5 / 7
第5話 私の祈りが、彼の呪いを溶かすなら
しおりを挟む
「……あの、レオンハルト様。本当によろしいのですか? 執務のお邪魔ではないでしょうか」
「いいや、全く邪魔ではない。むしろ、かつてないほど捗っている」
その日の午後、私はアイスバーン城の執務室で、不思議な時間を過ごしていた。
部屋の中央にある重厚な執務机。
その主であるレオンハルト様の隣に椅子を並べ、私は彼の左手を両手で包み込むようにして握っていた。
彼は右手でペンを走らせ、次々と書類に決裁を下している。
その速度は凄まじかった。
昨日見た時は、まるでスローモーションのように重苦しい動きだったのが嘘のようだ。
サラサラとペン先が紙の上を滑る音だけが、静かな部屋に響いている。
「私の呪いは、思考をクリアにする反面、肉体の動きを極端に阻害する。関節の一つ一つに錆びついた鎧をまとっているようなものだ。だが……」
彼はペンを止めず、チラリと私を見た。
その蒼い瞳が、愛おしげに細められる。
「君が触れていると、その重さが消える。血が巡り、指先まで意志が通う。これほど体が軽いのは、呪いを受けて以来、十年ぶりのことだ」
十年。
その年月の重みに、私は息を呑んだ。
まだ二十代半ばに見える彼が、人生の半分近くを、あの氷の檻の中で過ごしてきたというのか。
「お役に立てているなら、嬉しいです」
私は握っている彼の手に、少しだけ力を込めた。
ひんやりとしていた彼の肌が、私の体温と混じり合って、人肌の温もりを帯びていく。
その変化を感じるたびに、私の胸の奥がキュッとなる。
聖女として結界を張っていた時は、魔力を吸い上げられるだけの苦痛と徒労感しかなかった。
けれど、彼との「契約」は違う。
私が彼に熱を与える代わりに、彼からも何かを受け取っているような……そんな循環を感じるのだ。
「それにしても、不思議だな」
レオンハルト様は書類の山を片付けると、ふう、と息をついてペンを置いた。
「君の魔力は枯渇しているはずだと言ったな。なのに、なぜこれほど温かい? ただの体温にしては、呪いへの干渉力が強すぎる」
「……分かりません。ただ、レオンハルト様に触れていると、体の奥から少しずつ力が湧いてくるような気がするのです」
それは嘘偽りのない感覚だった。
昨夜、空っぽだったはずの私の魔力回路に、小さな灯火がともった。
そして今、彼の手を握っていると、その灯火が少しずつ大きくなり、安定していくのが分かる。
「おそらく、相性なのだろうな」
彼は納得したように頷いた。
「私の持つ『氷の魔力』と、君の持つ『聖女の魔力』。本来なら相反するものだが、どうやら君と私の間では、互いを補完し合う作用が働いているらしい」
彼は空いた右手で、私の頬に触れた。
昨日は手袋越しだったその手が、今は素手で、優しく私の輪郭をなぞる。
「君は私を溶かし、私は君を満たす。……運命的だと思わないか?」
「う、運命……」
そんな大それた言葉を、彼は真顔で口にする。
至近距離で見つめられ、私は顔が熱くなるのを止められなかった。
氷の貴公子と呼ばれた彼が、こんなに情熱的な瞳をするなんて、誰も知らないだろう。
「レオンハルト様、失礼します。お茶をお持ちしました」
タイミングよく、ノックとともに扉が開いた。
入ってきたのは執事のセバスチャンだ。
彼は銀のトレイにお茶セットを載せて入ってきたが、その足取りがどこかぎこちない。
そして、部屋の中央あたりまで進んだところで、ピタリと足を止め、目を見開いた。
「こ、これは……」
セバスチャンの視線が、私たちが座っている机の周り……ではなく、部屋全体に向けられている。
「どうした、セバスチャン」
「だ、旦那様……。部屋が、凍っておりません」
言われてみれば、その通りだった。
今朝、私が初めてこの部屋に入った時は、床も壁も霜で覆われ、インク瓶すら凍りついていた。
けれど今は、床の氷は消え失せ、本来の美しい寄木細工の床が見えている。
窓ガラスの霜も溶け、外の雪景色がクリアに見えていた。
暖炉の火も、昨日の弱々しいものではなく、パチパチと元気に燃え上がっている。
