25 / 107
現在
25 辺境の風 -Chapter エリオス
しおりを挟む
馬車の車輪が道の凹凸にぶつかり、音を立てて揺れる。舗装されていない街道をひた走るその振動は、エリオスにとっては慣れたものだったが、彼に抱かれているセレイナにとっては、小さな拷問に等しいように思えた。
彼は座席に敷き詰めた柔らかな毛布の上にセレイナを横たえ、出発からの数時間、片時も彼女の容態から目を離さなかった。セレイナは極度の衰弱と宮廷医師が処方した睡眠薬の効果で、ほとんど意識を保てていない。彼女の呼吸は浅く、細い。
セレイナの銀髪から時折香るのは、宮廷の優雅な日々を思わせる微かなスミレの芳香だった。しかしその甘い香りは、彼女の衰弱しきった身体から漂う死の匂いに近いような、絶望を際立たせるものにも思えた。馬車の揺れと共に、自身の胸元辺りに置いたセレイナの髪も小さく靡く。エリオスは彼女の存在を確かめるように、セレイナを支える腕にそっと力を込めた。
陽が高く昇り切る頃、馬車は小さな村の傍らを通過しようとしていた。
「オクターブ、水と少しの食料を。あとは薬の買い足しが必要だ。最小限の時間で済ませてくれ」
御者台のオクターブに短く指示を出す。彼は信頼できる男だ。口が堅く、状況の重さを理解している。
エリオスは、セレイナが横たわる馬車の奥で、彼女の額に冷たい布を当て直した。熱はない。だが極度の栄養失調と心労なのだろう。顔色は悪く、彼女の身体から生気を奪い尽くしていた。
「セレイナ妃……」
小さく呟くように、エリオスは彼女の名を呼んだ。
その声が聞こえたのか、セレイナの瞼が微かに震え、ゆっくりと開かれた。焦点の定まらない瞳が、しばらく虚空を見つめた後、漸くエリオスの顔を捉えた。
「……ヴァ……ルター様……」
酷く掠れた声だった。音になるかどうかの微かな囁きだったが、その一言はハッキリとエリオスの耳に届いた。
セレイナの囁きを聞き頭を過ぎったのは、つい数日前、自身の任地とは真逆側にあるグレイストン公爵領の和平条約を結ぶための会議で、同席していたヴァルター公爵の顔だった。この極限の状態で、なぜ彼の名を? ヴァルター公と知り合いなのか? それとも、違うヴァルターという人物のことか? あるいは意識が混濁しているため、誰かと混同しているのか?
その疑問がエリオスの胸に残ったが、今はその詮索をしている時ではない。優先すべきは混乱しきっているセレイナを落ち着かせ、自分が誰であるかを明確に伝えること。
「俺は、エリオス。エリオス・ウィンター。セラフィム王太子の、弟だ」
彼はあえてゆっくりと、一音一音を区切って答えた。
その瞬間、セレイナの顔は苦痛に歪んだ。目の奥に明確な恐怖が宿り、身体全体を小刻みに震わせる。彼女は怯えたように、エリオスから遠ざかろうと震える指先で彼の胸を押し返し、弱々しく身を捩った。
「……兄の名を出して、申し訳ない」
エリオスはすぐに、自身の言葉が彼女にとって恐怖の引き金となったことを察した。彼女の目には兄の権威と王城の欺瞞のすべてが今、自分に迫っていると映っているのだろう。
エリオスは彼女を抱く腕の力を緩め、彼女が身を遠ざけようとする動きを許容した。
「大丈夫だ、セレイナ妃。落ち着いてくれ」
そうしつつもエリオスは、声を極限まで穏やかに落とし、優しく諭すように話す。
「俺は誓って貴方の味方だ。この馬車は、貴方を解放するために走っている。城から遠ざかるために」
彼は彼女の震える手首に、指先を置くように触れた。
「私を信じて欲しい」
セレイナは目を見開いたまま、エリオスの顔をじっと見つめる。彼がセレイナに対して、何らかの悪意を持っていないことは最低限伝わったのだろう。彼女の震えは少しずつ収まってゆく。
「その証拠に、貴方が希望したものを用意してある」
エリオスはそう言うと、懐から離縁手続きの書類を取り出し、その内側に一緒に差し込んでいた羽根ペンを抜き取った。離縁書の署名欄には、王太子、王、そして宰相たちの筆跡がある。
「セレイナ妃。これは離縁書だ。ここで署名する必要はない。辺境に着き、体調が完全に回復してからでも遅くはない」
「……大丈夫……です……」
返事をしたその声は掠れていたが、はっきりとした意志が感じられた。
「今……署名を」
セレイナは、そのか細い手で書類をそっと受け取った。彼女は小さく震えながらも、書類に書かれてある文字を追うように、目をゆっくりと動かしていた。エリオスは、羽根ペンを彼女の細い指にそっと持たせた。彼女の手の震えは激しく、ペンを握ることさえ困難そうだったが、彼は静かに支えた。
