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第4話 氷の彫像? いいえ、呪われた公爵様です
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翌朝、私は小鳥のさえずりではなく、窓ガラスがガタガタと震える風の音で目を覚ました。
やはりここは北の果てなのだと実感させられる目覚めだ。
けれど、布団の中は驚くほど暖かかった。
一度目覚めたものの、二度寝の誘惑に負けそうになる。
王都の聖堂にいた頃は、日の出前に叩き起こされ、冷水で顔を洗って祈祷に向かうのが日課だった。
こんな風に、陽が高くなるまでベッドで微睡むなんて、何年ぶりだろう。
「……堕落してしまいそう」
私は天井を見上げながら呟いた。
罪人として追放された身なのに、こんな贅沢をしていていいのだろうか。
ふと、昨夜のことを思い出す。
レオンハルト・アイスバーン公爵。
彼に触れられた時の、あの不思議な感覚。
彼の手から冷気が消え、私の体温と溶け合った瞬間の安らぎ。
「私の光、か……」
彼が言った言葉を反芻すると、頬が熱くなった。
聖女として崇められていた時でさえ、あんなに熱のこもった言葉を向けられたことはない。
カイル殿下にとって、私は便利な道具でしかなかったから。
コンコン、と控えめなノックの音がした。
「失礼いたします、エルナ様。朝食をお持ちしました」
入ってきたのは、昨日お世話になったメイド長のマーサさんだ。
彼女が押しているワゴンからは、何とも言えない芳しい香りが漂ってくる。
「おはようございます、マーサさん。わざわざお部屋まで……食堂に行かなくてよかったのですか?」
「旦那様のご配慮です。『まだ体力が戻っていないだろうから、部屋で取らせるように』と」
マーサさんは手際よくベッドサイドのテーブルに食事を並べていく。
湯気を立てる野菜たっぷりのクリームシチュー、焼きたての白パン、厚切りのベーコン、そして彩り豊かなサラダ。
王都の貴族の食事に比べれば素朴かもしれないが、私にとっては宝石箱のように見えた。
「……温かい」
スプーンでシチューを口に運んだ瞬間、涙が出そうになった。
野菜の甘みとミルクのコクが口いっぱいに広がる。
聖女時代の食事は、祈りの邪魔にならないよう、味気ない流動食や冷めたパンばかりだった。
食事を「美味しい」と感じることが、こんなにも幸せなことだったなんて。
「お口に合いましたか?」
「はい、とても……。こんなに美味しいシチュー、初めて食べました」
私が素直に感想を言うと、マーサさんは嬉しそうに目尻を下げた。
「それは何よりです。料理長も張り切った甲斐があるというものです。……この城では、温かい料理を食べること自体が、少し難しいものですから」
「難しい、ですか?」
「ええ。厨房からここへ運ぶ間に、冷めてしまうのです。廊下の気温が氷点下ですので。今回は保温の魔道具をフル活用して、急いで運んでまいりました」
なるほど。この城での生活は、寒さとの戦いなのだ。
それを聞いて、私はスプーンを握る手に力を込めた。
こんな風に気を使わせてしまって申し訳ない。
「あの、レオンハルト様は……?」
「旦那様なら、執務室にいらっしゃいます。食事がお済みになったら、お顔を見せに行かれますか? 旦那様もお待ちかねのご様子でしたし」
「はい、ぜひご挨拶させてください」
私は食事を終えると、クローゼットに用意されていた服に着替えた。
昨日のネグリジェも上質だったが、用意されていたドレスもまた素晴らしかった。
深い紺色のベルベット生地で、首元や袖口には白い毛皮があしらわれている。
防寒性が高く、それでいてシルエットが美しい。
王都で着ていた白い聖女服よりも、ずっと私に似合っている気がした。
部屋を出ると、廊下は冷蔵庫の中のように寒かった。
マーサさんが先導してくれなければ、迷子になって凍えていただろう。
石造りの廊下は薄暗く、窓の外は相変わらずの吹雪だ。
すれ違う使用人たちは皆、厚着をして足早に歩いている。
彼らは私を見ると、驚いたように目を見開き、そして深くお辞儀をした。
「あの方が、旦那様の呪いを……?」という囁き声が聞こえる。
どうやら、昨夜の一件はすでに城中に知れ渡っているらしい。
「こちらです」
マーサさんが重厚な扉の前で立ち止まった。
扉の表面には、うっすらと霜が降りている。
近づくだけで、冷気が肌を刺すのが分かった。
「どうぞ」
マーサさんに促され、私は緊張しながら扉をノックした。
「入れ」
中から聞こえた声は、昨日と同じく冷徹で、威厳に満ちていた。
私は意を決してノックブを回し、中へと入った。
そこは、広い執務室だった。
壁一面の本棚、巨大な暖炉、そして部屋の中央に置かれた大きな執務机。
けれど、違和感があった。
暖炉には火が入っているはずなのに、部屋の中は極寒だったのだ。
床には氷の結晶が花のように咲き乱れ、インク瓶やペン立てまでもが凍りついている。
そして、その中心に、彼がいた。
レオンハルト・アイスバーン公爵。
彼は執務机に向かい、書類に目を通していたのだが、その姿は異様だった。
微動だにしないのだ。
ペンを走らせる手も、書類をめくる指も、必要最小限の動きしかしていない。
瞬きすら惜しんでいるかのような、静止した姿。
美しい顔立ちは表情一つ変えず、まるで精巧に作られた氷の彫像のようだった。
「……来たか」
彼が顔を上げた。
その動作も、機械のように硬い。
「おはようございます、レオンハルト様。昨夜はありがとうございました。おかげさまで、体調もだいぶ良くなりました」
私はカーテシーをして挨拶をした。
「そうか。それは重畳だ」
彼は短く答え、ペンを置いた。
カチン、と硬質な音が響く。
「……驚いたか? 私のこの姿に」
彼は自嘲気味に口元を歪めた。
「まるで彫像でしょう? 王都の貴族たちは、私を『氷の彫像公爵』と呼んで嘲笑っているらしいからな」
「いえ、そのような……。ただ、とても静かだなと」
「動けないのだ」
彼はため息をつくように言った。その吐息が白い霧となって床に落ちる。
「私の呪いは、感情の昂ぶりや、身体の動きに連動して強まる。大きく動けば、それだけ周囲に冷気を撒き散らすことになる。だから、こうして石のように固まって過ごすしかない」
なんと窮屈な生活だろう。
自分の意志とは裏腹に、周囲を傷つけてしまう恐怖。
彼が「魔公爵」と呼ばれ、恐れられている裏には、こんな孤独な忍耐があったのだ。
「近くへ」
彼が言った。
「私のそばへ来てくれ、エルナ」
私は言われるままに、机の向こう側へと歩み寄った。
一歩近づくごとに、温度が下がっていくのが分かる。
普通の人間なら、この距離に立っただけで震えが止まらなくなるだろう。
でも、私の中にある何かが、彼の冷気と共鳴しているのか、不思議と苦痛はなかった。
彼は椅子に座ったまま、私に右手を差し出した。
「手を」
私が恐る恐る自分の手を重ねると、彼は私の手を両手で包み込んだ。
革手袋越しではない。素手だ。
ジュワッ……。
そんな音が聞こえてきそうなほど、劇的な変化だった。
彼の手から発せられていた冷気が、私の体温に触れた瞬間に霧散していく。
彼の手の甲に浮いていた氷の紋様が、スーッと肌に馴染んで消えていく。
「……ああ」
レオンハルト様が、深く息を吐いた。
それは、長い間水中にいた人が、ようやく水面に顔を出して酸素を吸い込んだ時のような、深い安堵の吐息だった。
「温かい……。身体が、軽い」
彼は私の手を握ったまま、強張っていた肩の力を抜いた。
彫像のようだった表情が崩れ、人間らしい柔らかな色が戻ってくる。
蒼い瞳が潤み、とろけるような甘い光を宿して私を見つめた。
「すごいな、君は。……まるで、極上のカイロだ」
「か、カイロですか?」
もっとロマンチックな例えはないのだろうか。
でも、彼の切実な表情を見ると、文句を言う気にはなれなかった。
それどころか、誰かの役に立てているという実感が、私の胸を温かく満たしていた。
「エルナ、頼みがある」
彼は私の手を離そうとせず、真剣な眼差しで言った。
「この城で働いてくれないか?」
「働く、ですか?」
「ああ。君のその『触れるだけで私の呪いを中和する』能力、私にとっては何よりも得難いものだ。報酬は弾む。衣食住は最高のものを用意するし、君が望むなら宝石でもドレスでも何でも買い与えよう」
彼は子供のように必死だった。
「仕事内容は簡単だ。私のそばにいて、時々こうして手を握ったり、触れたりしてくれればいい。……いや、ずっとそばにいてくれるなら、それに越したことはないが」
「……えっと」
それはつまり、人間暖房器具としての雇用ということだろうか。
聖女としての激務に比べれば、あまりにも破格の好条件だ。
しかも、この美しい公爵様の手を握っているだけでいいなんて。
「お断りする理由がありません。私には行く当てもありませんし……置いていただけるなら、喜んで」
私が答えると、彼はパッと顔を輝かせた。
それはもう、見ていて眩しいくらいの美貌の破壊力だった。
氷の貴公子が、春の日差しのように笑うのだ。
これを見て落ちない女性がいるだろうか。いや、いない。
「ありがとう、エルナ。……契約成立だ」
彼は嬉しさのあまりか、握っていた私の手を引き寄せ、その甲に口付けを落とした。
「っ!?」
私は飛び上がるほど驚いた。
貴族の挨拶としての口付けではない。
もっと執着の篭った、熱っぽいキスだった。
「レ、レオンハルト様!?」
「ああ、すまない。あまりにも嬉しくて、つい」
彼は悪びれもせず、しかしうっとりとした顔で私の手を見つめている。
「これからよろしく頼む。……私の可愛いエルナ」
「か、可愛い……?」
聞き間違いだろうか。
地味で可愛げがないと婚約破棄された私が、可愛い?
「ああ、可愛いとも。雪の精霊のようだ。……黒髪も美しい。私が今まで見たどんな宝石よりも」
彼はサラリと甘い言葉を口にする。
どうやらこの公爵様、呪いが解けると性格も少し溶けるらしい。
それとも、これが彼の本性なのだろうか。
その時、執務室の扉が勢いよく開かれた。
「旦那様! 大変です!」
飛び込んできたのは、初老の執事だった。
彼は私とレオンハルト様が手を握り合っているのを見て、一瞬ギョッとしたように固まったが、すぐにプロ根性で表情を引き締めた。
「し、失礼いたしました! ですが、緊急事態でして!」
レオンハルト様は不機嫌そうに眉をひそめた。
私と繋いでいた手を離すのが惜しいのか、片手はまだ私の指を絡めている。
「なんだ、騒々しい。せっかくエルナとの時間を楽しんでいたというのに」
「楽しまないでください! ……王都からの視察団が、領境に到着したとの報告が入りました!」
「視察団?」
「はい。聖女を追放した件で、正しく処刑……いえ、引き渡しが行われたか確認するための使者かと。カイル王子の直属の騎士団が含まれているようです」
カイル様の騎士団。
その言葉に、私の背筋が凍った。
彼らは私が死んだことを確認しに来たのだろうか。
それとも、まだ何か私に用があるというの?
不安に震える私の手を、レオンハルト様が強く握りしめた。
「安心しろ、エルナ」
彼の声は低く、そして絶対的な自信に満ちていた。
「君はもう、私のものだ。私の城にいる限り、指一本触れさせはしない」
彼は立ち上がった。
先ほどまでの「動けない彫像」ではない。
流れるような動作で立ち上がり、私を背に庇うようにして執事に向き直る。
その姿は、魔獣をも恐れぬ「北の魔公爵」そのものだった。
「セバスチャン、客間の用意は必要ない。追い返す」
「はっ……しかし、相手は王家の使者ですが」
「構わん。私の領土に入りたければ、それ相応の覚悟をしてきてもらおう」
彼はニヤリと笑った。
その笑顔は美しく、そして背筋が寒くなるほど冷酷だった。
「私の大事な『カイロ』を傷つけた連中だ。……少しばかり、北の冬の厳しさを教えてやるのも一興だろう?」
ああ、やっぱり。
この人、怒らせてはいけないタイプの人だ。
でも、その怒りが私のために向けられていると思うと、不思議と恐怖心は湧かなかった。
むしろ、胸の奥がくすぐったいような、守られているという安心感があった。
こうして、私のアイスバーン城での生活が始まった。
「人間カイロ」としての奇妙な雇用関係。
そして、これから始まるであろう、元婚約者たちへの痛快な「ざまぁ」劇の幕開けでもあった。
(第4話 完)
やはりここは北の果てなのだと実感させられる目覚めだ。
けれど、布団の中は驚くほど暖かかった。
一度目覚めたものの、二度寝の誘惑に負けそうになる。
王都の聖堂にいた頃は、日の出前に叩き起こされ、冷水で顔を洗って祈祷に向かうのが日課だった。
こんな風に、陽が高くなるまでベッドで微睡むなんて、何年ぶりだろう。
「……堕落してしまいそう」
私は天井を見上げながら呟いた。
罪人として追放された身なのに、こんな贅沢をしていていいのだろうか。
ふと、昨夜のことを思い出す。
レオンハルト・アイスバーン公爵。
彼に触れられた時の、あの不思議な感覚。
彼の手から冷気が消え、私の体温と溶け合った瞬間の安らぎ。
「私の光、か……」
彼が言った言葉を反芻すると、頬が熱くなった。
聖女として崇められていた時でさえ、あんなに熱のこもった言葉を向けられたことはない。
カイル殿下にとって、私は便利な道具でしかなかったから。
コンコン、と控えめなノックの音がした。
「失礼いたします、エルナ様。朝食をお持ちしました」
入ってきたのは、昨日お世話になったメイド長のマーサさんだ。
彼女が押しているワゴンからは、何とも言えない芳しい香りが漂ってくる。
「おはようございます、マーサさん。わざわざお部屋まで……食堂に行かなくてよかったのですか?」
「旦那様のご配慮です。『まだ体力が戻っていないだろうから、部屋で取らせるように』と」
マーサさんは手際よくベッドサイドのテーブルに食事を並べていく。
湯気を立てる野菜たっぷりのクリームシチュー、焼きたての白パン、厚切りのベーコン、そして彩り豊かなサラダ。
王都の貴族の食事に比べれば素朴かもしれないが、私にとっては宝石箱のように見えた。
「……温かい」
スプーンでシチューを口に運んだ瞬間、涙が出そうになった。
野菜の甘みとミルクのコクが口いっぱいに広がる。
聖女時代の食事は、祈りの邪魔にならないよう、味気ない流動食や冷めたパンばかりだった。
食事を「美味しい」と感じることが、こんなにも幸せなことだったなんて。
「お口に合いましたか?」
「はい、とても……。こんなに美味しいシチュー、初めて食べました」
私が素直に感想を言うと、マーサさんは嬉しそうに目尻を下げた。
「それは何よりです。料理長も張り切った甲斐があるというものです。……この城では、温かい料理を食べること自体が、少し難しいものですから」
「難しい、ですか?」
「ええ。厨房からここへ運ぶ間に、冷めてしまうのです。廊下の気温が氷点下ですので。今回は保温の魔道具をフル活用して、急いで運んでまいりました」
なるほど。この城での生活は、寒さとの戦いなのだ。
それを聞いて、私はスプーンを握る手に力を込めた。
こんな風に気を使わせてしまって申し訳ない。
「あの、レオンハルト様は……?」
「旦那様なら、執務室にいらっしゃいます。食事がお済みになったら、お顔を見せに行かれますか? 旦那様もお待ちかねのご様子でしたし」
「はい、ぜひご挨拶させてください」
私は食事を終えると、クローゼットに用意されていた服に着替えた。
昨日のネグリジェも上質だったが、用意されていたドレスもまた素晴らしかった。
深い紺色のベルベット生地で、首元や袖口には白い毛皮があしらわれている。
防寒性が高く、それでいてシルエットが美しい。
王都で着ていた白い聖女服よりも、ずっと私に似合っている気がした。
部屋を出ると、廊下は冷蔵庫の中のように寒かった。
マーサさんが先導してくれなければ、迷子になって凍えていただろう。
石造りの廊下は薄暗く、窓の外は相変わらずの吹雪だ。
すれ違う使用人たちは皆、厚着をして足早に歩いている。
彼らは私を見ると、驚いたように目を見開き、そして深くお辞儀をした。
「あの方が、旦那様の呪いを……?」という囁き声が聞こえる。
どうやら、昨夜の一件はすでに城中に知れ渡っているらしい。
「こちらです」
マーサさんが重厚な扉の前で立ち止まった。
扉の表面には、うっすらと霜が降りている。
近づくだけで、冷気が肌を刺すのが分かった。
「どうぞ」
マーサさんに促され、私は緊張しながら扉をノックした。
「入れ」
中から聞こえた声は、昨日と同じく冷徹で、威厳に満ちていた。
私は意を決してノックブを回し、中へと入った。
そこは、広い執務室だった。
壁一面の本棚、巨大な暖炉、そして部屋の中央に置かれた大きな執務机。
けれど、違和感があった。
暖炉には火が入っているはずなのに、部屋の中は極寒だったのだ。
床には氷の結晶が花のように咲き乱れ、インク瓶やペン立てまでもが凍りついている。
そして、その中心に、彼がいた。
レオンハルト・アイスバーン公爵。
彼は執務机に向かい、書類に目を通していたのだが、その姿は異様だった。
微動だにしないのだ。
ペンを走らせる手も、書類をめくる指も、必要最小限の動きしかしていない。
瞬きすら惜しんでいるかのような、静止した姿。
美しい顔立ちは表情一つ変えず、まるで精巧に作られた氷の彫像のようだった。
「……来たか」
彼が顔を上げた。
その動作も、機械のように硬い。
「おはようございます、レオンハルト様。昨夜はありがとうございました。おかげさまで、体調もだいぶ良くなりました」
私はカーテシーをして挨拶をした。
「そうか。それは重畳だ」
彼は短く答え、ペンを置いた。
カチン、と硬質な音が響く。
「……驚いたか? 私のこの姿に」
彼は自嘲気味に口元を歪めた。
「まるで彫像でしょう? 王都の貴族たちは、私を『氷の彫像公爵』と呼んで嘲笑っているらしいからな」
「いえ、そのような……。ただ、とても静かだなと」
「動けないのだ」
彼はため息をつくように言った。その吐息が白い霧となって床に落ちる。
「私の呪いは、感情の昂ぶりや、身体の動きに連動して強まる。大きく動けば、それだけ周囲に冷気を撒き散らすことになる。だから、こうして石のように固まって過ごすしかない」
なんと窮屈な生活だろう。
自分の意志とは裏腹に、周囲を傷つけてしまう恐怖。
彼が「魔公爵」と呼ばれ、恐れられている裏には、こんな孤独な忍耐があったのだ。
「近くへ」
彼が言った。
「私のそばへ来てくれ、エルナ」
私は言われるままに、机の向こう側へと歩み寄った。
一歩近づくごとに、温度が下がっていくのが分かる。
普通の人間なら、この距離に立っただけで震えが止まらなくなるだろう。
でも、私の中にある何かが、彼の冷気と共鳴しているのか、不思議と苦痛はなかった。
彼は椅子に座ったまま、私に右手を差し出した。
「手を」
私が恐る恐る自分の手を重ねると、彼は私の手を両手で包み込んだ。
革手袋越しではない。素手だ。
ジュワッ……。
そんな音が聞こえてきそうなほど、劇的な変化だった。
彼の手から発せられていた冷気が、私の体温に触れた瞬間に霧散していく。
彼の手の甲に浮いていた氷の紋様が、スーッと肌に馴染んで消えていく。
「……ああ」
レオンハルト様が、深く息を吐いた。
それは、長い間水中にいた人が、ようやく水面に顔を出して酸素を吸い込んだ時のような、深い安堵の吐息だった。
「温かい……。身体が、軽い」
彼は私の手を握ったまま、強張っていた肩の力を抜いた。
彫像のようだった表情が崩れ、人間らしい柔らかな色が戻ってくる。
蒼い瞳が潤み、とろけるような甘い光を宿して私を見つめた。
「すごいな、君は。……まるで、極上のカイロだ」
「か、カイロですか?」
もっとロマンチックな例えはないのだろうか。
でも、彼の切実な表情を見ると、文句を言う気にはなれなかった。
それどころか、誰かの役に立てているという実感が、私の胸を温かく満たしていた。
「エルナ、頼みがある」
彼は私の手を離そうとせず、真剣な眼差しで言った。
「この城で働いてくれないか?」
「働く、ですか?」
「ああ。君のその『触れるだけで私の呪いを中和する』能力、私にとっては何よりも得難いものだ。報酬は弾む。衣食住は最高のものを用意するし、君が望むなら宝石でもドレスでも何でも買い与えよう」
彼は子供のように必死だった。
「仕事内容は簡単だ。私のそばにいて、時々こうして手を握ったり、触れたりしてくれればいい。……いや、ずっとそばにいてくれるなら、それに越したことはないが」
「……えっと」
それはつまり、人間暖房器具としての雇用ということだろうか。
聖女としての激務に比べれば、あまりにも破格の好条件だ。
しかも、この美しい公爵様の手を握っているだけでいいなんて。
「お断りする理由がありません。私には行く当てもありませんし……置いていただけるなら、喜んで」
私が答えると、彼はパッと顔を輝かせた。
それはもう、見ていて眩しいくらいの美貌の破壊力だった。
氷の貴公子が、春の日差しのように笑うのだ。
これを見て落ちない女性がいるだろうか。いや、いない。
「ありがとう、エルナ。……契約成立だ」
彼は嬉しさのあまりか、握っていた私の手を引き寄せ、その甲に口付けを落とした。
「っ!?」
私は飛び上がるほど驚いた。
貴族の挨拶としての口付けではない。
もっと執着の篭った、熱っぽいキスだった。
「レ、レオンハルト様!?」
「ああ、すまない。あまりにも嬉しくて、つい」
彼は悪びれもせず、しかしうっとりとした顔で私の手を見つめている。
「これからよろしく頼む。……私の可愛いエルナ」
「か、可愛い……?」
聞き間違いだろうか。
地味で可愛げがないと婚約破棄された私が、可愛い?
「ああ、可愛いとも。雪の精霊のようだ。……黒髪も美しい。私が今まで見たどんな宝石よりも」
彼はサラリと甘い言葉を口にする。
どうやらこの公爵様、呪いが解けると性格も少し溶けるらしい。
それとも、これが彼の本性なのだろうか。
その時、執務室の扉が勢いよく開かれた。
「旦那様! 大変です!」
飛び込んできたのは、初老の執事だった。
彼は私とレオンハルト様が手を握り合っているのを見て、一瞬ギョッとしたように固まったが、すぐにプロ根性で表情を引き締めた。
「し、失礼いたしました! ですが、緊急事態でして!」
レオンハルト様は不機嫌そうに眉をひそめた。
私と繋いでいた手を離すのが惜しいのか、片手はまだ私の指を絡めている。
「なんだ、騒々しい。せっかくエルナとの時間を楽しんでいたというのに」
「楽しまないでください! ……王都からの視察団が、領境に到着したとの報告が入りました!」
「視察団?」
「はい。聖女を追放した件で、正しく処刑……いえ、引き渡しが行われたか確認するための使者かと。カイル王子の直属の騎士団が含まれているようです」
カイル様の騎士団。
その言葉に、私の背筋が凍った。
彼らは私が死んだことを確認しに来たのだろうか。
それとも、まだ何か私に用があるというの?
不安に震える私の手を、レオンハルト様が強く握りしめた。
「安心しろ、エルナ」
彼の声は低く、そして絶対的な自信に満ちていた。
「君はもう、私のものだ。私の城にいる限り、指一本触れさせはしない」
彼は立ち上がった。
先ほどまでの「動けない彫像」ではない。
流れるような動作で立ち上がり、私を背に庇うようにして執事に向き直る。
その姿は、魔獣をも恐れぬ「北の魔公爵」そのものだった。
「セバスチャン、客間の用意は必要ない。追い返す」
「はっ……しかし、相手は王家の使者ですが」
「構わん。私の領土に入りたければ、それ相応の覚悟をしてきてもらおう」
彼はニヤリと笑った。
その笑顔は美しく、そして背筋が寒くなるほど冷酷だった。
「私の大事な『カイロ』を傷つけた連中だ。……少しばかり、北の冬の厳しさを教えてやるのも一興だろう?」
ああ、やっぱり。
この人、怒らせてはいけないタイプの人だ。
でも、その怒りが私のために向けられていると思うと、不思議と恐怖心は湧かなかった。
むしろ、胸の奥がくすぐったいような、守られているという安心感があった。
こうして、私のアイスバーン城での生活が始まった。
「人間カイロ」としての奇妙な雇用関係。
そして、これから始まるであろう、元婚約者たちへの痛快な「ざまぁ」劇の幕開けでもあった。
(第4話 完)
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