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美恵子 11歳
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外が薄っすらと闇に包まれ始めたころ、店のカウンターの隅で小数の計算の宿題をしていた美恵子は、入り口の引き戸が開く音に顔を上げた。
「いらっしゃいませ、柏木さん。――あら、まあ、今日はかわいいお連れさんだこと」
「久しぶり、スイさん。悪いが、こいつになにか旨いモンを食わせてやってくれないか」
暖簾をくぐって引き戸を開けた客にスイが声をかけると、中年と初老の間の男性が小さな背中を押して、すらりとした四肢の――というより、よけいな肉のついていない細身の日に焼けた少年を前に進ませた。
つよく唇を引き結び、不機嫌そうにも見える無表情でまっすぐ前を向いている男の子。その眼はどこか遠いところを見つめていて、どんな感情もこめられていない。その空虚な瞳に美恵子は視線を絡めとられた。
「息子の達彦だ」
「あら、まあ、そうでしたか」
初めましてと丁寧に挨拶するスイを横目に、美恵子は同級生の父親よりは年を取って見える柏木と少年をじっと見比べる。
「ずっと気落ちしているんで連れてきた」
カウンターの真ん中に腰を下ろした男は、自分の隣に達彦を座らせた。
少年に気をとられていたところにスイから嗜めるようにお通しを出すように言われて、美恵子は慌てて二人の前に小鉢を並べる。小さな皿が自分の目の前に置かれたことに気がついた達彦は、指から手、腕を伝って、美恵子に視線を向けた。
「あの……どうぞ……」
それから、先ほどとは逆に動いて皿に戻る目には、やはり何の感情も読み取れない。
反対に、隣の男――柏木から大げさに「美恵ちゃん、いつもありがとう」声をかけられ、肩がピクンと震えた。
「――こいつ、達彦っていうんだ。美恵ちゃんより二つ大きい六年生だけど、達ちゃんって呼んで仲良くしてやっておくれよ」
柏木は、まなじりをこれでもかというほど下げて、美恵子に笑いかける。かわいがってくれているのだとは思う。けれど、その笑顔が少し怖くて、美恵子は小さく後ずさりながら奥の部屋の上り框に座った。
やけに大人びた男の子――達彦が同じ小学生だときいて、その落ち着きように、無意識に比べた自分が少し恥ずかしくなったせいもある。
スイが少年の前に水の入ったグラスを置き、柏木には熱燗とブリ大根を出した。
「このたびは、奥様のこと、ご愁傷様でした」
神妙な顔でそういった後、スイは手早くフライパンを振り始めた。
スイと柏木との会話が静かに続いている隣で、少年は肩を小さくし、腿の上についた両手で伸ばした背筋を支えるかのように、じっと水のコップを見て黙っている。
その様子を、美恵子は静かに、見守った。
目の前に、黄色の丘のようなオムライスがことんと置かれて初めて、ようやく彼は顔を上げる。
どうぞ、とにこりと微笑んだスイに、少年の目がじわりと潤んだように見えたのは気のせいか。
そして、視線をオムライスに戻し、今度はそれをじっと睨みつけた。
達彦の様子を横で伺っていた柏木が、ポケットから出したハンカチで、額をふきながらさりげなく目元を拭い、不自然なほどのぎこちなさで席を立つ。
「――申し訳ないが、私は……もう少し仕事が残っているので、一時間ほどこいつを置いて、出てきてもいいかな?」
スイが笑顔で彼を見送ると、ようやく達彦がスプーンに手をかけた。それを確かめてから、彼女は達彦の隣の席の空席に同じものをもう一つ置く。
「美恵子も、どうぞ」
戸惑ったが、笑顔で頷くスイに促され、美恵子はおとなしく少年の隣の席に着いた。
彼は、うつむき、無言でスプーンを口に運んでいたが、近づいてみると、頬には涙が伝い落ちていた。
涙をこぼしながら、少しずつオムライスを口に運ぶ達彦の横で、美恵子はいつもよりも大人びた味のオムライスを静かに食べた。
「食べたら、柏木さんが戻ってくるまで二人で奥で遊んでおいで」
またしても戸惑う彼女に、スイは、それが今日の美恵子の仕事よと、続ける。
「仕事」という単語に、大人に近づいたような気がして、美恵子の心がくすぐられた。
狭い店内を子供二人が占有してしまっては、仕事にならないのだろう。あるいは、もっとほかの理由があったのかもしれないが、幼い美恵子にはそんな事情、分かるはずもない。
奥の部屋といっても、部屋はもともとが休憩用なので遊び道具などほとんどなかった。あったとしても、ぬいぐるみが数体だ。
靴を脱いで上がった二人は、一番奥の壁際に、両端に別れて膝を抱えて座った。少年の涙を見てしまったせいか、なんとなく気まずい。
彼は、店に入ってきたときと同じように無表情で、まっすぐ前を向き、開け放した引き戸の向こうでスイが忙しそうに、それでいて優雅に接客しているのを見ているようだった。
――それが仕事よ。
一緒になってスイの背中を見ているうちに、先ほどの言葉が美恵子の頭の中でリフレインした。
『足を運んでいただいたお客様には、笑顔で帰っていただくお店』とはいつもスイが言っている言葉だ。だから、彼女が『仕事』という単語に込めた意味は、小さな美恵子にもなんとなくわかる。
美恵子はとりあえず、この沈黙を何とかしようと心に決めた。
「あの……お、オムライス、おいしかったね」
とりあえず、取り留めのない共通の話題を振って様子をみる。
「うん……」
達彦は、美恵子には目も向けず、機械的に返事をしたように見えた。聞こえていないわけではなさそうだ。けれど、それは彼にとって楽しい話題ではなさそうだった。
そういえば、達彦はオムライスを食べながら泣いていた。
「……ひょっとして、おいしくなかった? たっちゃんのお母さんのオムライスのほうがおいしい?」
言ってはいけない話題を口にしたような気がして美恵子は、深い意味はなかったのだという意味をこめ、慌てて言葉を繕ったが、それが余計に少年の気に障ったようだ。
彼はまっすぐ正面に向けていた顔を、美恵子が視界に入らないようにぷいと背けた。
「たっちゃんって、呼んじゃだめだった?」
「そっちじゃねぇよ」
むすっとした声で達彦が答える。
もう一度ごめんと小さく謝ったものの、美恵子には何が悪かったのか分からなくて、だから余計に動揺が大きくなった。笑顔にしたいだけなのに、かえって怒らせてしまったようだ。
「……じゃあ……オムライスの、せい?」
「ちげーよっ!」
あくまでもオムライスの話題から離れようとしない美恵子に、達彦はとうとう声を荒げた。
唯一の話題を怒鳴り声で遮られたものだから、美恵子の目の端から熱いものがぽろりと零れる。美恵子は板場から見えない扉の陰に隠れ、両手でそれを拭った。
「……ごめん」
達彦が口の中で謝った声が聞こえたが、一旦溢れ始めた美恵子の涙はとまりそうもない。
伺うように、美恵子ににじり寄った達彦は、伸ばしかけた手をぐっと握ってもう一度「ごめん」と、先ほどよりもはっきりと口にした。
「……いい、よ……」
条件反射の様に、言葉の上で許しはしたものの、美恵子の涙はまだ止まらない。
「……母さん……、死んだんだ。……二週間前――」
困った達彦は、間を持たせるためなのか、ぽつぽつと話し始めた。
言い訳というわけではなさそうだった。ただ、何かを話して、美恵子の気を逸らそうとの意図で口を開くと、ずっと喉の奥のところで引っかかっていたことが、さらりと出てきたのだ。
それがあまりにも、あっさりした言い方で、美恵子には、すぐその言葉の重さがよくわからなかった。
「死んだんだ」
もう一度。彼は同じ言葉を、今度はすこし重めに――まるで、自分に言い聞かせるかのようにかみ締めるように口にした。
そうしてようやくその言葉が持つ意味を理解できた美恵子は、しゃくりあげたくなるのを我慢して、涙を洋服の袖で押さえる。
達彦の流した涙の重さから考えると、自分の涙の重さはとても軽いような気がして。
達彦の目には、さっきまではなかった生気が微かに戻っているように見える。
「その……母さんが、よく、作ってくれた。……オムライス」
語尾が湿っぽく揺れ、美恵子の胸の奥を刺激した。達彦の想いに、美恵子が心の奥底にしまいこんでいた何かが共鳴する。
美恵子は思わず、膝立ちになって達彦の頭を胸の中にかき抱いた。
「な――っ!?」
美恵子が寂しい想いをしたときにいつもスイがそうしてくれる。
目の前の男の子も、母親がいなくて、寂しい思いをしている――そう思ったから、自分がいつもそうされているようにしただけだ。
いや、それ以上に寂しくなったのは、自分のほうか。
「あたしも、いないの」
その一言に、美恵子を引き剥がそうとしていた達彦がおとなしくなった。
「生まれたときから、おばあちゃんに預けられてて――、あたし、お母さんの顔も知らないん、だ。……おばあちゃんは、お母さんは、働きに出ていていないけど、すぐ帰ってくるって……でも、あたし、分かってる。多分、捨てられたんだ。だって、全然帰ってこないし……。あたし、が、お母さんの顔、覚えてないのが、いけないのかな?」
「泣くなよ」
達彦にシャツの裾で涙を拭われて、美恵子は自分が泣いていたことに気がついた。
気がついてしまったら、心が緩んで、とめどなく涙が溢れてくる。
「……たっちゃんには、お母さんの、思い出があるから……いいじゃない」
しゃくりあげる美恵子の背中を、温かい手がそっと摩った。
スイの手よりも小さく力強い。胸の奥のほうがこそばかった。
それから、柏木はよく達彦を連れて店へ来るようになった。母親を亡くした彼に、温かい気持ちのこもった夕食を食べさせたかったのだろう。それを汲み取ったスイは、達彦が来るたびに腕をふるい、家庭的な料理でもてなした。
外が薄っすらと闇に包まれ始めたころ、店のカウンターの隅で小数の計算の宿題をしていた美恵子は、入り口の引き戸が開く音に顔を上げた。
「いらっしゃいませ、柏木さん。――あら、まあ、今日はかわいいお連れさんだこと」
「久しぶり、スイさん。悪いが、こいつになにか旨いモンを食わせてやってくれないか」
暖簾をくぐって引き戸を開けた客にスイが声をかけると、中年と初老の間の男性が小さな背中を押して、すらりとした四肢の――というより、よけいな肉のついていない細身の日に焼けた少年を前に進ませた。
つよく唇を引き結び、不機嫌そうにも見える無表情でまっすぐ前を向いている男の子。その眼はどこか遠いところを見つめていて、どんな感情もこめられていない。その空虚な瞳に美恵子は視線を絡めとられた。
「息子の達彦だ」
「あら、まあ、そうでしたか」
初めましてと丁寧に挨拶するスイを横目に、美恵子は同級生の父親よりは年を取って見える柏木と少年をじっと見比べる。
「ずっと気落ちしているんで連れてきた」
カウンターの真ん中に腰を下ろした男は、自分の隣に達彦を座らせた。
少年に気をとられていたところにスイから嗜めるようにお通しを出すように言われて、美恵子は慌てて二人の前に小鉢を並べる。小さな皿が自分の目の前に置かれたことに気がついた達彦は、指から手、腕を伝って、美恵子に視線を向けた。
「あの……どうぞ……」
それから、先ほどとは逆に動いて皿に戻る目には、やはり何の感情も読み取れない。
反対に、隣の男――柏木から大げさに「美恵ちゃん、いつもありがとう」声をかけられ、肩がピクンと震えた。
「――こいつ、達彦っていうんだ。美恵ちゃんより二つ大きい六年生だけど、達ちゃんって呼んで仲良くしてやっておくれよ」
柏木は、まなじりをこれでもかというほど下げて、美恵子に笑いかける。かわいがってくれているのだとは思う。けれど、その笑顔が少し怖くて、美恵子は小さく後ずさりながら奥の部屋の上り框に座った。
やけに大人びた男の子――達彦が同じ小学生だときいて、その落ち着きように、無意識に比べた自分が少し恥ずかしくなったせいもある。
スイが少年の前に水の入ったグラスを置き、柏木には熱燗とブリ大根を出した。
「このたびは、奥様のこと、ご愁傷様でした」
神妙な顔でそういった後、スイは手早くフライパンを振り始めた。
スイと柏木との会話が静かに続いている隣で、少年は肩を小さくし、腿の上についた両手で伸ばした背筋を支えるかのように、じっと水のコップを見て黙っている。
その様子を、美恵子は静かに、見守った。
目の前に、黄色の丘のようなオムライスがことんと置かれて初めて、ようやく彼は顔を上げる。
どうぞ、とにこりと微笑んだスイに、少年の目がじわりと潤んだように見えたのは気のせいか。
そして、視線をオムライスに戻し、今度はそれをじっと睨みつけた。
達彦の様子を横で伺っていた柏木が、ポケットから出したハンカチで、額をふきながらさりげなく目元を拭い、不自然なほどのぎこちなさで席を立つ。
「――申し訳ないが、私は……もう少し仕事が残っているので、一時間ほどこいつを置いて、出てきてもいいかな?」
スイが笑顔で彼を見送ると、ようやく達彦がスプーンに手をかけた。それを確かめてから、彼女は達彦の隣の席の空席に同じものをもう一つ置く。
「美恵子も、どうぞ」
戸惑ったが、笑顔で頷くスイに促され、美恵子はおとなしく少年の隣の席に着いた。
彼は、うつむき、無言でスプーンを口に運んでいたが、近づいてみると、頬には涙が伝い落ちていた。
涙をこぼしながら、少しずつオムライスを口に運ぶ達彦の横で、美恵子はいつもよりも大人びた味のオムライスを静かに食べた。
「食べたら、柏木さんが戻ってくるまで二人で奥で遊んでおいで」
またしても戸惑う彼女に、スイは、それが今日の美恵子の仕事よと、続ける。
「仕事」という単語に、大人に近づいたような気がして、美恵子の心がくすぐられた。
狭い店内を子供二人が占有してしまっては、仕事にならないのだろう。あるいは、もっとほかの理由があったのかもしれないが、幼い美恵子にはそんな事情、分かるはずもない。
奥の部屋といっても、部屋はもともとが休憩用なので遊び道具などほとんどなかった。あったとしても、ぬいぐるみが数体だ。
靴を脱いで上がった二人は、一番奥の壁際に、両端に別れて膝を抱えて座った。少年の涙を見てしまったせいか、なんとなく気まずい。
彼は、店に入ってきたときと同じように無表情で、まっすぐ前を向き、開け放した引き戸の向こうでスイが忙しそうに、それでいて優雅に接客しているのを見ているようだった。
――それが仕事よ。
一緒になってスイの背中を見ているうちに、先ほどの言葉が美恵子の頭の中でリフレインした。
『足を運んでいただいたお客様には、笑顔で帰っていただくお店』とはいつもスイが言っている言葉だ。だから、彼女が『仕事』という単語に込めた意味は、小さな美恵子にもなんとなくわかる。
美恵子はとりあえず、この沈黙を何とかしようと心に決めた。
「あの……お、オムライス、おいしかったね」
とりあえず、取り留めのない共通の話題を振って様子をみる。
「うん……」
達彦は、美恵子には目も向けず、機械的に返事をしたように見えた。聞こえていないわけではなさそうだ。けれど、それは彼にとって楽しい話題ではなさそうだった。
そういえば、達彦はオムライスを食べながら泣いていた。
「……ひょっとして、おいしくなかった? たっちゃんのお母さんのオムライスのほうがおいしい?」
言ってはいけない話題を口にしたような気がして美恵子は、深い意味はなかったのだという意味をこめ、慌てて言葉を繕ったが、それが余計に少年の気に障ったようだ。
彼はまっすぐ正面に向けていた顔を、美恵子が視界に入らないようにぷいと背けた。
「たっちゃんって、呼んじゃだめだった?」
「そっちじゃねぇよ」
むすっとした声で達彦が答える。
もう一度ごめんと小さく謝ったものの、美恵子には何が悪かったのか分からなくて、だから余計に動揺が大きくなった。笑顔にしたいだけなのに、かえって怒らせてしまったようだ。
「……じゃあ……オムライスの、せい?」
「ちげーよっ!」
あくまでもオムライスの話題から離れようとしない美恵子に、達彦はとうとう声を荒げた。
唯一の話題を怒鳴り声で遮られたものだから、美恵子の目の端から熱いものがぽろりと零れる。美恵子は板場から見えない扉の陰に隠れ、両手でそれを拭った。
「……ごめん」
達彦が口の中で謝った声が聞こえたが、一旦溢れ始めた美恵子の涙はとまりそうもない。
伺うように、美恵子ににじり寄った達彦は、伸ばしかけた手をぐっと握ってもう一度「ごめん」と、先ほどよりもはっきりと口にした。
「……いい、よ……」
条件反射の様に、言葉の上で許しはしたものの、美恵子の涙はまだ止まらない。
「……母さん……、死んだんだ。……二週間前――」
困った達彦は、間を持たせるためなのか、ぽつぽつと話し始めた。
言い訳というわけではなさそうだった。ただ、何かを話して、美恵子の気を逸らそうとの意図で口を開くと、ずっと喉の奥のところで引っかかっていたことが、さらりと出てきたのだ。
それがあまりにも、あっさりした言い方で、美恵子には、すぐその言葉の重さがよくわからなかった。
「死んだんだ」
もう一度。彼は同じ言葉を、今度はすこし重めに――まるで、自分に言い聞かせるかのようにかみ締めるように口にした。
そうしてようやくその言葉が持つ意味を理解できた美恵子は、しゃくりあげたくなるのを我慢して、涙を洋服の袖で押さえる。
達彦の流した涙の重さから考えると、自分の涙の重さはとても軽いような気がして。
達彦の目には、さっきまではなかった生気が微かに戻っているように見える。
「その……母さんが、よく、作ってくれた。……オムライス」
語尾が湿っぽく揺れ、美恵子の胸の奥を刺激した。達彦の想いに、美恵子が心の奥底にしまいこんでいた何かが共鳴する。
美恵子は思わず、膝立ちになって達彦の頭を胸の中にかき抱いた。
「な――っ!?」
美恵子が寂しい想いをしたときにいつもスイがそうしてくれる。
目の前の男の子も、母親がいなくて、寂しい思いをしている――そう思ったから、自分がいつもそうされているようにしただけだ。
いや、それ以上に寂しくなったのは、自分のほうか。
「あたしも、いないの」
その一言に、美恵子を引き剥がそうとしていた達彦がおとなしくなった。
「生まれたときから、おばあちゃんに預けられてて――、あたし、お母さんの顔も知らないん、だ。……おばあちゃんは、お母さんは、働きに出ていていないけど、すぐ帰ってくるって……でも、あたし、分かってる。多分、捨てられたんだ。だって、全然帰ってこないし……。あたし、が、お母さんの顔、覚えてないのが、いけないのかな?」
「泣くなよ」
達彦にシャツの裾で涙を拭われて、美恵子は自分が泣いていたことに気がついた。
気がついてしまったら、心が緩んで、とめどなく涙が溢れてくる。
「……たっちゃんには、お母さんの、思い出があるから……いいじゃない」
しゃくりあげる美恵子の背中を、温かい手がそっと摩った。
スイの手よりも小さく力強い。胸の奥のほうがこそばかった。
それから、柏木はよく達彦を連れて店へ来るようになった。母親を亡くした彼に、温かい気持ちのこもった夕食を食べさせたかったのだろう。それを汲み取ったスイは、達彦が来るたびに腕をふるい、家庭的な料理でもてなした。
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