くたばれオッペンハイマー

ぼを

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第十四章 封鎖線

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 一九四五年七月三十日

 朝の駒込は、いつになく静かだった。
 蝉の声さえ遠く、理化学研究所の正門前には、見慣れぬ軍用トラックが三台、並んでいた。
 荷台の幌には泥が跳ね、兵士たちは無言のまま機関銃を構えている。
 夏の湿気が、緊張の匂いを包み隠すように濃かった。

 仁科芳雄は玄関前で立ち止まり、帽子を軽く上げた。
 「……理研に軍が入るとはね。」
 豊橋少佐が後ろに立ち、淡々と答える。
 「中央の命令です。理研は“軍事施設”に指定されました。今後、出入りは全て認可制です。」
 「つまり、監視下ということだな。」
 「……はい。」
 豊橋の声は硬く、どこか自分を責めるようでもあった。
 仁科はその横顔を見た。
 彼の額には、疲労と後悔の影がある。
 “あの夜、スパイを逃した”という重さを、彼はまだ背負っているのだ。

 「君のせいではない。」仁科は言った。
 「この国全体が、恐れの臨界を越えかけている。」
 「……臨界、ですか。」
 「そう。人間の恐怖にも閾値があるんだよ。理性が熱中性子のように遅くなり、やがて何かを燃やしてしまう。」

 豊橋は返す言葉を見つけられず、ただ敬礼した。

 

 地下の研究棟では、美鈴が記録紙を一枚ずつ巻き取っていた。
 金属の筒に入れ、油紙で包み、さらに布で覆う。
 箱の表には黒い墨で番号が書かれている。
 「一、二、三……十四まで。」
 彼女は小声で数えた。
 背後から声がした。
 「それはどこへ運ぶつもりだ。」
 振り返ると、仁科が立っていた。
 白衣の胸元は皺だらけで、目の下に深い隈がある。
 「陸軍の倉庫に入れられたら、二度と出てこないと思います。だから、別の場所へ。」
 「どこへ?」
 「まだ、言えません。」
 仁科はしばらく黙って彼女を見たあと、頷いた。
 「いいだろう。だが、一つだけ守ってほしい。……人の手で爆ぜるような場所に置くな。」
 「はい。」
 美鈴の手は震えていたが、その目はまっすぐだった。
 「先生、もし――もしこの研究が“兵器”にされそうになったら、私は記録を消します。」
 「それも、科学の一つの倫理だ。」
 「それでも、悔しいです。ここまで積み重ねたものを、ただ消すなんて。」
 「悔しいのは私もだ。だが、科学は“使われる前に守られる”こともある。」

 仁科は箱の上に手を置いた。
 金属越しに、わずかに熱が残っていた。
 彼はその温もりを確かめるように言った。
 「これが“知識の体温”だ。消すことは死ではない。冷却だ。」

 

 夕刻、理研の門には検問が設けられた。
 軍の憲兵が職員証を一人ずつ確認し、ノートに名前を書き込んでいく。
 豊橋は門の横でその様子を監督していたが、心ここにあらずだった。
 兵士たちは命令通りに動いている。ただ、命令の意味を知らない。
 “研究保護”と称しながら、実際は封鎖だ。

 その時、電話が鳴った。
 守衛が受話器を取り、顔をしかめる。
 「陸軍省から……少佐殿に。」
 豊橋は受話器を受け取り、無言で耳に当てた。
 「……はい。
 ……本当ですか?」
 数秒の沈黙。
 そして、彼の顔色が変わった。
 「わかりました。直ちに報告いたします。」
 通話を切ると、彼は仁科の研究室に駆け込んだ。

 「先生。」
 「どうした。」
 「アメリカが――原子爆弾の実験に成功したとの報が入りました。」
 部屋の空気が凍った。
 仁科は眼鏡の奥で目を細め、すぐには何も言わなかった。
 美鈴が息を呑む。
 「そんな……まさか。」
 「情報源は?」
 「ベルン経由の通信です。OSS発のものと思われます。」
 仁科は静かに椅子に腰を下ろした。
 「つまり、外国電報ということだな。現地確認は?」
「ありません。ただ、“砂漠地帯での実験成功”と……」
 「ニューメキシコ、か。」
 仁科は、ほとんど独り言のように呟いた。
 「だが、それは噂だ。あいつらがそこまで進んでいるとは思えん。」
 「しかし軍は本気で信じています。今夜中に会議が開かれ、報復措置の検討が――」
 「報復?」仁科は声を上げた。「何を報復するつもりだ。彼らの“言葉”に対してか?」
 豊橋は目を伏せた。
 「私も、そう思います。」
 仁科は息を吐き、机に手を置いた。
 「……戦争が、ついに科学の嘘で動き出した。」

 

 夜。理研の裏門。
 美鈴は、一台の荷車を押していた。
 荷台の下には、油紙で包まれた小さな金属筒が三本。
 門の前で、憲兵がライトを向ける。
 「そこに何が入っている。」
 「廃棄する試薬です。爆発性があるので。」
 「見せろ。」
 美鈴は息を止めた。
 その時、背後から声がした。
 「よせ。彼女は私の部下だ。」
 豊橋だった。
 彼は憲兵に短く敬礼し、帳簿に印を押させた。
 「構わん。行け。」
 憲兵が道を開ける。
 美鈴は小さく会釈し、荷車を押して暗い路地へ入った。

 豊橋はその背を見送りながら、ポケットの中の電報を握り締めた。
 《Trinity successful. Radiation level nominal.》
 紙の端は汗で滲み、指先に黒いインクがついた。
 「……“砂漠の光”か。」
 彼は呟いた。
 「だが、光はいつも嘘から始まる。」

 夜風が吹いた。
 理研の上空に、黒い雲が広がる。
 雨の匂い。
 その向こうには、まだ一度も燃えたことのない太陽が眠っていた。
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