偽りの愛 ー 真実かどうかなんて、なぜわかるのでしょうか

苺 迷音

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2 Prologue 崩壊 -Chapter セレイナ ~ エリオス

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 かつてセレイナには恋人が居た。彼女は、その人を深く愛していた。
 けれど今では、恋人の顔を思い出すのにも時間がかかるほど、その記憶さえ霞んでいた。
 ただ、生き延びるという意思だけが、彼女の心臓を、手足を、辛うじて動かしていた。

 だがそれも、必要がない。

 セレイナの心は、既に壊れていた。



 セラフィムの部屋へ訪れた日から少し経った日の夜、セレイナは白い寝着を身に纏った。

 特に意味はなかった。ただ、同じことを繰り返す動作のひとつとして。その寝着さえもくたびれて、所々解れていた。

 王城の東側にある塔。螺旋階段をセレイナは、裸足で一段ずつゆっくりと上がっていく。

 冷たい石の感触が足裏に伝わるたびに、頭の中の靄が少しずつ濃くなっていく。もう何日食べていないのかも思い出せなかった。眠った記憶もない。

 何も考えられなかった。それでも足は止まらない。

 上へ。

 それだけだった。

 最上階に着いた時、艶を失くし、銀が白になったようなセレイナの髪を、風がふわっと靡かせた。

 高塔の縁の向こう側には、青く霞んだ街並みが広がっている。その景色を見ながら、セレイナは欄干に指をかけた。

 冷たい金属の感触。心臓が静かに鼓動している。恐れも悲しみもなかった。

 そこには、終わりを受け入れるような、仄かな安堵だけがあった。



 その頃、東の中庭で第二王子エリオスは、ワインのグラスを片手にベンチに腰を下ろしていた。

 普段は国の東端、海と山に挟まれた国境沿いの要地にいる。

 この日は、ヴァルター公爵が治める、グレイストン領の国境和平条約交渉に同席するため、城に戻っていた。

 相手の要求は穴だらけで、筋を立て直せば自然に結論は出た。必要な譲歩を示し、退路を確保する。外交の基本を踏まえれば、それだけで話は終わる。

 あとは、形式的な社交の時間が残るだけだった。そうした場が苦手なエリオスは、庭に逃げてきた。静けさの中で、ようやく息がつける。

 グラスを口元で傾けたとき、視界の端に白い影が映った。

 塔の上に、風に揺れる白。最初は鳥かと思った。だが、違う。

 人だ。

 その白いものの動きに、迷いがなかった。まるで、目的がひとつしかないかのように。

 エリオスは立ち上がった。グラスが石畳に落ち、ガラスが砕ける音と赤い液体が地面を染めた。

「……何をしている」

 呟くより早く、彼は走り出していた。

 塔の階段を駆け上がる。

 冷たい空気が喉を刺し、息が荒くなる。

 一段、また一段。

 頭の中で最悪の光景がよぎる。

 最上階にたどり着いた時、白い裾が風に揺れていた。

 欄干の外。細い腕が、空に伸びている。

「やめろ!」

 声を張り上げたが、風がその声をかき消す。白い人の身体がわずかに揺れるが、振り返らない。

 エリオスは走り寄り、背後から彼女を抱きしめ、力を込めて引き戻す。

「……っ」

 か細い声が、その人から漏れた。身体は驚くほど軽い。腕の中で折れてしまいそうなほどに。

 エリオスは肩に手を添え、引き戻した人の顔を覗き込む。顔を見た瞬間、老婆かと思った。だが、瞳の色、髪の色、そして僅かに残る面影。思い当たる人物は、ひとりしかいない。

「セレイナ……妃? なのか……?」

 名前を口にすると、胸の奥が一気に冷えてゆく。頬はこけ、唇は乾き、肌の色が失われている。唯一と言ってもいい、以前の色を残した瞳が、虚空をただ見つめていた。

「どうして、こんな……」

 その言葉が自然に漏れた。セレイナは答えない。ただ、小さく息をしていた。エリオスはゆっくりと、そしてそっと彼女を抱き上げた。

 あまりに軽い。まだ年端もいかない子供の方が、しっかりとした肉付きをしているのではないか? とさえ思えた。女性が纏うドレス重みの方が、勝っているのではないかとも。

 彼はセレイナを横抱きにしたまま、塔を降りた。その間、セレイナはピクリとも動かなかった。ただ、小さな呼吸をする音が、時々、耳に入るのみ。誰にも声をかけず、迷うことなくエリオスは自室へ向かう。

 自身のベッドに彼女を横たえ、毛布をかける。湯を沸かして、冷えた手を包む。セレイナの呼吸は浅く、脈は細い。眠るというより、意識を保っていないだけに見えた。

 彼は、部屋のテーブルの上に置いてある、呼び鈴を取った。音を聞きつけ、彼の部屋に入って来たのは、二十代半ばの濃い茶髪の長身の青年だった。

「オクターブ。宮廷医師を呼べ」

 オクターブと呼ばれたその青年が即座に駆け出し、ほどなくすると白衣の医師が案内された。

 エリオスは無言のまま彼をベッドの傍へ促す。

 医師は脈を取り、瞳を覗き、静かに息をついた。

「彼女には、持病があるのか?」

 問われた医師は首を横に振った。

「……私は……側妃殿下を、診察したことはございません、エリオス殿下」

「なぜだ?」

 低い声だった。怒りを押し殺したような。

「そのようなお話はなく……侍女たちからも特に申告は……」

「言われなければ、診ないのか」

 室内に沈黙が落ちる。医師は小さく身を縮めた。そして、その事実から逃げるように、今診た見解をエリオスに話す。

「詳しいことはまだ分かりませんが、重度の栄養失調の兆候が見られます。極度の食事制限の影響で、心身共に疲弊しているかと推測します」

 エリオスは暫く何も言わなかった。ただ、セレイナの白い手を見つめる。その指先は、骨に皮が被っているような有様だ。

 なぜ誰も気づかなかったのか。なぜ、ここまで放置されたのか。
 激しい疑問と、言いようのない静かな怒りが、エリオスの胸の内を燃やし始めていた。


 エリオスは一晩中、椅子を離れずに、セレイナを看続けた。明け方近くになり、彼女の呼吸が深く息をし始めたのを見て、漸く安堵した。

 それとは別に、エリオスはひとつの決意をしていた。この状態をこのままにするわけにはいかない。夜が明けたら行くべき場所はひとつだ、と。



 運命に翻弄され、心身ともに削り取られた一人の女性。彼女がなぜ、この絶望にたどり着くまでに至ったのか。
 それは、およそ四年前、まだ全てが光の中にあったあの夜会へと遡ることになる。
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