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第三章 印刷戦線
第44話 怪異――ああいや馬車、疾く駆ける
しおりを挟む「本当ですか?」
絢理が目を輝かせる。その輝きとは対照的に、フーゴは嫌そうに顔を顰めた。
「正直、これ以上君に貸し倒されるのはゴメンなんだけどな」
言い渋るフーゴの口を割ることに、絢理は躊躇しなかった。オルトが持っていた包を素早く掠め取ると、それをそのままフーゴの目の前にドサリと積む。
「差し上げます」
それは100,000万枚の魔法陣の対価だ。
流石のフーゴも、目を白黒させる。
「いいのかよ?」
「営業じゃないんで、金勘定は苦手なんですよ。私は生産部の人間として、クライアントの要求に応えて印刷をする――それが、私の仕事です」
絢理の気迫を正面から受け、フーゴはしばらく沈黙していた。考えを巡らせるしばしの時間の後で、ふと口元を緩めた。
「言ってることはよく分からねえが、いいぜ。乗ってやる」
フーゴはそれを受け取り、続けて肩にかけていた鞄から一枚の紙片を取り出した。
「使えよ。俺が持ってる魔法陣の中でも最高級品だ」
絢理はそれを受け取る。その魔法陣に描かれている紋様は、これまで彼女が目にしたものとは微妙に異なる。
日中にフーゴから聞いた話を想起する。
「これ、系層が高い魔法陣ってやつですか?」
「ああ、破軍級の系層だ。発動させたら、何でもいい、無機物に貼り付けるんだ。それが移動手段になって、馬より余程早く君を運んでくれる」
破軍級というのは聞き覚えがなかったが、オルトが瞠目しているのを見ると、非常に強力な魔法なのだろう。
「行きと帰りで2枚ある。馬で二日の距離なら、そいつなら半日とかからないだろうさ」
発動条件のレクチャーを受け、絢理は宿を後にする。三日後までに戻ればいいことを考えれば、かなり余裕の納期だ。
その間、オルトとフーゴは情報収集と犯人探しに努める。きな臭い軍の動きに目を配りながらの探索だ。彼らの心配もあったが、絢理のすべき仕事は印刷だ。
宿を出た絢理は、フーゴから預かった魔法陣を掲げた。
「見い出せ、プレーステール!」
唱え、馬を繋いでいない馬車に魔法陣を貼り付ける。
すぐに効果は顕現した。
馬車を構成する木材や鉄材が蠢き、異形を形成していく。全体が脈打ちながら、もがくように手足を伸ばす。
馬車とはこうあるべきという常識の枠組みから外れていく。その何かは、窮屈を嫌
悪するように、元の材質や質量をさえ無視して変形していった。
言うなればそう、ギョギョギョとかメキョメキョとか、非常に生々しく生物的な――でも生物からは普段あまり聞くことのない音とともに、その偉容は巨大化していく。
「え、こわ」
見上げる絢理がそう評したのも無理はない。
完成したのは異形の怪異だった。御者台だけは元の形のまま残り、それが人を乗せるモノなのだとかろうじて存在意義を主張する。
筋骨隆々とした長い手足。その両手足が握るのは巨大な車輪だ。いったいどうやって移動するのか。しかし口――そう、この馬車には巨大な口があった――では、口角を一杯に広げ、自信を裏打ちするかのような笑みを浮かべている。
「……フーゴさんの魔法、キモくないですか?」
「俺も初めて見たが、こいつはヤバいな」
「初めて?」
「言ったろ、虎の子だったんだよ。もったいなくて使ってこなかったんだ」
「それは貴重なモノをありがとうございま……ぅゎ何か乗れってジェスチャーしてますけど大丈夫なんですかこいつ」
見上げる異形――馬車が、背中の御者台に乗れとジェスチャーをしていた。
主人を乗せて走るのが楽しみで仕方ないようだ。
「大丈夫だろ――多分」
「いま小さい声で多分って言いました?」
絢理がジト目で見上げるが、フーゴは決して目を合わせようとはしなかった。
オルトはオルトで、
「モノの在り方そのものを変える。とんでもない魔法だね……」
と陶酔するように異形を見上げたままだ。あまり助言や解説の役には立ちそうにない。
「まあ、乗るしかないので乗りますけ――ひっ」
絢理が一歩を踏み出すのに合わせて、異形がかしずく。
主人が乗りやすいようにとの配慮だろうが、それでも御者台まで2メートル近い。どこに足をかけて登ろうかと迷っていると、異形の表面が蠢き伸びて、数段の踏み板を形成してくれた。登りやすいのはありがたいが、
「キモいよぉ……」
泣きそうになりながらまたがると、瞬間、怪異は咆哮を上げた。上げるなよ。
目的地へ届けるべき主人を得たことで、歓喜に打ち震えている。
怪異――ああいや馬車は両手を打ち鳴らし、持っていた車輪を高速回転させ始めた。シャアアアアアアアアア!という小気味いい音を立て、軸で火花が上がるほどの速度で回転する車輪が、ゆっくりと地面へと接地、刹那――
「ぴぃやああああああああああああああああ」
爆発的な速度で、怪異――馬車が急発進した。その速度は時速にして120キロメートルは下らない。初速でだ。まだ加速していく。
絶叫系の苦手な絢理だ。安全ベルトもつけていない。すぐにオルトとフーゴが見えなくなる。速度自体は非常に頼もしかったが、同時にめちゃくちゃ怖かった。
万が一にも手汗で滑らないよう、御者台に全力でしがみついた。
「あやややややややややややや死ぬううううううううううううううぅぅぅっぅ」
納期の遵守って大変だなと、絢理は現実から逃げるように想うのだった。
<続>
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