「ああ。エルナのおかげだ」
レオンハルト様は当然のように言った。
「彼女がそばにいるだけで、私の冷気が制御される。無意識に撒き散らしていた冷気を抑え込めるようになったのだ」
「なんという……奇跡でしょうか」
セバスチャンは震える声で呟き、トレイを持ったまま深々と頭を下げた。
その目元が、少し潤んでいるように見えたのは気のせいではないだろう。
「長年、旦那様がどれほど苦しんでおられたか、私どもは見ていることしかできませんでした。それが、こんな……。エルナ様、貴女様はまさしく、この城に舞い降りた女神です」
「め、女神だなんて! 私はただ、手を握っているだけで……」
「それが尊いのです!」
セバスチャンは顔を上げ、熱弁を振るった。
「誰も触れることのできなかった旦那様に触れ、その孤独を癒やしてくださった。これ以上の救いがありましょうか。……どうぞ、この紅茶は私の最高傑作でございます。温かいうちに召し上がってください」
差し出された紅茶からは、極上の香りが漂っていた。
そして何より、湯気が立っていた。
この城ではすぐに冷めてしまうはずの紅茶が、温かいままカップに注がれる。
その当たり前の光景が、ここでは奇跡なのだ。
「ありがとう、セバスチャン。美味しい」
私が一口飲むと、セバスチャンは感無量といった表情で再び頭を下げ、静かに退室していった。
「……大げさだな」
レオンハルト様は苦笑したが、その表情は柔らかかった。
「でも、彼らの気持ちも分かります。ずっと、レオンハルト様のことを心配していたのでしょうね」
「心配、か。……化け物だと恐れられていると思っていたが」
「そんなことありません。マーサさんも、他の使用人の方々も、皆レオンハルト様を敬愛していますわ。だからこそ、貴方が苦しんでいる姿を見るのが辛かったのだと思います」
私の言葉に、彼は少し驚いたように瞬きをした。
そして、握っていた私の手を持ち上げ、指先の一本一本に口付けを落とし始めた。
「……っ、レオンハルト様!?」
「君は本当に、心が綺麗だな」
親指、人差し指、中指……。
ゆっくりと、愛おしむようなキスが続く。
その感触に、背筋がゾクゾクと震えた。
「国を追われ、婚約者に裏切られたというのに、他人を思いやる優しさを失っていない。……カイル王子は、とんだ節穴だ。真の宝石をドブに捨て、メッキのガラス玉を拾ったのだから」
「そ、それは言い過ぎです……」
「いいや、事実だ。だが、感謝もしよう。おかげで君は私のものになった」
彼は私の手のひらに頬を寄せ、甘えるようにすり寄せた。
「エルナ。もっと君の力が知りたい。……試してみてもいいか?」
「試す、とは?」
「君の『祈り』だ。聖女としての力を使えば、さらに呪いを抑制できるかもしれない」
「でも、今の私には十分な魔力が……」
「大丈夫だ。私の魔力を君に流す。君というフィルターを通せば、私の氷の魔力も、聖なる力に変換できるかもしれない」
それは危険な賭けにも思えた。
属性の違う魔力を体に入れるのは、激しい拒絶反応を引き起こすこともある。
けれど、彼を見ていると、不思議と「できる」という確信が湧いてきた。
「……分かりました。やってみます」
私は椅子から立ち上がり、彼に向き合った。
彼も立ち上がり、私の両肩に手を置く。
「いくぞ」
彼の瞳が蒼く輝いた。
次の瞬間、冷たくて強大なエネルギーが、肩から私の中へと流れ込んできた。
普通なら凍りついてしまうような奔流。
けれど、それは私の中心にある「聖女の核」に触れた途端、温かな光へと変わった。
(ああ……これは)
懐かしい感覚。
でも、王都で感じていた義務的な魔力ではない。
もっと純粋で、透き通った力。
私は目を閉じ、両手を彼の胸に当てた。
祈る。
どうか、彼の苦痛が和らぎますように。
彼を縛る氷の呪いが、少しでも溶けますように。
彼が、もっと自由に笑えますように。
『――浄化』
言葉にした瞬間、私の手から淡い金色の光が溢れ出した。
その光は彼の胸に吸い込まれ、全身へと広がっていく。
バキキキッ……!