「貴方がここを離れるために必要な、最後の署名になる。焦らなくていい。ゆっくりだ……時間はある」
小さく頷いたセレイナは、書類を見つめその蒼白い唇を微かに動かした。
「……お役に……立てず……申し訳……ありませんでした……」
彼女の消え入りそうなほど細いその一言が、エリオスの胸を激しく抉った。彼女は命を落とす寸前まで追い込まれながら、なおも自分を責め『側妃』としての義務を果たせなかったことを悔いている。この女性を追い詰めた王城の残酷さは、もはや言葉に出来ない。
彼女の指が、ペンの軸の上で震える。エリオスは、その指を支えた。
「終わらせよう。そしてここから、新しい人生が始まるんだ」
セレイナは、一瞬深く息を吸い込んだ。そしてエリオスに支えられながら、その力を振り絞って署名欄に自身の名を記した。
その線は弱々しく霞んでいたが、紛れもない彼女の筆跡だった。
署名が完了した瞬間、セレイナは力を失い羽根ペンが毛布の上に落ちた。彼女の頬を、一筋の涙が静かに伝う。それは悲しみの涙か、解放の涙か、エリオスには判別できなかった。
エリオスは書類を封筒に入れ懐に納めた。これでセレイナ・エルグレン伯爵令嬢は、王太子セラフィムの側妃としての役目は、正式に終焉を迎えた。
「よく頑張ったな。そして……よく……耐えた」
エリオスはそう零した。その言葉と同時に、彼女の心に寄り添うようにセレイナの手の甲を指先で撫でた。
セレイナは安堵したのか、再び意識を深く手放しその場にふらりと横たわった。
☆
その後の二日間、馬車は東辺境領へと続く厳しい山道を進んだ。エリオスはセレイナの看病に専念した。彼女の口に僅かなスープを流し込み、身体を清めること以外、何も考えられなかった。
窓の外に視線を向けると、荒涼とした国境沿いの山脈の影が大地を覆い始めていた。王城の静かで冷たい空気は既に遠い記憶のようだ。
エリオスは、この女性の命を守り、彼女の人生を再建させること。そして、王城の欺瞞から目を背けないこと。その強い使命感を胸に、景色を見つめた。
「この地は、嘘のない場所だ」
彼は窓の外に広がる荒々しくも雄大な山脈を見つめ、静かに呟いた。
「風は冷たいが、人を裏切らない。ここでならきっと、貴方は立ち直れる」
エリオスは、セレイナを抱く腕の力を一層強くした。
彼は座席に敷き詰めた柔らかな毛布の上にセレイナを横たえ、出発からの数時間、片時も彼女の容態から目を離さなかった。セレイナは極度の衰弱と宮廷医師が処方した睡眠薬の効果で、ほとんど意識を保てていない。彼女の呼吸は浅く、細い。
セレイナの銀髪から時折香るのは、宮廷の優雅な日々を思わせる微かなスミレの芳香だった。しかしその甘い香りは、彼女の衰弱しきった身体から漂う死の匂いに近いような、絶望を際立たせるものにも思えた。馬車の揺れと共に、自身の胸元辺りに置いたセレイナの髪も小さく靡く。エリオスは彼女の存在を確かめるように、セレイナを支える腕にそっと力を込めた。
陽が高く昇り切る頃、馬車は小さな村の傍らを通過しようとしていた。
「オクターブ、水と少しの食料を。あとは薬の買い足しが必要だ。最小限の時間で済ませてくれ」
御者台のオクターブに短く指示を出す。彼は信頼できる男だ。口が堅く、状況の重さを理解している。
エリオスは、セレイナが横たわる馬車の奥で、彼女の額に冷たい布を当て直した。熱はない。だが極度の栄養失調と心労なのだろう。顔色は悪く、彼女の身体から生気を奪い尽くしていた。
「セレイナ妃……」
小さく呟くように、エリオスは彼女の名を呼んだ。
その声が聞こえたのか、セレイナの瞼が微かに震え、ゆっくりと開かれた。焦点の定まらない瞳が、しばらく虚空を見つめた後、漸くエリオスの顔を捉えた。
「……ヴァ……ルター様……」
酷く掠れた声だった。音になるかどうかの微かな囁きだったが、その一言はハッキリとエリオスの耳に届いた。
セレイナの囁きを聞き頭を過ぎったのは、つい数日前、自身の任地とは真逆側にあるグレイストン公爵領の和平条約を結ぶための会議で、同席していたヴァルター公爵の顔だった。この極限の状態で、なぜ彼の名を? ヴァルター公と知り合いなのか? それとも、違うヴァルターという人物のことか? あるいは意識が混濁しているため、誰かと混同しているのか?
