偽りの愛 ー 真実かどうかなんて、なぜわかるのでしょうか

苺 迷音

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24 辺境要地へ -Chapter エリオス

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 評議の間を出たエリオスの足取りは、もはや午前の焦燥とは無縁の、確かな決意に満ちたものだった。

 手にしている封筒には、兄・セラフィムとセレイナとの離縁手続き書類が収められている。王と王太子、宰相、法務卿の署名が揃っているが、最後にセレイナ本人の署名を得て初めて正式に完了となる。その文書は、セレイナの解放を法的に確定させる未来への通行証だった。

 エリオスは自室へと戻った。侍従のオクターブが静かに控えており、エリオスが入室すると一歩前に出た。

「殿下。セレイナ妃の容態に大きな変化はありません。ただ時折小さくうなされていらっしゃるご様子で……」

「わかった。感謝するオクターブ。もう離れて良いぞ」

「しかし……」

「構わん。俺が直接世話をする。お前には別の任を頼みたい」

 エリオスは王命として発行された極秘の移送手配書を、オクターブに差し出した。そこにはセレイナを王国直轄の辺境要衝ようしょうへと移送するための、詳細な手配が記されてある。その地は国境に接する交易の要であり、王国にとって戦略的にも経済的にも極めて重要な拠点。故に、王の信任厚いエリオスが統治を任されている場所であり、彼にとっても本来の任地であった。

「これを信頼できる者に極秘で手配させろ。馬車は目立たぬよう華美な装飾は避けたものを。護衛は最小限、だが精鋭を。何よりセレイナ妃の身体に最大限の配慮を。この旅で彼女の健康が損なわれてはならない」

「御意に」

 オクターブは文書を深く一読し、その任務の重大さを理解した。セレイナ妃を城外に移すという行為は、王命とはいえ極めて異例中の異例であり、その過程で何らかの不手際があれば王家の威信そのものが傷つきかねない。

「出発は明日の早朝だ。夜明け前、まだ城が眠っている時間に動く。誰にも気づかれるな」

「畏まりました」

 オクターブが深く頭を下げて退出した後、エリオスはセレイナが眠るベッドの傍らに腰を下ろした。彼は手にしている離縁書類を広げ、空白のままのセレイナ本人の署名欄を見つめた。

「セレイナ妃……あなたの希望のものだ。ここから先は、あなたの生きる意志次第」

 静かに横たわるセレイナは、まるで蝋できた人形のように見えた。肌の青白さ、酷くやつれた頬、そして力の抜けた細い指先。その姿は、かつて宮廷で『最も美しい伯爵令嬢』と謳われた面影を、痛々しいほどに歪ませていた。

 エリオスの胸に湧き上がったのは、再び強烈な疑問だった。

「なぜだ? なぜ、王太子の側妃という地位の人間が、ここまで骨と皮だけになるまで衰弱できた? 下働きでなどではなく、妃だぞ……。城の中で何が起こっていたんだ?」

 宮廷医師は『重度の栄養失調』と診断したが、それだけで片付けられる話ではない。セレイナは王族の配偶者として、十分な食事と配慮を受けているはずだった。それを、誰にも気づかれず、あるいは誰も気にかけず『生きる亡霊』のような状態にまで追い詰めたものは何なのか。それは王太子の責務の放棄であると同時に、城全体を覆う欺瞞の証拠だった。

 今回診察した医師は「初めて診た」と言った。それ自体が異常だ。そしてあの診断が全てとは到底思えない。

 何かに気づきながらも隠蔽しているのではないか?

 そんな疑念が浮かび上がる。兄王太子の無為に触れることを、あるいは真実を告げれば自らの立場が危うくなることを恐れたのか。いずれにせよ、あの診断は信用できない。

「もう一度、診てもらう必要があるな」

 確実で、誠実な診察が必要だ。エリオスは自身の統治する地で、信頼のおける専属の医師を探す必要性を悟った。
 
 東の辺境地は資源開発や貿易の最前線だ。怪我や風土病に対応できる腕の立つ医療従事者も何人か居る。他国からの医療知識や薬も豊富に入ってくる。それらでセレイナの健康を取り戻せるといいのだが……と、エリオスは思考を巡らせた。
 
 彼の役目は、己が任された辺境の要地を安定させ、民を守ることであった。そして今新たに、この傷ついた女性を救うことが加わった。

 彼はそっとセレイナの細い手首に触れた。骨ばった感触が、エリオスの指先に冷たく伝わる。

「もう大丈夫だ、セレイナ妃。あなたはここから解放された。我が任地へ行こう。国境の要地は荒々しい風が吹くが、この城よりは遥かに人は正直で温かく、穏やかだ」



 翌朝、夜明け前の薄闇が城を覆う頃、エリオスはセレイナを抱き上げて自室を出た。城内はしんと静まり返り、夜勤の衛兵すら、この秘密の移送を知る由もなかった。

 セレイナの身体は、やはり驚くほどに軽かった。エリオスは彼女の頭をそっと自分の胸に寄せ、彼女の顔が冷たい空気に触れないように、分厚いマントで包み込んだ。

 塔の下、城壁の陰には装飾を排した簡素な馬車が一台、静かに待機していた。周囲には二人の護衛騎士と、準備を整えたオクターブが控えている。

 馬車にセレイナを横たえるため、エリオスは細心の注意を払った。座席には柔らかな毛布と枕が重ねられ、まるで病人のための病床のように整えられていた。彼は自身が旅の間、彼女の傍に寄り添うつもりだった。

「殿下、準備が整いました」

 オクターブの声もまた、夜の静寂を破らぬよう低く抑えられている。

 エリオスは馬車に乗り込み、扉を内側から閉めた。外からは一人の護衛騎士が御者台に上がり、馬車はゆっくりと城の裏門へと向かう。

 門をくぐり石畳の道を外れると、馬車は速やかに速度を上げた。城の背後に広がる森へとその姿はすぐに吸い込まれてゆく。

 エリオスは馬車の揺れがセレイナに負担にならぬよう、彼女の頭を支えながら外の景色を見つめた。城の尖塔が、急速に遠ざかっていく。

 彼の統治する国境の貿易領までは長い旅路となる。彼はその旅の間、セレイナの心と身体に何が起きたのか、そしてどうすれば彼女が回復できるのか、その答えを探さなければならない。

 彼の胸元には、彼女の署名を待つ離縁書類が、静かに納められていた。
 王の裁可が下されたとはいえ、セレイナの救済という重責は、今やエリオスの肩にかかっていた。
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