偽りの愛 ー 真実かどうかなんて、なぜわかるのでしょうか

苺 迷音

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74 追伸 ーChapter ミレーユ

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 昨晩のことが、ミレーユの頭から離れなかった。

 ナーサリーを訪れたヴァルターは、どこか様子がおかしかった。顔色が優れず、何かに怯えているようにも見えた。懐に手を入れかけて、止めた仕草。あれは何だったのだろうか。

 そして、すれ違った時に気づいた、あのパウダリーな仄かな甘さを含む花の香り。

 ヴァルターは基本的に、生真面目で実直な男だ。妻に悟られないよう、娼館から戻る前には必ず身なりを整え、香りも消していたのだろうことは、察して余りある。

 倫理的なことはさておき、それが彼なりのミレーユに対する、当然の配慮だったのだろうと思う。

 なのに、昨晩はそれが壊れていた。

 間違いなく、何かがあったのだ。



 翌朝の朝食の席では、既にヴァルターは普段通りだった。穏やかに微笑み、アレクセイの様子を尋ね、今日の予定を話す。

 完璧な夫であり、完璧な父の姿。いつもと何も変わらない。

 けれど、どこかが、違う。

 笑顔の奥に、何かを隠している。目が時折、虚ろになる。言葉を言い終えた後、小さくだが息を漏らす。たとえるのなら、心ここにあらず。それを体現しているようだった。

 気のせいだと思いたかった。だが数年であっても、夫婦として連れ添った妻の目を誤魔化すことはできない。

「今日の予定は?」

 ヴァルターが尋ねた。ミレーユも、いつもそうするように微笑んで答える。

「少し早いけれど、そろそろ秋冬に向けての準備をしたいの。アレクセイの服もありますし、午後からクチュール店へ行ってくるわね」

 その言葉に、ヴァルターの手が僅かに止まった。

「仕立て屋なら、ここへ呼べばいいだろう?」

 ミレーユは首を傾げた。

「寄付の確認をしたい場所もあるの。足を向けた方が早いわ。どうしたの? なにかあるの?」

 ヴァルターは少し間を置いてから、視線を逸らした。

「いや……わかった。気をつけて行ってくるといい」

 なぜ、一瞬止めようとしたのか。ミレーユは、その疑問を胸の奥底へと押し込めた。



 午後になり、馬車でクチュール店へ向かったミレーユは、店主に案内され、上質な布地を並べてもらっていた。

 アレクセイの秋冬の衣類。成長を見越して、少し大きめのものを仕立てるつもりだった。
 
 我が子と過ごす初めての年の瀬。家族で迎える聖夜と新年。その時の衣装は、格式と気品、何よりも公爵家の嫡男として恥ずかしくないようにしなければならない。今時期から準備しても、早くはないはずだ。

