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第十五章 サンドストーム
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一九四五年八月五日、ワシントンD.C.。
白い霧のような朝靄が、ポトマック川の上に漂っていた。
夏の湿度は高く、空気の重さがそのまま国の疲労を象徴しているようだった。
その川を挟んだ西側、陸軍省別館の地下二階に、
暗号指定「サンドストーム」の第一回会議が開かれた。
出席者は五名。
グローヴス将軍、ロスアラモスの統括責任者オッペンハイマー、
情報担当のストーン博士、そしてOSS(戦略情報局)の主任分析官と通信将校。
分厚い防音扉が閉じられると、室内の空気がわずかに揺れた。
「本題に入る。」グローヴスが言った。
「ハンフォードの復旧は依然として見通しが立たない。冷却管は腐食、プルトニウム炉は再起不能。
我々は、原爆を持っていない。」
短い沈黙が落ちる。
オッペンハイマーが唇を噛んだ。
「持っていないことを、今さら認めるのか。」
「認めはしない。」将軍は即答した。「ただ、敵には持っていると思わせる。」
通信将校が眉を上げた。
「つまり……偽報ですか。」
「そうだ。情報を兵器にする。アメリカは“砂漠で実験に成功した”という電報を流す。」
ストーン博士が静かに口を開いた。
「コードネーム“サンドストーム”か。」
「砂の嵐は、視界を奪う。敵が真実を見失えば、それで十分だ。」
「……それで、我々はどこまで嘘をつく?」
「限界までだ。」グローヴスの声は冷たかった。
「日本が臨界に達したという報告は事実だ。奴らが次に爆発を試みる前に、こちらが“成功した”と見せる。
そうすれば、連中は手を止める。」
「つまり、“嘘による抑止”ですか。」ストーンは言った。
「倫理的にはぎりぎりだ。」
「戦争に倫理はない。」
将軍の一言が、壁に反響した。
オッペンハイマーは机の上の灰皿を見つめ、低く言った。
「倫理がない戦争は、科学を腐らせる。……いや、もう腐っているのかもしれない。」
「ならば博士、腐ったまま勝て。」
将軍の返しに、誰も笑わなかった。
午後。
OSS本部の暗号室では、数十台の送信機が低く唸っていた。
オペレーターが紙を受け取り、暗号化キーを打ち込む。
指令文の最上段には、こう書かれていた。
《Trinity successful. Radiation level nominal.》
《Source: New Mexico Proving Ground.》
暗号化の際、通信将校がストーンに尋ねた。
「博士、本当にこれでよろしいのですか。実験は……まだ。」
「まだ、だ。」
「では、いつ?」
ストーンは少し間を置き、答えた。
「おそらく、永遠に“まだ”のままだ。」
それを聞いたオペレーターは小さく頷き、キーを叩いた。
送信機のランプが点滅し、砂漠のように乾いた電波が世界へ放たれる。
その信号は、太平洋を越え、ベルンを経て、東京へと流れた。
ストーンは窓際に立ち、曇った空を見上げた。
「この信号が、どれだけの命を救うか。……それとも奪うか。」
オッペンハイマーが隣に立つ。
「戦争は、もう実験だ。人間という炉の、反応実験だ。」
「臨界を越えたら?」
「人が溶ける。」
二人は、同時に目を逸らした。
夜、陸軍省執務室。
グローヴスはひとり机に向かい、地図の上にペンで印をつけていた。
ニューメキシコ、ハンフォード、ロスアラモス――。
いずれもまだ“点”に過ぎない。
線で結ぶには、燃料も時間も足りなかった。
彼は日誌に短く書いた。
《我々は勝っていない。ただ、負けていないことを装っている。》
その筆跡を見て、彼は思わず苦笑した。
「ストーンの影響か。軍人が詩人の真似とはな。」
窓の外は黒く、遠くに雷の光が閃いた。
それは本物の光ではなく、湿った雲に映った街の灯りだった。
電話が鳴る。
受話器を取ると、OSS主任の声。
「将軍、“サンドストーム”成功です。日本側に電報が届きました。陸軍省内で“アメリカが核実験に成功”との情報が流れています。」
「よくやった。」
「ただし……副作用もあります。」
「副作用?」
「日本の科学者たちが、実験を中止したそうです。だが同時に、軍が暴走しかけています。
“報復攻撃の必要がある”と。」
グローヴスは眉をひそめた。
「つまり、我々の嘘が、奴らを戦わせていると。」
「はい。嘘は、信じられた瞬間から現実になります。」
将軍はしばらく黙っていた。
やがて低く呟いた。
「戦争とは、現実を作る速さの競争だ。」
ロスアラモスの夜。
オッペンハイマーは実験棟の片隅で、壊れた計測器を見つめていた。
指で埃を払うと、ガラス面に自分の顔がぼんやり映る。
「……砂嵐(サンドストーム)か。」
背後でストーンが言った。
「ええ。視界を奪えば、敵も味方も迷います。」
「だが、嵐が去ったあとには、何も残らない。」
「それでも、死者の少ない嵐なら、価値がある。」
「本当にそう思うか。」
ストーンは答えなかった。
外では、風が砂を運び、乾いた音を立てて壁を叩く。
オッペンハイマーは窓を見た。
暗闇の中に、一瞬だけ稲妻のような閃光が走った。
彼は目を細め、呟いた。
「いつか本当に、この光を見てしまう日が来るのだろうか。」
ストーンはその言葉に答えず、ただ時計の針の音を聞いていた。
「博士。」
「なんだ。」
「もしその日が来たら、我々は何を証明するのでしょう。」
「たぶん、人間が嘘を信じすぎたということだ。」
風が止み、夜が静まった。
遠くで発電機の唸りがかすかに響き、やがて消える。
闇の奥に、何もない砂漠が広がっていた。
その地平線の向こうには、まだ一度も爆ぜていない太陽が眠っている。
白い霧のような朝靄が、ポトマック川の上に漂っていた。
夏の湿度は高く、空気の重さがそのまま国の疲労を象徴しているようだった。
その川を挟んだ西側、陸軍省別館の地下二階に、
暗号指定「サンドストーム」の第一回会議が開かれた。
出席者は五名。
グローヴス将軍、ロスアラモスの統括責任者オッペンハイマー、
情報担当のストーン博士、そしてOSS(戦略情報局)の主任分析官と通信将校。
分厚い防音扉が閉じられると、室内の空気がわずかに揺れた。
「本題に入る。」グローヴスが言った。
「ハンフォードの復旧は依然として見通しが立たない。冷却管は腐食、プルトニウム炉は再起不能。
我々は、原爆を持っていない。」
短い沈黙が落ちる。
オッペンハイマーが唇を噛んだ。
「持っていないことを、今さら認めるのか。」
「認めはしない。」将軍は即答した。「ただ、敵には持っていると思わせる。」
通信将校が眉を上げた。
「つまり……偽報ですか。」
「そうだ。情報を兵器にする。アメリカは“砂漠で実験に成功した”という電報を流す。」
ストーン博士が静かに口を開いた。
「コードネーム“サンドストーム”か。」
「砂の嵐は、視界を奪う。敵が真実を見失えば、それで十分だ。」
「……それで、我々はどこまで嘘をつく?」
「限界までだ。」グローヴスの声は冷たかった。
「日本が臨界に達したという報告は事実だ。奴らが次に爆発を試みる前に、こちらが“成功した”と見せる。
そうすれば、連中は手を止める。」
「つまり、“嘘による抑止”ですか。」ストーンは言った。
「倫理的にはぎりぎりだ。」
「戦争に倫理はない。」
将軍の一言が、壁に反響した。
オッペンハイマーは机の上の灰皿を見つめ、低く言った。
「倫理がない戦争は、科学を腐らせる。……いや、もう腐っているのかもしれない。」
「ならば博士、腐ったまま勝て。」
将軍の返しに、誰も笑わなかった。
午後。
OSS本部の暗号室では、数十台の送信機が低く唸っていた。
オペレーターが紙を受け取り、暗号化キーを打ち込む。
指令文の最上段には、こう書かれていた。
《Trinity successful. Radiation level nominal.》
《Source: New Mexico Proving Ground.》
暗号化の際、通信将校がストーンに尋ねた。
「博士、本当にこれでよろしいのですか。実験は……まだ。」
「まだ、だ。」
「では、いつ?」
ストーンは少し間を置き、答えた。
「おそらく、永遠に“まだ”のままだ。」
それを聞いたオペレーターは小さく頷き、キーを叩いた。
送信機のランプが点滅し、砂漠のように乾いた電波が世界へ放たれる。
その信号は、太平洋を越え、ベルンを経て、東京へと流れた。
ストーンは窓際に立ち、曇った空を見上げた。
「この信号が、どれだけの命を救うか。……それとも奪うか。」
オッペンハイマーが隣に立つ。
「戦争は、もう実験だ。人間という炉の、反応実験だ。」
「臨界を越えたら?」
「人が溶ける。」
二人は、同時に目を逸らした。
夜、陸軍省執務室。
グローヴスはひとり机に向かい、地図の上にペンで印をつけていた。
ニューメキシコ、ハンフォード、ロスアラモス――。
いずれもまだ“点”に過ぎない。
線で結ぶには、燃料も時間も足りなかった。
彼は日誌に短く書いた。
《我々は勝っていない。ただ、負けていないことを装っている。》
その筆跡を見て、彼は思わず苦笑した。
「ストーンの影響か。軍人が詩人の真似とはな。」
窓の外は黒く、遠くに雷の光が閃いた。
それは本物の光ではなく、湿った雲に映った街の灯りだった。
電話が鳴る。
受話器を取ると、OSS主任の声。
「将軍、“サンドストーム”成功です。日本側に電報が届きました。陸軍省内で“アメリカが核実験に成功”との情報が流れています。」
「よくやった。」
「ただし……副作用もあります。」
「副作用?」
「日本の科学者たちが、実験を中止したそうです。だが同時に、軍が暴走しかけています。
“報復攻撃の必要がある”と。」
グローヴスは眉をひそめた。
「つまり、我々の嘘が、奴らを戦わせていると。」
「はい。嘘は、信じられた瞬間から現実になります。」
将軍はしばらく黙っていた。
やがて低く呟いた。
「戦争とは、現実を作る速さの競争だ。」
ロスアラモスの夜。
オッペンハイマーは実験棟の片隅で、壊れた計測器を見つめていた。
指で埃を払うと、ガラス面に自分の顔がぼんやり映る。
「……砂嵐(サンドストーム)か。」
背後でストーンが言った。
「ええ。視界を奪えば、敵も味方も迷います。」
「だが、嵐が去ったあとには、何も残らない。」
「それでも、死者の少ない嵐なら、価値がある。」
「本当にそう思うか。」
ストーンは答えなかった。
外では、風が砂を運び、乾いた音を立てて壁を叩く。
オッペンハイマーは窓を見た。
暗闇の中に、一瞬だけ稲妻のような閃光が走った。
彼は目を細め、呟いた。
「いつか本当に、この光を見てしまう日が来るのだろうか。」
ストーンはその言葉に答えず、ただ時計の針の音を聞いていた。
「博士。」
「なんだ。」
「もしその日が来たら、我々は何を証明するのでしょう。」
「たぶん、人間が嘘を信じすぎたということだ。」
風が止み、夜が静まった。
遠くで発電機の唸りがかすかに響き、やがて消える。
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