【本編完結】星を継ぐ踊り子とスチールグレイの修復士~日誌に綴られた謎と、仄かな恋の旅

苺迷音

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 螺旋階段を下りていくにつれ、空気の質が変わっていった。

 天球儀のあった広間の乾いた匂いとは違う。肌にまとわりつく湿り気と、金属の冷たさ。だが不快な淀みではなく、地下水脈のそばに立った時のような気配が漂っている。
 二人の靴音が石造りの壁に反響しては、闇の底へと吸い込まれていく。長い時間をかけて下りきった先に待っていたのは、予想していた巨大な空洞ではなく、こぢんまりとした小部屋だった。

 ただ、最初に見た暗闇とは違い、明かりがどこからか差し込んできていた。

 装飾は一切ない。剥き出しの岩肌と、それを補強する数本の鉄骨。その部屋の隅に、場違いなほど質素な木箱が一つ置かれていた。

 家具ではない。いつでも持ち出せるように、頑丈な取っ手がつけられた搬送用の箱だ。
 レンは無言でその前に膝をつき、留め金を外した。錆びついてはいたが、機構は死んでいない。乾いた音を立てて蓋が開く。

 中には、油紙に包まれた数枚の図面と、真鍮で作られた奇妙な形状の部品が数点詰め込まれていた。

「……設計図かしら?」

 アリアが背後から覗き込む。レンは油紙を慎重に開き、中の一枚を広げた。携行ランタンに火を点け、灯を落とす。

 その中身がハッキリと見えた瞬間、レンの息が止まった。

 図面に目を走らせた途端、手が震えた。戦慄が背筋を走る。職人として数多の機械を見てきたが、この設計図は凄まじい。今現在の常識を完全に超えている。

 蒸気機関の応用ではない。流体力学と、まだ理論上でしか語られていない動力変換の数式が、整然と並んでいる。配管の角度一つ、弁の配置一つに無駄がない。

「……これは」

 レンの声が掠れた。

「どうしたの、レン?」

「……凄まじい。これは、俺たちの時代の技術じゃない。神の仕事だ」

 レンは食い入るように図面を目で追った。
 
 アリアの父がここに置いたのだろう。だが彼はこれを、どこで手に入れたのか。数十年、いや百年先の未来を見据えていた技術者だ。この図面は、既存の技術の延長線ではない。まったく新しい概念の体系だ。

 だが、レンの指が止まったのは、図面の中央付近だった。そこだけが、ぽっかりと白紙になっていた。

 インクが消えたわけではない。破れているわけでもない。周囲の複雑な配管や回路が、その空白の一点に向かって収束し、そして唐突に途切れている。

「……未完成?」

 アリアが不安げに問う。レンは首を振った。

「違う。……空けてあるんだ」

 レンには分かった。これは設計者の限界ではない。
 
 この空白は、意図的に残されている。現代の技術では形にできない領域。それを無理に埋めるのではなく、未来の誰かが新しい発想と技術で埋めるために残された問いだ。

「この先は、俺たちが埋める。……いや、俺たちが生きる未来の誰かが。もしくはもっと未来の知恵への伝言なんだ」

 レンは震える指で図面を畳み、木箱の中の試作部品を手に取った。複雑な曲線を描く羽根車。見たこともない合金の質感。すべての点と線が、レンの頭の中で繋がっていく。

 この木箱は、ただの遺品入れではない。この場所が崩壊したり、誰かに奪われたりする最悪の事態を想定して、本当に残すべき知恵だけを持ち出せるように梱包されている。

「下へ行こう。……この図面の実物が、そこにあるはずだ」

 二人は木箱をそのままにし、さらに奥へと続く短い階段を下りた。

 そこは、円筒形の巨大な空間だった。
 
 足元にはガラス張りの床があり、その下を脈打つように大量の水が流れている。部屋の中央に、心臓部となる巨大な装置が鎮座していた。

 設計図にあった空白の部分が、そこでは荒削りな仮組みの状態で補われていた。

「……循環器だ」

 レンが呟く。

「循環器?」

「ああ。この都市の地下には、おそらく海水淡水化炉に近い巨大な濾過層がある。この装置は、その水を汲み上げ、浄化し、そして島全体へ循環させるための機構だ」

 アストロラビウム。観測都市。
 ここはただ星を見るための場所ではない。海の上に人が住み、自給自足し、永続的に暮らしていくための実験都市だったのだ。
 
 もしこの技術が完成し、世界に広がれば、水不足や干ばつに苦しむ砂漠の民は救われる。アッシュデューンのような死の世界でさえ、緑の大地に戻せるかもしれない。

 それが、父が残そうとした最後のページの星の正体。

 アリアが、ゆらりと装置へ歩み寄ろうとした。父の夢。その結晶に触れたいと願うように。

「待て、触るな」

 レンが鋭い声で制した。
 アリアがびくりとして足を止める。

「……この装置は、仮組みだ。設計図の空白を、当時の技術で無理やり繋いで動かしているに過ぎない。下手に触れればバランスが崩れる」

 レンが言った、その時だった。

 静寂に満ちた地下空間に、異質な音が響き渡った。それも、一つではない。数人以外の足音。

 レンが弾かれたように振り返り、アリアを背後に隠した。階段の上、前室の闇から、複数の人影が滲み出てくる。
 
 薄灰色のマントの下から除く、黒の軍服の男たち。そしてその中央に、一際背の高い男が立っていた。

 男はゆっくりと階段を下りてくる。その左目には印象的な眼帯。残された片目は、凍てつくような碧色をしていた。

 その姿を見た瞬間、レンの背後でアリアの身体が硬直した。彼女の指が、レンの背中の服を爪が食い込むほどに強く握り締められる。

「……あ、いつ……」

 アリアの声は、言葉になっていなかった。恐怖で空気が肺に入らない。全身が震え、言葉が口の中で音にならない。

「あい、つが……母様と……お婆様ババ……ジプシーの一団を……」

 十年前、衣装箱の隙間から見た、あの隻眼の悪魔。
 
 母の命を奪い、全てを焼き払った張本人が、今、目の前に立っている。

 レンは即座に、自分の着ていた上着を脱ぎ、震えるアリアの頭から被せた。顔を隠す為に。彼女のその特徴的な瞳を、奴に見せてはならない。そう、直観的に思った。あのひとつめの鍵は、アリアの瞳に反応した。ここまで執拗に追ってきたのであれば、彼女の身を狙っている可能性もゼロではない。

「動くな。……ゆっくりそこから離れて、上に来い」

 隻眼の男の横から、部下たちが一斉に銃口を向けてきた。
 
 レンとアリアに、逃げ場は無かった。

 男は銃を構えることもなく、悠然と歩み寄ってきた。そして、上着の下で震え続けるアリアを見下ろし、口の端を吊り上げた。

「……いいから、そこから離れろ」

 男が一歩、距離を詰める。レンがアリアを庇うように立ち塞がるが、男の視線はその肩越しに、アリアだけを射抜いていた。

「その瞳……その顔。この目で見た時は、正直震えたよ」

 男は低い声で、噛み締めるように言った。

「シリウスと、ジプシー・クイーンの娘だろう?」

 レンは無言で男を睨み返した。
 
 反論も、否定もしない。レンもアリアの過去の一部しか知らないのだ。

 だが、ここで何を言っても無駄。ただ、全身の筋肉を硬直させ、最悪の事態に備えて重心を落とす。

「準備しろ」

 隻眼の男が、視線をアリアから外し、背後の装置へと向けた。

 部下たちが無言で動き出し、装置の周りを取り囲んでいく。
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