偽りの愛 ー 真実かどうかなんて、なぜわかるのでしょうか

苺 迷音

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67 邂逅 ーChapter セレイナ

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 エルグレン伯爵家の朝は、静かに始まる。

 窓の外では小鳥たちの囀りが、朝の訪れを気づかせてくれる。意識が浮かび上がってゆくのと同時にゆっくりと目を開く。

 見慣れた、と言っても、もう二年近くも離れていた部屋だ。

 側妃として王城に上がる前、セレイナはこの部屋で暮らしていた。壁に掛けられた小さな風景画も、窓辺に置かれた花瓶も、あの頃のままだった。母が、ずっとこのままにしておいてくれたのだろう。

 寝台から身を起こし、大きく深呼吸をしてから窓辺へ歩いた。

 カーテンを少しだけ開けると、庭の緑が目に飛び込んでくる。丁寧に剪定されているボックスウッド。幼い頃、セレイナのためにと庭師がトピアリーを作ってくれた。
 大小可愛い動物の形に整えられた木々が、美しく手入れされた薔薇の花壇で遊んでいるようで、大好きだった光景だ。
 そして今でもその名残なのか、トピアリーは丁寧に刈り込まれていた。

 この景色を、どれほど恋しく思っただろう。

 王城での日々、窓の外を眺める気力も湧かなかった。あの頃の自分は、生きているのか死んでいるのかもわからなかった。

 今、こうして実家の窓から庭を眺めている。それだけのことが、奇跡のように思えた。



 扉を控えめに叩く音がして、セレイナは振り返った。

「お嬢様、お目覚めでしょうか」

 侍女の声だった。

「ええ、起きているわ」

 そう返事をすると侍女が二人入ってくる。側妃になる前から、邸に仕えてくれている気心も知れている二人だった。母の気遣いがそこにも滲み出ていた。

「朝食の準備が整いました。ガレーニャ様にもお声がけいたしますが、お部屋でお召し上がりになりますか?」

「そうね、そうしてもらえるかしら?」

「畏まりました」

 そう言うと、一人は部屋を辞した。残った侍女は「朝のお支度をいたしますね」と言い、セレイナの着替えを手伝い、髪を整え始めた。



 暫くすると、侍女がワゴンを押して戻ってきた。焼きたてのパンと瑞々しいスイートオレンジ、それに温かいスープが並んでいる。湯気が立ち上り、香ばしい匂いが部屋に広がった。

 続いて、ガレーニャが姿を見せた。

「セレイナ様、おはようございます。よくお休みになれましたか?」

「ええ、久しぶりにぐっすり眠れたわ。ガレーニャは?」

「私も。客室がとても快適で」

 セレイナとガレーニャが微笑みあう。

「昨夜は遅くまで付き合わせてしまって」

「とんでもない。お母様とのお話、楽しそうでしたから」

 昨夜、母は堰を切ったように話し続けた。セレイナが王城に上がってからのこと、心配していたこと、会いたかったこと。何度もセレイナの手を握りしめていた。

 父は多くを語らなかった。ただ、娘の顔を見つめ、時折目頭を押さえていた。

 二人で小さなテーブルを囲み、朝食を取る。窓から吹き込む風が心地よかった。

「今日は何をなさいますか?」

「お母様と庭を歩こうと思っているの」

「それはいいですね」

 扉が再び叩かれ、今度は母が顔を覗かせた。

「セレイナ、起きていた?」

「お母様。ちょうど朝食をいただいていたところです」

「あら、ガレーニャさんもご一緒なのね。邪魔してごめんなさいね」

「いえ、とんでもございません」

 母が部屋に入ってくる。その顔には、昨夜と同じ柔らかな笑みが浮かんでいた。

「朝食が終わったら、庭を歩かない? 今日はいいお天気よ」

「お母様、私も同じことを考えていました」

「そうなの? それは、嬉しいわ」

 母の顔が、花が咲いたように明るくなった。



 朝食の後、セレイナは母と共に庭へ出た。

 夏の日差しは強いが、木陰に入ると涼しい風が吹き抜けていく。庭の奥には小さな東屋があり、そこで休むこともできる。

 母は自分の日傘を少し傾けてセレイナの肩口を覆い、セレイナもまた腕を寄せて、その陰から外れないよう歩調を合わせた。以前もこうして、二人でよく散歩をした。

「ねえ、セレイナ」

「はい」

「東辺境要地での暮らし、もう少し聞かせてくれる? 昨夜も聞いたけれど、まだまだ足りないの」

「何から話しましょうか」

「お店のこと。どんなものを売っているの?」

「刺繍の品です。ハンカチや、テーブルクロスや、小物入れの袋や……。ガレーニャも手伝ってくれてて。一番人気は、あの『天使の靴下』なんです」

「あら! あの靴下を?」

「はい。裁縫の店をするきっかけにもなったんです。去年の聖夜に、辺境要地の居館に居る皆さんにお礼としてお渡ししたら喜んでくださって」

「そうだったの。なんだか、私まで嬉しいわ」

 母の顔は、満面の笑みで溢れていた。昔は母と娘で作っていた靴下だ。それが今では、より多くの人の手に渡っている。

「あなたは昔から、刺繍がとても上手だったものね。それで、お客様はいらっしゃるの?」

「ええ。港町なので、商人の方が多いの。遠くから来た方が、お土産に買っていってくださったり」

 母は嬉しそうに目を細めた。

「立派ね。自分の力で生きているのね」

「エリオス殿下のおかげです。殿下がいなければ、私は……」

 言葉が詰まった。殿下がいなければ、今頃自分はどうなっていただろう。改めてそう思うと、胸がキュッと詰まる。

 そんなセレイナの手を、母が不意に握りしめた。

「エリオス殿下には、感謝してもしきれないわ。でもね、セレイナ。あなたが生きようとしたから、今があるのよ。あなたが諦めなかったから」

「お母様……」

「あなたは強い子よ。昔から、そうだったもの」

 夏の日差しを遮る日傘の下で、母と娘が寄り添いあって、互いの体温を感じている。夏の蒸したものではなく、ここにお互いが居るという安心感をもたらす熱。それを感じることで、心が軽やかになってゆく。

「お母様。私、ここへ帰ってこれて、本当に嬉しい」

 母が足を止め、日傘を持っていない方の手で、セレイナの頬をそっと包んだ。

「私もよ。あなたとこうしてまた、ここを歩けて本当に本当に幸せだわ」

 母の目が潤んでいた。セレイナも、目頭が熱くなる。けれど、涙は流さなかった。今は、泣くよりも笑っていたい。そう思った。



 二日目の朝、セレイナは父に呼ばれた。

 父の書斎も、昔と変わらない何も変わらず、落ち着いた色で統一されていた。壁にある大きないくつもの書棚には、商売に関する書物が整頓され、ぎっしりと並んでいる。高さ・色・種類別に並べているのは、父の几帳面さの表れのようでもあった。

「座りなさい」

 父に促され、セレイナは椅子に腰を下ろした。父は机の向こう側に座り、娘の顔を見つめていた。

「少し、話がしたくてな」

「はい、お父様」

「エリオス殿下から、話は聞いたし、昨夜も話してくれたが」

「……はい」

「本当はもっと色々あったのだろうが……。今は詳しくは聞かないでおくよ。お前が話したくなったその時に聞く。その時は遠慮せず、話して欲しい」

 父の声は穏やかだった。厳格な父が、問い詰めることなく待ってくれている。

「だが、ひとつだけ確認したことがあってな」

「はい」

「その前に、聞かせて欲しい。お前は今……幸せか?」

 その問いに、セレイナは少し考えた。

 『幸せか』と聞かれて、すぐに答えられるほど単純ではなかった。あの頃の傷は、まだ完全には癒えていない。時折、悪夢を見ることもある。

 けれど。

「今は……穏やかに過ごしております」

 セレイナは静かに答えた。

「辛いことがなかったとは言えません。今も、時々思い出して苦しくなることがあります。でも、支えてくださる方々がいて、自分の居場所があって……。少しずつ、前を向けるようになりました」

 父は黙って聞いていた。

「そうか……」

 その一言に、安堵が滲んでいた。

「お父様」

「なんだ」

「心配をかけて、申し訳ありませんでした」

「いや……よく、堪えてくれた。それと、よく……戻ってきてくれた」

 父の声が、少しだけ低くなった。

「王家からの打診だったとはいえ、お前を王家へ嫁がせ、辛い思いをさせてしまった」

「お父様……」

「それでだな」

 そこで父は、話を留め、じっとセレイナを見た。それから何かを決めたかのように、言葉を継ぐ。

「今、聞くべきことではないのかもしれんが……大事なことだから、答えられるのであれば確認させてほしい」

 父の目は、真っ直ぐにセレイナを見つめたまま。

「今後、どこかへ嫁ぎたいという意思はあるか?」

 セレイナは父の言葉に少し驚いたが、すぐに首を横に振った。

「いいえ。今は、自分の力でしっかり立ちたいのです」

「わかった」

 父は頷いた。その顔には、娘の答えを尊重するような表情が浮かんでいた。

「ならば、約束してくれ」

「はい」

「もし、経営などで行き詰まったり、どうしようもない時には、迷わずここへ帰って来てくれ。お前の居場所は、いつでもここにある。それだけは、忘れないで欲しい」

「はい。約束します、お父様」

 セレイナの声が震えた。父は小さく頷き、それから少し表情を和らげた。

「そうだ、シリルのことだが」

「お兄様?」

「お前と会いたがっていたよ。今は商談で隣国へ行っていて、少し先になってしまうがこちらへ戻ってくる」

「お兄様が……」

 兄のシリルは、セレイナより四つ年上だ。商才に長け、若くして父の片腕として働いている。幼い頃から、セレイナのことを可愛がってくれていた。

「お兄様にも、心配をかけてしまいましたね」

「あいつも、お前のことをずっと案じていた。どうにか側妃のところまでいこうと、いろいろ策を練っていたのだがな」

「そう、だったのですね」

「ただ、身内だったからな。王家との癒着と思われてしまっては、信用問題になってしまう。それもあり、なかなかお前の元へまでいけなかった。だが、無理をしてでも……いや、終わった話はやめよう」

「いえ、お父様やお兄様が気にかけてくださってたこと。それを今知れて、凄く嬉しいです。それだけでもあの時の日々が、救われました」

 セレイナは微笑んだ。父も、その笑顔を見て、目を細めて微笑んだ。

「また、シリルも含めて、家族の皆で会おう」
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