204 / 215
204.彼氏のおしごと
しおりを挟む
土曜日。マコトくんの家庭教師をしてきた。
今学期からは受験対策も入ってくるため週に二コマもしくは三コマに契約時間が増えたのだが、今日はぶっ続けで三コマだった。
マコトくんは相変わらずの努力家。マリエちゃんと同じ高校に行こうと約束したそうで気合を入れて頑張っている。合間に休憩は挟んでもらっているけど彼の集中力はすさまじい。
やり切ったマコトくんと次の目標を立ててから、帰宅したのは夕方前。瀬名さんは机に向かって黙々と仕事をしていた。
まだやってんのか。大変だな。午前中に俺を送り出した時点でパソコンは起動させていたから、それからずっと働いているのだろう。
「おかえり」
「はい……ただいま」
忙しくても俺が帰ってきたのに気付けばおかえりって言ってくれる。夕飯何食べたいですかって、今聞くのは邪魔になるかな。
脱いだジャケットをそっとハンガーにかけた。極力ドタバタ物音と足音を立ててしまわないように気を付ける。洗面所のドアの開閉もおしとやかに。水道の音はでもゴメン許して。水量には気を使ってみるから。
瀬名さんの洗練された動作を習得したいけど俺はまだまだだ。ローテーブルの前になるべく静かに腰を下ろして、ここからその横顔を眺めた。
「…………」
もしも俺の両目がスマホのレンズと直結してはたらく機能を備えていたら、四角くて平たい精密機械のメモリは瀬名恭吾で埋まっていたはずだ。
最新型じゃないとデータ収まらない。だってたぶん連写する。なんなら特に動きはなくても動画で全部撮っておきたい。
仕事中の瀬名さんは抜群にカッコイイ。パソコンにキリッと向かっている姿もとんでもなく様になる。黙ってりゃいい男だから、凛々しい印象しか伝わってこない。
普段はロクなこと言わない大人でも仕事には極めて厳格な人。そんな男のパソコンを後ろから覗き込むような真似はできないししようとも思わないが、たとえ俺が覗いたとしても困る事はないのだろう。
万が一にでも外部に漏れて困るようなものは社外でやらない。パソコンのユーザーアカウントもプライベート用と仕事用とで使い分けているくらいだ。仕事に対して厳しい男は、隅々まで余念なく体制を整える。
かっこいいモードの瀬名さんのために俺にできる事といえば、邪魔にならないようおとなしくしていることだけ。
夕飯何がいいか聞くのは後にしよう。でもせめてお茶くらいは淹れてこよう。そう思ってそそっと腰を上げたら、なんと呼ばれた。
「遥希」
ぱっと、顔を上げる。ちょいちょいと手招きされた。
「ちょっといいか」
フワッとした。若干浮いた。仕事中に呼ばれた。これは結構珍しいことだ。
なんだろう。やっぱお茶かな。いやでもそんな事でわざわざ呼びつけないはず。てことは俺にもついに何か、瀬名さんの役に立てることが。
一瞬のうちにここまで巡らせ、トトトトッと即座に駆け寄った。
「なんです?」
「ちょっとこれ見てくれ」
指さされたのはパソコンの画面。すぐさま素直に腰を屈め、そこで見たものは。
「…………」
最初の三秒、脳がバグった。目の前がチカッとした。
見てくれと言われたその画面があまりにも、想定とは違っていたので。
俺が帰ったらまだ机に向かっていた。休日だろうとこうも熱心に仕事をしているのだと思った。カッコイイ大人が凛々しい顔で真面目に勤しんでいるのだと思った。
全く違う。そんなんじゃなかった。ふざけんなチクショウ期待させやがって。
この野郎、ゴムの検索中だ。
「…………いい年して何やってんすか」
「たまにはエッジの効いたことしねえと年若い恋人に飽きられるかもしれない」
「飽きねえからそんなもん買おうとするな」
あり得ないのをクリックしようとしていた。
「……仕事してんのかと思いましたよ」
「そんな味気ない事は遥希が帰ってくる前に終わらせた」
「真面目な顔して全く……」
「お前は仕事してる時の俺大好きだもんな。犬みてえにすっ飛んできた」
「噛みついてやるからな」
飛び掛かって椅子から突き落としてやりたい。
「それで?」
「はい?」」
「どれがいいんだ」
「ふざけてんですか」
「俺はこれがいいと思う」
「このエロオヤジが」
「恋人を喜ばせようと励むことの何が悪い」
「クソオヤジ。変態オヤジ」
「そうかよ。じゃあこれな」
「買ったら別れます」
「好きなくせに」
「このスケベジジイっ……!」
「ジジイとはなんだ」
「ジジイ以外のとこも気にしろよッ!!」
伝わってほしい所が違う。
「あんたはなんでそうなんだよ、たまにはまともなこと言えないんですか……ッ?」
「至ってまともだ」
「それがまともな部類に入るなら今頃人類は滅びてます」
「たとえ滅びてもお前への愛だけは誰にも消せない」
「わいてんのかクソ野郎」
「人が熱烈な告白してんのにいくらなんでも口悪すぎる」
「それももう二度と聞かなくて済みますよ。重量諸々の身体情報を俺に明かしたのは間違いでしたね。あなたをベランダから効率的に突き落とす計算式を今組み立ててるんで」
「殺したいほど俺を愛してんのは伝わったからひとまず落ち着け。そこまで言うなら教えてやるよ。これは仕事の一環だ」
「はあッ?」
「コンドームはれっきとした医療機器だからな」
「……なに言ってんだアンタ」
「嘘じゃない。日本の薬機法における分類で言うなら管理医療機器に該当する」
それっぽい事をそれらしい顔で言ってきた。
画面にデカデカ表示されているのはいくつかのメーカーのコンドーム一覧。右上にはカートのマークがある。すでに何か一個入ってんのが気になる。
だけど瀬名さんの顔は大真面目。嘘をついている男の顔ではない。ように見える。
「……そうなの?」
「ああ」
「……かんり、いりょう……」
「医療機器には三つの分類がある。一般医療機器と管理医療機器と高度管理医療機器な。これを国際分類に合わせるとⅠからⅣまでの四クラスに分かれるんだが、コンドームはこのうちのクラスⅡだ」
「クラス……?」
「そう。この数字が大きくなればなるほど人体と生命に対するリスクも高くなっていく。クラスⅡに当たる管理医療機器なら他に電子体温計なんかもそうだ」
「あぁ……じゃあもっと上のクラスになると病院にあるような専門機器だけが当てはまるってことですか……?」
「その場合がほとんどだがそうとも限らない。たとえば今だとコンタクトレンズが高度管理医療機器に含まれてる。これはクラスⅢだ。同じく高度管理医療機器でもクラスⅣに分類される機器だとリスク直結もデカくなるからより一層の精密性が求められる。ペースメーカーとか人工心臓弁とか」
「はぁ……」
すごくちゃんと説明された。
思ったよりも真っ当な回答だった。なんだか色々大変そうだけど、これだけは俺にもはっきり分かった。ゴムはれっきとした医療機器。四段階のうちの二つ目のレベル。
だが少し考えてみれば当然と言うべきなのかもしれない。幸運にも衛生的な国で衛生的な暮らしをできているうえに、十割方プレイ目的でしかないようなふざけた商品を量産している企業もないとは言えないのでうっかりすると忘れがちだが、これはそもそも衛生用品。いかがわしい用途のためだけに存在している代物ではない。
一つは避妊。一つは身を守るため。命と健康を保護し保持するための重要な助けにもなる。となればこれが医療機器だとしても、何ら不思議なことはないはず。
「そうなんだ……」
「ああ」
「……ごめんなさい。知らなかった」
「そこまで見て買ってる奴は普通いないから知らなくて当然だ」
もう一度改めてパソコンに向き合った。そこにあるのは相変わらずゴムの仕様をアピールする商品ページ。薄さがどうとか質感がどうとか。
この画像を見た瞬間に頭がピンク色で染まってしまった。よこしまな考えしか浮かばなかった。恥ずかしい人間なのは俺の方だ。
瀬名さんは今お仕事をしている。この大人は人の命を救うための仕事に日々関わっている。
「あ、じゃあもしかしてこれって敵情視察みたいな……?」
ライバル会社の動向を探るためにこんなページを見ていたのかもしれない。だとしたら勝手な決めつけで申し訳ない事を言ってしまった。
「知らなかった……M.A.Mでもこういうのって作るんだ……」
「いいや、まさか。ウチでは扱ってない」
「は?」
「ノータッチだ。掠りもしねえ」
「……はい?」
「ウチみてえなとこがやらなくても専門のメーカーがやってくれる。楽しい時代に生まれてよかった」
「…………」
瀬名さんの顔は真剣だ。はたから見れば真面目な話をしているように思えるだろう。
なんだろう。なんだこの、今にも叫び上げたい気分。
ほんの一瞬でも自分を恥じた俺がバカだった。後悔しかない。この男のこの顔に、騙されちゃならねえのは俺が一番よく知っている。
憤りかけたその直後にはもはや怒る気にもなれなくなってきた。ザアッと、波が引いていく。
「…………買い物行ってきます」
「待て。まずはこっちの買い物が先だ」
「勝手にやってろ」
「そう言うな。こいのは大事だぞ、一緒に選ぼう」
「嫌です。アンタなんかもう知らない」
「知らないとか言うなよ」
「会社で扱ってないんでしょ」
「扱ってない」
清々しくキッパリ言いやがって。正直ならいいってもんじゃねえぞ。
「…………行ってきます」
「短気なのは良くないなとお兄さんは思います」
「帰ってこないので探さないでください」
「一言でいいからツッコめよ恥ずかしいだろ」
知るか勝手に恥ずかしがってろ万年生き恥晒し野郎が。
頭がわいているスケベジジイには背を向けて机から離れた。だがこのジジイは俊敏なので即座に追いかけ迫ってくる。
「なあって、待て。遥希。おい。待て待て、待ってくれ」
次にはガシッと腕を掴まれた。鬱陶しく振り返る。
しかしそこには妙に、神妙な男の顔が。
「遥希……聞いてくれ」
真剣に、真っ直ぐ射抜かれた。俺の腕を掴むその手には、ほんの僅か、力が込められている。
「俺はあれをお前と試したい」
「真面目な顔でクソみてえな意思表明してくんな」
沸いてた。
「仕事で扱ってなくても良し悪しは分かる。いつものが好きなのはよく知ってるが今こそ新しい未来を切り開くチャンスだ」
「そんな未来はいりません。放せ」
「人間には時として冒険も必要になる。生まれ育った大陸を出て未知の海を目指した祖先がいるから今のこの社会が築かれた。生きるとはすなわち冒険だ」
「こんな冒険は必要ない」
「そんなこと言うなよ、一緒に高みを目指そう。俺達ならきっと素晴らしい経験を得られる」
「得たくねえっつってんですよ」
「バッハの良さは大人になってからじゃなきゃ分かんねえだろ。それと同じだ」
「人食い精神科医に食われてしまえ」
