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黒煙が晴れていくドックには、静寂だけが残されていた。
取り残された灰色のフードマントの男たちは、忌々しげに遠ざかる船影を睨みつけていた。
リーダー格の男が、懐から無骨な通信機を取り出す。スイッチを入れる指先が、怒りではない、恐怖で微かに震えている。
ザザッ、というノイズの向こうから、冷ややかな応答があった。
『……逃げられたか』
感情のない、だが絶対的な威圧感を含んだ声。
「申し訳ありません。……サルベージ船が介入しました。強引に出航され、阻止できませんでした」
『言い訳はいらん。あの娘は鍵だ』
通信機の向こうで、何か硬いものが机を叩くような音がした。
『泳がせておけと言ったが、これ以上は目障りな虫が増えるだけだ。……追う手配せよ。俺が行く』
「はっ!」
通信は一方的に切れた。男は冷や汗を拭い、再び海を見つめた。
水平線の彼方、鉛色の雲が渦巻く方角。あのボロ船が沈むのが先か、それとも食い殺されるのが先か。
「……行くぞ。狩りの続きだ」
男が低く命じると、灰色の集団は足音もなくドックの闇へと溶けていった。
☆
ポート・メリディアンの影が水平線の彼方に消えると、海の色が変わった。鮮やかな南国の碧から、重く、濁った鉛色へ。
空には低く垂れ込めた雲が渦を巻き、海面からは不気味な白煙のような霧が立ち上っている。ここが、船乗りたちが恐れる、船食いの海域の入り口だった。
ラスティ・タートル号は、荒れ狂う波に木の葉のように揺さぶられていた。
「面舵一杯! 波に腹を見せるな! 転覆するぞ!」
操舵室でガルドが怒号を飛ばす。彼の太い腕が操舵輪を強引にねじ伏せるが、海流はまるで生き物のように船体を締め上げ、軋ませる。
「船長! コンパスが狂ってらぁ! 針が定まりません!」
船員が悲鳴のような声を上げた。羅針盤の針は、独楽のようにぐるぐると回り続けている。この海域特有の磁場異常だ。
「チッ、これだからここは嫌なんだ! おい、機関室! 出力はどうなってる!」
ガルドが伝声管に向かって怒鳴る。その返答は、低い、しかし落ち着いた男の声だった。
『出力は安定している。だが、無理に上げるな。スクリューが空回りして軸が折れる』
レンだ。彼は今、灼熱の機関室で、唸りを上げるボイラーと対峙していた。老朽化した配管からは蒸気が漏れ、ピストンは悲鳴を上げている。レンはその呼吸を読み、バルブを微調整し続けていた。
『このままアストロラビウムへ直進できるのか?』
レンが問いかけると、ガルドは操舵輪を握りしめたまま首を横に振った。
「無理だ! 今の海流じゃ、遺跡の周りの岩礁に叩きつけられてオダブツだ。潮が変わるのを待つ必要がある」
『潮待ちか。……この嵐の中で停泊するのは自殺行為だぞ』
「ああ。だから、寄港するぞ。ここらへんを通る物好きなら、皆、立ち寄る場所がある」
ガルドは慣れた手つきで舵を切った。
「次の街で数日待つ。嵐をやり過ごして、この先の海流が落ち着くまでな。今の時期、ここまで来れただけでも奇跡だぜ」
船は大きく舵を切り、濃霧の壁へと進んでいった。視界が白一色に染まり、轟音が耳を聾する。
だが数十分後、ふっと風が止み、霧が薄らいだ。
その先に現れた光景に、レンは息を呑んだ。
そこは、荒海の中にぽっかりと浮かぶ、美しい内海のような場所だった。そして、その穏やかな水面の上に、白い石造りの街が浮かんでいた。
海から直接立ち上がる古い煉瓦の建物。網の目のように張り巡らされた水路。小舟が行き交い、建物の壁は白やクリーム色で、夕暮れの光を浴びて淡く輝いている。
どこか現実離れした、絵画の中に迷い込んだような景色。そこは海の上に浮かぶ複雑な回廊のようだった。
「ここは『リラム』水上都市だ」
ガルドがエンジンを減速させながら言った。
「コンパスが狂うから普通の船は寄り付かねぇが、アストロラビウムへ行くのなら、ここが最後の補給地点になる。普通は行かねぇがな。……ま、どちらにしろ、俺たちみたいな変わり者か、ワケありの連中が集まる静かな場所だ」
ラスティ・タートル号は速度を落とし、街の入り口にある古い石造りの桟橋へと滑り込んだ。
レンとアリアはタラップを降り、石畳の地面を踏んだ。足元には波が優しく打ち寄せ、チャプ、チャプという音が心地よく響く。
街の中はひっそりとしていた。観光地のような喧騒はない。住人たちが静かに行き交い、運河沿いの茶屋では老人たちがチェスを楽しんでいる。
アリアは、街の入り口で立ち尽くしていた。その視線は、街の中心に聳える高い鐘楼と、そこから広がる水路の景色に釘付けになっている。
「……似てる」
アリアが、夢遊病者のようにぽつりと呟いた。
「え?」
「この場所……あの嵐の夜の光景と、すごく似てる」
彼女はゆっくりと、自分の記憶を確かめるように言葉を紡ぐ。
「砂漠の計算で出た座標は、もっと南の遺跡だった。でも……私の記憶にあるのは、この景色だわ」
アリアは目を細め、遠い日の残像を目の前の風景に重ね合わせた。
激しい嵐の音。けれど、守られた揺り籠のような静けさ。石造りの回廊。水面に揺れるガス灯の灯り。
「私を抱きかかえてくれた、背の高い男の人。大きな手で、嵐から守るように……」
アリアの声が、熱を帯びて震え始めた。
砂漠の夜に話した、青い目をした綺麗な人。その鮮明なイメージが、この街の空気と混じり合う。
「その隣で……母様が笑っていたの。とても……そう、とても幸せそうに」
アリアの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは悲しみの涙ではなかった。
十年前の惨劇の記憶にかき消されていた、もっと古く、もっと幸福だった頃の記憶。
「やっぱり……あの男の人が、父様だったのかもしれない」
アリアは確信に近い想いで、胸の前で手を組んだ。
「一度だけしか会った記憶はないけれど……とても綺麗な人だった。あの人が、ここで私と母様を守ってくれていたんだわ」
「……そうか。なら、ここも目的地の一つだったんだな」
レンが優しく言うと、アリアは静かに頷き、濡れた瞳で微笑んだ。
「少しだけ……この街を歩きたい。母様と……あの……父様かもしれない男の人と私と、生きた証を探したいの」
「ああ。付き合うよ」
夕闇が迫り、街のガス灯に火が灯り始める。
水面に揺れるオレンジ色の光の中、二人はアリアのルーツを探して、迷路のような水路の街へと足を踏み入れた。
取り残された灰色のフードマントの男たちは、忌々しげに遠ざかる船影を睨みつけていた。
リーダー格の男が、懐から無骨な通信機を取り出す。スイッチを入れる指先が、怒りではない、恐怖で微かに震えている。
ザザッ、というノイズの向こうから、冷ややかな応答があった。
『……逃げられたか』
感情のない、だが絶対的な威圧感を含んだ声。
「申し訳ありません。……サルベージ船が介入しました。強引に出航され、阻止できませんでした」
『言い訳はいらん。あの娘は鍵だ』
通信機の向こうで、何か硬いものが机を叩くような音がした。
『泳がせておけと言ったが、これ以上は目障りな虫が増えるだけだ。……追う手配せよ。俺が行く』
「はっ!」
通信は一方的に切れた。男は冷や汗を拭い、再び海を見つめた。
水平線の彼方、鉛色の雲が渦巻く方角。あのボロ船が沈むのが先か、それとも食い殺されるのが先か。
「……行くぞ。狩りの続きだ」
男が低く命じると、灰色の集団は足音もなくドックの闇へと溶けていった。
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ポート・メリディアンの影が水平線の彼方に消えると、海の色が変わった。鮮やかな南国の碧から、重く、濁った鉛色へ。
空には低く垂れ込めた雲が渦を巻き、海面からは不気味な白煙のような霧が立ち上っている。ここが、船乗りたちが恐れる、船食いの海域の入り口だった。
ラスティ・タートル号は、荒れ狂う波に木の葉のように揺さぶられていた。
「面舵一杯! 波に腹を見せるな! 転覆するぞ!」
操舵室でガルドが怒号を飛ばす。彼の太い腕が操舵輪を強引にねじ伏せるが、海流はまるで生き物のように船体を締め上げ、軋ませる。
「船長! コンパスが狂ってらぁ! 針が定まりません!」
船員が悲鳴のような声を上げた。羅針盤の針は、独楽のようにぐるぐると回り続けている。この海域特有の磁場異常だ。
「チッ、これだからここは嫌なんだ! おい、機関室! 出力はどうなってる!」
ガルドが伝声管に向かって怒鳴る。その返答は、低い、しかし落ち着いた男の声だった。
『出力は安定している。だが、無理に上げるな。スクリューが空回りして軸が折れる』
レンだ。彼は今、灼熱の機関室で、唸りを上げるボイラーと対峙していた。老朽化した配管からは蒸気が漏れ、ピストンは悲鳴を上げている。レンはその呼吸を読み、バルブを微調整し続けていた。
『このままアストロラビウムへ直進できるのか?』
レンが問いかけると、ガルドは操舵輪を握りしめたまま首を横に振った。
「無理だ! 今の海流じゃ、遺跡の周りの岩礁に叩きつけられてオダブツだ。潮が変わるのを待つ必要がある」
『潮待ちか。……この嵐の中で停泊するのは自殺行為だぞ』
「ああ。だから、寄港するぞ。ここらへんを通る物好きなら、皆、立ち寄る場所がある」
ガルドは慣れた手つきで舵を切った。
「次の街で数日待つ。嵐をやり過ごして、この先の海流が落ち着くまでな。今の時期、ここまで来れただけでも奇跡だぜ」
船は大きく舵を切り、濃霧の壁へと進んでいった。視界が白一色に染まり、轟音が耳を聾する。
だが数十分後、ふっと風が止み、霧が薄らいだ。
その先に現れた光景に、レンは息を呑んだ。
そこは、荒海の中にぽっかりと浮かぶ、美しい内海のような場所だった。そして、その穏やかな水面の上に、白い石造りの街が浮かんでいた。
海から直接立ち上がる古い煉瓦の建物。網の目のように張り巡らされた水路。小舟が行き交い、建物の壁は白やクリーム色で、夕暮れの光を浴びて淡く輝いている。
どこか現実離れした、絵画の中に迷い込んだような景色。そこは海の上に浮かぶ複雑な回廊のようだった。
「ここは『リラム』水上都市だ」
ガルドがエンジンを減速させながら言った。
「コンパスが狂うから普通の船は寄り付かねぇが、アストロラビウムへ行くのなら、ここが最後の補給地点になる。普通は行かねぇがな。……ま、どちらにしろ、俺たちみたいな変わり者か、ワケありの連中が集まる静かな場所だ」
ラスティ・タートル号は速度を落とし、街の入り口にある古い石造りの桟橋へと滑り込んだ。
レンとアリアはタラップを降り、石畳の地面を踏んだ。足元には波が優しく打ち寄せ、チャプ、チャプという音が心地よく響く。
街の中はひっそりとしていた。観光地のような喧騒はない。住人たちが静かに行き交い、運河沿いの茶屋では老人たちがチェスを楽しんでいる。
アリアは、街の入り口で立ち尽くしていた。その視線は、街の中心に聳える高い鐘楼と、そこから広がる水路の景色に釘付けになっている。
「……似てる」
アリアが、夢遊病者のようにぽつりと呟いた。
「え?」
「この場所……あの嵐の夜の光景と、すごく似てる」
彼女はゆっくりと、自分の記憶を確かめるように言葉を紡ぐ。
「砂漠の計算で出た座標は、もっと南の遺跡だった。でも……私の記憶にあるのは、この景色だわ」
アリアは目を細め、遠い日の残像を目の前の風景に重ね合わせた。
激しい嵐の音。けれど、守られた揺り籠のような静けさ。石造りの回廊。水面に揺れるガス灯の灯り。
「私を抱きかかえてくれた、背の高い男の人。大きな手で、嵐から守るように……」
アリアの声が、熱を帯びて震え始めた。
砂漠の夜に話した、青い目をした綺麗な人。その鮮明なイメージが、この街の空気と混じり合う。
「その隣で……母様が笑っていたの。とても……そう、とても幸せそうに」
アリアの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは悲しみの涙ではなかった。
十年前の惨劇の記憶にかき消されていた、もっと古く、もっと幸福だった頃の記憶。
「やっぱり……あの男の人が、父様だったのかもしれない」
アリアは確信に近い想いで、胸の前で手を組んだ。
「一度だけしか会った記憶はないけれど……とても綺麗な人だった。あの人が、ここで私と母様を守ってくれていたんだわ」
「……そうか。なら、ここも目的地の一つだったんだな」
レンが優しく言うと、アリアは静かに頷き、濡れた瞳で微笑んだ。
「少しだけ……この街を歩きたい。母様と……あの……父様かもしれない男の人と私と、生きた証を探したいの」
「ああ。付き合うよ」
夕闇が迫り、街のガス灯に火が灯り始める。
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