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夜の帳が下りると、砂漠の街は急激に冷え込んだ。
砂漠近くの宿の窓から見える空は、昼間の白茶けた色が嘘のように、深く透き通った群青色に沈んでいる。
レンが借りた部屋は、最上階の角部屋だった。安宿とはいえ、屋根裏に近いこの部屋だけは天窓があり、星を見るには都合がよかったからだ。
控えめなノックの音がして、レンは鍵を開けた。廊下に立っていたのは、自分の部屋から移動してきたアリアだった。昼間の埃っぽい旅装を解き、簡素なワンピースに着替えている。手には薄手のショールを持っていた。
「……隣の部屋は、うるさくないか?」
レンが扉を閉めながら問う。
「ええ。静かなものよ。ただ、寒くて眠れそうにないけれど」
アリアは肩を竦め、部屋の中央にあるテーブルに置かれた日誌に目をやった。
レンは、部屋にアリアと二人きりという現状を意識しないように、彼女から少し距離を置き、部屋の灯りをすべて消した。暗闇に目が慣れるのを待って、天窓の留め具を外す。凍えるような冷気が流れ込み、アリアが身震いしてショールをかき合わせた。
「寒くはない?」
レンが短く問うと、アリアは首を振った。
「平気よ。それより、星が」
アリアは窓の向こう側を見上げる。彼女の視線は、頭上に広がる満天の星空に釘付けになっている。乾燥した空気。昼間は砂のような膜に覆われた灰だった空が、今は邪魔する光のない世界。そこにある星々は、圧倒的な光量で瞬いていた。
「始めよう」
感情を抑えた声でレンが言い、作業台代わりのテーブルを窓辺に引き寄せた。
日誌の三百十五ページを開く。そこに、特注のレンズをセットした。
肉眼ではただの紙切れにある無数の穴の列。だが、レンズを通し、特定の角度で星明かりを取り込むことで、その穴は意味を持ち始める。
レンは慣れた手つきでレンズの仰角と方位を操作した。
カチ、カチ、カチ、カチリ。
音がした気がした。紙面の穴と、現在の夜空が重なった瞬間だった。
「……出たぞ」
紙面を透過した星の光が、テーブルの上に複雑な幾何学模様を描き出す。そこに描かれていたのはやはり、かつてここにあった海の上にあったのだろう、航海図でもあり星図でもあった。その紙面の下側にひとつだけ、何の光も通さない穴がある。
レンが光を透過した紙面の下側の意味を読み取る。その声が、わずかに重くなる。
「……北緯七十二度。現在地、ポイント・ゼロ。アッシュデューン」
光が指していたのは、遠くのどこかではなかった。
今、二人がいるこの場所。昼間に見た、あの船の残骸がある地点。
アリアの顔色が、さっと蒼ざめた。
「本当に、ここ……なの?」
彼女の声が震える。
「父様が示した場所は、この何もない砂漠……あの壊れた蒸気船だと言うの?」
それは残酷な宣告に見えた。
父の痕跡を追って、はるばるここまで来た。なのに、示されたのは『ここが終点だ』という事実だけ。
昼間見たあの光景。錆びついた鉄と、乾いた塩。生命など何もない死の世界。生きろと百二十ページに書いたはずの父が、娘に示した場所が、この死の砂漠だったなんて。
アリアの碧い瞳に、困惑と絶望の色が揺らめく。
「そんな……。私に、ここで死ねと言っているのかしら」
「違う」
アリアの震える声を、レンの短く、だが強い否定が遮った。
彼はアリアの絶望を否定するように、眉間に深い皺を刻んで手元の図面を睨みつけている。
「……気に食わない」
「え?」
「微妙にズレているんだ。見てみろ」
レンはアリアの手を取り、強引にレンズの方へ引き寄せた。彼の長い指が、光の図面上のわずかな一点を指し示す。
そこには、三つの小さな光の点が並んでいた。
「メインの座標は合っているように見える。だが、この三つの穴だけが、紙面のインクとコンマ数ミリ、ズレて重なっている。わかるか?」
言われてみれば、確かに光の輪郭がわずかに滲んでいる。
だが、それは肉眼ではほとんど判別できないほどの誤差だ。普通なら合っているとして見過ごすレベルのものだった。
けれど、レンはそれを許さない。完璧な修復を信条とする彼の美学が、そして何より、アリアを絶望させたまま終わらせたくないという彼の中の何かが、その違和感を許さなかった。
「この穴の配置……三つの惑星の軌道……か?」
レンが独り言のように呟いた、その時だった。
「あ!」
アリアが弾かれたように顔を上げた。その瞳に、絶望ではない、別の光が灯る。
「待ってて!」
「おい、どこへ行く」
レンの制止も聞かず、彼女はパタパタと廊下を駆けていった。
数分後。
息を切らせて戻ってきたアリアの手には、一冊の分厚い本が握られていた。
「これよ」
彼女は使い込まれたその本を、テーブルの空いたスペースに広げた。
そこには、無味乾燥な数字の羅列、天体の運行データがびっしりと並んでいた。
「エフェメリス……直近百年の天文暦よ。レンの言う通りかも知れない。今の空に合わせては駄目だったの。この穴の位置……これは惑星だわ。この三つの惑星の配置とぴったり重なる過去の時間を探せば、正しい角度がわかるはず」
アリアの指先が、数字の海を泳ぐ。彼女はページをめくり、数列を目で追っていく。
「木星と、火星。そして最後のこれは、金星だわ。……あった」
アリアの指が、ある一行の上で止まる。
そこに記された日付がいつなのか、過去に何があった日なのか、彼女は知らない。ただ、日誌の穴が示す星の位置と、本の数字が完全に一致する箇所を探す。そうして数字を合わせていくうちに、彼女の手が震えだした。
「……噓でしょ……」
そう呟きながらも、他の星の位置も併せてゆく。そして。
「これ……私の……」
そこまで言うと、彼女は手で口元を覆う。目には涙が浮かんでいた。
そんなアリアを見て、レンは声を掛けようとしたが、それこそ言葉が何一つとして浮かばない。だが、どうしたのかと声を掛けようとしたとき、彼女は何かを振り払うように頭を横に何度か振り、パっとレンの方をみた。
その目には既に涙は無く、代わりに強い意志を宿らせていた。
「レン、このデータ通りの角度で、座標を計算してみて」
レンはその言葉に従い、迷いなく精密機械を扱う指先でレンズの仰角と方位を操作した。
カチ、カチ。
静かな部屋に、微かな金属音だけが響く。
レンが三つの惑星の時間のズレを修正し、正しい角度へと修正する。そこから再び、日誌にある数式を使い、座標を導き出す。
静かな時間が流れてゆく。紙の上をペンが走る音だけが、過ぎ行く時間を計るように部屋に響く。
「……出たぞ。ここじゃない。本当の位置は」
レンが息を吐く。
指し示された場所は、死の砂漠でも、船の墓場でもなかった。
「南だ」
レンがアリアを見つめ、静かに告げた。
「この座標は、ここよりさらに南を指している。アリア、君の父上は相当な切れ者だったんだな。この星図の最初の地点、今いるこの場所はダミーだ。本当の意味は、君の母上の知識があって初めて成り立つ。それをアリア、君が引き継いでいたんだ」
砂漠近くの宿の窓から見える空は、昼間の白茶けた色が嘘のように、深く透き通った群青色に沈んでいる。
レンが借りた部屋は、最上階の角部屋だった。安宿とはいえ、屋根裏に近いこの部屋だけは天窓があり、星を見るには都合がよかったからだ。
控えめなノックの音がして、レンは鍵を開けた。廊下に立っていたのは、自分の部屋から移動してきたアリアだった。昼間の埃っぽい旅装を解き、簡素なワンピースに着替えている。手には薄手のショールを持っていた。
「……隣の部屋は、うるさくないか?」
レンが扉を閉めながら問う。
「ええ。静かなものよ。ただ、寒くて眠れそうにないけれど」
アリアは肩を竦め、部屋の中央にあるテーブルに置かれた日誌に目をやった。
レンは、部屋にアリアと二人きりという現状を意識しないように、彼女から少し距離を置き、部屋の灯りをすべて消した。暗闇に目が慣れるのを待って、天窓の留め具を外す。凍えるような冷気が流れ込み、アリアが身震いしてショールをかき合わせた。
「寒くはない?」
レンが短く問うと、アリアは首を振った。
「平気よ。それより、星が」
アリアは窓の向こう側を見上げる。彼女の視線は、頭上に広がる満天の星空に釘付けになっている。乾燥した空気。昼間は砂のような膜に覆われた灰だった空が、今は邪魔する光のない世界。そこにある星々は、圧倒的な光量で瞬いていた。
「始めよう」
感情を抑えた声でレンが言い、作業台代わりのテーブルを窓辺に引き寄せた。
日誌の三百十五ページを開く。そこに、特注のレンズをセットした。
肉眼ではただの紙切れにある無数の穴の列。だが、レンズを通し、特定の角度で星明かりを取り込むことで、その穴は意味を持ち始める。
レンは慣れた手つきでレンズの仰角と方位を操作した。
カチ、カチ、カチ、カチリ。
音がした気がした。紙面の穴と、現在の夜空が重なった瞬間だった。
「……出たぞ」
紙面を透過した星の光が、テーブルの上に複雑な幾何学模様を描き出す。そこに描かれていたのはやはり、かつてここにあった海の上にあったのだろう、航海図でもあり星図でもあった。その紙面の下側にひとつだけ、何の光も通さない穴がある。
レンが光を透過した紙面の下側の意味を読み取る。その声が、わずかに重くなる。
「……北緯七十二度。現在地、ポイント・ゼロ。アッシュデューン」
光が指していたのは、遠くのどこかではなかった。
今、二人がいるこの場所。昼間に見た、あの船の残骸がある地点。
アリアの顔色が、さっと蒼ざめた。
「本当に、ここ……なの?」
彼女の声が震える。
「父様が示した場所は、この何もない砂漠……あの壊れた蒸気船だと言うの?」
それは残酷な宣告に見えた。
父の痕跡を追って、はるばるここまで来た。なのに、示されたのは『ここが終点だ』という事実だけ。
昼間見たあの光景。錆びついた鉄と、乾いた塩。生命など何もない死の世界。生きろと百二十ページに書いたはずの父が、娘に示した場所が、この死の砂漠だったなんて。
アリアの碧い瞳に、困惑と絶望の色が揺らめく。
「そんな……。私に、ここで死ねと言っているのかしら」
「違う」
アリアの震える声を、レンの短く、だが強い否定が遮った。
彼はアリアの絶望を否定するように、眉間に深い皺を刻んで手元の図面を睨みつけている。
「……気に食わない」
「え?」
「微妙にズレているんだ。見てみろ」
レンはアリアの手を取り、強引にレンズの方へ引き寄せた。彼の長い指が、光の図面上のわずかな一点を指し示す。
そこには、三つの小さな光の点が並んでいた。
「メインの座標は合っているように見える。だが、この三つの穴だけが、紙面のインクとコンマ数ミリ、ズレて重なっている。わかるか?」
言われてみれば、確かに光の輪郭がわずかに滲んでいる。
だが、それは肉眼ではほとんど判別できないほどの誤差だ。普通なら合っているとして見過ごすレベルのものだった。
けれど、レンはそれを許さない。完璧な修復を信条とする彼の美学が、そして何より、アリアを絶望させたまま終わらせたくないという彼の中の何かが、その違和感を許さなかった。
「この穴の配置……三つの惑星の軌道……か?」
レンが独り言のように呟いた、その時だった。
「あ!」
アリアが弾かれたように顔を上げた。その瞳に、絶望ではない、別の光が灯る。
「待ってて!」
「おい、どこへ行く」
レンの制止も聞かず、彼女はパタパタと廊下を駆けていった。
数分後。
息を切らせて戻ってきたアリアの手には、一冊の分厚い本が握られていた。
「これよ」
彼女は使い込まれたその本を、テーブルの空いたスペースに広げた。
そこには、無味乾燥な数字の羅列、天体の運行データがびっしりと並んでいた。
「エフェメリス……直近百年の天文暦よ。レンの言う通りかも知れない。今の空に合わせては駄目だったの。この穴の位置……これは惑星だわ。この三つの惑星の配置とぴったり重なる過去の時間を探せば、正しい角度がわかるはず」
アリアの指先が、数字の海を泳ぐ。彼女はページをめくり、数列を目で追っていく。
「木星と、火星。そして最後のこれは、金星だわ。……あった」
アリアの指が、ある一行の上で止まる。
そこに記された日付がいつなのか、過去に何があった日なのか、彼女は知らない。ただ、日誌の穴が示す星の位置と、本の数字が完全に一致する箇所を探す。そうして数字を合わせていくうちに、彼女の手が震えだした。
「……噓でしょ……」
そう呟きながらも、他の星の位置も併せてゆく。そして。
「これ……私の……」
そこまで言うと、彼女は手で口元を覆う。目には涙が浮かんでいた。
そんなアリアを見て、レンは声を掛けようとしたが、それこそ言葉が何一つとして浮かばない。だが、どうしたのかと声を掛けようとしたとき、彼女は何かを振り払うように頭を横に何度か振り、パっとレンの方をみた。
その目には既に涙は無く、代わりに強い意志を宿らせていた。
「レン、このデータ通りの角度で、座標を計算してみて」
レンはその言葉に従い、迷いなく精密機械を扱う指先でレンズの仰角と方位を操作した。
カチ、カチ。
静かな部屋に、微かな金属音だけが響く。
レンが三つの惑星の時間のズレを修正し、正しい角度へと修正する。そこから再び、日誌にある数式を使い、座標を導き出す。
静かな時間が流れてゆく。紙の上をペンが走る音だけが、過ぎ行く時間を計るように部屋に響く。
「……出たぞ。ここじゃない。本当の位置は」
レンが息を吐く。
指し示された場所は、死の砂漠でも、船の墓場でもなかった。
「南だ」
レンがアリアを見つめ、静かに告げた。
「この座標は、ここよりさらに南を指している。アリア、君の父上は相当な切れ者だったんだな。この星図の最初の地点、今いるこの場所はダミーだ。本当の意味は、君の母上の知識があって初めて成り立つ。それをアリア、君が引き継いでいたんだ」
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