2 / 107
2 Prologue 崩壊 -Chapter セレイナ ~ エリオス
しおりを挟む
かつてセレイナには恋人が居た。彼女は、その人を深く愛していた。
けれど今では、恋人の顔を思い出すのにも時間がかかるほど、その記憶さえ霞んでいた。
ただ、生き延びるという意思だけが、彼女の心臓を、手足を、辛うじて動かしていた。
だがそれも、必要がない。
セレイナの心は、既に壊れていた。
☆
セラフィムの部屋へ訪れた日から少し経った日の夜、セレイナは白い寝着を身に纏った。
特に意味はなかった。ただ、同じことを繰り返す動作のひとつとして。その寝着さえもくたびれて、所々解れていた。
王城の東側にある塔。螺旋階段をセレイナは、裸足で一段ずつゆっくりと上がっていく。
冷たい石の感触が足裏に伝わるたびに、頭の中の靄が少しずつ濃くなっていく。もう何日食べていないのかも思い出せなかった。眠った記憶もない。
何も考えられなかった。それでも足は止まらない。
上へ。
それだけだった。
最上階に着いた時、艶を失くし、銀が白になったようなセレイナの髪を、風がふわっと靡かせた。
高塔の縁の向こう側には、青く霞んだ街並みが広がっている。その景色を見ながら、セレイナは欄干に指をかけた。
冷たい金属の感触。心臓が静かに鼓動している。恐れも悲しみもなかった。
そこには、終わりを受け入れるような、仄かな安堵だけがあった。
☆
その頃、東の中庭で第二王子エリオスは、ワインのグラスを片手にベンチに腰を下ろしていた。
普段は国の東端、海と山に挟まれた国境沿いの要地にいる。
この日は、ヴァルター公爵が治める、グレイストン領の国境和平条約交渉に同席するため、城に戻っていた。
相手の要求は穴だらけで、筋を立て直せば自然に結論は出た。必要な譲歩を示し、退路を確保する。外交の基本を踏まえれば、それだけで話は終わる。
あとは、形式的な社交の時間が残るだけだった。そうした場が苦手なエリオスは、庭に逃げてきた。静けさの中で、ようやく息がつける。
グラスを口元で傾けたとき、視界の端に白い影が映った。
塔の上に、風に揺れる白。最初は鳥かと思った。だが、違う。
人だ。
その白いものの動きに、迷いがなかった。まるで、目的がひとつしかないかのように。
エリオスは立ち上がった。グラスが石畳に落ち、ガラスが砕ける音と赤い液体が地面を染めた。
「……何をしている」
呟くより早く、彼は走り出していた。
塔の階段を駆け上がる。
冷たい空気が喉を刺し、息が荒くなる。
一段、また一段。
頭の中で最悪の光景がよぎる。
最上階にたどり着いた時、白い裾が風に揺れていた。
欄干の外。細い腕が、空に伸びている。
「やめろ!」
声を張り上げたが、風がその声をかき消す。白い人の身体がわずかに揺れるが、振り返らない。
エリオスは走り寄り、背後から彼女を抱きしめ、力を込めて引き戻す。
「……っ」
か細い声が、その人から漏れた。身体は驚くほど軽い。腕の中で折れてしまいそうなほどに。
エリオスは肩に手を添え、引き戻した人の顔を覗き込む。顔を見た瞬間、老婆かと思った。だが、瞳の色、髪の色、そして僅かに残る面影。思い当たる人物は、ひとりしかいない。
「セレイナ……妃? なのか……?」
名前を口にすると、胸の奥が一気に冷えてゆく。頬はこけ、唇は乾き、肌の色が失われている。唯一と言ってもいい、以前の色を残した瞳が、虚空をただ見つめていた。
「どうして、こんな……」
その言葉が自然に漏れた。セレイナは答えない。ただ、小さく息をしていた。エリオスはゆっくりと、そしてそっと彼女を抱き上げた。
あまりに軽い。まだ年端もいかない子供の方が、しっかりとした肉付きをしているのではないか? とさえ思えた。女性が纏うドレス重みの方が、勝っているのではないかとも。
彼はセレイナを横抱きにしたまま、塔を降りた。その間、セレイナはピクリとも動かなかった。ただ、小さな呼吸をする音が、時々、耳に入るのみ。誰にも声をかけず、迷うことなくエリオスは自室へ向かう。
自身のベッドに彼女を横たえ、毛布をかける。湯を沸かして、冷えた手を包む。セレイナの呼吸は浅く、脈は細い。眠るというより、意識を保っていないだけに見えた。
彼は、部屋のテーブルの上に置いてある、呼び鈴を取った。音を聞きつけ、彼の部屋に入って来たのは、二十代半ばの濃い茶髪の長身の青年だった。
「オクターブ。宮廷医師を呼べ」
オクターブと呼ばれたその青年が即座に駆け出し、ほどなくすると白衣の医師が案内された。
エリオスは無言のまま彼をベッドの傍へ促す。
医師は脈を取り、瞳を覗き、静かに息をついた。
「彼女には、持病があるのか?」
問われた医師は首を横に振った。
「……私は……側妃殿下を、診察したことはございません、エリオス殿下」
「なぜだ?」
低い声だった。怒りを押し殺したような。
「そのようなお話はなく……侍女たちからも特に申告は……」
「言われなければ、診ないのか」
室内に沈黙が落ちる。医師は小さく身を縮めた。そして、その事実から逃げるように、今診た見解をエリオスに話す。
「詳しいことはまだ分かりませんが、重度の栄養失調の兆候が見られます。極度の食事制限の影響で、心身共に疲弊しているかと推測します」
エリオスは暫く何も言わなかった。ただ、セレイナの白い手を見つめる。その指先は、骨に皮が被っているような有様だ。
なぜ誰も気づかなかったのか。なぜ、ここまで放置されたのか。
激しい疑問と、言いようのない静かな怒りが、エリオスの胸の内を燃やし始めていた。
エリオスは一晩中、椅子を離れずに、セレイナを看続けた。明け方近くになり、彼女の呼吸が深く息をし始めたのを見て、漸く安堵した。
それとは別に、エリオスはひとつの決意をしていた。この状態をこのままにするわけにはいかない。夜が明けたら行くべき場所はひとつだ、と。
☆
運命に翻弄され、心身ともに削り取られた一人の女性。彼女がなぜ、この絶望にたどり着くまでに至ったのか。
それは、およそ四年前、まだ全てが光の中にあったあの夜会へと遡ることになる。
けれど今では、恋人の顔を思い出すのにも時間がかかるほど、その記憶さえ霞んでいた。
ただ、生き延びるという意思だけが、彼女の心臓を、手足を、辛うじて動かしていた。
だがそれも、必要がない。
セレイナの心は、既に壊れていた。
☆
セラフィムの部屋へ訪れた日から少し経った日の夜、セレイナは白い寝着を身に纏った。
特に意味はなかった。ただ、同じことを繰り返す動作のひとつとして。その寝着さえもくたびれて、所々解れていた。
王城の東側にある塔。螺旋階段をセレイナは、裸足で一段ずつゆっくりと上がっていく。
冷たい石の感触が足裏に伝わるたびに、頭の中の靄が少しずつ濃くなっていく。もう何日食べていないのかも思い出せなかった。眠った記憶もない。
何も考えられなかった。それでも足は止まらない。
上へ。
それだけだった。
最上階に着いた時、艶を失くし、銀が白になったようなセレイナの髪を、風がふわっと靡かせた。
高塔の縁の向こう側には、青く霞んだ街並みが広がっている。その景色を見ながら、セレイナは欄干に指をかけた。
冷たい金属の感触。心臓が静かに鼓動している。恐れも悲しみもなかった。
そこには、終わりを受け入れるような、仄かな安堵だけがあった。
☆
その頃、東の中庭で第二王子エリオスは、ワインのグラスを片手にベンチに腰を下ろしていた。
普段は国の東端、海と山に挟まれた国境沿いの要地にいる。
この日は、ヴァルター公爵が治める、グレイストン領の国境和平条約交渉に同席するため、城に戻っていた。
相手の要求は穴だらけで、筋を立て直せば自然に結論は出た。必要な譲歩を示し、退路を確保する。外交の基本を踏まえれば、それだけで話は終わる。
あとは、形式的な社交の時間が残るだけだった。そうした場が苦手なエリオスは、庭に逃げてきた。静けさの中で、ようやく息がつける。
グラスを口元で傾けたとき、視界の端に白い影が映った。
塔の上に、風に揺れる白。最初は鳥かと思った。だが、違う。
人だ。
その白いものの動きに、迷いがなかった。まるで、目的がひとつしかないかのように。
エリオスは立ち上がった。グラスが石畳に落ち、ガラスが砕ける音と赤い液体が地面を染めた。
「……何をしている」
呟くより早く、彼は走り出していた。
塔の階段を駆け上がる。
冷たい空気が喉を刺し、息が荒くなる。
一段、また一段。
頭の中で最悪の光景がよぎる。
最上階にたどり着いた時、白い裾が風に揺れていた。
欄干の外。細い腕が、空に伸びている。
「やめろ!」
声を張り上げたが、風がその声をかき消す。白い人の身体がわずかに揺れるが、振り返らない。
エリオスは走り寄り、背後から彼女を抱きしめ、力を込めて引き戻す。
「……っ」
か細い声が、その人から漏れた。身体は驚くほど軽い。腕の中で折れてしまいそうなほどに。
エリオスは肩に手を添え、引き戻した人の顔を覗き込む。顔を見た瞬間、老婆かと思った。だが、瞳の色、髪の色、そして僅かに残る面影。思い当たる人物は、ひとりしかいない。
「セレイナ……妃? なのか……?」
名前を口にすると、胸の奥が一気に冷えてゆく。頬はこけ、唇は乾き、肌の色が失われている。唯一と言ってもいい、以前の色を残した瞳が、虚空をただ見つめていた。
「どうして、こんな……」
その言葉が自然に漏れた。セレイナは答えない。ただ、小さく息をしていた。エリオスはゆっくりと、そしてそっと彼女を抱き上げた。
あまりに軽い。まだ年端もいかない子供の方が、しっかりとした肉付きをしているのではないか? とさえ思えた。女性が纏うドレス重みの方が、勝っているのではないかとも。
彼はセレイナを横抱きにしたまま、塔を降りた。その間、セレイナはピクリとも動かなかった。ただ、小さな呼吸をする音が、時々、耳に入るのみ。誰にも声をかけず、迷うことなくエリオスは自室へ向かう。
自身のベッドに彼女を横たえ、毛布をかける。湯を沸かして、冷えた手を包む。セレイナの呼吸は浅く、脈は細い。眠るというより、意識を保っていないだけに見えた。
彼は、部屋のテーブルの上に置いてある、呼び鈴を取った。音を聞きつけ、彼の部屋に入って来たのは、二十代半ばの濃い茶髪の長身の青年だった。
「オクターブ。宮廷医師を呼べ」
オクターブと呼ばれたその青年が即座に駆け出し、ほどなくすると白衣の医師が案内された。
エリオスは無言のまま彼をベッドの傍へ促す。
医師は脈を取り、瞳を覗き、静かに息をついた。
「彼女には、持病があるのか?」
問われた医師は首を横に振った。
「……私は……側妃殿下を、診察したことはございません、エリオス殿下」
「なぜだ?」
低い声だった。怒りを押し殺したような。
「そのようなお話はなく……侍女たちからも特に申告は……」
「言われなければ、診ないのか」
室内に沈黙が落ちる。医師は小さく身を縮めた。そして、その事実から逃げるように、今診た見解をエリオスに話す。
「詳しいことはまだ分かりませんが、重度の栄養失調の兆候が見られます。極度の食事制限の影響で、心身共に疲弊しているかと推測します」
エリオスは暫く何も言わなかった。ただ、セレイナの白い手を見つめる。その指先は、骨に皮が被っているような有様だ。
なぜ誰も気づかなかったのか。なぜ、ここまで放置されたのか。
激しい疑問と、言いようのない静かな怒りが、エリオスの胸の内を燃やし始めていた。
エリオスは一晩中、椅子を離れずに、セレイナを看続けた。明け方近くになり、彼女の呼吸が深く息をし始めたのを見て、漸く安堵した。
それとは別に、エリオスはひとつの決意をしていた。この状態をこのままにするわけにはいかない。夜が明けたら行くべき場所はひとつだ、と。
☆
運命に翻弄され、心身ともに削り取られた一人の女性。彼女がなぜ、この絶望にたどり着くまでに至ったのか。
それは、およそ四年前、まだ全てが光の中にあったあの夜会へと遡ることになる。
25
あなたにおすすめの小説
壊れた心はそのままで ~騙したのは貴方?それとも私?~
志波 連
恋愛
バージル王国の公爵令嬢として、優しい両親と兄に慈しまれ美しい淑女に育ったリリア・サザーランドは、貴族女子学園を卒業してすぐに、ジェラルド・パーシモン侯爵令息と結婚した。
政略結婚ではあったものの、二人はお互いを信頼し愛を深めていった。
社交界でも仲睦まじい夫婦として有名だった二人は、マーガレットという娘も授かり、順風満帆な生活を送っていた。
ある日、学生時代の友人と旅行に行った先でリリアは夫が自分でない女性と、夫にそっくりな男の子、そして娘のマーガレットと仲よく食事をしている場面に遭遇する。
ショックを受けて立ち去るリリアと、追いすがるジェラルド。
一緒にいた子供は確かにジェラルドの子供だったが、これには深い事情があるようで……。
リリアの心をなんとか取り戻そうと友人に相談していた時、リリアがバルコニーから転落したという知らせが飛び込んだ。
ジェラルドとマーガレットは、リリアの心を取り戻す決心をする。
そして関係者が頭を寄せ合って、ある破天荒な計画を遂行するのだった。
王家までも巻き込んだその作戦とは……。
他サイトでも掲載中です。
コメントありがとうございます。
タグのコメディに反対意見が多かったので修正しました。
必ず完結させますので、よろしくお願いします。
嘘をありがとう
七辻ゆゆ
恋愛
「まあ、なんて図々しいのでしょう」
おっとりとしていたはずの妻は、辛辣に言った。
「要するにあなた、貴族でいるために政略結婚はする。けれど女とは別れられない、ということですのね?」
妻は言う。女と別れなくてもいい、仕事と嘘をついて会いに行ってもいい。けれど。
「必ず私のところに帰ってきて、子どもをつくり、よい夫、よい父として振る舞いなさい。神に嘘をついたのだから、覚悟を決めて、その嘘を突き通しなさいませ」
【完結】さよならのかわりに
たろ
恋愛
大好きな婚約者に最後のプレゼントを用意した。それは婚約解消すること。
だからわたしは悪女になります。
彼を自由にさせてあげたかった。
彼には愛する人と幸せになって欲しかった。
わたくしのことなど忘れて欲しかった。
だってわたくしはもうすぐ死ぬのだから。
さよならのかわりに……
ため息ひとつ――王宮に散る花びらのように
柴田はつみ
恋愛
「離縁を、お願いしたいのです」
笑顔で、震えずに、エレナはそう言った。
夫は言葉を失った。泣いてくれれば、怒ってくれれば、まだ受け止め方があった。しかしあの静けさは、エレナがもう十分に泣き終わった後の顔だと、ヴィクトルにはわかった。
幼なじみと結ばれた三年間。すれ違いは静かに始まり、深紅のドレスの令嬢によって加速した。ため息を飲み込み、完璧な微笑みを保ち続けた公爵夫人が、最後に選んだのは――。
王宮に散る花びらのような、夫婦の崩壊と再生の物語。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
【3月中――完結!】
積み上がった伏線の回収目前!!
夫にも子どもにも、私は選ばれなかった。
長年の裏切りを抱え、離縁状を置いて家を出た――。
待っていたのは、凍てつく絶望。
けれど同時に、それは残酷な運命の扉が開く瞬間でもあった。
「夫は愛人と生きればいい。
今さら縋られても、裏切ったあなたを許す力など残っていない」
それでも私は誓う――
「子どもたちの心だけは、必ず取り戻す」
歪で、完全な幸福――それとも、破滅。
“石”に翻弄された者たちの、狂おしい物語。
ご安心を、2度とその手を求める事はありません
ポチ
恋愛
大好きな婚約者様。 ‘’愛してる‘’ その言葉私の宝物だった。例え貴方の気持ちが私から離れたとしても。お飾りの妻になるかもしれないとしても・・・
それでも、私は貴方を想っていたい。 独り過ごす刻もそれだけで幸せを感じられた。たった一つの希望
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる