破戦 ーホルムズ海峡ヲ突破セヨー
みにみ
SF
2036年4月9日第六次中東戦争が開戦 中露の支援を受けたイランは中東諸国へと攻勢を強める
無論ホルムズ海峡は封鎖 多くの民間船がペルシャ湾に閉じ込められ世界の原油価格は急高騰
そんな中ペルシャ湾から4月28日 ある5隻のタンカー群がホルムズ海峡を強行突破しようと試みる
自衛用兵装を施した日本のある燃料輸送会社のタンカーだった 今彼らによる熱い突破劇が始まろうとしていた
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記
糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。
かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。
ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。
※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
米国戦艦大和 太平洋の天使となれ
みにみ
歴史・時代
1945年4月 天一号作戦は作戦の成功見込みが零に等しいとして中止
大和はそのまま柱島沖に係留され8月の終戦を迎える
米国は大和を研究対象として本土に移動
そこで大和の性能に感心するもスクラップ処分することとなる
しかし、朝鮮戦争が勃発
大和は合衆国海軍戦艦大和として運用されることとなる
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる