103 / 107
現在
103 帰還 ーChapter エリオス
しおりを挟む
鉱山の街を発った同日。夕刻過ぎに公爵邸の門が見えてきた。
門番がエリオスの姿を認め、慌てて門を開ける。一人が屋敷へ向かって駆け出していった。主人にエリオス達の帰還を知らせに行ったのだろう。
正面玄関へ到着し、エリオスは馬の背から滑り落ちるように、地に足を着けた。
三日三晩、ほぼ不眠不休で駆け抜けたのだ。さすがに身体の疲労は隠しきれなかった。それに続くオクターブとシリルの足取りもまた、泥に足を取られているかのように覚束ない。
彼らが越えてきたのは、整えられた街道ではない。地図にもない森を抜け、獣道さえ途絶えた路ならぬ道を駆けて着た。三人のブーツには、その凄まじい行程を物語るように、重く湿った泥が幾層にもこびりついていた。
「失礼いたします」
音もなく歩み寄った玄関番が、その場に深く跪いた。
ブーツの上で動かされるスクレーパーの、乾いた土塊を削り落とす音だけが、静まり返った門前に響く。丹念なブラシがけによって、ようやく革の地肌が覗いたそのとき、扉が内側から開かれた。
そこに立っていたのは、ヴァルターだった。
しかし、その顔に浮かんでいたのは、決して主君の帰還を喜ぶ色ではない。幽鬼のような蒼白さが、その表情を凍りつかせている。
「エリオス殿下……お戻りに」
喉の奥がひきつったような、乾いた声だった。それきりヴァルターは、次の言葉が出てこないのか、唇を閉じたまま、その場に立ち尽くす。エリオスを見るその目は、瞬きもせずに、じっと真っ直ぐ向けられているのに、生気がない。
「証人を確保した。ミネルバ・アルサ。王太子妃の元官女だった女だ」
エリオスは手短に、ヴァルターへ告げた。
「身柄を拘束し、幽閉してくれ。証人として王宮へ送る。詳しいことは後で話す」
ヴァルターは、表情を変えず、ひとつだけ頷いた。
「……見つけられたのですね」
その声には、何かを諦めるような、それでいて安堵するような響きがあった。だが、顔色は蒼いままだ。
ミレーユの罪が確定することへの覚悟か。エリオスは一瞬そう思ったが、その考えを直ぐに打ち消す。
それだけではない。ヴァルターの硬く青い表情と声は、もっと別の違う何かを孕んでいる。
「何があった」
エリオスの問いかけに、ヴァルターの喉が動いた。言葉を探すように、一度口を開き、閉じる。そして下唇を噛みしめたあと、覚悟を決めたかのように話し出した。
「二日ほど前に、王宮から早馬が参りました」
「早馬? なぜだ」
「セレイナ……。いえ、セレイナ嬢が」
そこで、ヴァルターの声が途切れた。
気づいた時には、エリオスの右手がヴァルターの胸倉を真っ向から掴んでいた。
「殿下っ!」
オクターブが慌てて駆け寄り、エリオスの腕を引き離そうとする。だが、次にヴァルターの口から出た言葉が、全ての動きを凍り付かせた。
「セレイナ嬢が襲撃されました。何かの薬品を掛けられ、顔に大きな火傷を負って重傷だと……」
エリオスの手が、だらりと力なく落ちる。
音が消えていた。周囲の喧騒も、風の音も、何も。シリルが立ち尽くしている。オクターブも、伸ばした手をそのままに、動きを止めていた。
エリオスの顔に、急速に血が昇っていく。地を這うような声が、喉の奥から絞り出された。
「セレイナの元へ行く」
それだけ言うと、ヴァルターに向き直った。
「ミネルバのことは頼む。迅速に王宮へ送れ」
「承知いたしました」
ヴァルターが深く頭を垂れた。その姿を見届けることもなく、エリオスは踵を返した。
「馬を貸せ。急ぎたい」
ヴァルターが頷き、使用人に指示を出す。すぐに三頭の馬が引かれてきた。エリオス、オクターブ、シリルが跨る。
手綱を握り、エリオスは馬を走らせた。
☆
馬を急がせた。休憩はほぼ取らず、夜通し駆け続けた。
伯爵邸に門戸を潜ったのは、空が白みきった朝だった。
朝靄なのか、通り雨でもあったのか。濡れた土の匂いが鼻を突く。
玄関の扉が開き、エルグレン伯爵が姿を現した。その顔には深い疲労が刻まれ、目の下には濃い隈ができている。だが、馬から降りたシリルの姿を認めた途端、その目に光が灯った。
「シリル……よく戻った」
「父上。戻りました。それより、話は聞きました。セレイナは?」
シリルが伯爵に詰め寄る。
伯爵は息子の肩に手を置き、その感触を確かめるように、何度も何度も頷いていた。
「まずは挨拶を……」
伯爵は焦燥しきった顔で、エリオスの方へ向き直ると膝を折ろうとした。
「エリオス殿下。あれほど警告をいただいておりましたのに、セレイナが襲われました。このような結果になり……申し訳ございません」
エリオスは手を上げ、短くそれを制した。
「今はそんなことはいい。それで、セレイナの容態は」
「今のところ安定しております。ガレーニャ先生が、ずっと付き添ってくださっています。王太子殿下のご配慮で、宮廷医が一名残り、先生と共に治療に当たってくださって」
「セレイナに会えるか?」
エリオスの問いかけに、伯爵の表情が瞬時に曇った。
「それは……」
伯爵の視線が、床へ落ちる。
「セレイナ自身が、誰にも会いたくないと、そう申しております。ガレーニャ先生も、感染症の恐れがあるため、最小限の者の出入りに絞られて」
伯爵の言葉は最後まで聞かず、エリオスは伯爵邸の中へ歩を進めた。伯爵が背後で何か言っているが、その声は耳に入らない。そこに偶々居た使用人の女性に、セレイナの部屋まで案内するように、命じる。
使用人は、エリオスの放つ殺気のような怒りに怯え、縋るように伯爵を見たが、王子の命令に背けるはずもなかった。
「こ、こちらです」
震える声でそれだけ言うと、彼女はエリオスを先導し、廊下を足早に進む。
セレイナの部屋の前に着くやいなや、エリオスはそのままの勢いで扉を叩いた。
門番がエリオスの姿を認め、慌てて門を開ける。一人が屋敷へ向かって駆け出していった。主人にエリオス達の帰還を知らせに行ったのだろう。
正面玄関へ到着し、エリオスは馬の背から滑り落ちるように、地に足を着けた。
三日三晩、ほぼ不眠不休で駆け抜けたのだ。さすがに身体の疲労は隠しきれなかった。それに続くオクターブとシリルの足取りもまた、泥に足を取られているかのように覚束ない。
彼らが越えてきたのは、整えられた街道ではない。地図にもない森を抜け、獣道さえ途絶えた路ならぬ道を駆けて着た。三人のブーツには、その凄まじい行程を物語るように、重く湿った泥が幾層にもこびりついていた。
「失礼いたします」
音もなく歩み寄った玄関番が、その場に深く跪いた。
ブーツの上で動かされるスクレーパーの、乾いた土塊を削り落とす音だけが、静まり返った門前に響く。丹念なブラシがけによって、ようやく革の地肌が覗いたそのとき、扉が内側から開かれた。
そこに立っていたのは、ヴァルターだった。
しかし、その顔に浮かんでいたのは、決して主君の帰還を喜ぶ色ではない。幽鬼のような蒼白さが、その表情を凍りつかせている。
「エリオス殿下……お戻りに」
喉の奥がひきつったような、乾いた声だった。それきりヴァルターは、次の言葉が出てこないのか、唇を閉じたまま、その場に立ち尽くす。エリオスを見るその目は、瞬きもせずに、じっと真っ直ぐ向けられているのに、生気がない。
「証人を確保した。ミネルバ・アルサ。王太子妃の元官女だった女だ」
エリオスは手短に、ヴァルターへ告げた。
「身柄を拘束し、幽閉してくれ。証人として王宮へ送る。詳しいことは後で話す」
ヴァルターは、表情を変えず、ひとつだけ頷いた。
「……見つけられたのですね」
その声には、何かを諦めるような、それでいて安堵するような響きがあった。だが、顔色は蒼いままだ。
ミレーユの罪が確定することへの覚悟か。エリオスは一瞬そう思ったが、その考えを直ぐに打ち消す。
それだけではない。ヴァルターの硬く青い表情と声は、もっと別の違う何かを孕んでいる。
「何があった」
エリオスの問いかけに、ヴァルターの喉が動いた。言葉を探すように、一度口を開き、閉じる。そして下唇を噛みしめたあと、覚悟を決めたかのように話し出した。
「二日ほど前に、王宮から早馬が参りました」
「早馬? なぜだ」
「セレイナ……。いえ、セレイナ嬢が」
そこで、ヴァルターの声が途切れた。
気づいた時には、エリオスの右手がヴァルターの胸倉を真っ向から掴んでいた。
「殿下っ!」
オクターブが慌てて駆け寄り、エリオスの腕を引き離そうとする。だが、次にヴァルターの口から出た言葉が、全ての動きを凍り付かせた。
「セレイナ嬢が襲撃されました。何かの薬品を掛けられ、顔に大きな火傷を負って重傷だと……」
エリオスの手が、だらりと力なく落ちる。
音が消えていた。周囲の喧騒も、風の音も、何も。シリルが立ち尽くしている。オクターブも、伸ばした手をそのままに、動きを止めていた。
エリオスの顔に、急速に血が昇っていく。地を這うような声が、喉の奥から絞り出された。
「セレイナの元へ行く」
それだけ言うと、ヴァルターに向き直った。
「ミネルバのことは頼む。迅速に王宮へ送れ」
「承知いたしました」
ヴァルターが深く頭を垂れた。その姿を見届けることもなく、エリオスは踵を返した。
「馬を貸せ。急ぎたい」
ヴァルターが頷き、使用人に指示を出す。すぐに三頭の馬が引かれてきた。エリオス、オクターブ、シリルが跨る。
手綱を握り、エリオスは馬を走らせた。
☆
馬を急がせた。休憩はほぼ取らず、夜通し駆け続けた。
伯爵邸に門戸を潜ったのは、空が白みきった朝だった。
朝靄なのか、通り雨でもあったのか。濡れた土の匂いが鼻を突く。
玄関の扉が開き、エルグレン伯爵が姿を現した。その顔には深い疲労が刻まれ、目の下には濃い隈ができている。だが、馬から降りたシリルの姿を認めた途端、その目に光が灯った。
「シリル……よく戻った」
「父上。戻りました。それより、話は聞きました。セレイナは?」
シリルが伯爵に詰め寄る。
伯爵は息子の肩に手を置き、その感触を確かめるように、何度も何度も頷いていた。
「まずは挨拶を……」
伯爵は焦燥しきった顔で、エリオスの方へ向き直ると膝を折ろうとした。
「エリオス殿下。あれほど警告をいただいておりましたのに、セレイナが襲われました。このような結果になり……申し訳ございません」
エリオスは手を上げ、短くそれを制した。
「今はそんなことはいい。それで、セレイナの容態は」
「今のところ安定しております。ガレーニャ先生が、ずっと付き添ってくださっています。王太子殿下のご配慮で、宮廷医が一名残り、先生と共に治療に当たってくださって」
「セレイナに会えるか?」
エリオスの問いかけに、伯爵の表情が瞬時に曇った。
「それは……」
伯爵の視線が、床へ落ちる。
「セレイナ自身が、誰にも会いたくないと、そう申しております。ガレーニャ先生も、感染症の恐れがあるため、最小限の者の出入りに絞られて」
伯爵の言葉は最後まで聞かず、エリオスは伯爵邸の中へ歩を進めた。伯爵が背後で何か言っているが、その声は耳に入らない。そこに偶々居た使用人の女性に、セレイナの部屋まで案内するように、命じる。
使用人は、エリオスの放つ殺気のような怒りに怯え、縋るように伯爵を見たが、王子の命令に背けるはずもなかった。
「こ、こちらです」
震える声でそれだけ言うと、彼女はエリオスを先導し、廊下を足早に進む。
セレイナの部屋の前に着くやいなや、エリオスはそのままの勢いで扉を叩いた。
13
あなたにおすすめの小説
壊れた心はそのままで ~騙したのは貴方?それとも私?~
志波 連
恋愛
バージル王国の公爵令嬢として、優しい両親と兄に慈しまれ美しい淑女に育ったリリア・サザーランドは、貴族女子学園を卒業してすぐに、ジェラルド・パーシモン侯爵令息と結婚した。
政略結婚ではあったものの、二人はお互いを信頼し愛を深めていった。
社交界でも仲睦まじい夫婦として有名だった二人は、マーガレットという娘も授かり、順風満帆な生活を送っていた。
ある日、学生時代の友人と旅行に行った先でリリアは夫が自分でない女性と、夫にそっくりな男の子、そして娘のマーガレットと仲よく食事をしている場面に遭遇する。
ショックを受けて立ち去るリリアと、追いすがるジェラルド。
一緒にいた子供は確かにジェラルドの子供だったが、これには深い事情があるようで……。
リリアの心をなんとか取り戻そうと友人に相談していた時、リリアがバルコニーから転落したという知らせが飛び込んだ。
ジェラルドとマーガレットは、リリアの心を取り戻す決心をする。
そして関係者が頭を寄せ合って、ある破天荒な計画を遂行するのだった。
王家までも巻き込んだその作戦とは……。
他サイトでも掲載中です。
コメントありがとうございます。
タグのコメディに反対意見が多かったので修正しました。
必ず完結させますので、よろしくお願いします。
嘘をありがとう
七辻ゆゆ
恋愛
「まあ、なんて図々しいのでしょう」
おっとりとしていたはずの妻は、辛辣に言った。
「要するにあなた、貴族でいるために政略結婚はする。けれど女とは別れられない、ということですのね?」
妻は言う。女と別れなくてもいい、仕事と嘘をついて会いに行ってもいい。けれど。
「必ず私のところに帰ってきて、子どもをつくり、よい夫、よい父として振る舞いなさい。神に嘘をついたのだから、覚悟を決めて、その嘘を突き通しなさいませ」
【完結】さよならのかわりに
たろ
恋愛
大好きな婚約者に最後のプレゼントを用意した。それは婚約解消すること。
だからわたしは悪女になります。
彼を自由にさせてあげたかった。
彼には愛する人と幸せになって欲しかった。
わたくしのことなど忘れて欲しかった。
だってわたくしはもうすぐ死ぬのだから。
さよならのかわりに……
ため息ひとつ――王宮に散る花びらのように
柴田はつみ
恋愛
「離縁を、お願いしたいのです」
笑顔で、震えずに、エレナはそう言った。
夫は言葉を失った。泣いてくれれば、怒ってくれれば、まだ受け止め方があった。しかしあの静けさは、エレナがもう十分に泣き終わった後の顔だと、ヴィクトルにはわかった。
幼なじみと結ばれた三年間。すれ違いは静かに始まり、深紅のドレスの令嬢によって加速した。ため息を飲み込み、完璧な微笑みを保ち続けた公爵夫人が、最後に選んだのは――。
王宮に散る花びらのような、夫婦の崩壊と再生の物語。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
【3月中――完結!】
積み上がった伏線の回収目前!!
夫にも子どもにも、私は選ばれなかった。
長年の裏切りを抱え、離縁状を置いて家を出た――。
待っていたのは、凍てつく絶望。
けれど同時に、それは残酷な運命の扉が開く瞬間でもあった。
「夫は愛人と生きればいい。
今さら縋られても、裏切ったあなたを許す力など残っていない」
それでも私は誓う――
「子どもたちの心だけは、必ず取り戻す」
歪で、完全な幸福――それとも、破滅。
“石”に翻弄された者たちの、狂おしい物語。
ご安心を、2度とその手を求める事はありません
ポチ
恋愛
大好きな婚約者様。 ‘’愛してる‘’ その言葉私の宝物だった。例え貴方の気持ちが私から離れたとしても。お飾りの妻になるかもしれないとしても・・・
それでも、私は貴方を想っていたい。 独り過ごす刻もそれだけで幸せを感じられた。たった一つの希望
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる