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美恵子 25歳(1)

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 決まった時間に店に来て、決まった時間に家に帰る。違うのは、店に来る客だけ。そんな変化のない日常のなかで、美恵子のささやかな希望も埋もれていった。
 口に出したところで、どうにもならないと、どこかあきらめている自分がいる。毎日店を開けて、料理をして客の相手をする――その、繰り返し。それが自分の人生なのだと。どこかで何かを誤魔化しながら生きている。
 それが嫌なわけではない。そうしなければ、伯父の家に居候させてもらっている美恵子は生きてこられなかっただけだ。
 けれど、ときどきこれでいいのか、分からなくなる。
 煮付けにするキンキに隠し包丁を入れながら、ぼんやりとそんなことを考えていると、隣でごぼうときのこのきんぴらを作っていたスイが、世間話の延長で、珍しいことを口にした。

「美恵子、今度の日曜、店を休んでくれる?」
「日曜日?」
「その代わり、昼間に一緒に行ってもらいたいところがあるんだけど」
 そんな交換条件を出さなくとも、昼間に外出に付き合いそのあと店を開けるのはそれほど苦ではない、と美恵子が笑うと、スイは真面目な顔で、自分が店を開けるから、とにかく美恵子は日曜日に休みなさい、とやけに力を入れて説得してきた。

 そうして連れて行かれたのは、広い日本式庭園が有名な、結婚式場としても名高い高級ホテル。
 美恵子は振袖を着せられ、隣に座っている妙にそわそわしているスイの横で、窮屈な思いでソファに座ってコーヒーをすすっていた。
 高級ホテルに振り袖、落ち着きのない連れときたら、どう考えてもお見合いだ。そして、夜も休んでいいというスイの言葉は、まさかとは思うが、体を張ってでもものにしろという意味にも受け取れなくもない。
 普段は物静かで上品なスイだが、こと恋愛に関する限りは、遠い異国から名も知られていない小さな国に単身乗り込んでくるような祖先の血を引いている。
 自分にもそういうところがあれば、あるいは、もっと違う人生が歩めたのかもしれないが、と美恵子は小さくため息を吐いた。
 着物姿には不便なふかふかのアメリカンサイズのソファーに浅く腰かけ、一面鏡張りのガラスの向こうの、艶やかに色づき始めた庭園を見るともなしに眺めた。
 胸が重く苦しく感じるのは、きっと、振袖のせいだ。
 板場に立つようになって七年。着慣れたとはいえ、いつもはせいぜい小紋のような普段着で、さすがにそれと比べて振袖は重い。しかも、自分で着付けたわけではないので、きつめの帯が胸を圧迫していて息苦しい、そのせいだ。
 もう二十五になるのだから、振袖でなくても――もう少し落ち着いた訪問着でもよかったのではないだろうか。
 そんなことを考えていると、紋付の深緑色の色無地で入り口あたりを伺っていたスイが、すっと、まるで竹のようにまっすぐ立ち上がった。
 つられて美恵子も立ち上がる。