その疑問がエリオスの胸に残ったが、今はその詮索をしている時ではない。優先すべきは混乱しきっているセレイナを落ち着かせ、自分が誰であるかを明確に伝えること。
「俺は、エリオス。エリオス・ウィンター。セラフィム王太子の、弟だ」
彼はあえてゆっくりと、一音一音を区切って答えた。
その瞬間、セレイナの顔は苦痛に歪んだ。目の奥に明確な恐怖が宿り、身体全体を小刻みに震わせる。彼女は怯えたように、エリオスから遠ざかろうと震える指先で彼の胸を押し返し、弱々しく身を捩った。
「……兄の名を出して、申し訳ない」
エリオスはすぐに、自身の言葉が彼女にとって恐怖の引き金となったことを察した。彼女の目には兄の権威と王城の欺瞞のすべてが今、自分に迫っていると映っているのだろう。
エリオスは彼女を抱く腕の力を緩め、彼女が身を遠ざけようとする動きを許容した。
「大丈夫だ、セレイナ妃。落ち着いてくれ」
そうしつつもエリオスは、声を極限まで穏やかに落とし、優しく諭すように話す。
「俺は誓って貴方の味方だ。この馬車は、貴方を解放するために走っている。城から遠ざかるために」
彼は彼女の震える手首に、指先を置くように触れた。
「私を信じて欲しい」
セレイナは目を見開いたまま、エリオスの顔をじっと見つめる。彼がセレイナに対して、何らかの悪意を持っていないことは最低限伝わったのだろう。彼女の震えは少しずつ収まってゆく。
「その証拠に、貴方が希望したものを用意してある」
エリオスはそう言うと、懐から離縁手続きの書類を取り出し、その内側に一緒に差し込んでいた羽根ペンを抜き取った。離縁書の署名欄には、王太子、王、そして宰相たちの筆跡がある。
「セレイナ妃。これは離縁書だ。ここで署名する必要はない。辺境に着き、体調が完全に回復してからでも遅くはない」
「……大丈夫……です……」
返事をしたその声は掠れていたが、はっきりとした意志が感じられた。
「今……署名を」
セレイナは、そのか細い手で書類をそっと受け取った。彼女は小さく震えながらも、書類に書かれてある文字を追うように、目をゆっくりと動かしていた。エリオスは、羽根ペンを彼女の細い指にそっと持たせた。彼女の手の震えは激しく、ペンを握ることさえ困難そうだったが、彼は静かに支えた。
「貴方がここを離れるために必要な、最後の署名になる。焦らなくていい。ゆっくりだ……時間はある」
小さく頷いたセレイナは、書類を見つめその蒼白い唇を微かに動かした。
「……お役に……立てず……申し訳……ありませんでした……」
彼女の消え入りそうなほど細いその一言が、エリオスの胸を激しく抉った。彼女は命を落とす寸前まで追い込まれながら、なおも自分を責め『側妃』としての義務を果たせなかったことを悔いている。この女性を追い詰めた王城の残酷さは、もはや言葉に出来ない。
彼女の指が、ペンの軸の上で震える。エリオスは、その指を支えた。
「終わらせよう。そしてここから、新しい人生が始まるんだ」
セレイナは、一瞬深く息を吸い込んだ。そしてエリオスに支えられながら、その力を振り絞って署名欄に自身の名を記した。
その線は弱々しく霞んでいたが、紛れもない彼女の筆跡だった。
署名が完了した瞬間、セレイナは力を失い羽根ペンが毛布の上に落ちた。彼女の頬を、一筋の涙が静かに伝う。それは悲しみの涙か、解放の涙か、エリオスには判別できなかった。
エリオスは書類を封筒に入れ懐に納めた。これでセレイナ・エルグレン伯爵令嬢は、王太子セラフィムの側妃としての役目は、正式に終焉を迎えた。
「よく頑張ったな。そして……よく……耐えた」
エリオスはそう零した。その言葉と同時に、彼女の心に寄り添うようにセレイナの手の甲を指先で撫でた。
セレイナは安堵したのか、再び意識を深く手放しその場にふらりと横たわった。
☆
その後の二日間、馬車は東辺境領へと続く厳しい山道を進んだ。エリオスはセレイナの看病に専念した。彼女の口に僅かなスープを流し込み、身体を清めること以外、何も考えられなかった。
窓の外に視線を向けると、荒涼とした国境沿いの山脈の影が大地を覆い始めていた。王城の静かで冷たい空気は既に遠い記憶のようだ。
エリオスは、この女性の命を守り、彼女の人生を再建させること。そして、王城の欺瞞から目を背けないこと。その強い使命感を胸に、景色を見つめた。
「この地は、嘘のない場所だ」
彼は窓の外に広がる荒々しくも雄大な山脈を見つめ、静かに呟いた。
「風は冷たいが、人を裏切らない。ここでならきっと、貴方は立ち直れる」
エリオスは、セレイナを抱く腕の力を一層強くした。
25
あなたにおすすめの小説
壊れた心はそのままで ~騙したのは貴方?それとも私?~
志波 連
恋愛
バージル王国の公爵令嬢として、優しい両親と兄に慈しまれ美しい淑女に育ったリリア・サザーランドは、貴族女子学園を卒業してすぐに、ジェラルド・パーシモン侯爵令息と結婚した。
政略結婚ではあったものの、二人はお互いを信頼し愛を深めていった。
社交界でも仲睦まじい夫婦として有名だった二人は、マーガレットという娘も授かり、順風満帆な生活を送っていた。
ある日、学生時代の友人と旅行に行った先でリリアは夫が自分でない女性と、夫にそっくりな男の子、そして娘のマーガレットと仲よく食事をしている場面に遭遇する。
ショックを受けて立ち去るリリアと、追いすがるジェラルド。
一緒にいた子供は確かにジェラルドの子供だったが、これには深い事情があるようで……。
リリアの心をなんとか取り戻そうと友人に相談していた時、リリアがバルコニーから転落したという知らせが飛び込んだ。
ジェラルドとマーガレットは、リリアの心を取り戻す決心をする。
そして関係者が頭を寄せ合って、ある破天荒な計画を遂行するのだった。
王家までも巻き込んだその作戦とは……。
他サイトでも掲載中です。
コメントありがとうございます。
タグのコメディに反対意見が多かったので修正しました。
必ず完結させますので、よろしくお願いします。
嘘をありがとう
七辻ゆゆ
恋愛
「まあ、なんて図々しいのでしょう」
おっとりとしていたはずの妻は、辛辣に言った。
「要するにあなた、貴族でいるために政略結婚はする。けれど女とは別れられない、ということですのね?」
妻は言う。女と別れなくてもいい、仕事と嘘をついて会いに行ってもいい。けれど。
「必ず私のところに帰ってきて、子どもをつくり、よい夫、よい父として振る舞いなさい。神に嘘をついたのだから、覚悟を決めて、その嘘を突き通しなさいませ」
【完結】さよならのかわりに
たろ
恋愛
大好きな婚約者に最後のプレゼントを用意した。それは婚約解消すること。
だからわたしは悪女になります。
彼を自由にさせてあげたかった。
彼には愛する人と幸せになって欲しかった。
わたくしのことなど忘れて欲しかった。
だってわたくしはもうすぐ死ぬのだから。
さよならのかわりに……
ため息ひとつ――王宮に散る花びらのように
柴田はつみ
恋愛
「離縁を、お願いしたいのです」
笑顔で、震えずに、エレナはそう言った。
夫は言葉を失った。泣いてくれれば、怒ってくれれば、まだ受け止め方があった。しかしあの静けさは、エレナがもう十分に泣き終わった後の顔だと、ヴィクトルにはわかった。
幼なじみと結ばれた三年間。すれ違いは静かに始まり、深紅のドレスの令嬢によって加速した。ため息を飲み込み、完璧な微笑みを保ち続けた公爵夫人が、最後に選んだのは――。
王宮に散る花びらのような、夫婦の崩壊と再生の物語。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
【3月中――完結!】
積み上がった伏線の回収目前!!
夫にも子どもにも、私は選ばれなかった。
長年の裏切りを抱え、離縁状を置いて家を出た――。
待っていたのは、凍てつく絶望。
けれど同時に、それは残酷な運命の扉が開く瞬間でもあった。
「夫は愛人と生きればいい。
今さら縋られても、裏切ったあなたを許す力など残っていない」
それでも私は誓う――
「子どもたちの心だけは、必ず取り戻す」
歪で、完全な幸福――それとも、破滅。
“石”に翻弄された者たちの、狂おしい物語。
ご安心を、2度とその手を求める事はありません
ポチ
恋愛
大好きな婚約者様。 ‘’愛してる‘’ その言葉私の宝物だった。例え貴方の気持ちが私から離れたとしても。お飾りの妻になるかもしれないとしても・・・
それでも、私は貴方を想っていたい。 独り過ごす刻もそれだけで幸せを感じられた。たった一つの希望
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる