偽りの愛 ー 真実かどうかなんて、なぜわかるのでしょうか

苺 迷音

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25 辺境の風 -Chapter エリオス

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 馬車の車輪が道の凹凸にぶつかり、音を立てて揺れる。舗装されていない街道をひた走るその振動は、エリオスにとっては慣れたものだったが、彼に抱かれているセレイナにとっては、小さな拷問に等しいように思えた。

 彼は座席に敷き詰めた柔らかな毛布の上にセレイナを横たえ、出発からの数時間、片時も彼女の容態から目を離さなかった。セレイナは極度の衰弱と宮廷医師が処方した睡眠薬の効果で、ほとんど意識を保てていない。彼女の呼吸は浅く、細い。

 セレイナの銀髪から時折香るのは、宮廷の優雅な日々を思わせる微かなスミレの芳香だった。しかしその甘い香りは、彼女の衰弱しきった身体から漂う死の匂いに近いような、絶望を際立たせるものにも思えた。馬車の揺れと共に、自身の胸元辺りに置いたセレイナの髪も小さく靡く。エリオスは彼女の存在を確かめるように、セレイナを支える腕にそっと力を込めた。

 陽が高く昇り切る頃、馬車は小さな村の傍らを通過しようとしていた。

「オクターブ、水と少しの食料を。あとは薬の買い足しが必要だ。最小限の時間で済ませてくれ」

 御者台のオクターブに短く指示を出す。彼は信頼できる男だ。口が堅く、状況の重さを理解している。

 エリオスは、セレイナが横たわる馬車の奥で、彼女の額に冷たい布を当て直した。熱はない。だが極度の栄養失調と心労なのだろう。顔色は悪く、彼女の身体から生気を奪い尽くしていた。

「セレイナ妃……」

 小さく呟くように、エリオスは彼女の名を呼んだ。

 その声が聞こえたのか、セレイナの瞼が微かに震え、ゆっくりと開かれた。焦点の定まらない瞳が、しばらく虚空を見つめた後、漸くエリオスの顔を捉えた。

「……ヴァ……ルター様……」

 酷く掠れた声だった。音になるかどうかの微かな囁きだったが、その一言はハッキリとエリオスの耳に届いた。

 セレイナの囁きを聞き頭を過ぎったのは、つい数日前、自身の任地とは真逆側にあるグレイストン公爵領の和平条約を結ぶための会議で、同席していたヴァルター公爵の顔だった。この極限の状態で、なぜ彼の名を? ヴァルター公と知り合いなのか? それとも、違うヴァルターという人物のことか? あるいは意識が混濁しているため、誰かと混同しているのか?

 その疑問がエリオスの胸に残ったが、今はその詮索をしている時ではない。優先すべきは混乱しきっているセレイナを落ち着かせ、自分が誰であるかを明確に伝えること。

「俺は、エリオス。エリオス・ウィンター。セラフィム王太子の、弟だ」

 彼はあえてゆっくりと、一音一音を区切って答えた。

 その瞬間、セレイナの顔は苦痛に歪んだ。目の奥に明確な恐怖が宿り、身体全体を小刻みに震わせる。彼女は怯えたように、エリオスから遠ざかろうと震える指先で彼の胸を押し返し、弱々しく身を捩った。

「……兄の名を出して、申し訳ない」

 エリオスはすぐに、自身の言葉が彼女にとって恐怖の引き金となったことを察した。彼女の目には兄の権威と王城の欺瞞のすべてが今、自分に迫っていると映っているのだろう。

 エリオスは彼女を抱く腕の力を緩め、彼女が身を遠ざけようとする動きを許容した。

「大丈夫だ、セレイナ妃。落ち着いてくれ」

 そうしつつもエリオスは、声を極限まで穏やかに落とし、優しく諭すように話す。

「俺は誓って貴方の味方だ。この馬車は、貴方を解放するために走っている。城から遠ざかるために」

 彼は彼女の震える手首に、指先を置くように触れた。

「私を信じて欲しい」

 セレイナは目を見開いたまま、エリオスの顔をじっと見つめる。彼がセレイナに対して、何らかの悪意を持っていないことは最低限伝わったのだろう。彼女の震えは少しずつ収まってゆく。

「その証拠に、貴方が希望したものを用意してある」

 エリオスはそう言うと、懐から離縁手続きの書類を取り出し、その内側に一緒に差し込んでいた羽根ペンを抜き取った。離縁書の署名欄には、王太子、王、そして宰相たちの筆跡がある。

「セレイナ妃。これは離縁書だ。ここで署名する必要はない。辺境に着き、体調が完全に回復してからでも遅くはない」

「……大丈夫……です……」

 返事をしたその声は掠れていたが、はっきりとした意志が感じられた。

「今……署名を」

 セレイナは、そのか細い手で書類をそっと受け取った。彼女は小さく震えながらも、書類に書かれてある文字を追うように、目をゆっくりと動かしていた。エリオスは、羽根ペンを彼女の細い指にそっと持たせた。彼女の手の震えは激しく、ペンを握ることさえ困難そうだったが、彼は静かに支えた。

「貴方がここを離れるために必要な、最後の署名になる。焦らなくていい。ゆっくりだ……時間はある」

 小さく頷いたセレイナは、書類を見つめその蒼白い唇を微かに動かした。

「……お役に……立てず……申し訳……ありませんでした……」

 彼女の消え入りそうなほど細いその一言が、エリオスの胸を激しく抉った。彼女は命を落とす寸前まで追い込まれながら、なおも自分を責め『側妃』としての義務を果たせなかったことを悔いている。この女性を追い詰めた王城の残酷さは、もはや言葉に出来ない。

 彼女の指が、ペンの軸の上で震える。エリオスは、その指を支えた。

「終わらせよう。そしてここから、新しい人生が始まるんだ」

 セレイナは、一瞬深く息を吸い込んだ。そしてエリオスに支えられながら、その力を振り絞って署名欄に自身の名を記した。

 その線は弱々しく霞んでいたが、紛れもない彼女の筆跡だった。

 署名が完了した瞬間、セレイナは力を失い羽根ペンが毛布の上に落ちた。彼女の頬を、一筋の涙が静かに伝う。それは悲しみの涙か、解放の涙か、エリオスには判別できなかった。

 エリオスは書類を封筒に入れ懐に納めた。これでセレイナ・エルグレン伯爵令嬢は、王太子セラフィムの側妃としての役目は、正式に終焉を迎えた。

「よく頑張ったな。そして……よく……耐えた」

 エリオスはそう零した。その言葉と同時に、彼女の心に寄り添うようにセレイナの手の甲を指先で撫でた。
 セレイナは安堵したのか、再び意識を深く手放しその場にふらりと横たわった。



 その後の二日間、馬車は東辺境領へと続く厳しい山道を進んだ。エリオスはセレイナの看病に専念した。彼女の口に僅かなスープを流し込み、身体を清めること以外、何も考えられなかった。

 窓の外に視線を向けると、荒涼とした国境沿いの山脈の影が大地を覆い始めていた。王城の静かで冷たい空気は既に遠い記憶のようだ。

 エリオスは、この女性の命を守り、彼女の人生を再建させること。そして、王城の欺瞞から目を背けないこと。その強い使命感を胸に、景色を見つめた。

「この地は、嘘のない場所だ」

 彼は窓の外に広がる荒々しくも雄大な山脈を見つめ、静かに呟いた。

「風は冷たいが、人を裏切らない。ここでならきっと、貴方は立ち直れる」

 エリオスは、セレイナを抱く腕の力を一層強くした。
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