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第三章:夕日が沈む
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翌日、午前中のすべき事をいつもより素早く済ませた私は吉原屋の端にある今は使われていない物置小屋が放置されている場所へ向かっていた。そこだけを区切るように(人より少し高い)木塀で囲われたその場所はもう長い間、誰も使ってない忘れられた空間。
そこまで誰にも見られず辿り着いた私は恐らく吉原屋のほとんどが存在を知らない開き戸の鍵を開けた。
すると少し遅れドアは小さく軋みながらゆっくりと開き始めた。
「こうして顔を合わせるのんは久しぶりやな」
開いた戸を通りこの空間に足を踏み入れたのは、
「そうですね」
八助さん。手紙でのやり取りは続いていたがこうやって直接会うのはあの夜以来。だからかどこか初めて会うような少し不思議な感じがした。
「なんもあらへんけどこれぐらいはあるさかい」
そう言って物置小屋の傍に置いてある三人用の腰掛けを指差した私は先に腰を下ろした。でも八助さんはまだそこに立ったまま。
「そいで ずっとそうしていんすのもいいでありんすが、こっちに来るのもいいと思いんせん?」
私はあの時を再現するようにそう言うと隣を手で触れるように叩いた。
「そうですね」
そんな私に八助さんは笑みを零すと足を動かし始め隣に腰を下ろした。あの時よりは近くに。
「でも本当に大丈夫なんですか? こんなこと」
「そないな心配しいひんでも大丈夫。別に仕事をサボってる訳ちゃうし。それより八助はんこそ仕事大丈夫なん?」
「僕は大丈夫ですよ。基本的に忙しいのは夜見世ぐらいからなので。この時間帯はちょっと店に遊客が来るぐらいで。って言っても一番忙しいのは源さんなんですけどね。――それよりこんなところに入口ってあったんですね。知りませんでした」
「多分、知ってる人はいーひんかもしれへん。それぐらい使われてへんさかいね」
「じゃあなんで夕顔さんは知ってるんですか?」
私はそれに答える前に一人頭の中でその人の事を思い出した。今でも鮮明に覚えているあの笑顔を。
「姐はんに教えてもろうてん。姐はんってゆーてもここでの姐はん。わっちに遊女としてここで生きる方法を教えてくれた人。八助はんもずっとここにおるなら知ってる思うで。朝顔姐さんの事は」
姐さんの名前を口にしながら八助さんを見遣ると彼は知っていそうな反応をしていた。
「夕顔さんより前の方ですよね?」
「そう。わっちより前の吉原屋の最高位花魁」
「僕も小さい頃、花魁道中をしている彼女を見た事あります。とても綺麗な人だなって子どもの僕でも思いました」
「身も心も綺麗な人やった。そないな姐はんが一人になりたい時に来とったのがここ。ようこな風に並んで座っとったわ」
私はいつの間にか懐古の情に包み込まれながら八助さんとこの空間を眺めていた。
『ええか夕顔。わっちらはもう年季明けるまで遊女として生きていくしかあらへん。そやさかい一番を目指すんやで。そうしたら少しぐらいはええ暮らしが出来る。この鳥篭から出られへん以上、遊女であり続けなあかん以上、得られるものは少しでも手に入れるやで。あんたにはそれが出来る』
丁度、八助さんの位置に座る朝顔姐さんは私によくそう言っていた。吉原屋の最高級花魁をになって少しでも年季明けまでを良くしろって。
「その方は今どうしてるんですか?」
「――どうやろうな」
「元気にしてるといいですね」
「そうやな」
茶褐色越しに朝顔姐さんを見ながら私は嘘を付いた。本当は彼女が今どうしてるかを知ってる。でもそれを口に出来なかったのは良い思い出との彼女にしか目を向けたくなかったからだろう。それを証明するように心の隅では弱い自分に対する嫌悪感が芽を出していた。
「それより八助はんは歌舞伎って見た事あるん?」
そこまで誰にも見られず辿り着いた私は恐らく吉原屋のほとんどが存在を知らない開き戸の鍵を開けた。
すると少し遅れドアは小さく軋みながらゆっくりと開き始めた。
「こうして顔を合わせるのんは久しぶりやな」
開いた戸を通りこの空間に足を踏み入れたのは、
「そうですね」
八助さん。手紙でのやり取りは続いていたがこうやって直接会うのはあの夜以来。だからかどこか初めて会うような少し不思議な感じがした。
「なんもあらへんけどこれぐらいはあるさかい」
そう言って物置小屋の傍に置いてある三人用の腰掛けを指差した私は先に腰を下ろした。でも八助さんはまだそこに立ったまま。
「そいで ずっとそうしていんすのもいいでありんすが、こっちに来るのもいいと思いんせん?」
私はあの時を再現するようにそう言うと隣を手で触れるように叩いた。
「そうですね」
そんな私に八助さんは笑みを零すと足を動かし始め隣に腰を下ろした。あの時よりは近くに。
「でも本当に大丈夫なんですか? こんなこと」
「そないな心配しいひんでも大丈夫。別に仕事をサボってる訳ちゃうし。それより八助はんこそ仕事大丈夫なん?」
「僕は大丈夫ですよ。基本的に忙しいのは夜見世ぐらいからなので。この時間帯はちょっと店に遊客が来るぐらいで。って言っても一番忙しいのは源さんなんですけどね。――それよりこんなところに入口ってあったんですね。知りませんでした」
「多分、知ってる人はいーひんかもしれへん。それぐらい使われてへんさかいね」
「じゃあなんで夕顔さんは知ってるんですか?」
私はそれに答える前に一人頭の中でその人の事を思い出した。今でも鮮明に覚えているあの笑顔を。
「姐はんに教えてもろうてん。姐はんってゆーてもここでの姐はん。わっちに遊女としてここで生きる方法を教えてくれた人。八助はんもずっとここにおるなら知ってる思うで。朝顔姐さんの事は」
姐さんの名前を口にしながら八助さんを見遣ると彼は知っていそうな反応をしていた。
「夕顔さんより前の方ですよね?」
「そう。わっちより前の吉原屋の最高位花魁」
「僕も小さい頃、花魁道中をしている彼女を見た事あります。とても綺麗な人だなって子どもの僕でも思いました」
「身も心も綺麗な人やった。そないな姐はんが一人になりたい時に来とったのがここ。ようこな風に並んで座っとったわ」
私はいつの間にか懐古の情に包み込まれながら八助さんとこの空間を眺めていた。
『ええか夕顔。わっちらはもう年季明けるまで遊女として生きていくしかあらへん。そやさかい一番を目指すんやで。そうしたら少しぐらいはええ暮らしが出来る。この鳥篭から出られへん以上、遊女であり続けなあかん以上、得られるものは少しでも手に入れるやで。あんたにはそれが出来る』
丁度、八助さんの位置に座る朝顔姐さんは私によくそう言っていた。吉原屋の最高級花魁をになって少しでも年季明けまでを良くしろって。
「その方は今どうしてるんですか?」
「――どうやろうな」
「元気にしてるといいですね」
「そうやな」
茶褐色越しに朝顔姐さんを見ながら私は嘘を付いた。本当は彼女が今どうしてるかを知ってる。でもそれを口に出来なかったのは良い思い出との彼女にしか目を向けたくなかったからだろう。それを証明するように心の隅では弱い自分に対する嫌悪感が芽を出していた。
「それより八助はんは歌舞伎って見た事あるん?」
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