 そう思うと、ヴァルターの不審な動きに思考を割くことも、多少は薄れてゆく。愛する息子のことを考えると、少なからず気持ちが上向いた。

「こちらの深緑なども、お坊ちゃまによくお似合いになるかと」

「そうね。これと、この紺色も見せてちょうだい」

 店主が奥へ布地を取りに行っている間、後ろの長椅子で待つご婦人たちの会話が、耳に入ってきた。

「そういえば先日、エリオス殿下をお見掛けしましたの」

「まあ、本当?」

「ええ。相変わらず麗しくていらして。それでね、一緒に歩いていた女性がいらしたの。エルグレン伯の所のご令嬢だったと思うわ」

「エルグレン伯のご令嬢? ああ、うちの息子がやいのやいの言っていた……セレイナ嬢だったかしら? 銀髪のご令嬢よね?」

「そうそう、彼女だったと思うわ。もしかして、エリオス殿下もやっとご伴侶を娶られるのかしら」

「うちの旦那が言うには、そのエルグレン伯のご令嬢、王太子殿下の側妃だという噂よ? お相手は彼女ではないんじゃない?」

「そうなの? でも……それこそ無いのでは? 今の王太子妃殿下とは、大恋愛でご一緒になられたという話を聞いたわ。なのに、側妃はないでしょ」

「そうよねぇ」

 ミレーユの指先が、布地の上で止まった。

 銀髪、エルグレン伯のご令嬢、エリオス殿下と一緒に。

 昨晩からの出来事が、ミレーユの頭の中で繋がっていく。

 ヴァルターの動揺。配慮の崩れ。街へ行くのを止めようとした、あの反応。
 
 間違いない。

 セレイナが、王都にいる。
 
 ヴァルターはセレイナが王都に来ていることを知っていた。だから動揺していたのか。今朝も、ミレーユが街であの女と鉢合わせることを恐れていたのか。

 全てがピタリと嵌まってゆく。

「奥様、こちらの布地でございます」

 店主の自分を呼ぶ声に、ハッとして思考を戻したミレーユは、その顔に完璧な笑顔を貼り付けた。

「ありがとう。この紺色をいただくわ」

 彼女のその声は、微塵も揺れはなかった。



 その日の晩餐で。ミレーユはいつも通り、ヴァルターの向かいに座った。料理が運ばれ、穏やかな会話が交わされる。アレクセイの今日の様子や領地からの報告。何でもない、日常の話題。

 そして、デザートが運ばれてきた頃。

 ミレーユは何気ない口調で、切り出した。

「そういえば今日、クチュール店でお名前を聞いたのよ」

「ほう?」

「昔に一度、布市場でお会いしたことがあったでしょう? エルグレン伯爵のところのご令嬢」

 ヴァルターの手が、一瞬止まった。

「セレイナ嬢、だったかしら?」

 ミレーユは微笑みを崩さないまま、続けた。

「彼女、エリオス殿下とご一緒してたんですって。エリオス殿下もやっと伴侶を娶られるのかしらとご婦人方は話していたわ。彼女、お美しい人でしたもの。きっとお似合いでしょうね」

 本来なら、夫に言うべきことではなかった。ヴァルターとセレイナの過去を、ミレーユは知っている。だが、そのことも、側妃になったことも、さらには既に離縁していることも、知らないフリをしなければならない。ヴァルターは、ミレーユが何も知らないと思っているのだから。

 それでも、あえて口にした。何かがおかしいと察しているからこそ、それを確認するための、最低限の問いかけだった。

 その話を聞きながら、ヴァルターはじっとミレーユを見ていた。

 その顔からは、蝋人形のように表情がごっそりと削げ落ちている。

「ヴァルター?」

 ミレーユが呼びかけても、返事がない。

「どうしたの? ヴァルター?」

 ようやく、ヴァルターが口を開いた。

「……いや、何でもない。少し、疲れているようだ」

 そう小さく答えるヴァルター。彼の反応で、ミレーユは確信した。

 やはり、夫のおかしな言動は『本物』のセレイナのせいだ。

 あの銀髪の娼婦が枯れるのも時間の問題だと思っていた。そうすれば、ヴァルターもあの女の幻影を追うのをやめると。

 なのに、本物が現れた。

 (小賢しい……)

 そうミレーユは思いつつ、食後の茶を口に含んだ。



 晩餐を終え、自室へ戻ったミレーユは、すぐに書斎へ向かった。

 リージェリアには、必要以上の接触は避けている。頻繁なやり取りは不自然だし、余計な疑いを招きかねない。

 それでも、今、文を書かなければならなかった。

 ミレーユは羽根ペンを手に取り、流麗な文字を綴り始めた。

 季節の挨拶。アレクセイの成長。慈善事業への謝辞。何でもない、ありふれた社交辞令の言葉を並べていく。

 そして最後に、追伸を添えた。

『追伸
 今年の夏は、ことのほか蒸すわ。
 あなたもご公務等々でお忙しいと思うけれども、くれぐれも体調だけには気をつけてね。必ずよ』

 誰が読んでも、ただの気遣い。

 けれど、リージェリアならわかるはず。

 『警戒せよ』と。

 ミレーユは便箋を丁寧に折りたたみ、封蝋で封をした。

 大丈夫。何が起きても、冷静に対処すればいい。

 ミレーユはもう一度、自分に這いよる騒めきをかき消すように、そう、言い聞かせた。
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