食われながらバッハに謝れ。
イライラしながら雑に振り払うも、二秒後にはまたガシッと掴まれた。
「頼む。後生だ。俺を助けると思って協力してほしい」
「しつこいですよ。つーか何が協力ですか。仕事とはなんも関係ねえじゃん」
「大アリだ。翌朝元気よく会社に行ける」
ピキッと、頬が引きつった。再びブンッとその手を振り払い、そして今度は俺の方からズカズカと机に向かった。
引っ掴んだのはワイヤレスマウス。即座にカチッとクリックし、それに合わせてパッと落ちたブラウザ。
これで良し。これでスッキリした。クソくだらない卑猥な商品のページを俺の視界から消し去ってやった。これでいい。これで落ち着いて買い物に行ける。
そうやって使命を果たした俺を、横からジトッと見てくるのはこの男。
「……何しやがるテメエ」
「こっちのセリフです」
「あれは夢と希望の詰まった素晴らしい製品だぞ」
「あんなもんにそんなもんは一ミリグラムも詰まってません」
「肌にも優しいラテックスフリーだ」
「やさしさの使いどころ間違ってんだよ」
少しは俺の精神を労われよ。
「仕事にかこつけて俺に協力を求めるのは二度とやめてください。こんなガキがあなたの役に立てる事なんてどうせ何もありませんから」
「拗ねんなよ」
「拗ねてねえよ」
「なんなら本当に協力してほしいくらいだ」
「俺には何もできないです」
「いいや、できる」
「適当抜かさないでもれますか」
「適当じゃねえ。ヘルスケアにはユーザーの意見が欠かせないからな」
「へえ。たとえば」
「医療機関連携の指導型健康管理アプリ。今ちょうどベータテストやってる」
「…………」
懲りずにまたそれらしい事をそれらしい顔して言ってきやがった。
今度は仕事用のスマホを手に取った瀬名さん。軽く操作したそれを渡され、差し出されるまま思わず受け取る。
何かのアプリが起動させてあった。見た感じ確かに、それらしきアプリだ。健康管理のためにメニュー画面がパッと表示されている。
「…………」
仕事にはちゃんと取り組む男が勤めている会社が何をしているかは多少なりとも気になるもので、コーポレートサイトだけはチラっと閲覧したことがある。本当は結構じっくり見た。
取り扱い種目のメインは病院で使うイカツい機材はもちろん、繊細な医療器具類の数々。医療AIの分野にもいち早く参入した企業の一つだ。
しかしこの国では健康寿命も喫緊の課題であると言える。M.A.Mでも最近は一般向け製品に乗り出していて、健康向上方面でも売り上げを伸ばしているのをそれとなく知っていた。
人生百年時代の今だからこそ予防医療にも積極的。たとえばアプリと連動する家庭用の診療機器とか。誰でも幅広く使いやすい健康管理製品とか。自宅で測った血圧やら何やらを医者に直接送信できるアプリとか。
診断に有用な日常使用のアプリに、命を守る機能に、健康管理に。インスリン治療を受けている患者向けの自己測定デバイスなんかもあるらしい。
それらを日々操作するのはもちろん医療従事者だけじゃない。患者もだ。自宅で。多くは自分一人で。年齢問わず自力で使う。
利用者はデジタルデバイスに慣れている人ばかりではないはず。じいちゃんばあちゃんも当然に利用する。むしろ人口の母数と割合を考えればそっちの方が断然多いだろう。となれば誰が見ても分かりやすい事を重視して機器を作り出さないとならない。
「な?」
「…………」
「仕事してる時の俺が大好きなお前がウチのホームページ覗いてたのは知ってる」
「このジジイ」
「ジジイはやめろ」
この人そこしか反応しねえな。
「遥希が協力してくれたら助かる」
この顔に真剣な口調で向き合って言われてしまうとどうしても詰まる。卑怯だ。なかなか食って掛かりにくい。
何せ顔がいいものだから。見惚れちまうような美しさだから。
「……まあ、そりゃ……俺にできることがあるなら」
「そうか、よかった。ありがとう。軽くでいいから操作してみて率直な感想聞かせてほしい」
「これどっかの先生とつながっちゃうの?」
「ユーザー設定して契約すればな。これはしてないから気軽にやってくれ」
言われた通り気軽にいじくってみる。見た感じシンプルな設計のアプリだ。軽くスクロールしたりタップしたりしてみればどういった用途のものかすぐに分かった。
体重や体脂肪率や腹囲などなどの項目がいくつかある。自分で好きなようにカスタマイズして記録できるのだろう。そのデータと日々の運動や食事内容なんかと照らし合わせて目標設定やら簡単なアドバイスやらが表示される仕様っぽい。
時折現れる白衣を着たタヌキのナビゲーションがちょっと可愛い。
この手の機能は邪魔になることも多いがこれは煩わしさを感じない。余程入念な事前リサーチでもしたのか、優良企業のやる事は細部まで抜かりないようだ。
欲しい時に欲しいところに来てくれる。こいつは瀬名さんみたいなタヌキだ。
仕事のできる白衣タヌキを感心しながら見下ろしていると、横から人間の方のタヌキが言った。
「そのタヌキさんはウザけりゃ消せる」
瀬名さんはタヌキさん消さなかったんだな。
「触ってみてどうだ。見づれえとか分かりにくいとかでもなんでもいい」
「うーん……」
と言われても。
見やすくて思い通りにスルスル動くし、直感でタップできるし分かりやすいし、タヌキさんの出てくるタイミングも的確だから特にウザい感じでもないし。
「……ていうかこれ瀬名さんの仕事? エンジニアでもないのに」
「使用感その他の評価が欲しい」
「ユーザビリティとかその辺のことならデザイン職みたいな人がやるんじゃないの?」
「最近は医療機器業界でもそういう会社増えてきたな」
「M.A.Mは?」
「デザイン部門もリサーチチームもある。ただこれは本来職域に関わらず全員が当然に考えるべきことだ」
またしてもそれらしい事をそれっぽい顔で言われた。
「ユーザーの感覚を知ろうともしねえような奴が物作って売ることなんかできない。前提すら満たせてなかったらただでさえ勝ち気な人員は誰もついてこなくなる」
「陽子さんが前に言ってましたよ。瀬名さんの言うことだったら皆素直に聞くだろうって」
「あ? 何言ってんだよ、あれのどこがだ」
本人に言えないからって俺に聞かれても困る。そんな嫌っそうに顔をしかめて心底不可解とでも言いたげに。
「あいつらは素直にうなずくだけの可愛げのあるタイプとは違う」
「部下の人達と仲悪いの?」
「そういう問題じゃねえ。上司の命令だろうと構わずぶった切って意見で返してくるような連中なんだよ。しかもそれが結構な高確率でかなりの妙案だったりする」
「素晴らしいじゃないですか」
「全くだ」
いいチームなんだろうな。信頼している上司でなければ命令に意見で返すなんてできないし、部下を信じている上司でなければ意見を聞き入れることもない。
チームワークチームワークと無駄に連呼して同じ方を頑張って向かせる組織より、一見すると自由気ままに好き勝手やってる集団の方が上手くまとまる事があるのは不思議だ。皮肉とも言うべきか。
なんだか良さそうなチームを率いているのがこの人。同時に責任も背負っている大人が、俺の感想を欲しがっている。
「でも……俺で何か役に立ちます? ていうかこのアプリ俺が見ちゃってもいいの?」
「まずいもんなら見せてない」
「……利用者でもなんでもない奴の感想聞いても意味なくないですか?」
「そんなことねえよ。助かる」
「たとえば?」
「すまねえが社外秘だ」
腹立つなあ。
これはまだ注意を怠ってはいけない。瀬名さんの特技は何を言ってももっともらしく聞こえるように喋ることだ。
隅々まで気を張っておかないといつの間にか丸め込まれている。完全に詐欺師の手口じゃねえか。
「ユーザー評価が欲しいなら実際に必要で使ってる人の反応見た方がいいんじゃないですか?」
「そのためのオープンベータだ」
「……なら俺の感想なおさら意味ないですよね」
「そうでもない」
「たとえば?」
「社外秘だ」
腹立つ。
なんかおかしいな。仕事にしては態度も口振りもフワフワしていて具体性にもやや欠ける。
ちょっとだけ見直しかけていたのが、どんどん怪しく思えてきた。
「……一応聞くんですけど」
「ああ」
「瀬名さんってこういうアプリにも関わってるんですか?」
「いいや、全く関わってない」
「は?」
「俺らのチームが担当してんのは医療従事者向けの機器だけだ」
「…………」
さっきから真っ正直にツラツラと。
「つーか個人向けのヘルスケアは完全に別事業だからそもそもの部署が違う。データ収集のための協力要請来てアプリだけは入れたけどな」
「…………」
この男は果たして分かっているのだろうか。人間はなんでも正直でさえあれば許されるというものではない。
直感的に操作しやすそうな健康アプリを見下ろした。瀬名さんは全くノータッチだと言う、タヌキさんの画面をパッと落とした。
机の上にコトッと置いたスマホ。そして去る。即刻背を向けた。
なんだったんだこのクソしょうもねえ時間は。俺の大切な十五分を返せ。
「行ってきます」
「おい。……おい。遥希。どこ行く」
「夕飯の買い物ですよ」
「なら俺も一緒に、」
「ついてきたらあんたの脳みそ切り取りってステーキにしてやるからな。それが嫌なら一人でおとなしくグールドのバッハでも聴いててください」
「それは人食い精神科医の好みだ」
香ばしく炙ってやる。
***
どんなに俺が威嚇しようとも瀬名さんは買い物にくっついてきたから、今日の晩ごはんは特売のこま切れ肉をジューシーに仕上げた焼き肉にする。
そう意気込んでミスター・ビーフのバラバラ死体を仕入れて帰宅したその後、エッジの効いた事をしたいらしい野郎は懲りずにあの商品ページを開きやがった。
ワンクリックで入れたログイン済みのマイページ。もしやこの男このショップの常連なのか。
カートの右上に表示されている数字はさっきも入っていた一個だろう。この世からクッキー消滅すればいいのに。
「……買ったらその場で別れますから」
「その判断は三日後の夜まで保留にしとけ。天国連れてく自信ある」
「俺はこの世に残ります。アンタは一人で地獄に落ちろ」
「そう言ってられんのも今のうちだ。なんせ俺は一流だからな」
「…………」
こんなクズ男と好きで付き合っているだなんて。
カートには新境地を目指すだか言うありえないゴムが入れられた。そしてさらに何やらもう一個不審なのが投入された。計三点をシレッとしつつも満足気に購入したクソ野郎。
到着予定日は三日後だ。受け渡し方法はポスト投函。瀬名さんに怪しい郵便物が届いたら、しばらく近づかないようにしよう。
今学期からは受験対策も入ってくるため週に二コマもしくは三コマに契約時間が増えたのだが、今日はぶっ続けで三コマだった。
マコトくんは相変わらずの努力家。マリエちゃんと同じ高校に行こうと約束したそうで気合を入れて頑張っている。合間に休憩は挟んでもらっているけど彼の集中力はすさまじい。
やり切ったマコトくんと次の目標を立ててから、帰宅したのは夕方前。瀬名さんは机に向かって黙々と仕事をしていた。
まだやってんのか。大変だな。午前中に俺を送り出した時点でパソコンは起動させていたから、それからずっと働いているのだろう。
「おかえり」
「はい……ただいま」
忙しくても俺が帰ってきたのに気付けばおかえりって言ってくれる。夕飯何食べたいですかって、今聞くのは邪魔になるかな。
脱いだジャケットをそっとハンガーにかけた。極力ドタバタ物音と足音を立ててしまわないように気を付ける。洗面所のドアの開閉もおしとやかに。水道の音はでもゴメン許して。水量には気を使ってみるから。
瀬名さんの洗練された動作を習得したいけど俺はまだまだだ。ローテーブルの前になるべく静かに腰を下ろして、ここからその横顔を眺めた。
「…………」
もしも俺の両目がスマホのレンズと直結してはたらく機能を備えていたら、四角くて平たい精密機械のメモリは瀬名恭吾で埋まっていたはずだ。
最新型じゃないとデータ収まらない。だってたぶん連写する。なんなら特に動きはなくても動画で全部撮っておきたい。
仕事中の瀬名さんは抜群にカッコイイ。パソコンにキリッと向かっている姿もとんでもなく様になる。黙ってりゃいい男だから、凛々しい印象しか伝わってこない。
普段はロクなこと言わない大人でも仕事には極めて厳格な人。そんな男のパソコンを後ろから覗き込むような真似はできないししようとも思わないが、たとえ俺が覗いたとしても困る事はないのだろう。
万が一にでも外部に漏れて困るようなものは社外でやらない。パソコンのユーザーアカウントもプライベート用と仕事用とで使い分けているくらいだ。仕事に対して厳しい男は、隅々まで余念なく体制を整える。
かっこいいモードの瀬名さんのために俺にできる事といえば、邪魔にならないようおとなしくしていることだけ。
夕飯何がいいか聞くのは後にしよう。でもせめてお茶くらいは淹れてこよう。そう思ってそそっと腰を上げたら、なんと呼ばれた。
「遥希」
ぱっと、顔を上げる。ちょいちょいと手招きされた。
「ちょっといいか」
フワッとした。若干浮いた。仕事中に呼ばれた。これは結構珍しいことだ。
なんだろう。やっぱお茶かな。いやでもそんな事でわざわざ呼びつけないはず。てことは俺にもついに何か、瀬名さんの役に立てることが。
一瞬のうちにここまで巡らせ、トトトトッと即座に駆け寄った。
「なんです?」
「ちょっとこれ見てくれ」
指さされたのはパソコンの画面。すぐさま素直に腰を屈め、そこで見たものは。
「…………」
最初の三秒、脳がバグった。目の前がチカッとした。
見てくれと言われたその画面があまりにも、想定とは違っていたので。
俺が帰ったらまだ机に向かっていた。休日だろうとこうも熱心に仕事をしているのだと思った。カッコイイ大人が凛々しい顔で真面目に勤しんでいるのだと思った。
全く違う。そんなんじゃなかった。ふざけんなチクショウ期待させやがって。
この野郎、ゴムの検索中だ。
「…………いい年して何やってんすか」
「たまにはエッジの効いたことしねえと年若い恋人に飽きられるかもしれない」
「飽きねえからそんなもん買おうとするな」
あり得ないのをクリックしようとしていた。
「……仕事してんのかと思いましたよ」
「そんな味気ない事は遥希が帰ってくる前に終わらせた」
「真面目な顔して全く……」
「お前は仕事してる時の俺大好きだもんな。犬みてえにすっ飛んできた」
「噛みついてやるからな」
飛び掛かって椅子から突き落としてやりたい。
「それで?」
「はい?」」
「どれがいいんだ」
「ふざけてんですか」
「俺はこれがいいと思う」
「このエロオヤジが」
「恋人を喜ばせようと励むことの何が悪い」
「クソオヤジ。変態オヤジ」
「そうかよ。じゃあこれな」
「買ったら別れます」
「好きなくせに」
「このスケベジジイっ……!」
「ジジイとはなんだ」
「ジジイ以外のとこも気にしろよッ!!」
伝わってほしい所が違う。
「あんたはなんでそうなんだよ、たまにはまともなこと言えないんですか……ッ?」
「至ってまともだ」
「それがまともな部類に入るなら今頃人類は滅びてます」
「たとえ滅びてもお前への愛だけは誰にも消せない」
「わいてんのかクソ野郎」
「人が熱烈な告白してんのにいくらなんでも口悪すぎる」
「それももう二度と聞かなくて済みますよ。重量諸々の身体情報を俺に明かしたのは間違いでしたね。あなたをベランダから効率的に突き落とす計算式を今組み立ててるんで」
「殺したいほど俺を愛してんのは伝わったからひとまず落ち着け。そこまで言うなら教えてやるよ。これは仕事の一環だ」
「はあッ?」
「コンドームはれっきとした医療機器だからな」
「……なに言ってんだアンタ」
「嘘じゃない。日本の薬機法における分類で言うなら管理医療機器に該当する」
それっぽい事をそれらしい顔で言ってきた。
