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10 幕間
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薪が爆ぜ、香ばしい匂いがした。
大鍋で煮込まれる野菜と羊肉のスープから立ち上る、ハーブの香り。そして、乾いた土と草の匂い。
西の国境近くにある、森の入り口。
夕闇が迫る草原に、色とりどりの布で飾られた幌馬車が円を描くように停まっている。
中央の焚き火を囲んでいるのは、女たちだった。派手なショールを纏った踊り子、カード占いに興じる若い女性達、刺繍をする老婆。彼女たちの笑い声が、鈴の音のように夜空に響く。男性の姿はほとんどない。見張りに立つ数人の護衛と、馬の世話をする年老いた御者だけだ。
彼らは大陸を旅する、ジプシーのキャラバンだった。それぞれが様々な事情で、身を寄せている。中には子連れの女性も居た。各地で手にした技を頼りに働き、放浪しながら逞しく暮らしてきた。血の繋がりはない。それでも皆、互いを家族のように思っていた。
十二歳のアリアは、使い終わった木皿を重ねて運んでいた。
「おや、アリア。手伝ってくれるのかい?」
声をかけてきたのは、ジプシー一座の長である老婆だった。顔中に刻まれた深い皺と、ジャラジャラとつけた銀や願い玉と言われる色とりどりの石のついた装飾品。パイプを燻らせながら、彼女はスープの鍋をかき混ぜていた。
「ええ、お婆様。私、もう子供じゃないもの」
「ふふ、口だけは一人前だねぇ。だがあんたは母親譲りで筋がいい。きっと大陸一の踊り子になるよ」
老婆の言葉に、アリアは誇らしげに胸を張った。
視線の先には、焚き火のそばで子供たちに本を読んでいる母の姿があった。
『ジプシー・クイーン』と呼ばれる母。けれど、普段の彼女はとても静かで、こうして文字の読み書きを教えてくれる、子供たちの小さな先生だった。炎に照らされた母の横顔は、聖女のように優しく、美しかった。
平和だった。
明日も、明後日も、女たちだけのこの賑やかな旅が、ずっと続くと信じていた。
その音が聞こえるまでは。
ド、ド、ド、ド……。
最初は、遠雷かと思った。だが、それは急速に近づき、大地を揺るがす地響きになり、地を這うような腹の底に響く轟音へと変わった。
「騎兵だ! 軍が来るぞ!」
見張りの男が叫んだ。彼は咄嗟に傍に立てかけていた剣を握るが、その声は裏返っていた。たった数人の男たちでは、どうしようもない数の蹄の音が迫っていたのだ。
「逃げな! 森へ散るんだ!」
老婆が叫び、鍋を蹴倒して立ち上がった。でも既に、気づいた時には遅かった。暗闇の向こうから、松明を持った騎馬隊が雪崩のように押し寄せてきた。黒い軍服を着た兵士たちが、円陣を組んだ馬車の隙間から侵入してくる。
「男は殺せ! 女子供も逃がすな! 金髪の女を探すんだ!」
無慈悲な命令と共に、銃声が響く。勇敢にも立ち向かった数少ない護衛の男たちは、一瞬で凶弾に倒れた。残されたのは、逃げ惑う女たちと子供だけ。皿が割れる音。誰かの悲鳴。燃え上がる幌馬車。アリアはその狂乱に立ち尽くしていた。恐怖で足が動かない。
「アリア!」
強い力で腕を引かれた。母だった。
いつもの穏やかな表情は消え、鬼気迫る形相をしている。母はアリアを抱きかかえるようにして、自分たちの馬車へと走った。
「母様、怖い、怖い……!」
「大丈夫。アリア、いい子だから聞きなさい」
母は馬車の中に飛び込むと、奥に置いてあった大きな衣装箱の蓋を開けた。
中には、舞台で使うドレスや、きらびやかな装飾品が詰まっている。母はそれらを乱暴にかき分けると、箱の底板の隠し板を外した。
そこには、人一人がようやく隠れられるほどの、浅い空洞があった。密入国や、禁制品を隠すための細工だ。
「ここに入っていなさい。絶対に、何があっても出てはいけないわ」
「母様は!? 母様も一緒じゃなきゃ嫌だ!」
母は首を振り、自分の懐から一冊の本を取り出した。
古びた紺色の革表紙。その時のアリアは、それが何なのか、理解していなかった。
「これを持っていくの。父様の大事な形見よ……そして、お前は生きなさい。必ず生きて。いつか父様の海へ行きなさい」
アリアの手が、革表紙を握りしめる。
母はアリアを隙間に押し込むと、隠し板を戻し、その上から再びドレスの山を被せた。
重たい木の蓋が閉められる。カチャリ、と外から鍵を掛ける音がした。
闇の中。だが一つだけ小さな横穴があり、そこから一筋の光が漏れ入ってくる。アリアは日誌を抱きしめ、息を殺した。
外では、老婆の怒号が途切れ、女たちの悲鳴も、一つ、また一つと消えていった。
そして、馬車のドアが蹴破られる音がした。重たい軍靴の足音。
「ここか。逃げ遅れたネズミは」
低く、冷徹な男の声がした。衣装箱のわずかな節穴から漏れる光に、アリアは目を凝らした。
見えたのは、背の高い軍人の後ろ姿。そして、その前に立ちはだかる母の姿だった。
男がゆっくりと振り返る。軍帽の下からのぞくのは、燃えるような赤髪。松明の光に照らされたその顔には、眼帯が巻かれていた。残されたもう片方の瞳は、凍てつくような碧色で、人間を見ている目ではなかった。黒い軍服の上に巻かれたベルトのバックル。そこには機械的な歯車と、それを垂直に貫く剣の構図がある。
「……隻眼の将軍が、何の用?」
母が毅然と言い放つ。その背中は、震えていなかった。たった一人で、武器も持たずに、怪物の前に立っていた。
「やっと見つけた。ジプシー・クィーン……ぴったりな名だな」
隻眼の男は歪んだ笑みを浮かべ、腰のサーベルを抜いた。
「アレはどこだ? おとなしく渡せ」
「なんのこと? ……わたくしはもう、何も知らないわ」
「ほう? では、あの騒がしい魔女たちと一緒に焼き払ってしまったか?」
母に迫ってゆく銀色の刃が、炎の赤を映してギラリと光る。
(やめて……! 母様! 逃げて!)
アリアは心の中で叫んだ。でも、声が出ない。声を出せば見つかる。見つかれば、母の覚悟が無駄になる。
「では、愛しい男の元へ、今すぐ俺が送ってやろう」
隻眼の男は一歩、母に歩み寄り、ゆっくりとサーベルを振り上げた。
「……あなたたちに、星の雷と裁きがあらんことを」
母の最期の言葉は、呪詛ではなく、祈りのようだった。
刃が閃き、鮮血が舞う。母の身体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちてゆく。
その体温が、血の匂いが、箱の隙間から伝わってくるようだった。アリアは悲鳴を噛み殺すために、自分の腕に歯を立てた。血が滲むほど強く、強く噛んで、嗚咽を飲み込んだ。荒くなる呼吸と心臓が、苦しくて、痛い。
「チッ……」
男は血振るいをしてサーベルを納めると、アリアが潜む衣装箱に近づいてきた。ガキン、と鍵が壊される音が響く。蓋が開けられ、光が差し込んだ。
アリアは隠し板の下で、全身を硬直させた。
男の荒い手が、中にあるドレスを鷲掴みにし、放り投げる。絹の衣装が引き裂かれる音。 板一枚隔てたすぐ上に、男の手がある。息を吸う音さえ聞こえそうな距離。
(見つかる……殺される……!)
だが、男の手は板の下までは伸びなかった。彼は上にある服をめちゃくちゃに漁っただけで、舌打ちをした。
「空っぽか」
男は興味を失ったように鼻を鳴らすと、踵を返して出ていった。
後に残されたのは、燃え盛る炎の音と、静寂。
そして、世界で一番優しく美しく、アリアが自慢だった人の、動かなくなった気配だけ。
アリアは、指ひとつ動かせなかった。恐怖で身体の動きが麻痺していたのかもしれない。煙の匂いが充満してくる。熱気が板越しに伝わってくる。それでも彼女は、日誌を抱いたまま震え続け……やがて、意識は暗い底へと落ちていった。
……次に目を覚ましたとき、開ききらない目の中にぼんやりと映ったのは、見知らぬ風景だった。
質素だが清潔な白いシーツ。鼻をくすぐるのは、焦げ臭さではなく、聖油と薬草の匂い。高い天井には、色褪せたフレスコ画が描かれている。
「……教、会?」
誰が助けてくれたのかはわからない。ただ、自分が生き残ってしまったことだけが、重たい事実としてそこにあった。
☆
「っ!!」
アリアは弾かれたように、再び目を開けた。そこは、教会のベッドの上ではなかった。リズミカルな振動と、温かい空気。
「……悪い夢でも見たか?」
すぐ耳元で、低い声がした。視界が焦点を結ぶと、心配そうにこちらを覗き込むレンの顔があった。スチールグレイの瞳が、今は穏やかな光を湛えている。
アリアは、自分がレンの肩に寄りかかったまま眠っていたことに気づいた。頬には、涙の跡が冷たく張り付いている。
「……うん。少し、昔の夢を」
アリアは震える声で答え、無意識にレンの袖を掴んだ。焼け焦げた臭いも、血の匂いもしない。ここにあるのは、仄かな甘い香り。そして、隣にいる青年の確かな体温だけだ。
「……大丈夫だ」
レンは何も聞かず、ただ短くそう言って、肩に掛けてくれた上着を直してくれた。
アリアはその不器用な優しさに救われる思いで、小さく頷いた。
列車は闇を切り裂き、先へと進み続ける。
悪夢の記憶を、夜の彼方へと置き去りにするように。
大鍋で煮込まれる野菜と羊肉のスープから立ち上る、ハーブの香り。そして、乾いた土と草の匂い。
西の国境近くにある、森の入り口。
夕闇が迫る草原に、色とりどりの布で飾られた幌馬車が円を描くように停まっている。
中央の焚き火を囲んでいるのは、女たちだった。派手なショールを纏った踊り子、カード占いに興じる若い女性達、刺繍をする老婆。彼女たちの笑い声が、鈴の音のように夜空に響く。男性の姿はほとんどない。見張りに立つ数人の護衛と、馬の世話をする年老いた御者だけだ。
彼らは大陸を旅する、ジプシーのキャラバンだった。それぞれが様々な事情で、身を寄せている。中には子連れの女性も居た。各地で手にした技を頼りに働き、放浪しながら逞しく暮らしてきた。血の繋がりはない。それでも皆、互いを家族のように思っていた。
十二歳のアリアは、使い終わった木皿を重ねて運んでいた。
「おや、アリア。手伝ってくれるのかい?」
声をかけてきたのは、ジプシー一座の長である老婆だった。顔中に刻まれた深い皺と、ジャラジャラとつけた銀や願い玉と言われる色とりどりの石のついた装飾品。パイプを燻らせながら、彼女はスープの鍋をかき混ぜていた。
「ええ、お婆様。私、もう子供じゃないもの」
「ふふ、口だけは一人前だねぇ。だがあんたは母親譲りで筋がいい。きっと大陸一の踊り子になるよ」
老婆の言葉に、アリアは誇らしげに胸を張った。
視線の先には、焚き火のそばで子供たちに本を読んでいる母の姿があった。
『ジプシー・クイーン』と呼ばれる母。けれど、普段の彼女はとても静かで、こうして文字の読み書きを教えてくれる、子供たちの小さな先生だった。炎に照らされた母の横顔は、聖女のように優しく、美しかった。
平和だった。
明日も、明後日も、女たちだけのこの賑やかな旅が、ずっと続くと信じていた。
その音が聞こえるまでは。
ド、ド、ド、ド……。
最初は、遠雷かと思った。だが、それは急速に近づき、大地を揺るがす地響きになり、地を這うような腹の底に響く轟音へと変わった。
「騎兵だ! 軍が来るぞ!」
見張りの男が叫んだ。彼は咄嗟に傍に立てかけていた剣を握るが、その声は裏返っていた。たった数人の男たちでは、どうしようもない数の蹄の音が迫っていたのだ。
「逃げな! 森へ散るんだ!」
老婆が叫び、鍋を蹴倒して立ち上がった。でも既に、気づいた時には遅かった。暗闇の向こうから、松明を持った騎馬隊が雪崩のように押し寄せてきた。黒い軍服を着た兵士たちが、円陣を組んだ馬車の隙間から侵入してくる。
「男は殺せ! 女子供も逃がすな! 金髪の女を探すんだ!」
無慈悲な命令と共に、銃声が響く。勇敢にも立ち向かった数少ない護衛の男たちは、一瞬で凶弾に倒れた。残されたのは、逃げ惑う女たちと子供だけ。皿が割れる音。誰かの悲鳴。燃え上がる幌馬車。アリアはその狂乱に立ち尽くしていた。恐怖で足が動かない。
「アリア!」
強い力で腕を引かれた。母だった。
いつもの穏やかな表情は消え、鬼気迫る形相をしている。母はアリアを抱きかかえるようにして、自分たちの馬車へと走った。
「母様、怖い、怖い……!」
「大丈夫。アリア、いい子だから聞きなさい」
母は馬車の中に飛び込むと、奥に置いてあった大きな衣装箱の蓋を開けた。
中には、舞台で使うドレスや、きらびやかな装飾品が詰まっている。母はそれらを乱暴にかき分けると、箱の底板の隠し板を外した。
そこには、人一人がようやく隠れられるほどの、浅い空洞があった。密入国や、禁制品を隠すための細工だ。
「ここに入っていなさい。絶対に、何があっても出てはいけないわ」
「母様は!? 母様も一緒じゃなきゃ嫌だ!」
母は首を振り、自分の懐から一冊の本を取り出した。
古びた紺色の革表紙。その時のアリアは、それが何なのか、理解していなかった。
「これを持っていくの。父様の大事な形見よ……そして、お前は生きなさい。必ず生きて。いつか父様の海へ行きなさい」
アリアの手が、革表紙を握りしめる。
母はアリアを隙間に押し込むと、隠し板を戻し、その上から再びドレスの山を被せた。
重たい木の蓋が閉められる。カチャリ、と外から鍵を掛ける音がした。
闇の中。だが一つだけ小さな横穴があり、そこから一筋の光が漏れ入ってくる。アリアは日誌を抱きしめ、息を殺した。
外では、老婆の怒号が途切れ、女たちの悲鳴も、一つ、また一つと消えていった。
そして、馬車のドアが蹴破られる音がした。重たい軍靴の足音。
「ここか。逃げ遅れたネズミは」
低く、冷徹な男の声がした。衣装箱のわずかな節穴から漏れる光に、アリアは目を凝らした。
見えたのは、背の高い軍人の後ろ姿。そして、その前に立ちはだかる母の姿だった。
男がゆっくりと振り返る。軍帽の下からのぞくのは、燃えるような赤髪。松明の光に照らされたその顔には、眼帯が巻かれていた。残されたもう片方の瞳は、凍てつくような碧色で、人間を見ている目ではなかった。黒い軍服の上に巻かれたベルトのバックル。そこには機械的な歯車と、それを垂直に貫く剣の構図がある。
「……隻眼の将軍が、何の用?」
母が毅然と言い放つ。その背中は、震えていなかった。たった一人で、武器も持たずに、怪物の前に立っていた。
「やっと見つけた。ジプシー・クィーン……ぴったりな名だな」
隻眼の男は歪んだ笑みを浮かべ、腰のサーベルを抜いた。
「アレはどこだ? おとなしく渡せ」
「なんのこと? ……わたくしはもう、何も知らないわ」
「ほう? では、あの騒がしい魔女たちと一緒に焼き払ってしまったか?」
母に迫ってゆく銀色の刃が、炎の赤を映してギラリと光る。
(やめて……! 母様! 逃げて!)
アリアは心の中で叫んだ。でも、声が出ない。声を出せば見つかる。見つかれば、母の覚悟が無駄になる。
「では、愛しい男の元へ、今すぐ俺が送ってやろう」
隻眼の男は一歩、母に歩み寄り、ゆっくりとサーベルを振り上げた。
「……あなたたちに、星の雷と裁きがあらんことを」
母の最期の言葉は、呪詛ではなく、祈りのようだった。
刃が閃き、鮮血が舞う。母の身体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちてゆく。
その体温が、血の匂いが、箱の隙間から伝わってくるようだった。アリアは悲鳴を噛み殺すために、自分の腕に歯を立てた。血が滲むほど強く、強く噛んで、嗚咽を飲み込んだ。荒くなる呼吸と心臓が、苦しくて、痛い。
「チッ……」
男は血振るいをしてサーベルを納めると、アリアが潜む衣装箱に近づいてきた。ガキン、と鍵が壊される音が響く。蓋が開けられ、光が差し込んだ。
アリアは隠し板の下で、全身を硬直させた。
男の荒い手が、中にあるドレスを鷲掴みにし、放り投げる。絹の衣装が引き裂かれる音。 板一枚隔てたすぐ上に、男の手がある。息を吸う音さえ聞こえそうな距離。
(見つかる……殺される……!)
だが、男の手は板の下までは伸びなかった。彼は上にある服をめちゃくちゃに漁っただけで、舌打ちをした。
「空っぽか」
男は興味を失ったように鼻を鳴らすと、踵を返して出ていった。
後に残されたのは、燃え盛る炎の音と、静寂。
そして、世界で一番優しく美しく、アリアが自慢だった人の、動かなくなった気配だけ。
アリアは、指ひとつ動かせなかった。恐怖で身体の動きが麻痺していたのかもしれない。煙の匂いが充満してくる。熱気が板越しに伝わってくる。それでも彼女は、日誌を抱いたまま震え続け……やがて、意識は暗い底へと落ちていった。
……次に目を覚ましたとき、開ききらない目の中にぼんやりと映ったのは、見知らぬ風景だった。
質素だが清潔な白いシーツ。鼻をくすぐるのは、焦げ臭さではなく、聖油と薬草の匂い。高い天井には、色褪せたフレスコ画が描かれている。
「……教、会?」
誰が助けてくれたのかはわからない。ただ、自分が生き残ってしまったことだけが、重たい事実としてそこにあった。
☆
「っ!!」
アリアは弾かれたように、再び目を開けた。そこは、教会のベッドの上ではなかった。リズミカルな振動と、温かい空気。
「……悪い夢でも見たか?」
すぐ耳元で、低い声がした。視界が焦点を結ぶと、心配そうにこちらを覗き込むレンの顔があった。スチールグレイの瞳が、今は穏やかな光を湛えている。
アリアは、自分がレンの肩に寄りかかったまま眠っていたことに気づいた。頬には、涙の跡が冷たく張り付いている。
「……うん。少し、昔の夢を」
アリアは震える声で答え、無意識にレンの袖を掴んだ。焼け焦げた臭いも、血の匂いもしない。ここにあるのは、仄かな甘い香り。そして、隣にいる青年の確かな体温だけだ。
「……大丈夫だ」
レンは何も聞かず、ただ短くそう言って、肩に掛けてくれた上着を直してくれた。
アリアはその不器用な優しさに救われる思いで、小さく頷いた。
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