偽りの愛 ー 真実かどうかなんて、なぜわかるのでしょうか

苺 迷音

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105 決断 ーChapter エリオス

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 王宮に戻り、エリオスが身だしなみを整え終えるその頃には、日が傾き回廊を橙色に染め上げていた。

 靴音を響かせ、背後にオクターブを従え回廊を進むエリオスの歩調は速い。
 すれ違う文官や侍従たちが視線を泳がせ、そっと身を引いた。エリオスの纏う怒気に、理由を問う勇気を持つ者はいなかった。
 
 セラフィムの執務室の前に立ち、扉を荒く叩く。

「入れ」

 返ってきたのは、力なく辛うじて届く、そんな声だった。

 執務室の中から、チャリオットが静かに扉を開けた。
 部屋に入ったエリオスの目に映ったセラフィムは、執務椅子に座っていた。だが、執務机に目をやると、そこにある羽根ペンの先は乾ききり、横に置かれている。インク壺の蓋も開けられたままだ。長い時間執務に手を付けず、ただ思考を停止させていたことは一目瞭然だった。
 
 セラフィムは、机の上で手を組み、そこに額を付け微動だにしない。

「セラフィム。兄上」

「エリオスか」

 エリオスの声に、セラフィムが顔をやっと上げた。その表情は、笑顔を作ろうとしているのか、それとも何かを言おうとしているのか、口角が歪になっている。

「エリオス。……セレイナのことは、聞いたか?」

「先ほど、会ってきた」

 エリオスは執務机の前まで歩み寄り、懐から二本の瓶を取り出した。赤茶色の鈍い光を放つガラス瓶。机の上に並べて置く。

「避妊薬か。二本?」

「そうだ。一本は、ヴァルター経由で手に入れたもの。そしてこっちは、新たにミネルバから直接受け取った」

「ミネルバ……そうか、見つけたのか」

「ああ。確保した」

 エリオスは執務机の前にある、ゆったりとした革張りの椅子へ腰を下ろした。オクターブとチャリオットは扉の傍に控えたまま。

「お前の妃付きだった他の三人は、既に消されていた」

「……消された?」

「口封じだろうな。ミネルバだけが、辛うじて逃げ延びていた。東の方へ行こうとしていたらしい」

 セラフィムの顔から、更に血の気が引いていく。机に両手を着いたまま、再び俯いた。

「セラフィム、」

「……わかっている。俺のせいだ。全て、俺が蒔いた種だ」

「お前のせいではないだろ」

「いや、俺のせいだ」

 セラフィムが顔を上げた。その目には、深い後悔と苦悩がある。

「側妃を持った。リージェリアの反対を押し切って。それが全ての始まりだ。いや……婚約解消したのが、そもそも正しかったのだろうか。俺は、何を選択してきたのか……」

 エリオスは何も言わなかった。否定することはできない。だが、責めるつもりもなかった。

「セレイナを、救いたい」

 それまでの空気を換えるようにエリオスは、静かに、だが強い意志を込めて言った。

「何をしてでも。彼女の輝きを取り戻す。そのために、俺は動く」

 セラフィムは、黙って頷く。

「そこは、同じ思いだ。本来ならば彼女は今頃、正しくあるべき人生を、歩んでいたはずだ。それを歪めたのは、誰でもない……俺だ」

「なら、まず動き出さなきゃ意味ないだろ?」

 エリオスは机の上の瓶を、顎で示した。

「その二本の成分が一致すれば、同一の毒だと証明できる。照合はガレーニャに頼む。急ぐ必要はない。証人がいる」

「ミネルバか」

「ああ。護送はヴァルター公に託してある。明日か明後日には、こちらへ到着するだろう。その時に直接、尋問するとしよう」

 セラフィムは瓶を見つめたまま、低く呟いた。

「ミネルバは、何と言っていた? 多少は聞き取りをしたのだろう?」

「リージェリア妃からの、直接の指示はなかったとは言っていた」

「……では、証拠にはならないのか」

「いや」

 エリオスは、小さく数度だけ首を横に振る。

「彼女はこう言った。リージェリア妃は直接的な指示はしない。だが、それを汲み取るべきだと理解していた。だからこそ官女として傍に仕えることが出来たのだと」

 セラフィムは目を閉じた。

 その場に居た誰も口を開かず、ただ沈黙の時間が流れてゆく。
 その間を縫うように、セラフィムが一言、言葉を落とした。

「……両陛下に、話さなければならない」

「ああ」

「四人で、話し合おう」



 夜になり、王宮の奥。王族専用の居住場所、そこの居間に四人が集まった。
 
 父王セリオルドと母后エリザベルナ。そしてセラフィムとエリオス。

 燭台の灯りと壁につけられているいくつものランプ灯が、部屋を明るく照らしている。だが、彼らの表情は硬く、重い。

 エリオスが、これまでの経緯を説明した。セレイナへの毒、ミネルバの証言、他の官女たちが口封じで消されたこと。

 父王セリオルドは黙って聞いていた。時折、深い皺が刻まれた眉間に手を当てながら。

