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夜が明け、朝の光の中を走り続けていた夜行列車『極光号』が長い汽笛を鳴らし、速度を落とし始める。ブレーキの摩擦音が、悲鳴のように荒野に響き渡る。窓から射し込む光の色が変わっていた。都市の煤けた灰色ではない。目を刺すような、乾いた白だ。
列車が完全に停止すると、レンとアリアはホームへと降り立った。
瞬間、肌を刺すような乾燥した風が吹き付けた。唇が瞬く間に乾いていく。アリアはフードを押さえながら、その風の匂いを嗅いだ。
「……違う」
彼女は小さく首を振った。
「やっぱり違うわ、レン。この風には、潮の香りがしない。ただの乾いた砂の匂いよ」
「記憶と現実のズレか。……だが、座標はあそこを示している。とりあえずは行ってみるしかないな」
レンはホームの端、風化したレンガ造りの小屋を指差した。地平線の彼方まで続く白茶けた大地。この広大さを考えれば、徒歩での到達は不可能だ。
小屋の看板には、塗装の剥げた文字で『砂漠横断獣・貸出所』とある。
その前には、数頭の駱駝が繋がれていた。
彼らの目には砂塵除けの分厚い革製ゴーグルが装着され、背中の鞍には水袋と真鍮製のボンベが括り付けられている。この過酷な『灰の砂丘』仕様に調整された駄獣たちだ。
レンは小屋の主人だろう人物、日焼けして干物のような肌をした老人に銀貨を数枚握らせ、手綱を受け取った。
「二頭だ。水は満タンにしてくれ」
「愛想のない客だねえ。……ほらよ」
老人は壁に掛かっていた人間用のゴーグルを二つ、無造作に放ってきた。
真鍮のフレームに、分厚い革のベルト。レンズは強い日差しと塩の反射を遮るため、濃いアンバー色に燻されている。
「ここの砂は塩だ。素通しの目で歩けば、半刻で雪目になって失明するぞ。悪いことは言わん、きっちり締めときな」
レンは一つを受け取り、自分の首に掛けた。普段使い慣れた作業用ルーペとは違う、無骨で重たい感触。もう一つをアリアに渡す。彼女は少し戸惑いながらもフードの下に、そのゴーグルを装着した。
美しい碧眼が、飴色のガラスの奥に隠される。
華奢な顔立ちと、無骨な機械的装備のアンバランスさが、かえって彼女の退廃的な美しさを際立たせていた。
「……似合う、かしら?」
「悪くない。砂漠の旅人に見える」
レンも自身のゴーグルを目元に引き下ろし、ベルトをきつく締めた。視界がセピア色に染まる。白い死の世界が、少しだけ現実味を帯びた色に変わった。
二人のやり取りを見ていた老人は、忠告と言わんばかりに付け加えた。
「もうひとつ。口元も布かなんかで覆っておきな。口ん中が無駄に乾くぞ。砂漠では当然のことだがな」
言われたレンとアリアはコクリと頷きあい、お互いの荷物の中から適当な布を取り出し、口元を覆った。
レンはアリアを小柄な方の一頭に乗せ、自分も手綱を握った。
ラクダが低い声で鳴き、ゆっくりと立ち上がる。視線が高くなると、地平線の彼方に揺らぐ白い稜線がいっそう鮮明に見えた。
「行くぞ。半日の行程だ」
レンが合図を送ると、ラクダたちは大きく首を振り、乾燥した大地へと足を踏み出した。ザリ、ザリ、という蹄の音が、二頭分重なって響く。
☆
その世界には、色というものが欠落していた。
灰の砂丘、アッシュデューン。通称、死の砂漠と呼ばれる場所。かつて内海だった場所が干上がり、数十年かけて風化した成れの果て。見渡す限りの白と灰色のグラデーションが続き、空は高く、雲ひとつない快晴だというのに、太陽の光は塩の結晶に乱反射して、視界全体をぼんやりとした白濁に染め上げていた。
二人は無言で進んだ。肉体的な疲労以上に彼らを蝕んでいたのは、この土地が放つ圧倒的な死の気配だった。鳥の声もしない。虫の羽音もしない。風が塩の柱を削る、ヒョーヒョーという乾いた音だけが鼓膜を震わせる。
「……レン」
不意にアリアが手綱を引き、掠れた声で名を呼んだ。
「どうした。水か?」
「ううん。……見て」
彼女が指先で指し示したのは、足元の塩砂地だった。風に削られた塩砂の層から、長細い何かが突き出している。レンはラクダを降り、グローブについた砂を払いながら、その物体を観察した。
それは、巨大な肋骨のように湾曲した、錆びた鉄の柱だった。表面にはフジツボのような化石がいくつか張り付き、赤茶けた錆が砂に滲み出している。
「……船のキールだ」
レンが短く告げると、アリアは小さく息を呑んだ。
「船……やっぱり、ここは海だったのね」
「ああ。それもかなりの大型船だ。軍艦か、あるいは遠洋航海用の貨客船ってところか。……こんなど真ん中で朽ち果てているなんてな」
レンは立ち上がり、視線を上げた。
蜃気楼のように揺らぐ地平線の先に、巨大な影が見え始めていた。座標の中心点。三百十五ページの穴が指し示した場所。
「行こう。あそこに答えがあるはずだ」
二人は再び駱駝を動かす。近づくにつれ、その影の正体が露わになっていく。
それは、塩の海に乗り上げ、半ば砂に埋もれるようにして傾いた、巨大な蒸気船の残骸だった。折れたマストが墓標のように天を突き刺し、錆びついた外板は風化して穴だらけになっている。かつて海を支配した鉄の巨獣が、今はただの巨大な鉄屑として、静寂の中に横たわっていた。
アリアの足取りが、ふらりと乱れた。
「……知ってる」
彼女の碧い瞳が、焦点の合わない虚空を見つめている。
「私、知らないはずなのに……知っている気がする。この船の形。あの折れた煙突。甲板の手すりの感触」
彼女は駱駝を降りて、まるで夢の中を彷徨うように、朽ちた船へと近づいていく。
レンは何も言わず自らも駱駝を降りて、アリアが乗っていたものと合わせて二本の手綱を握り、万が一に備えて彼女の背後を守るように距離を詰めた。
そして船の間近までくると、
「ここで少しだけ待っててくれ」
レンは二頭の駱駝にそう声をかけると、巨大な船体が影となる場所にある突き出している手摺に、しっかりと二頭の駱駝の手綱を括りつけた。
船の巨大な亀裂。かつて搬入口だったと思われる穴から、レンとアリアは船内へと足を踏み入れた。
中は薄暗く、ひんやりとした空気が淀んでいる。床は傾き、至る所に塩砂が積もっている。
レンが携行ランタンの灯を点けると、光の帯が舞う埃を照らし出した。
アリアは迷うことなく奥へと進んでいく。まるで、かつて通った道をなぞるように。たどり着いたのは、船の最深部にある広い船倉だった。
天井の一部が崩落し、そこから差し込む光が、床に散乱する瓦礫を照らしている。
その中央に、朽ちた木箱や調度品がバリケードのように積まれた一角があった。アリアはその前で崩れ落ちるように膝をついた。
「この景色……。わからない、けど、記憶にある。何度か母様と一緒に、ここに、来た」
列車が完全に停止すると、レンとアリアはホームへと降り立った。
瞬間、肌を刺すような乾燥した風が吹き付けた。唇が瞬く間に乾いていく。アリアはフードを押さえながら、その風の匂いを嗅いだ。
「……違う」
彼女は小さく首を振った。
「やっぱり違うわ、レン。この風には、潮の香りがしない。ただの乾いた砂の匂いよ」
「記憶と現実のズレか。……だが、座標はあそこを示している。とりあえずは行ってみるしかないな」
レンはホームの端、風化したレンガ造りの小屋を指差した。地平線の彼方まで続く白茶けた大地。この広大さを考えれば、徒歩での到達は不可能だ。
小屋の看板には、塗装の剥げた文字で『砂漠横断獣・貸出所』とある。
その前には、数頭の駱駝が繋がれていた。
彼らの目には砂塵除けの分厚い革製ゴーグルが装着され、背中の鞍には水袋と真鍮製のボンベが括り付けられている。この過酷な『灰の砂丘』仕様に調整された駄獣たちだ。
レンは小屋の主人だろう人物、日焼けして干物のような肌をした老人に銀貨を数枚握らせ、手綱を受け取った。
「二頭だ。水は満タンにしてくれ」
「愛想のない客だねえ。……ほらよ」
老人は壁に掛かっていた人間用のゴーグルを二つ、無造作に放ってきた。
真鍮のフレームに、分厚い革のベルト。レンズは強い日差しと塩の反射を遮るため、濃いアンバー色に燻されている。
「ここの砂は塩だ。素通しの目で歩けば、半刻で雪目になって失明するぞ。悪いことは言わん、きっちり締めときな」
レンは一つを受け取り、自分の首に掛けた。普段使い慣れた作業用ルーペとは違う、無骨で重たい感触。もう一つをアリアに渡す。彼女は少し戸惑いながらもフードの下に、そのゴーグルを装着した。
美しい碧眼が、飴色のガラスの奥に隠される。
華奢な顔立ちと、無骨な機械的装備のアンバランスさが、かえって彼女の退廃的な美しさを際立たせていた。
「……似合う、かしら?」
「悪くない。砂漠の旅人に見える」
レンも自身のゴーグルを目元に引き下ろし、ベルトをきつく締めた。視界がセピア色に染まる。白い死の世界が、少しだけ現実味を帯びた色に変わった。
二人のやり取りを見ていた老人は、忠告と言わんばかりに付け加えた。
「もうひとつ。口元も布かなんかで覆っておきな。口ん中が無駄に乾くぞ。砂漠では当然のことだがな」
言われたレンとアリアはコクリと頷きあい、お互いの荷物の中から適当な布を取り出し、口元を覆った。
レンはアリアを小柄な方の一頭に乗せ、自分も手綱を握った。
ラクダが低い声で鳴き、ゆっくりと立ち上がる。視線が高くなると、地平線の彼方に揺らぐ白い稜線がいっそう鮮明に見えた。
「行くぞ。半日の行程だ」
レンが合図を送ると、ラクダたちは大きく首を振り、乾燥した大地へと足を踏み出した。ザリ、ザリ、という蹄の音が、二頭分重なって響く。
☆
その世界には、色というものが欠落していた。
灰の砂丘、アッシュデューン。通称、死の砂漠と呼ばれる場所。かつて内海だった場所が干上がり、数十年かけて風化した成れの果て。見渡す限りの白と灰色のグラデーションが続き、空は高く、雲ひとつない快晴だというのに、太陽の光は塩の結晶に乱反射して、視界全体をぼんやりとした白濁に染め上げていた。
二人は無言で進んだ。肉体的な疲労以上に彼らを蝕んでいたのは、この土地が放つ圧倒的な死の気配だった。鳥の声もしない。虫の羽音もしない。風が塩の柱を削る、ヒョーヒョーという乾いた音だけが鼓膜を震わせる。
「……レン」
不意にアリアが手綱を引き、掠れた声で名を呼んだ。
「どうした。水か?」
「ううん。……見て」
彼女が指先で指し示したのは、足元の塩砂地だった。風に削られた塩砂の層から、長細い何かが突き出している。レンはラクダを降り、グローブについた砂を払いながら、その物体を観察した。
それは、巨大な肋骨のように湾曲した、錆びた鉄の柱だった。表面にはフジツボのような化石がいくつか張り付き、赤茶けた錆が砂に滲み出している。
「……船のキールだ」
レンが短く告げると、アリアは小さく息を呑んだ。
「船……やっぱり、ここは海だったのね」
「ああ。それもかなりの大型船だ。軍艦か、あるいは遠洋航海用の貨客船ってところか。……こんなど真ん中で朽ち果てているなんてな」
レンは立ち上がり、視線を上げた。
蜃気楼のように揺らぐ地平線の先に、巨大な影が見え始めていた。座標の中心点。三百十五ページの穴が指し示した場所。
「行こう。あそこに答えがあるはずだ」
二人は再び駱駝を動かす。近づくにつれ、その影の正体が露わになっていく。
それは、塩の海に乗り上げ、半ば砂に埋もれるようにして傾いた、巨大な蒸気船の残骸だった。折れたマストが墓標のように天を突き刺し、錆びついた外板は風化して穴だらけになっている。かつて海を支配した鉄の巨獣が、今はただの巨大な鉄屑として、静寂の中に横たわっていた。
アリアの足取りが、ふらりと乱れた。
「……知ってる」
彼女の碧い瞳が、焦点の合わない虚空を見つめている。
「私、知らないはずなのに……知っている気がする。この船の形。あの折れた煙突。甲板の手すりの感触」
彼女は駱駝を降りて、まるで夢の中を彷徨うように、朽ちた船へと近づいていく。
レンは何も言わず自らも駱駝を降りて、アリアが乗っていたものと合わせて二本の手綱を握り、万が一に備えて彼女の背後を守るように距離を詰めた。
そして船の間近までくると、
「ここで少しだけ待っててくれ」
レンは二頭の駱駝にそう声をかけると、巨大な船体が影となる場所にある突き出している手摺に、しっかりと二頭の駱駝の手綱を括りつけた。
船の巨大な亀裂。かつて搬入口だったと思われる穴から、レンとアリアは船内へと足を踏み入れた。
中は薄暗く、ひんやりとした空気が淀んでいる。床は傾き、至る所に塩砂が積もっている。
レンが携行ランタンの灯を点けると、光の帯が舞う埃を照らし出した。
アリアは迷うことなく奥へと進んでいく。まるで、かつて通った道をなぞるように。たどり着いたのは、船の最深部にある広い船倉だった。
天井の一部が崩落し、そこから差し込む光が、床に散乱する瓦礫を照らしている。
その中央に、朽ちた木箱や調度品がバリケードのように積まれた一角があった。アリアはその前で崩れ落ちるように膝をついた。
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