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75 沈黙の果て ーChapter ヴァルター
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晩餐を終え、自室へは戻らず執務室へと足を向けたヴァルターは、その扉には鍵を掛け、椅子に深く腰を下ろしたまま動けなかった。
頭の中が、鉛でも入っているかのように、重い。
『セレイナ』と、その名前が妻の唇から紡がれた瞬間、全身の血が凍りついた。
『エルグレン伯爵のところのご令嬢。セレイナ嬢、だったかしら?』
何気ない口調だった。社交辞令のような、当たり障りのない言葉。
だが、ヴァルターにはその何でもないような言い様が、逆に恐ろしく思えた。
(なぜ今、その名を口にした?)
ヴァルターは、執務机の引き出しの鍵を開け、そこから瓶を取り出した。窓から差し込む月明かりに透かす。赤鈍色の中の液体が、鈍く光っているように見えた。
銀髪の娼婦。ヴァルターがセレイナと呼び、後ろ姿を愛でている女。
あの娼婦の存在を、ミレーユは知っている。
自分が事あるごとに娼館へ通い、セレイナの名を呼びながら偽物を抱いていたことを。
かつて、側妃だったセレイナにそうしたように、その娼婦に薬を盛ったのではないか?
考えたくはない思いが次々と頭に浮かんでは、繋がってゆく。
あの日、宮廷の回廊で見かけたセレイナの姿が脳裏に甦る。老婆のように変わり果てた彼女。
あれをしたのが、自分の妻だとしたら。
ミレーユは、セレイナが今どこにいるのかも、なぜエリオス殿下といるのかも知っているのではないか?
全て承知の上で、あえてその名前を出した。
なぜ。
答えは一つしかない。ヴァルターの反応をみたのだ。
そして。
妻は、
ミレーユは……
またやるつもりだ。
ヴァルターは思わず頭を抱え、きつく目を閉じる。
(どうすればいい? どうすればいいんだ!)
ミレーユは、自分の周りにいる女を排除する。娼婦にそうしたように。そしてその根源であるセレイナが、今、妻の視界に入った。
確実に狙われる。
今度こそ、セレイナは命を失うのではないか?
だが。
まだ何も起きていない。自分の杞憂かもしれない。
そう、ミレーユはまだ表向き、何もしていないのだ。関与しているかもしれないという疑惑だけで、妻を告発することなどできない。
けれど、待っていたら手遅れになる。
セラフィム王太子とエリオス殿下は、既にミレーユへの疑惑を持っている。リージェリア王太子妃とミレーユの関与も示唆された。
もしミレーユが動けば、芋づる式に今度こそ発覚しかねない。
そうなれば、公爵家は終わる。
アレクセイはどうなる?
生後三か月の、何も知らない息子。罪人の母を持つ子として、汚名と共に生きることになる。
だが、今、自分が動けば。
ミレーユが何かをする前に、自分から証拠を差し出せば。
『父が母の罪を告発した』という形なら、アレクセイだけは守れるかもしれない。
ヴァルターは瓶を机の上に置き、天井に目を向けたまま、長い間動かなかった。
窓の外で、夜が白み始める頃、ひとつの決心と覚悟をその胸に落とした。
☆
早朝。一晩中そこで過ごしていたヴァルターは、そのまま書斎に籠もり、羽根ペンを手に取った。
誰にこの瓶を渡すべきか。
セラフィム王太子殿下か。エリオス殿下か。
エリオス殿下は今、セレイナの傍にいる。あの日、街で見た二人の姿。肩を並べ、笑い合っていた。
本来ならば、自分が立つはずだった場所に、彼が立っている。
セレイナの今の幸せを、あの男の口から聞かされることには耐えられない。
ならば、セラフィム殿下か。
だが彼も、セレイナをあのような目に遭わせた男だ。顧みることもなく、老婆のような姿になるまで放置した男。
許せるはずがない。
そして、彼に渡すということは、自分自身の過去も再び抉ることになる。
だが、セラフィム殿下もまた、リージェリア王太子妃と言う妻に疑惑を抱えている。ミレーユと結託して、セレイナに毒を盛らせた女性かもしれない。
愛した女が加害者かもしれないという地獄。
その苦しみを分かるのは、そう、セラフィム殿下しかいない。
同じ地獄にいる者同士だからこそ、この証拠を渡す意味がある。
そして、同じ苦しみを知る者だからこそ、頼める。
アレクセイのことを。
ヴァルターは便箋に、ゆっくりと文字を綴り始めた。
『セラフィム王太子殿下
突然の書簡にて失礼致しますこと、どうぞお許しください。
殿下に直接お伝えしなければならないことがございます。
お恥ずかしい事柄な上に、個人的なことではあるのですが、一刻を争う重大な事儀につき、ご相談したき儀がございます。
畏れ多いのは重々承知ではございますが、人の目の少ない場にてお時間を頂戴できませんでしょうか。
何卒、ご高配を賜りますよう、伏してお願い申し上げます。
ヴァルター・グレイストン』
ヴァルターは羽根ペンを横に置き、認めた文面をゆっくりと持ち上げた。
これを出せば、もう後戻りはできない。公爵家の名誉も、妻との日々も、全てが崩れ去るかもしれない。
それでも。
万が一にも、ミレーユが関与していない可能性だって残されているのだ。
今ここで自分が動かなければ、どちらにしろ後悔する未来しかないのは、十二分に理解していた。
彼は静かに立ち上がると、扉に手をかけゆっくりと押し開いた。
そこから出て歩みだす一歩は、地獄の入り口のように思えた。
頭の中が、鉛でも入っているかのように、重い。
『セレイナ』と、その名前が妻の唇から紡がれた瞬間、全身の血が凍りついた。
『エルグレン伯爵のところのご令嬢。セレイナ嬢、だったかしら?』
何気ない口調だった。社交辞令のような、当たり障りのない言葉。
だが、ヴァルターにはその何でもないような言い様が、逆に恐ろしく思えた。
(なぜ今、その名を口にした?)
ヴァルターは、執務机の引き出しの鍵を開け、そこから瓶を取り出した。窓から差し込む月明かりに透かす。赤鈍色の中の液体が、鈍く光っているように見えた。
銀髪の娼婦。ヴァルターがセレイナと呼び、後ろ姿を愛でている女。
あの娼婦の存在を、ミレーユは知っている。
自分が事あるごとに娼館へ通い、セレイナの名を呼びながら偽物を抱いていたことを。
かつて、側妃だったセレイナにそうしたように、その娼婦に薬を盛ったのではないか?
考えたくはない思いが次々と頭に浮かんでは、繋がってゆく。
あの日、宮廷の回廊で見かけたセレイナの姿が脳裏に甦る。老婆のように変わり果てた彼女。
あれをしたのが、自分の妻だとしたら。
ミレーユは、セレイナが今どこにいるのかも、なぜエリオス殿下といるのかも知っているのではないか?
全て承知の上で、あえてその名前を出した。
なぜ。
答えは一つしかない。ヴァルターの反応をみたのだ。
そして。
妻は、
ミレーユは……
またやるつもりだ。
ヴァルターは思わず頭を抱え、きつく目を閉じる。
(どうすればいい? どうすればいいんだ!)
ミレーユは、自分の周りにいる女を排除する。娼婦にそうしたように。そしてその根源であるセレイナが、今、妻の視界に入った。
確実に狙われる。
今度こそ、セレイナは命を失うのではないか?
だが。
まだ何も起きていない。自分の杞憂かもしれない。
そう、ミレーユはまだ表向き、何もしていないのだ。関与しているかもしれないという疑惑だけで、妻を告発することなどできない。
けれど、待っていたら手遅れになる。
セラフィム王太子とエリオス殿下は、既にミレーユへの疑惑を持っている。リージェリア王太子妃とミレーユの関与も示唆された。
もしミレーユが動けば、芋づる式に今度こそ発覚しかねない。
そうなれば、公爵家は終わる。
アレクセイはどうなる?
生後三か月の、何も知らない息子。罪人の母を持つ子として、汚名と共に生きることになる。
だが、今、自分が動けば。
ミレーユが何かをする前に、自分から証拠を差し出せば。
『父が母の罪を告発した』という形なら、アレクセイだけは守れるかもしれない。
ヴァルターは瓶を机の上に置き、天井に目を向けたまま、長い間動かなかった。
窓の外で、夜が白み始める頃、ひとつの決心と覚悟をその胸に落とした。
☆
早朝。一晩中そこで過ごしていたヴァルターは、そのまま書斎に籠もり、羽根ペンを手に取った。
誰にこの瓶を渡すべきか。
セラフィム王太子殿下か。エリオス殿下か。
エリオス殿下は今、セレイナの傍にいる。あの日、街で見た二人の姿。肩を並べ、笑い合っていた。
本来ならば、自分が立つはずだった場所に、彼が立っている。
セレイナの今の幸せを、あの男の口から聞かされることには耐えられない。
ならば、セラフィム殿下か。
だが彼も、セレイナをあのような目に遭わせた男だ。顧みることもなく、老婆のような姿になるまで放置した男。
許せるはずがない。
そして、彼に渡すということは、自分自身の過去も再び抉ることになる。
だが、セラフィム殿下もまた、リージェリア王太子妃と言う妻に疑惑を抱えている。ミレーユと結託して、セレイナに毒を盛らせた女性かもしれない。
愛した女が加害者かもしれないという地獄。
その苦しみを分かるのは、そう、セラフィム殿下しかいない。
同じ地獄にいる者同士だからこそ、この証拠を渡す意味がある。
そして、同じ苦しみを知る者だからこそ、頼める。
アレクセイのことを。
ヴァルターは便箋に、ゆっくりと文字を綴り始めた。
『セラフィム王太子殿下
突然の書簡にて失礼致しますこと、どうぞお許しください。
殿下に直接お伝えしなければならないことがございます。
お恥ずかしい事柄な上に、個人的なことではあるのですが、一刻を争う重大な事儀につき、ご相談したき儀がございます。
畏れ多いのは重々承知ではございますが、人の目の少ない場にてお時間を頂戴できませんでしょうか。
何卒、ご高配を賜りますよう、伏してお願い申し上げます。
ヴァルター・グレイストン』
ヴァルターは羽根ペンを横に置き、認めた文面をゆっくりと持ち上げた。
これを出せば、もう後戻りはできない。公爵家の名誉も、妻との日々も、全てが崩れ去るかもしれない。
それでも。
万が一にも、ミレーユが関与していない可能性だって残されているのだ。
今ここで自分が動かなければ、どちらにしろ後悔する未来しかないのは、十二分に理解していた。
彼は静かに立ち上がると、扉に手をかけゆっくりと押し開いた。
そこから出て歩みだす一歩は、地獄の入り口のように思えた。
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