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第三章 印刷戦線
第28話 貴族様と一緒
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「準備は順調?」
そう言って顔を覗かせたのは、利発そうな眼差しの少女だ。目に鮮やかな金髪をエアカーテンに躍らせながら入室してきた彼女の口元には、笑みと期待の色が濃い。
タビタ・エックホーフ。エックホール領を管理所有する領主の一人娘だ。
そんな彼女を、眩しそうに眼を眇めて見やるのは、これまた一人の少女ーー否、少女というには相応ではないか。
一五〇センチに満たない上背と童顔が実齢より幼い印象を与えるものの、実のところ二十歳を越えた立派な成人女性である。
「旅支度っていっても、持ち物これしかないですしね」
貴族令嬢とは対照的な、愛想の感じられない顔つきにへの字口。インクの飛び散った作業着に身を包むその姿は、お世辞にも小綺麗とは言い難かった。
しかし、これこそがこの場所、快走印刷株式会社板橋工場の正装と言える。少なくとも彼女ーー戸叶絢理はそう無い胸を張る。
絢理はオフセット印刷機から取り出した全判用紙を持ち上げ、パレットに積み込む。
「よくその小さい体で持ち上げるわよね、それ」
タビタは呆れるように半眼で呻く。
「慣れです慣れ。持ち上がらないと罵声と拳骨飛んできたんで。生きるために仕方なく、ですね」
よっこいせ、と絢理が持ち上げる用紙は菊全判用紙と呼ばれ、九三九×六三六ミリの大きさを誇る。絢理は器用に重心を制御しながらーー自身の姿はほとんど紙に隠れてしまうというのにーー数百枚単位でそれを持ち上げていた。
先日絢理にレクチャーを受けながらタビタも挑戦してみたのだが、一時間をかけてとうとう持ち上がらなかった。タビタにはそれが結構、悔しかった。
私も一ヶ月くらいかかりましたからーーとは絢理さんの言。
「いま刷了したところなんで、今日中にはまとめられますよ」
絢理が視線を転じた先、壁掛け時計は正午を過ぎたところだった。
少し休憩にしましょうよ。お昼、まだでしょ?」
「……!」
貴族令嬢が笑顔で掲げる包を見て、絢理はぴたりと口を引き結び、目を見開いた。
緊張の走った表情にややたじろぎながら、タビタは問いを重ねる。
「……もしかして、もう食べちゃった?」
「いえ、いただきます。いつもお昼は食べ損なうかコンビニの二択だったので」
絢理はグッと拳を握る。
「それが今や貴族令嬢から直々に昼食支給ですよ? 出世したなあ私……ッ、と噛み締めてました」
「よくわかんないけど、噛み締めるのはパンにしときなさい?」
微妙にズレたタビタの言葉を締めに、本日の快走印刷株式会社はお昼休憩を迎える。
◆
快走印刷株式会社板橋工場の休憩室は三階の階段脇にある。
四人掛けのテーブルが六基並び、壁際には電気ポットや電子レンジ、ティッシュボックスやゴミ箱など必要なものが一式揃えられている。その他、天井から吊るされるようにしてテレビが設置されていたりするが、やはりというべきか、電源を入れても一向に番組を受信する気配はなかった。
テーブルを挟んで向かい合わせに座しながら、絢理はタビタの持参した弁当を頬張る。
「うっま。タビタさんお手製ですか?」
「まさか。エルマに作ってもらってるのよ」
「あの人はあの人でスキル高いですね」
脳裏に蘇るのは宮廷騎士オーヴァンとの一戦。彼女の介入がなければ、タビタは絢理が間に合う前に敗れていただろう。
主人を思いやるがあまりの暴走癖は玉に瑕かもしれないが。
激戦から一週間が経過し、絢理もタビタも戦闘(とフォークリフトの掘り返し作業)で負った傷は癒えていた。
「でも実際助かります。何せ荒野のど真ん中、断崖絶壁の上に工場が移転しちゃいましたからね。食事を摂ろうにもエックホーフまで片道数時間。社会人には非効率すぎます」
「なら良かった」
頷きを返しながら、タビタは一枚の地図を机上に広げる。
「今日中に支度が終わるなら、明日には出発するわ。目指すは王都。グーテンベルク王のお膝元よ」
「チーレムの現場ですね。撲滅しましょう」
「撲滅はまあその通りなんだけど物騒なこと言わないの。真正面から戦って勝てる相手とは思えないし」
「そうなんですか?」
疑問を返す絢理に、そりゃそうでしょう、とタビタは嘆息する。
「たった一人で前王に戦争を仕掛けて王座を奪い取ったような男よ?」
「わかりやすく異世界無双を体現してますね」
「イセカイムソウはよく分からないけど、用心するに越したことはないでしょ」
「タビタさん、また変身できないんですか?」
見た目こそ見目麗しい貴族令嬢だが、その実この娘、宮廷騎士をさえ軽く捻り潰せるほどの巨龍へと変貌した経緯をもつ。
あの力を自在に出せれば、よりグーテンベルク攻略など容易だろう。
「実は私もできないかなーって一週間頑張ってみたんだけど、全然。そもそも何を頑張ればいいのかもわからないしね」
タビタは肩をすくめる。
「あの魔導書がないとダメみたい。だから勝敗は絢理にかかってるのよ」
「成程。まあ、油断する気はありませんけどね」
同意を返しつつも、内心、絢理はグーテンベルク王を脅威には感じていなかった。
無理からぬことだ。現代のCTPオフセット印刷技術が、15世紀の活版印刷のそれに劣るとは思えない。圧倒的な物量を持って一瞬で制圧できるだろう。
制限があるとすれば、
「工場ごと持っていくわけにもいきませんしね」
という点に尽きる。相互に目の前で印刷機を駆動すれば絢理の圧勝は間違いないが、工場ごと移動することはできない。運搬できる魔法陣の量にも限界はある。
城攻めをする以上、相手に地の利があるのは否めないのだ。
「まあ今日の刷了分で100,000枚の魔法陣になりますし、大丈夫だとは思いますが」
「何度聞いても出鱈目な数ね……」
苦笑するタビタだが、絢理は平然としたものだ。
「ペラ100,000枚なんてこの板橋工場にとっては大した数じゃないですよ。納期も一週間ありましたし。馬車で積める量がそれくらいってことなんで控えましたが」
「それだけあれば十分よ。買い物もするしね」
「買い物?」
「王都までには一ヶ月以上かかるから、いくつかの街を経由していくんだけど」
タビタは地図に視線を落とす。エックホーフを指した細く長い指が、経路をなぞるように地形を滑っていく。
「まずはここ。ファーデン子爵領からね」
<続>
そう言って顔を覗かせたのは、利発そうな眼差しの少女だ。目に鮮やかな金髪をエアカーテンに躍らせながら入室してきた彼女の口元には、笑みと期待の色が濃い。
タビタ・エックホーフ。エックホール領を管理所有する領主の一人娘だ。
そんな彼女を、眩しそうに眼を眇めて見やるのは、これまた一人の少女ーー否、少女というには相応ではないか。
一五〇センチに満たない上背と童顔が実齢より幼い印象を与えるものの、実のところ二十歳を越えた立派な成人女性である。
「旅支度っていっても、持ち物これしかないですしね」
貴族令嬢とは対照的な、愛想の感じられない顔つきにへの字口。インクの飛び散った作業着に身を包むその姿は、お世辞にも小綺麗とは言い難かった。
しかし、これこそがこの場所、快走印刷株式会社板橋工場の正装と言える。少なくとも彼女ーー戸叶絢理はそう無い胸を張る。
絢理はオフセット印刷機から取り出した全判用紙を持ち上げ、パレットに積み込む。
「よくその小さい体で持ち上げるわよね、それ」
タビタは呆れるように半眼で呻く。
「慣れです慣れ。持ち上がらないと罵声と拳骨飛んできたんで。生きるために仕方なく、ですね」
よっこいせ、と絢理が持ち上げる用紙は菊全判用紙と呼ばれ、九三九×六三六ミリの大きさを誇る。絢理は器用に重心を制御しながらーー自身の姿はほとんど紙に隠れてしまうというのにーー数百枚単位でそれを持ち上げていた。
先日絢理にレクチャーを受けながらタビタも挑戦してみたのだが、一時間をかけてとうとう持ち上がらなかった。タビタにはそれが結構、悔しかった。
私も一ヶ月くらいかかりましたからーーとは絢理さんの言。
「いま刷了したところなんで、今日中にはまとめられますよ」
絢理が視線を転じた先、壁掛け時計は正午を過ぎたところだった。
少し休憩にしましょうよ。お昼、まだでしょ?」
「……!」
貴族令嬢が笑顔で掲げる包を見て、絢理はぴたりと口を引き結び、目を見開いた。
緊張の走った表情にややたじろぎながら、タビタは問いを重ねる。
「……もしかして、もう食べちゃった?」
「いえ、いただきます。いつもお昼は食べ損なうかコンビニの二択だったので」
絢理はグッと拳を握る。
「それが今や貴族令嬢から直々に昼食支給ですよ? 出世したなあ私……ッ、と噛み締めてました」
「よくわかんないけど、噛み締めるのはパンにしときなさい?」
微妙にズレたタビタの言葉を締めに、本日の快走印刷株式会社はお昼休憩を迎える。
◆
快走印刷株式会社板橋工場の休憩室は三階の階段脇にある。
四人掛けのテーブルが六基並び、壁際には電気ポットや電子レンジ、ティッシュボックスやゴミ箱など必要なものが一式揃えられている。その他、天井から吊るされるようにしてテレビが設置されていたりするが、やはりというべきか、電源を入れても一向に番組を受信する気配はなかった。
テーブルを挟んで向かい合わせに座しながら、絢理はタビタの持参した弁当を頬張る。
「うっま。タビタさんお手製ですか?」
「まさか。エルマに作ってもらってるのよ」
「あの人はあの人でスキル高いですね」
脳裏に蘇るのは宮廷騎士オーヴァンとの一戦。彼女の介入がなければ、タビタは絢理が間に合う前に敗れていただろう。
主人を思いやるがあまりの暴走癖は玉に瑕かもしれないが。
激戦から一週間が経過し、絢理もタビタも戦闘(とフォークリフトの掘り返し作業)で負った傷は癒えていた。
「でも実際助かります。何せ荒野のど真ん中、断崖絶壁の上に工場が移転しちゃいましたからね。食事を摂ろうにもエックホーフまで片道数時間。社会人には非効率すぎます」
「なら良かった」
頷きを返しながら、タビタは一枚の地図を机上に広げる。
「今日中に支度が終わるなら、明日には出発するわ。目指すは王都。グーテンベルク王のお膝元よ」
「チーレムの現場ですね。撲滅しましょう」
「撲滅はまあその通りなんだけど物騒なこと言わないの。真正面から戦って勝てる相手とは思えないし」
「そうなんですか?」
疑問を返す絢理に、そりゃそうでしょう、とタビタは嘆息する。
「たった一人で前王に戦争を仕掛けて王座を奪い取ったような男よ?」
「わかりやすく異世界無双を体現してますね」
「イセカイムソウはよく分からないけど、用心するに越したことはないでしょ」
「タビタさん、また変身できないんですか?」
見た目こそ見目麗しい貴族令嬢だが、その実この娘、宮廷騎士をさえ軽く捻り潰せるほどの巨龍へと変貌した経緯をもつ。
あの力を自在に出せれば、よりグーテンベルク攻略など容易だろう。
「実は私もできないかなーって一週間頑張ってみたんだけど、全然。そもそも何を頑張ればいいのかもわからないしね」
タビタは肩をすくめる。
「あの魔導書がないとダメみたい。だから勝敗は絢理にかかってるのよ」
「成程。まあ、油断する気はありませんけどね」
同意を返しつつも、内心、絢理はグーテンベルク王を脅威には感じていなかった。
無理からぬことだ。現代のCTPオフセット印刷技術が、15世紀の活版印刷のそれに劣るとは思えない。圧倒的な物量を持って一瞬で制圧できるだろう。
制限があるとすれば、
「工場ごと持っていくわけにもいきませんしね」
という点に尽きる。相互に目の前で印刷機を駆動すれば絢理の圧勝は間違いないが、工場ごと移動することはできない。運搬できる魔法陣の量にも限界はある。
城攻めをする以上、相手に地の利があるのは否めないのだ。
「まあ今日の刷了分で100,000枚の魔法陣になりますし、大丈夫だとは思いますが」
「何度聞いても出鱈目な数ね……」
苦笑するタビタだが、絢理は平然としたものだ。
「ペラ100,000枚なんてこの板橋工場にとっては大した数じゃないですよ。納期も一週間ありましたし。馬車で積める量がそれくらいってことなんで控えましたが」
「それだけあれば十分よ。買い物もするしね」
「買い物?」
「王都までには一ヶ月以上かかるから、いくつかの街を経由していくんだけど」
タビタは地図に視線を落とす。エックホーフを指した細く長い指が、経路をなぞるように地形を滑っていく。
「まずはここ。ファーデン子爵領からね」
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