偽りの愛 ー 真実かどうかなんて、なぜわかるのでしょうか

苺 迷音

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104 抱擁 ーChapter エリオス

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 返事を待たず、セレイナの部屋の扉を開けたエリオスは、そのまま一歩中へ入る。

 部屋の中は薄暗かった。

 火傷の痣を残さないための、紫外線対策なのだろう、窓には厚いカーテンが引かれ、外からの直射日光を遮断している。薄闇の中に、薬草の匂いが漂っている。

「殿下っ、お待ちください!」

 エリオスの姿を認めたガレーニャが、薬の調合をしていた机の椅子から立ち上がり、慌てたように駆け寄り前に出た。両手を広げ、進路を塞ごうとする。

「セレイナ様は今、どなたともお会いになりたくないと」

「どけ」

 怒りではない。ただ、有無を言わせぬ威圧を含む声。

 ガレーニャの顔が強張ったが、彼女も一歩も退かない。

「殿下、お気持ちはわかります。ですが今のセレイナ様には」

「いいから、そこを通せ」

 エリオスの目がガレーニャを射抜いた。その視線に、ガレーニャの身体が僅かに揺らぐ。暫くの間、無言でにらみ合いが続いた。

 やがてガレーニャはゆっくりと身体を横へずらした。
 諦念と言うより、何かをエリオスに託す。そんな目でエリオスを見つめながら。

 もう一枚、奥の扉を開けると、ベッドで身を起こしていたセレイナの顔が、エリオスの方へ向いた。
 右半分が、白い包帯で覆われている。

「……っ!」

 セレイナの目が大きく見開かれた。慌てて顔を背け、両手で足を覆う薄いブランケットを引き寄せようとする。

「見ないでっ!」

 その声は、悲痛にも、悲鳴に近い声だった。今までセレイナの口から、聞いたことのない声。

「いや……出て行って! 出て行ってください!」

 エリオスは足を止めなかった。一歩、また一歩、ベッドへ近づいていく。

「お願い……お願いだから……」

 セレイナの声がどんどん弱々しく、祈るように変わってゆく。ブランケットで顔を隠そうとしているが、その手が小刻みに揺れている。

 エリオスはベッドの傍らに立ち、静かに微笑んだ。

 そして腕を伸ばし、セレイナを抱きしめた。

「いやっ……見ないで……」

 セレイナがその腕の中から離れようと、大きく足掻く。だが、エリオスは腕の力を一切、緩めなかった。

「会いたかった。セレイナ」

 包帯の巻かれていない、彼女の左側の耳元で、エリオスは小さく呟く。

「見ないで。殿下、見ないで……お願い」

 その言葉に、エリオスは答えなかった。

 代わりに、顔を傾けた。そして、頬の包帯の上に、そっと唇を落とした。

「いけませんっ!」

 部屋の隅から、ガレーニャの声が飛び、こちらへ駆け寄ろうとしている。

「感染症の――」

 ガレーニャの言葉を遮り、エリオスはセレイナから身体を少し離し、

「愛しい人にそうすることを止める権利まで、医者にはないだろう?」

 俯くセレイナの顔を見つめたまま、振り返らずに言う。その言葉に、ガレーニャの足が止まった。

「……そうですね。失礼いたしました」

 少しの沈黙の後、ガレーニャの小さな声が返ってきた。
 彼女は彼女なりに、エリオスが敢えてそうすることの意図を汲み取ったのだろう。

 セレイナの身体は、まだ強張っている。顔を背けたまま、こちらを見ようとしない。

 もう一度セレイナの身体を包んだエリオスは、首元の包帯に軽く唇を触れさせた。本当に触れるだけの、微かな口づけだった。

「セレイナはセレイナだ」

 耳元で、静かに告げる。エリオスの腕の中で、セレイナの指先の力が徐々に抜けていき、強張りも少しずつ解けていくのが分かった。

「ここに居てくれる、それだけでいい。セレイナ、貴方の存在そのものが、俺の全てだ」

 セレイナの身体から、ゆっくりと力が抜けていく。

「会いたかった。セレイナ」

 エリオスはもう一度、同じ言葉を繰り返し、今度はきつく身体を抱きしめた。

 セレイナは何も答えなかった。ただ、エリオスの胸に顔を埋め、静かに泣いていた。



 腕の中で重くなったセレイナを、エリオスはベッドに横たえた。泣き疲れたのか、目を閉じている。
 薬の影響もあるのだろう。彼女は深い眠りについていた。

 セレイナの身体の上にブランケットを掛けると、

「セレイナ。また会いに来る。それまでゆっくり眠るように」

 そう彼女の耳元で囁き、エリオスは部屋を出た。

 廊下に出て、扉が閉まったその瞬間。エリオスは足を止め、今の今まで崩さなかった笑顔を捨て、初めて悲痛に顔を歪ませた。壁に手をつき、俯いたまま動かない。エリオスの肩が、僅かばかり上下に震えていた。

 廊下でシリルと共に待機していたオクターブが、一歩踏み出しかけて、やめた。

 やがてエリオスは顔を上げると、深く息をつき、背筋を伸ばす。その顔からは、先ほどの感情が消えていた。何事もなかったかのように、再び扉を開けて部屋へ戻る。

 そこに居たガレーニャは、調合し終えた薬を片付けていた手を止め、開いた扉の方を見る。そこに戻り立つエリオスに、今度はどうかしたのかと言うような顔を向けた。

「必要なものはあるか」

 エリオスがガレーニャに向けた、唐突な問い。

「殿下」

「なんでもいい。地の果てだろうが、どこへでも行って取って来る。奪えるものなら奪って来る」

 ガレーニャは眼鏡を押し上げ、少し考え込んだ。視線が宙を彷徨い、何かを思い出そうとしているようだった。

「……東辺境要地でしたら、東の国から沈香と紫紺が手に入るかと思います。この二つがあれば、傷の治癒が随分と早まります。痣の心配も軽減されるかと」

 東の国。つい先日まで、その国境沿いにいたというのに。皮肉なものだ、とエリオスは思った。

「必ず用意する。最上級のものを」

「はい。ありがとうございます」

 ガレーニャが頭を下げた。

 エリオスはオクターブの方へ顔を向けた。

「今の件、手配を頼む。東辺境要地へ伝書を。沈香と紫紺、最上級のものを至急取り寄せろと」

「御意」

 オクターブが深く頷いた。

 その時、窓際の椅子で微睡んでいた伯爵夫人が、ふと目を開けた。部屋の入口に立つ人影に気づき、ぼんやりとした目がゆっくりと焦点を結んでいく。

 廊下で待機していたシリルの姿を認めた瞬間、夫人の顔が崩れた。

「シリル……!」

 椅子から転げ落ちるようにして立ち上がり、シリルの元へ駆け寄った。そのまま息子の胸に飛び込み、両腕を背中に回してしがみつく。声を殺して泣きながら、シリルの背中を撫でている。本当にここにいるのだと、確認するように。

「よかった……戻ってくれたのね」

 シリルは黙って母を受け止めていた。夫人の肩に片手を置き、もう片方の手で背中をさすっている。

「はい。先ほど戻りました。長い間、留守にして申し訳ありませんでした」

 伯爵夫人の顔に、抜け落ちていた表情が戻った。
 セレイナが襲撃されてから、ずっと失われていた生気がその顔に宿った。

「セレイナが、セレイナが」

 シリルに訴えるように、娘の名前をただ、ただ連呼する夫人に、シリルは諭すように言う。

「ええ、聞きました。でも大丈夫です。殿下方が必ずお力になってくれるでしょう」

 その言葉でやっと、夫人はエリオスの存在を目に映した。

 エリオスは夫人の目を見ながら大きく頷いた。
 夫人はそれに対して、安堵したかのように、息子の腕の中でエリオスに向けて、深く首を垂れた。



 伯爵邸の玄関前、庇の下から一歩踏み出すと、晩夏の日差しがじりっと肌を焼く。真夏ほどの勢いはないが、それでも容赦なく照りつけてくる。午後近くの陽は高く、足元に落ちる影は短い。時折吹くぬるい風だけが、僅かに涼しさを増していた。

 用意された馬の傍らで、エリオスは一度だけ振り返る。見送りに立った伯爵の顔には、相変わらず深い疲労が刻まれていたが、その瞳には先ほどよりも微かな力が宿っている。息子が無事に戻ったという安堵が、強張っていた表情をわずかに緩ませているようだった。

「また、こちらに立ち寄らせてくれ」

 エリオスの声は、どこまでも静かだった。感情を削ぎ落としたような、起伏のない響き。

「もちろんでございます。いつでもお越しください」

 伯爵は深々と頭を下げた。背中が丸まり、その姿は数日前よりも小さく見えた。

 その頭が上がるのを待たず、エリオスは馬に跨り手綱を取る。同じように、オクターブも続く。

 馬を走らせる蹄の音が石畳に響き、伯爵邸の門を抜けた。

 街道を駆ける馬の上で、エリオスはただ一点、前方だけを見据えていた。

 許さない、決して。
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