画面にデカデカ表示されているのはいくつかのメーカーのコンドーム一覧。右上にはカートのマークがある。すでに何か一個入ってんのが気になる。
だけど瀬名さんの顔は大真面目。嘘をついている男の顔ではない。ように見える。
「……そうなの?」
「ああ」
「……かんり、いりょう……」
「医療機器には三つの分類がある。一般医療機器と管理医療機器と高度管理医療機器な。これを国際分類に合わせるとⅠからⅣまでの四クラスに分かれるんだが、コンドームはこのうちのクラスⅡだ」
「クラス……?」
「そう。この数字が大きくなればなるほど人体と生命に対するリスクも高くなっていく。クラスⅡに当たる管理医療機器なら他に電子体温計なんかもそうだ」
「あぁ……じゃあもっと上のクラスになると病院にあるような専門機器だけが当てはまるってことですか……?」
「その場合がほとんどだがそうとも限らない。たとえば今だとコンタクトレンズが高度管理医療機器に含まれてる。これはクラスⅢだ。同じく高度管理医療機器でもクラスⅣに分類される機器だとリスク直結もデカくなるからより一層の精密性が求められる。ペースメーカーとか人工心臓弁とか」
「はぁ……」
すごくちゃんと説明された。
思ったよりも真っ当な回答だった。なんだか色々大変そうだけど、これだけは俺にもはっきり分かった。ゴムはれっきとした医療機器。四段階のうちの二つ目のレベル。
だが少し考えてみれば当然と言うべきなのかもしれない。幸運にも衛生的な国で衛生的な暮らしをできているうえに、十割方プレイ目的でしかないようなふざけた商品を量産している企業もないとは言えないのでうっかりすると忘れがちだが、これはそもそも衛生用品。いかがわしい用途のためだけに存在している代物ではない。
一つは避妊。一つは身を守るため。命と健康を保護し保持するための重要な助けにもなる。となればこれが医療機器だとしても、何ら不思議なことはないはず。
「そうなんだ……」
「ああ」
「……ごめんなさい。知らなかった」
「そこまで見て買ってる奴は普通いないから知らなくて当然だ」
もう一度改めてパソコンに向き合った。そこにあるのは相変わらずゴムの仕様をアピールする商品ページ。薄さがどうとか質感がどうとか。
この画像を見た瞬間に頭がピンク色で染まってしまった。よこしまな考えしか浮かばなかった。恥ずかしい人間なのは俺の方だ。
瀬名さんは今お仕事をしている。この大人は人の命を救うための仕事に日々関わっている。
「あ、じゃあもしかしてこれって敵情視察みたいな……?」
ライバル会社の動向を探るためにこんなページを見ていたのかもしれない。だとしたら勝手な決めつけで申し訳ない事を言ってしまった。
「知らなかった……M.A.Mでもこういうのって作るんだ……」
「いいや、まさか。ウチでは扱ってない」
「は?」
「ノータッチだ。掠りもしねえ」
「……はい?」
「ウチみてえなとこがやらなくても専門のメーカーがやってくれる。楽しい時代に生まれてよかった」
「…………」
瀬名さんの顔は真剣だ。はたから見れば真面目な話をしているように思えるだろう。
なんだろう。なんだこの、今にも叫び上げたい気分。
ほんの一瞬でも自分を恥じた俺がバカだった。後悔しかない。この男のこの顔に、騙されちゃならねえのは俺が一番よく知っている。
憤りかけたその直後にはもはや怒る気にもなれなくなってきた。ザアッと、波が引いていく。
「…………買い物行ってきます」
「待て。まずはこっちの買い物が先だ」
「勝手にやってろ」
「そう言うな。こいのは大事だぞ、一緒に選ぼう」
「嫌です。アンタなんかもう知らない」
「知らないとか言うなよ」
「会社で扱ってないんでしょ」
「扱ってない」
清々しくキッパリ言いやがって。正直ならいいってもんじゃねえぞ。
「…………行ってきます」
「短気なのは良くないなとお兄さんは思います」
「帰ってこないので探さないでください」
「一言でいいからツッコめよ恥ずかしいだろ」
知るか勝手に恥ずかしがってろ万年生き恥晒し野郎が。
頭がわいているスケベジジイには背を向けて机から離れた。だがこのジジイは俊敏なので即座に追いかけ迫ってくる。
「なあって、待て。遥希。おい。待て待て、待ってくれ」
次にはガシッと腕を掴まれた。鬱陶しく振り返る。
しかしそこには妙に、神妙な男の顔が。
「遥希……聞いてくれ」
真剣に、真っ直ぐ射抜かれた。俺の腕を掴むその手には、ほんの僅か、力が込められている。
「俺はあれをお前と試したい」
「真面目な顔でクソみてえな意思表明してくんな」
沸いてた。
「仕事で扱ってなくても良し悪しは分かる。いつものが好きなのはよく知ってるが今こそ新しい未来を切り開くチャンスだ」
「そんな未来はいりません。放せ」
「人間には時として冒険も必要になる。生まれ育った大陸を出て未知の海を目指した祖先がいるから今のこの社会が築かれた。生きるとはすなわち冒険だ」
「こんな冒険は必要ない」
「そんなこと言うなよ、一緒に高みを目指そう。俺達ならきっと素晴らしい経験を得られる」
「得たくねえっつってんですよ」
「バッハの良さは大人になってからじゃなきゃ分かんねえだろ。それと同じだ」
「人食い精神科医に食われてしまえ」
食われながらバッハに謝れ。
イライラしながら雑に振り払うも、二秒後にはまたガシッと掴まれた。
「頼む。後生だ。俺を助けると思って協力してほしい」
「しつこいですよ。つーか何が協力ですか。仕事とはなんも関係ねえじゃん」
「大アリだ。翌朝元気よく会社に行ける」
ピキッと、頬が引きつった。再びブンッとその手を振り払い、そして今度は俺の方からズカズカと机に向かった。
引っ掴んだのはワイヤレスマウス。即座にカチッとクリックし、それに合わせてパッと落ちたブラウザ。
これで良し。これでスッキリした。クソくだらない卑猥な商品のページを俺の視界から消し去ってやった。これでいい。これで落ち着いて買い物に行ける。
そうやって使命を果たした俺を、横からジトッと見てくるのはこの男。
「……何しやがるテメエ」
「こっちのセリフです」
「あれは夢と希望の詰まった素晴らしい製品だぞ」
「あんなもんにそんなもんは一ミリグラムも詰まってません」
「肌にも優しいラテックスフリーだ」
「やさしさの使いどころ間違ってんだよ」
少しは俺の精神を労われよ。
「仕事にかこつけて俺に協力を求めるのは二度とやめてください。こんなガキがあなたの役に立てる事なんてどうせ何もありませんから」
「拗ねんなよ」
「拗ねてねえよ」
「なんなら本当に協力してほしいくらいだ」
「俺には何もできないです」
「いいや、できる」
「適当抜かさないでもれますか」
「適当じゃねえ。ヘルスケアにはユーザーの意見が欠かせないからな」
「へえ。たとえば」
「医療機関連携の指導型健康管理アプリ。今ちょうどベータテストやってる」
「…………」
懲りずにまたそれらしい事をそれらしい顔して言ってきやがった。
今度は仕事用のスマホを手に取った瀬名さん。軽く操作したそれを渡され、差し出されるまま思わず受け取る。
何かのアプリが起動させてあった。見た感じ確かに、それらしきアプリだ。健康管理のためにメニュー画面がパッと表示されている。
「…………」
仕事にはちゃんと取り組む男が勤めている会社が何をしているかは多少なりとも気になるもので、コーポレートサイトだけはチラっと閲覧したことがある。本当は結構じっくり見た。
取り扱い種目のメインは病院で使うイカツい機材はもちろん、繊細な医療器具類の数々。医療AIの分野にもいち早く参入した企業の一つだ。
しかしこの国では健康寿命も喫緊の課題であると言える。M.A.Mでも最近は一般向け製品に乗り出していて、健康向上方面でも売り上げを伸ばしているのをそれとなく知っていた。
人生百年時代の今だからこそ予防医療にも積極的。たとえばアプリと連動する家庭用の診療機器とか。誰でも幅広く使いやすい健康管理製品とか。自宅で測った血圧やら何やらを医者に直接送信できるアプリとか。
診断に有用な日常使用のアプリに、命を守る機能に、健康管理に。インスリン治療を受けている患者向けの自己測定デバイスなんかもあるらしい。
それらを日々操作するのはもちろん医療従事者だけじゃない。患者もだ。自宅で。多くは自分一人で。年齢問わず自力で使う。
利用者はデジタルデバイスに慣れている人ばかりではないはず。じいちゃんばあちゃんも当然に利用する。むしろ人口の母数と割合を考えればそっちの方が断然多いだろう。となれば誰が見ても分かりやすい事を重視して機器を作り出さないとならない。
「な?」
「…………」
「仕事してる時の俺が大好きなお前がウチのホームページ覗いてたのは知ってる」
「このジジイ」
「ジジイはやめろ」
この人そこしか反応しねえな。
「遥希が協力してくれたら助かる」
この顔に真剣な口調で向き合って言われてしまうとどうしても詰まる。卑怯だ。なかなか食って掛かりにくい。
何せ顔がいいものだから。見惚れちまうような美しさだから。
「……まあ、そりゃ……俺にできることがあるなら」
「そうか、よかった。ありがとう。軽くでいいから操作してみて率直な感想聞かせてほしい」
「これどっかの先生とつながっちゃうの?」
「ユーザー設定して契約すればな。これはしてないから気軽にやってくれ」
言われた通り気軽にいじくってみる。見た感じシンプルな設計のアプリだ。軽くスクロールしたりタップしたりしてみればどういった用途のものかすぐに分かった。
体重や体脂肪率や腹囲などなどの項目がいくつかある。自分で好きなようにカスタマイズして記録できるのだろう。そのデータと日々の運動や食事内容なんかと照らし合わせて目標設定やら簡単なアドバイスやらが表示される仕様っぽい。
時折現れる白衣を着たタヌキのナビゲーションがちょっと可愛い。
この手の機能は邪魔になることも多いがこれは煩わしさを感じない。余程入念な事前リサーチでもしたのか、優良企業のやる事は細部まで抜かりないようだ。
欲しい時に欲しいところに来てくれる。こいつは瀬名さんみたいなタヌキだ。
仕事のできる白衣タヌキを感心しながら見下ろしていると、横から人間の方のタヌキが言った。
「そのタヌキさんはウザけりゃ消せる」
瀬名さんはタヌキさん消さなかったんだな。
「触ってみてどうだ。見づれえとか分かりにくいとかでもなんでもいい」
「うーん……」
と言われても。
見やすくて思い通りにスルスル動くし、直感でタップできるし分かりやすいし、タヌキさんの出てくるタイミングも的確だから特にウザい感じでもないし。
「……ていうかこれ瀬名さんの仕事? エンジニアでもないのに」
「使用感その他の評価が欲しい」
「ユーザビリティとかその辺のことならデザイン職みたいな人がやるんじゃないの?」
「最近は医療機器業界でもそういう会社増えてきたな」
「M.A.Mは?」
「デザイン部門もリサーチチームもある。ただこれは本来職域に関わらず全員が当然に考えるべきことだ」
またしてもそれらしい事をそれっぽい顔で言われた。
「ユーザーの感覚を知ろうともしねえような奴が物作って売ることなんかできない。前提すら満たせてなかったらただでさえ勝ち気な人員は誰もついてこなくなる」
「陽子さんが前に言ってましたよ。瀬名さんの言うことだったら皆素直に聞くだろうって」
「あ? 何言ってんだよ、あれのどこがだ」
本人に言えないからって俺に聞かれても困る。そんな嫌っそうに顔をしかめて心底不可解とでも言いたげに。
「あいつらは素直にうなずくだけの可愛げのあるタイプとは違う」
「部下の人達と仲悪いの?」
「そういう問題じゃねえ。上司の命令だろうと構わずぶった切って意見で返してくるような連中なんだよ。しかもそれが結構な高確率でかなりの妙案だったりする」
「素晴らしいじゃないですか」
「全くだ」
いいチームなんだろうな。信頼している上司でなければ命令に意見で返すなんてできないし、部下を信じている上司でなければ意見を聞き入れることもない。
チームワークチームワークと無駄に連呼して同じ方を頑張って向かせる組織より、一見すると自由気ままに好き勝手やってる集団の方が上手くまとまる事があるのは不思議だ。皮肉とも言うべきか。
なんだか良さそうなチームを率いているのがこの人。同時に責任も背負っている大人が、俺の感想を欲しがっている。
「でも……俺で何か役に立ちます? ていうかこのアプリ俺が見ちゃってもいいの?」
「まずいもんなら見せてない」
「……利用者でもなんでもない奴の感想聞いても意味なくないですか?」
「そんなことねえよ。助かる」
「たとえば?」
「すまねえが社外秘だ」
腹立つなあ。
これはまだ注意を怠ってはいけない。瀬名さんの特技は何を言ってももっともらしく聞こえるように喋ることだ。
隅々まで気を張っておかないといつの間にか丸め込まれている。完全に詐欺師の手口じゃねえか。
「ユーザー評価が欲しいなら実際に必要で使ってる人の反応見た方がいいんじゃないですか?」
「そのためのオープンベータだ」
「……なら俺の感想なおさら意味ないですよね」
「そうでもない」
「たとえば?」
「社外秘だ」
腹立つ。
なんかおかしいな。仕事にしては態度も口振りもフワフワしていて具体性にもやや欠ける。
ちょっとだけ見直しかけていたのが、どんどん怪しく思えてきた。
「……一応聞くんですけど」
「ああ」
「瀬名さんってこういうアプリにも関わってるんですか?」
「いいや、全く関わってない」
「は?」
「俺らのチームが担当してんのは医療従事者向けの機器だけだ」
「…………」
さっきから真っ正直にツラツラと。
「つーか個人向けのヘルスケアは完全に別事業だからそもそもの部署が違う。データ収集のための協力要請来てアプリだけは入れたけどな」
「…………」
この男は果たして分かっているのだろうか。人間はなんでも正直でさえあれば許されるというものではない。
直感的に操作しやすそうな健康アプリを見下ろした。瀬名さんは全くノータッチだと言う、タヌキさんの画面をパッと落とした。
机の上にコトッと置いたスマホ。そして去る。即刻背を向けた。
なんだったんだこのクソしょうもねえ時間は。俺の大切な十五分を返せ。
「行ってきます」
「おい。……おい。遥希。どこ行く」
「夕飯の買い物ですよ」
「なら俺も一緒に、」
「ついてきたらあんたの脳みそ切り取りってステーキにしてやるからな。それが嫌なら一人でおとなしくグールドのバッハでも聴いててください」
「それは人食い精神科医の好みだ」
香ばしく炙ってやる。
***
どんなに俺が威嚇しようとも瀬名さんは買い物にくっついてきたから、今日の晩ごはんは特売のこま切れ肉をジューシーに仕上げた焼き肉にする。
そう意気込んでミスター・ビーフのバラバラ死体を仕入れて帰宅したその後、エッジの効いた事をしたいらしい野郎は懲りずにあの商品ページを開きやがった。
ワンクリックで入れたログイン済みのマイページ。もしやこの男このショップの常連なのか。
カートの右上に表示されている数字はさっきも入っていた一個だろう。この世からクッキー消滅すればいいのに。
「……買ったらその場で別れますから」
「その判断は三日後の夜まで保留にしとけ。天国連れてく自信ある」
「俺はこの世に残ります。アンタは一人で地獄に落ちろ」
「そう言ってられんのも今のうちだ。なんせ俺は一流だからな」
「…………」
こんなクズ男と好きで付き合っているだなんて。
カートには新境地を目指すだか言うありえないゴムが入れられた。そしてさらに何やらもう一個不審なのが投入された。計三点をシレッとしつつも満足気に購入したクソ野郎。
到着予定日は三日後だ。受け渡し方法はポスト投函。瀬名さんに怪しい郵便物が届いたら、しばらく近づかないようにしよう。
応援ありがとうございます!
11
お気に入りに追加
823
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる