偽りの愛 ー 真実かどうかなんて、なぜわかるのでしょうか

苺 迷音

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26 投与薬と過去の名前 -Chapter エリオス

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 三日目の早朝、馬車は連なる山脈の峠を越えた。

 窓の外に目を向けると、そこには雲海が広がっている。白い層の上に、塔の先端や鐘楼の屋根がぼんやりと浮かんで見えた。街の低い建物はまだ雲の下に沈んでいて、全体の形ははっきりしない。遠くには、霞の向こうに海の光がちらりと差していた。

 それが、エリオスの赴任地。東辺境の貿易街。霧の下に沈む街が、漸く姿を見せ始めていた。

 長い石畳の坂を下りきると、大通りの両脇にプラタナスの街路樹が並び始めた。その並木道は、果てしなく地平線まで続いているかのように見える。黄褐色の葉が風に揺れ、落ち葉は厚く積もって通りを覆っていた。並木は朝靄に包まれ、ガス灯の残光が枝の影を長く引いている。

 この地が任地となってから、何度目かの秋。

 エリオスは、この季節の並木道の風景を好ましく思っていた。横で深く眠っているセレイナにも、健康を取り戻したなら、いつかこの風景を見せてやろう。そんなことを、ふと思った。

 早朝の辺境の貿易街は早い。
 市場を行き交う馬車、商品を並べだす商人たち。その風景の間を、エリオスとセレイナを乗せた馬車は、石畳の上に敷かれた落ち葉の絨毯の上を踏み砕きながら走ってゆく。



 街から少し離れた場所にある、辺境要衝のエリオスの居館は、王都の城とは異なっていた。外観は、無骨で堅固な機能を重視した石造り。だが館内は、無駄な華美さは無く洗練された気品に溢れており、暖炉の火が常に心地よい熱を保っていた。建物自体が、エリオスの人柄を現したようでもあった。

 到着後セレイナはすぐに、エリオスの指示により専属の女性侍医の診察を受けることとなった 。

 城の医師とは異なり、この地の女性医師・ガレーニャは、彼女の状態を入念に調べた。
 触診、聴診、打診、視診。特に問診はセレイナの体力と意識に気を配りつつ、丁寧にひとつひとつ診察を重ねた。

 様々な診察のあと、侍医は一つの結論に達した。

「重度の栄養失調は間違いありません。ですが、それだけではありません。長期にわたる投薬の痕跡が見られます」

 エリオスは、セレイナの診察を一通り終えたガレーニャからの報告を受けていた。

「彼女のあの症状は、タチアオイの植物から抽出されるものを使った避妊薬投与の可能性を示唆しているかと。それも極めて高い密度で調合されたもの。毎日少量ずつ、摂取していたと推測します」

 エリオスの顔色が変わる。

「避妊薬?」

「はい。同じものでも、流通している避妊薬ならば、人体への影響は軽微です。ですが、高密度で摂取致しますと……女性のホルモンバランスを著しく破壊します」

 ガレーニャは医学書を広げた。

「その結果、機能の低下を促してしまいます。身体の衰弱はもちろん、細胞の劣化、表面的には老け込んでいくでしょう。彼女の症状はまさにそれです。過去にも避妊を意識するあまり、過剰に取りすぎた女性たちが、今の彼女のようになった事案がいくつかあります」

「では、彼女が自ら……」

 エリオスの呟きを聞いたガレーニャは、言いかけた言葉を呑み込み、少し間を置いてから口を開いた。侍医の表情が、より真剣なものになる。

「……これは私的な領域を含みますので、その点はご本人の口からお聞きした方が良いでしょう。私が医者として言えるのは、彼女自ら摂取していたとは、まず考えられません」

 ガレーニャは眉を寄せ、言いづらそうにしたが、直ぐに冷静な表情を戻す。

「彼女に避妊薬は必要なかったと思います。つまり……自ら摂取するはずがない」

 その言葉が、エリオスの脳を走った。

「避妊薬が必要でない。それは、妊娠の可能性が無かったと考えていいのか?」

 言葉を選びつつ問いたかったが、それも出来ず直接的な物言いで、エリオスはガレーニャを真っ直ぐに見た。ガレーニャは小さく、だが力強くひとつだけ頷いた。

 侍医はセレイナが純潔だと言うことを診察の中で知ったのだろう。それはセレイナを側妃という形で迎えながらも、肉体関係を持たない妃だったことを意味する。

 白い結婚。

 セレイナは兄・セラフィムと肉体関係を持たずにいた。

 なのに、避妊薬を投与する必要があるその矛盾。それこそがガレーニャの言う「自ら取る必要がない」という推測に基づくことなのだろう。

 それは一つの可能性を示唆していた。

 避妊薬の投与者は、セレイナが何らかの理由で妊娠することを恐れていたのだ。あるいは、セレイナが誰かにとって脅威となる存在だったのだろう。

 これは計画的な陰謀だ。

 エリオスは その確信に拳を握った。

 ガレーニャは黙り込むエリオスに、冷静さを持って事実を話す。

「回復には時間が必要です。栄養をしっかり与え、安全な環境で十分な休息を取れば、二・三ヶ月もあれば相当に回復するでしょう。ですが、最も大切なのは、彼女が安心を感じることです。それと……これは彼女には伝えるべきかどうかの判断をしかねるのですが……」

「他になにかあるのか?」

「避妊薬の影響で、今後彼女が懐妊する可能性が極めて低いと思われます。ここはもう、未来にならなければわからないですが、現時点ではそう言えます」

「そうか……。そのことは彼女には、今は伏せ置いてくれ」

「わかりました」

 城の中で、あってはならない事が起きていた。これは決して軽いことではない。

 エリオスはある決意を胸にしていた。

「オクターブ」

 扉近くで控えていた、側近のオクターブがエリオスの傍に歩み寄る。

「聞いていたな?」

「はい。城を調べますか?」

「頼む」

「御意に」

 それだけ言うと、オクターブは素早く執務室から立ち去った。




 セレイナが辺境の居館に来て、一週間近くが経った。

 彼女はこの日、初めて医師ガレーニャの腕を借りながら自室を出て、庭へ向かった。歩みはゆっくりだが、足元は確かだ。枯れかけていた体力は、少しずつではあるが戻り始めていた。

 庭に出ると冷たい風が吹き抜け、セレイナの銀髪を揺らした。その風には、王城にはなかった素朴な匂いが混じっている。土の匂い、どこかで咲いているのだろう金木犀の香り、洗い立ての干された布から漂う石鹸の匂い。どれも彼女の心を軽くしていった。

 日々、エリオスはセレイナと過ごす時間をなるべく持つようにし、その時間も少しずつではあったが増やしていった。彼らが共に過ごす時間は穏やかだった。朝食、短い散歩、午後の休息、静かな夕食。

 言葉は多くなかったが、沈黙は気まずくなかった。エリオスは問いもしないし、過去を暴こうともしない。
ただ、そばにいた。そうすることで、セレイナはエリオスに対して、徐々に安心感を抱くようになっていった。



 その日は、小春日和の柔らかな陽差しの、麗らかな日だった。

 ガレーニャの助言に従い、セレイナは庭の片隅で土を触っていた。小さな花壇に、じっと目を凝らして種を蒔く。動作はまだぎこちないが、土の冷たさと感触が指先を通して身体の奥にまで届くたび、セレイナは確かに生が戻っていく実感を確かめることが出来た。

 エリオスは庭のベンチに腰掛け、静かにその姿を見守っている。

「セレイナ」

 名を呼ぶ声は、風に紛れるように穏やかだった。彼女はゆっくり顔を上げる。土で汚れた手先を止め、問いを待つ。

「貴方がここへ来る時、馬車の中で何かを呟いていた。そのことを、覚えているか?」

 セレイナの手が一瞬開き、指先から握った土が零れる。その微かな震えを、エリオスは見逃さなかった。

「……何か、言いましたか」

「ああ。ヴァルターという名前だった。それは、ヴァルター公爵のことか?」

 セレイナは答えず視線を土に落とし、土に塗れた指を硬く握りしめた。爪の先が白くなるほど。

 エリオスは急かさず、ただその横顔を見つめる。やがて、決して強い口調ではなく、宥めるようにセレイナに言葉を掛ける。

「貴方が話したくなった時でいい。無理に話す必要はない。ただ……その名前が貴方にとってどんな意味を持つのか。それだけは教えて欲しい」

 セレイナは暫く黙った。そして、目の前の土にたった一粒の種を静かに落とす。指先でそっと覆い、押さえる。過去を埋め、未来の芽ぶきを願う、そんなことをその小さな動作に託すように。

 長い、長い沈黙のあと。

「……彼、ヴァルター公爵は……婚姻の、約束を……して……くれた人でした。過去の話です……」

 その声は途切れ途切れで、聞き取るのがやっとだった。

 彼女の告白を聞いて、エリオスの胸の中にあった疑問の一つが溶けてゆく。
 
 エリオスは、自身の記憶の糸を辿る。確か、ヴァルター公爵も……王命で婚姻した人だったはず。

 それもセラフィムの、一目惚れなどと言う軽い理由で。そこから続く国益と言う流れの中で、王太子に翻弄されたセレイナの苦悩が浮き彫りになってゆく。

 (兄は一体、セレイナをどこまで苦しめたんだ)

 そう思うと同時に、彼女に対して運命の女神は、どれだけ苦悩を与えるのだろうかと思わずにはいれなかった。

 エリオスは息を吸い、言葉を探した。

 そのことについて返すべき言葉はあっても、口にしてはならない言葉もある。

 彼はそのことには触れることはせず、囁くように静かに言った。

「……貴方がいつか、話したいと思う日が来たなら、その時に聞かせてほしい」

 セレイナは何も言わなかった。ただ、小さく首を縦に傾けた。

 その僅かな動きがエリオスの胸に、彼女との小さな約束のように思え、なぜだか温かく沁み込んだ。
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