偽りの愛 ー 真実かどうかなんて、なぜわかるのでしょうか

苺 迷音

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29 イカ缶とキルト 

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 セレイナが辺境に来てから一か月半。二か月には満たない時間が経っていた。
 
 この日は早冬にしては珍しく穏やかな晴れで、街は年末の支度に沸いていた。
 
 石畳の上には薄く雪が積もり、人々の足跡が幾筋も交差している。靴の跡の隙間から、雪解け水が陽光に反射して光っていた。

 広場では荷馬車が行き交い、露店前では子どもたちが店の手伝いをしていたり、雪だるまを作って遊んでいたり。煮込み鍋の香りと焼き菓子の甘い匂いが、風に乗り吹き抜ける。寒気の中にも人々の笑い声と体温が溶け込み、王都の整然とした冷たさとは違う暮らしの音と匂いがあった。

 エリオスは街中を視察がてらセレイナと共に、彼女の体調に合わせてゆっくりと歩いていた。彼女の頬は薄紅を帯び、体調は回復しつつあったが、まだ痩せた輪郭には影が残る。
 
 その後ろをオクターブ、侍医ガレーニャ、侍女が二人控えていた。

 行き交う人々もエリオスやオクターブに気づくと、軽く頭を下げ気軽に声を掛ける。

「殿下! オクターブ卿! 今日はいい天気ですね!」

 そう言い微笑みあう。その飾らない交流の様子だけで、エリオスの統治がこの地の民にとって信頼と安心の証であること、そして王都の貴族社会とは違うということがよくわかった。



 石畳をしばらく歩くと流石に、冬の冷たい空気がセレイナの薄くなった身体に堪え始めた。

「少し、身体が冷えているようです」

 と、ガレーニャがエリオスに耳打ちする。それを受けてエリオスは、セレイナの方を少し伺い、小さな白い息を吐きつつ彼女に問う。

「寒くないか?」

「はい。陽が温かくて、気持ちがいいです」

 そう答えたセレイナが微笑むと、冬の空気が少しだけ柔らかくなるようだった。

 彼女はまだ歩きたいのだろう。と、そう思ったエリオスは、すぐ傍にあるスパイスと柑橘系の香りが漂う屋台を見つけ、足を止めた。温かい湯気と甘い香りが周囲に漂っている。

「無理はないようにな。暖かい飲み物でもどうだ?」
 
 セレイナは微笑んで頷いた。
 
 オクターブが人数分の温かい飲み物を買った。
 麦を煎った香ばしい香りと、果実の甘酸っぱい匂いが鼻をくすぐる。

 彼はエリオスに二つのカップを手渡す。そこからエリオスがセレイナへ。手渡した瞬間、エリオスの指先がわずかに触れた。セレイナの指は、驚くほど冷たかった。

「早く手を温めて」

 言われたセレイナはコクリ頷くと、両手でカップを包む。その仕草がなんだか幼く見えて、エリオスは頬が緩くなった。

「エリオスさまー!」

 明るい声が後ろから飛んだ。
 振り返ると、店番をしていたらしき少年が、エプロンを振りながら駆け寄ってくる。

「そのおねいさん、エリオスさまの恋人なの? 今、友達と賭けてるんだ!」
 
 その問いに、セレイナがカップを持ったまま固まり、エリオスが咳き込みながら言葉を探す。だが、少年はおかまいなしに、悪びれもせず続ける。

「それとも、オクターブさまが、エリオスさまの恋人なのー?」

 エリオスは反射的に、口にしていた温かな果実茶を噴き出した。
 空気が一瞬止まるが、オクターブが素早く懐から出した布でエリオスの顔を拭き、周囲の侍女たちが小さく動揺する。

 少年はまだまだ続ける。

「オクターブさまじゃないの? オクターブさまはいつも『ただならぬ熱い視線』をエリオスさまに向けてるって!」

 エリオスはオクターブからハンカチを取り、自らで濡れた口元を拭いながら、半ば呆然と少年を凝視した。

「そんな言葉、どこで覚えた!?」

「かーちゃんが言ってた!」

 エリオスはオクターブへ鋭い視線を向ける。

「オクターブ……お前、そんな目で俺を見ていたのか?」

「不本意です。断固として、不本意です。私は忠誠心に従い……はぁ……」

 そしてオクターブは少年の方を見て、真剣な声で言った。

「少年。お母様に言っておいてください。その解釈は誠に遺憾であると」

「いか? いかかん?」

「遺憾、です」

「イカ缶! おう! 任せて!」

 無邪気な笑顔で親指を立てる少年に、オクターブは深い深いため息を漏らし、額を押さえた。

 その一部始終を見ていた侍医のガレーニャとセレイナは、思わず声を上げて笑っていた。

 通りに笑いが広がる。気づけば、控えている侍女たちも口元を抑えつつ、肩を震わせていた。その笑いは、雪解けのように軽く、長く、優しかった。
 
 セレイナが、東の塔でエリオスに救い出されてから初めて、こんなにも大きく、心から笑う顔をエリオスは見た。目を見開いたエリオスの顔も、嬉しさに満ちていた。不本意な風評に膨れっ面だったオクターブも、自然と笑みを零した。

 笑いが収まり、セレイナが顔を上げる。彼女の目は、賑わう通りから少し離れた場所、一軒の大きな布地店に向けれらた。そこには、冬支度用の厚手のウールや、色鮮やかな木綿の生地が並べられている。

「あの……少し……我儘を言ってもいいでしょうか」

 それを見たセレイナが、小さな微笑みを残しながら、躊躇いがちにエリオスに尋ねた。

「もちろん」

「キルト生地が欲しいのです。厚手の……柔らかい色のものを」

 ガレーニャが嬉しそうに頷いた。

「それはとてもいいですね、エリオス様? ぜひご購入を」

「必要なだけ買うといい。なんなら店ごとでも構わ――」

「やりすぎです」

 オクターブが即座に制した。

 一行が布地店へと足を向けた。店内の一角に、キルト生地が幾重にも重ねられ、窓から挿す陽の光で淡く輝いている。
 
 セレイナが笑みを浮かべ、布の山に手を伸ばす。指先が反物に触れ、さらさらと布の音がした。

「何を作るつもりだ?」

「今は、秘密です。……冬の夜が、少し優しくなるものを」

 その声に、また自然な笑みが零れた。セレイナの頬にはほんのりと血色が戻っている。

 そうして布を選びながら、セレイナは少し恥ずかしそうに口を開いた。

「お代ですが……私の口座が王都にあります。ただ、今は手続きができません。後日改めてお返しいたしますので、お借りすることは……出来ますでしょうか? もしくは、銀行に……」

 オクターブがすぐに口を挟む。

「どうかご心配なく。セレイナ様のお支払いは全て――」

 エリオスが穏やかにそれを制した。

「続きは俺が。セレイナ、申し訳ない。ちゃんと伝えていなかったな。これは街中でする話でもない。帰りの馬車で説明しよう。今は、好きなものを選ぶといい。金銭のことはここにいる間、一切案ずる必要はない」

☆                  

 夕暮れの馬車の中。
 窓外には、風に舞う白い粉雪がちらちらと流れ、車輪が石畳に積もり始めた雪を柔らかく越えていく。
 
 セレイナは買った布の束を膝に乗せ、指先でその感触を確かめていた。

「兄、セラフィムから賠償がある」

 エリオスが静かに言った。

「王の裁可も下りている。治療費は王家負担、政務での功績に対する報酬も支払われる。……思い出すのも苦いだろうが、側妃として計上されていた経費も精査される。その上で使われていなかった分は、貴方の口座に振り込まれる」

 セレイナは目を伏せた。沈黙の中、彼女の声が僅かに震える。

「私が……受け取って、よいものなのでしょうか?」

「当然だ。義務として支払われるべきものだ。必要なら行員を居館へ呼ぼう。もう一度言うが、金の心配は今後一切しなくていい」

 そして、少し間をおいてエリオスは続けた。

「貴方が将来、何かをしたくなった時のために、口座の金は貯めておくといい」

 その言葉にセレイナは小さく頷き、キルト生地を見下ろしながら、微笑を浮かべる。

「では……まずはこの布を使って、お裁縫をします」

「いい選択だ」

 ガレーニャが銀縁眼鏡をあげつつ、嬉しそうに言葉を添える。

「前向きなことは、どんどんなさるといいですよ。針仕事も心の薬になります」

 オクターブがぼそりと付け足す。

「……イカ缶は薬になりませんが」

「まだ言うのか」

「忘れたくとも、忘れられません。どうして私が……はぁ……」

「それは俺の台詞だ」

 セレイナが堪えきれずに笑い、馬車の中に柔らかな空気が満ちた。
 

 外では木枯らしが枝を鳴らしている。
 
 それでも、彼らのあいだには確かに温もりがあった。

 冬は長い。だが、必ず芽吹きの春はやってくるのだ。
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