「松前貿易の社長のご次男、利行さんよ」
 スイがまっすぐ前を向き、彼らを笑顔で迎えながら、隣の美恵子にだけ聞こえるように「そろそろ、指輪を譲ってもいい頃かと思ってね」と続けた。
 やはり、と美恵子は心の中で肩を落とす。いつかは、そんな話があると思っていた。そして、そんな話になるなら、達彦がいいと、密かに思っていたのに――
 美恵子が何かを口にする前に、スイは彼らのほうへ歩み寄っていってしまった。
 なんとなく置いてきぼりをくった気持ちで美恵子は、スイが出迎えた二人連れに目を向ける。
 初老の女性は、スイより少し若そうだ。その隣のすらりとした男性は、美恵子よりは少し年上に見えた。
 松前貿易といえば戦後に一気に成長した会社で、今やその取扱商品を手にしないものはいないといのではないかといえるほどの総合貿易商社だ。次男とはいえ、この人と結婚すれば、一生何不自由なく暮らすことができるだろう。
 視線を感じて、利行が彼女に目をとめる。
 じっと見つめていたのに気がつかれた恥ずかしさに視線を落とした美恵子の視界の端で、彼は穏やかに微笑んだ。
 人あたりのよさそうなその笑顔には裏がなく、素直にこの場にいることを喜んでいる様子がうかがえる。のびのびとまっすぐ育ってきた印象があり、とても良い人そうにみえる。
 だから、美恵子の心は余計に重くなった。
 挨拶と紹介がひと段落したところで、四人は予約を入れてあった個室へ移動した。後から来るのかと思っていたが、どうやら仲人はいないらしい。
 落ち着いた風情の回遊式庭園を右手にガラス張りの幅広い廊下が延びていた。奥へ行くに連れてロビーの喧騒が遠ざかっていき、庭の緑と深紅のカーペット、静かな空間、漂ってくる香の香り、いつもとは違う着物――そんな非日常が美恵子を異世界へと誘う。
 あれだけ繰り返した日常のほうが、夢のように思えてくる。
 あれが夢だとしたら、母親のことも夢であればいいのに。だが、そうなると達彦も夢のうちに入るのかと、とりとめのないことを考えていると、ちょうど滝の裏側が廊下になっているところで隣を歩いていたスイが袖を少し引っ張った。
 絶え間なく流れ落ちる水の音が、周囲の雑音をかき消している。
 スイが美恵子の耳元で小声で囁いた。

「久しぶりに会ったんだから、もう少し嬉しそうにすればいいのに」
「久しぶり?」
「あら、覚えてないの? 美恵子が小学生のとき――」

 そういわれてもう一度、さりげなく彼の顔を見てみると、優しく育ちのよさそうなその笑顔に、秘密の隠れ家に案内した中学生の彼の笑顔が重なった。
「利行さんと結婚するから、指輪がほしいって、いってたわよね?」
 確かにあの時、この人なら、と思ったことは事実だ。
 けれどそれは、ほんの十年の人生経験から思ったことで、あれから十五年近くたった今、何も知らなかったあのころとは状況が違う。
 美恵子の心の中に、もう一度達彦の姿が過ぎった。

「……それとも、達彦君のこと?」
 まるで心を読んだのではないかというタイミングだった。
 驚きを隠そうとして、かえって慌てて放った「そんなんじゃ――」という台詞には、暗に肯定が含まれていそうだ。

「――結婚するんですって」

 まっすぐ前を向いたまま、歩きながらスイは固い表情で動揺している美恵子の言葉を遮った。

 え……?

 スイの言葉は、美恵子の動揺を沈めたが、逆に焦燥を掻き立てる。
「だって、恋人がいるなんて、そんなこと一言も――」
「柏木さんがそう言ってらしたの。詳しいことは分からないけど、事務所に所属している子との縁談がまとまったとか」
 まあ、あの世界もいろいろあるんでしょう、そういったスイの瞳も納得はしていないように見えた。
「私は、美恵子には幸せになって欲しいのよ」

 美恵子をまっすぐ見据えると、スイは、それから一呼吸おいて「できれば、私が生きているうちに」と付け足した。

「生きてるうちにって、そんな……何言って――」
「悪性の、腫瘍が出来てるのよ」

 いつから? どこに? どのくらい進んでるの? 転移は? ――なんで、もっと早く言ってくれなかったの?
 聞きたいことや、文句が胸に一気に押し寄せたので、美恵子は逆に言葉につまった。
 先ほどスイが何気なく発した『美恵子には』という限定も、彼女に重くのしかかっていた。幸せを見届けることのできなかった美恵子の母親の姿を重ねていたのだろう。

「――とにかく、美恵子は、幸せになってちょうだい」
 いろいろな思いの渦巻く美恵子の波だった心の上に、穏やかにかぶせられたスイの言葉は、まるで祈りのようでもあった。

 その後、和やかに食事は進み、見合いの定番「後は若い方だけでお庭でもお散歩したら?」と、スイと友人――利行の母親は楽しげにこの後の予定を話しながら、美恵子と利行を残して帰って行った。
 せっかく会ったのだから、久しぶりに友人同士二人で芝居でも見に行くのだそうだ。
 利行は少し困ったように小さく肩を竦め、美恵子に苦く笑った。
 他にすることもないので、ふたりはあ燃えるような紅葉が美しい庭にでる。
 庭園はすっかり秋の装いを濃くし、赤や黄色の葉で賑わいを見せていた。
 利行は、美恵子の小さな歩幅に合わせ、半歩後ろを歩いている。
「夏は、ホタルも見られるそうですよ」
 東京の真ん中で――と嬉しそうに話す彼は、十五年前の、いかにもいいところのお坊ちゃんといったおっとりさを残して、爽やかな好青年に成長している。
 まるで、この爽やかな空気のようだ。
 深呼吸すると、ひやりと心地よい。

 ふと見上げた先の、空を透かしてみせる紅葉のレース模様に、美恵子はあのドウダンツツジの秘密の隠れ家を思い出した。
 紅い葉を目に焼き付けてそのまま目を閉じると、翠色の残像が目の裏に浮かんだ。同時に、あの時の言葉が、映像とともにフラッシュバックする。

 ――おばあちゃん達には、秘密ね。

 あれは、隠れ家のことではなく――。
 あの時、利行に手を引っ張られ、バランスを崩してそのまま彼の胸の中にすっぽり収まった、彼の腕の中の温かさが蘇る。そしてそのまま彼は――
 当時中学生だった利行の行動を思い出して、美恵子の動悸が激しくなった。中学生の男子なら、そんなことに興味を持ってもおかしくはない年頃だ。だからあの時の美恵子は必要以上に、利行を意識してしまったのだ。
 あんなこと、誰にも言えず、どうせもう彼に会うこともないのだからと、意識の外へ追い出してなかったことにしてしまったのは、誰のためでもなく自分のためであったことも思い出した。
 美恵子は、空を見上げるふりをしながら、隣で同じように紅葉を愛でている利行を横目でちらりと伺う。

 彼は、覚えているだろうか。
 ――いや。美恵子自身もずっと忘れていた十五年も前のことを、この人が覚えているわけない。

 余計な考えを振り払い、先へ行こうとした時、無理に気をそらしたせいか、草履が小石を踏み、美恵子のバランスが崩れた。
 とっさに、利行が腕を伸ばして彼女を支える。
 近くの木から鳥がバサバサっと飛び立ち、急に縮まった距離に十五年前のできごとを重ねてしまった美恵子は顔をそむけた。

「大丈夫です? 足をひねったりしてませんか?」
「……大丈夫です。少し、バランスを崩しただけです」
 普通に心配してくれる彼の様子に、大げさに反応してしまった、美恵子のほうが恥ずかしくなる。
 意識しすぎだ。
 十五年という月日の中で、逞しさや男らしさが付加されていて――嫌いになる理由はどこにもないということが、余計に美恵子を困らせていた。
 もしも、達彦に逢っていなかったら――

「すみませんでした」
「いえ、こちらこそ……すみません。面白みのない男で――」
 触れていた手を慌てて離しながら利行は、逆に美恵子に謝った。彼女の口から漏れた謝罪を、利行は見合いに対する返事と受け取ったのだろうか。
 反射的に美恵子は「そういう意味では――」と、曖昧に笑う。
「そうですか」と彼も困ったように笑った。「――でも、ずっと、上の空だったでしょう?」
 二人でドウダンツツジの葉越しに一緒に空を見上げたことなど、彼は忘れてしまっているのだろう。
 そう思うと、なぜか理由もなく寂しくなった。

「……すみません。……見上げた紅葉が、レースのようだったので――」

 利行が安心したように息を吐いて、美恵子の視線の先を追った。
 確かに、レースのようだ、と嬉しそうに呟いたその横顔は、十五年前と変わらず、美しいものを美しいと言える素直さに溢れている。
 それが素直になれない今の自分には眩しすぎて、美恵子は目を細めた。

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