 母后エリザベルナは、繊細なレース編みを縁に施された白いハンカチを手に、静かに目を伏せ聞いていた。

 全てを聞き終えた後、父王が口を開く。

「リージェリアは、認めると思うか」

「いいえ」

 セラフィムが答えた。

「彼女はしらを切るでしょう。直接の指示はしていないと。汲み取ったのは官女たちの勝手だと、そう言うでしょう。実際、そうなのだと思います」

「証拠は」

「この毒の瓶は、証拠になり得る」

 エリオスが言葉を継ぎ、それに対して父王は深く息を吐いた。

「厄介だな」

「はい」

 セラフィムの力ない返事に、エリザベルナがゆっくりと瞼を開けた。

「リージェリアは狡猾な娘ね。聡明でありながらも、人心掌握は見事なものだわ。あの子は、セラフィムの言う通り認めないでしょうね。けれど、自身に仕えていた侍女たちの、口を封じようとした。それが彼女の凡ミスよ」

 三人の視線がエリザベルナに集まった。

「やましいことがなければ、なぜ口封じなどする必要があるのです? ただ国外追放されただけの元侍女たちを、わざわざ消す理由がどこにありますか」

「しかし母上、リージェリアはこうも言うでしょう。自分が与していない間の、隣国で起きたことだと。自分は何も指示していないと」

「ええ、言うでしょうね」

 彼女はそこで言葉を一旦切り、手元で握り締めていたハンカチをテーブルの上に置いた。

「けれどもう、彼女の言葉を誰も信じません。セラフィム。あなた自身も、既に信じきれないのでしょう?」

 セラフィムは押し黙ったまま、答えなかった。それこそが、肯定の意でもある。

「問題は、どう処罰を与えるかだ。隣国の王女だ。迂闊なことはできん」

 横から響いた父王の声は、硬い。五十歳手前の彼は、衰えなど一切感じさせない威厳を保っている。

「はい」

 セラフィムがゆっくりと、身体を父王へと向ける。その表情に滲む、迷いのない覚悟が見て取れた。

「父上。一つ、提案があります」

 セリオルドが、眉を顰めながらも、真っ直ぐにセラフィムに向き合う。

「王太子位を、返上させてください」

 セラフィムが放ったその言葉に、間違いなく、部屋の温度が数度下がった。

 エリザベルナが、お気に入りの器に入れられた茶を飲もうとした手が止まる。エリオスは、何かを言おうとしてそのまま口が動かなくなった。
 セリオルドだけが、じっとセラフィムをそのまま見つめ続けていた。

「元はといえば、私が蒔いた種です。側妃を持ったこと。リージェリアの心を追い詰めたこと。侍女たちの横領を見過ごしたこと。全て、私の責任です」

「セラフィム」

「私が王太子位を返上すれば、ナルヴァへの体裁も立ちます。リージェリアを処罰するのではなく、私が責任を取る形になる」

 セリオルドは何も言わなかった。ただ、息子の顔をじっと見つめている。

「リージェリアとは離縁します。表向きは、彼女を巻き込まないための離縁。側妃を死の直前まで追いやった責任、侍女たちの横領を見過ごした責任。それを私が負う」

「……国内向けには、どう説明する」

「健康上の理由で、一時王太子位を返上すると。しばらくは空席にしていただきたい」

 セリオルドは何も言わず、椅子の背凭れに身体を預け、顔を天井に向けたまま瞼を閉じた。

 エリオスは再び口を開こうとしたが、やはり言葉を出せなかった。兄の覚悟に、軽々しく口を挟むことを、今はすべきではないと判断したのだ。

 長い静寂の後。やがて、父王がゆっくりと目を開けた。

「……王太子の位は、しばらく空席とする。立太子もしばらくは、無しだ。それが隣国への体裁にもなろう」

「父上」

「だが、今ここで決めることではない。リージェリアがどう出るか。それを見てからだ」

 セラフィムは深く、深く首を垂れた。
 ランプ灯に照らされた金の髪が、サラサラと同じように垂れている。

「ありがとうございます」

「お前が選んだ道だ。まだ時間はある。……難儀なもんだな。王というものも」

 セリオルドはそう嘆息すると、息子二人を見て、不意に笑みを零した。
 ほんの一瞬、見せた父の顔。

 だがそれもすぐに消え、顔はまた厳しいものとなる。

「もしリージェリアが白を切るなら、この方法を採る。だが、もし認めるなら……」

「認めないでしょう」

 エリザベルナが静かに言った。

「あの娘は、最後まで認めないわ、きっとね。認めなくても、王太子妃としての責務を果たさなかった。それだけで本来なら処罰対象だわ。その知性を……違う方向に力を発揮できたはずなのに。勿体ないことよ。そしてわたくしの責でもある」

「母上……」

 セラフィムが零す言葉に、エリザベルナは眉を下げ、力なく微笑んだ。

 エリオスは黙って聞いていた。

 王太子位が空席になれば、次の候補は自分だ。
 それはわかっている。

 エリオスは、来るべき未来に目を伏せた。それを考えるのは今ではない。

 まず、セレイナを救い、そして。
 本丸であるミレーユを追い詰める。

 それが、今やるべきことだ。
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