何かが割れるような音が、彼の体の中から聞こえた。
痛みを伴う音ではない。
硬い殻が砕け落ちるような、開放の音だ。
「……っ!」
レオンハルト様が小さく息を呑んだ。
光が収まると、彼は自分の両手を見つめ、そしてゆっくりと首を回した。
関節が鳴る音さえもしない、滑らかな動き。
「信じられない……」
彼が私を見た。
その顔には、少年のような驚きと喜びが浮かんでいた。
「魔力の通り道にあった澱みが、完全に消えている。……今まで、呼吸をするのさえ冷たい泥の中にいるようだったのが、今は春風の中にいるようだ」
彼は衝動的に私を抱きしめた。
力強い腕。鼓動の音が、私の耳元で高鳴っている。
「すごいぞ、エルナ! 君の祈りは、本当に奇跡だ!」
「レオンハルト様、苦しいです……!」
「ああ、すまない。嬉しくて、つい」
彼は腕を緩めたが、離そうとはしなかった。
むしろ、さらに密着するように私を抱き寄せ、その顎を私の頭に乗せた。
「君を離したくない。……もう二度と、この温もりなしでは生きられない体になってしまったようだ」
「えっと、それは責任重大ですね……」
「ああ、責任をとってもらおう。一生かけてな」
彼の低音ボイスが鼓膜を揺らす。
一生、という言葉の重みに、心臓が跳ねた。
これはプロポーズなのだろうか? それとも、高性能カイロとしての長期契約の確認なのだろうか?
どちらにせよ、私の居場所はここにあるのだと、強く感じられた。
その時だった。
窓の外、吹雪の向こうから、不穏な気配が近づいてくるのを、私の聖女としての感覚が捉えた。
同時に、執務室の扉が再びノックされた。
「旦那様、急報です!」
入ってきたのは、城の警備を任されている騎士団長だった。
彼は険しい表情で、短く告げた。
「領境で立ち往生していた王家の視察団ですが……強行突破を図ったようです。魔導具を使って吹雪を一時的に晴らし、こちらへ向かってきています。あと一時間ほどで到着するかと」
部屋の空気が、一瞬にして凍りついた。
レオンハルト様が私を抱きしめる腕に、力がこもる。
先ほどまでの甘い雰囲気は消え失せ、彼の瞳は再び「魔公爵」の冷徹さを宿していた。
「……ほう。死に急ぐか、愚か者ども」
彼は私をゆっくりと離すと、マントを翻して窓際に立った。
その背中から、どす黒いほどの冷気が立ち上る。
「私の領土に土足で踏み入ることが、どれほどの代償を伴うか。……教えてやる必要があるようだな」
「レオンハルト様……」
「エルナ、君は部屋にいろ。決して出るな」
彼は振り返り、私に命じた。
けれど、私は首を横に振った。
「いいえ。私も行きます」
「なっ……何を言う! 奴らは君を殺しに来たかもしれないんだぞ!?」
「だからこそです。私が逃げ隠れすれば、彼らはこの城を捜索しようとするでしょう。そうなれば、城の皆さんに迷惑がかかります」
私は真っ直ぐに彼の瞳を見つめ返した。
「それに、私には貴方がついています。……最強の公爵様が守ってくださるのでしょう?」
私の言葉に、彼は一瞬呆気にとられ、それから楽しそうに笑った。
「……ははっ! 君は、見かけによらず肝が据わっているな」
彼は私の元に戻り、再び私の手を握った。
「いいだろう。私の隣にいろ。そして、特等席で見せてやろう。君を捨てた国と、君を選んだ私……どちらが『力』を持っているかを」
レオンハルト様の顔に浮かんだのは、嗜虐的とも言える凄絶な笑みだった。
これから始まるのは、話し合いではない。
一方的な蹂躙、あるいは「ざまぁ」の幕開けだ。
私たちは手を繋いだまま、城のエントランスへと向かった。
廊下ですれ違う使用人たちが、驚きとともに道を開ける。
氷の呪いが解け、堂々と歩く公爵様と、その隣に寄り添う黒髪の元聖女。
その姿は、彼らの目にどう映っただろうか。
城の大扉が開かれる。
猛吹雪が吹き込む中、遠くから馬蹄の音が聞こえてきた。
王家の紋章を掲げた馬車と、重武装の騎士たち。
かつて私を断罪し、追放した者たちの手先が、そこまで迫っていた。
「さあ、お出迎えといこうか」
レオンハルト様が指を鳴らす。
その瞬間、私の視界を覆うほどの巨大な氷の槍が、空中に無数に出現した。
(第5話 完)
「いいや、全く邪魔ではない。むしろ、かつてないほど捗っている」
その日の午後、私はアイスバーン城の執務室で、不思議な時間を過ごしていた。
部屋の中央にある重厚な執務机。
その主であるレオンハルト様の隣に椅子を並べ、私は彼の左手を両手で包み込むようにして握っていた。
彼は右手でペンを走らせ、次々と書類に決裁を下している。
その速度は凄まじかった。
昨日見た時は、まるでスローモーションのように重苦しい動きだったのが嘘のようだ。
サラサラとペン先が紙の上を滑る音だけが、静かな部屋に響いている。
「私の呪いは、思考をクリアにする反面、肉体の動きを極端に阻害する。関節の一つ一つに錆びついた鎧をまとっているようなものだ。だが……」
彼はペンを止めず、チラリと私を見た。
その蒼い瞳が、愛おしげに細められる。
「君が触れていると、その重さが消える。血が巡り、指先まで意志が通う。これほど体が軽いのは、呪いを受けて以来、十年ぶりのことだ」
十年。
その年月の重みに、私は息を呑んだ。
まだ二十代半ばに見える彼が、人生の半分近くを、あの氷の檻の中で過ごしてきたというのか。
「お役に立てているなら、嬉しいです」
私は握っている彼の手に、少しだけ力を込めた。
ひんやりとしていた彼の肌が、私の体温と混じり合って、人肌の温もりを帯びていく。
その変化を感じるたびに、私の胸の奥がキュッとなる。
聖女として結界を張っていた時は、魔力を吸い上げられるだけの苦痛と徒労感しかなかった。
けれど、彼との「契約」は違う。
私が彼に熱を与える代わりに、彼からも何かを受け取っているような……そんな循環を感じるのだ。
「それにしても、不思議だな」
レオンハルト様は書類の山を片付けると、ふう、と息をついてペンを置いた。
「君の魔力は枯渇しているはずだと言ったな。なのに、なぜこれほど温かい? ただの体温にしては、呪いへの干渉力が強すぎる」
「……分かりません。ただ、レオンハルト様に触れていると、体の奥から少しずつ力が湧いてくるような気がするのです」
それは嘘偽りのない感覚だった。
昨夜、空っぽだったはずの私の魔力回路に、小さな灯火がともった。
そして今、彼の手を握っていると、その灯火が少しずつ大きくなり、安定していくのが分かる。
「おそらく、相性なのだろうな」
彼は納得したように頷いた。
「私の持つ『氷の魔力』と、君の持つ『聖女の魔力』。本来なら相反するものだが、どうやら君と私の間では、互いを補完し合う作用が働いているらしい」
彼は空いた右手で、私の頬に触れた。
昨日は手袋越しだったその手が、今は素手で、優しく私の輪郭をなぞる。
「君は私を溶かし、私は君を満たす。……運命的だと思わないか?」
「う、運命……」
そんな大それた言葉を、彼は真顔で口にする。
至近距離で見つめられ、私は顔が熱くなるのを止められなかった。
氷の貴公子と呼ばれた彼が、こんなに情熱的な瞳をするなんて、誰も知らないだろう。
「レオンハルト様、失礼します。お茶をお持ちしました」
タイミングよく、ノックとともに扉が開いた。
入ってきたのは執事のセバスチャンだ。
彼は銀のトレイにお茶セットを載せて入ってきたが、その足取りがどこかぎこちない。
そして、部屋の中央あたりまで進んだところで、ピタリと足を止め、目を見開いた。
「こ、これは……」
セバスチャンの視線が、私たちが座っている机の周り……ではなく、部屋全体に向けられている。
「どうした、セバスチャン」
「だ、旦那様……。部屋が、凍っておりません」
言われてみれば、その通りだった。
今朝、私が初めてこの部屋に入った時は、床も壁も霜で覆われ、インク瓶すら凍りついていた。
けれど今は、床の氷は消え失せ、本来の美しい寄木細工の床が見えている。
窓ガラスの霜も溶け、外の雪景色がクリアに見えていた。
暖炉の火も、昨日の弱々しいものではなく、パチパチと元気に燃え上がっている。
「ああ。エルナのおかげだ」
レオンハルト様は当然のように言った。
「彼女がそばにいるだけで、私の冷気が制御される。無意識に撒き散らしていた冷気を抑え込めるようになったのだ」
「なんという……奇跡でしょうか」
セバスチャンは震える声で呟き、トレイを持ったまま深々と頭を下げた。
その目元が、少し潤んでいるように見えたのは気のせいではないだろう。
「長年、旦那様がどれほど苦しんでおられたか、私どもは見ていることしかできませんでした。それが、こんな……。エルナ様、貴女様はまさしく、この城に舞い降りた女神です」
「め、女神だなんて! 私はただ、手を握っているだけで……」
「それが尊いのです!」
セバスチャンは顔を上げ、熱弁を振るった。
「誰も触れることのできなかった旦那様に触れ、その孤独を癒やしてくださった。これ以上の救いがありましょうか。……どうぞ、この紅茶は私の最高傑作でございます。温かいうちに召し上がってください」
差し出された紅茶からは、極上の香りが漂っていた。
そして何より、湯気が立っていた。
この城ではすぐに冷めてしまうはずの紅茶が、温かいままカップに注がれる。
その当たり前の光景が、ここでは奇跡なのだ。
「ありがとう、セバスチャン。美味しい」
私が一口飲むと、セバスチャンは感無量といった表情で再び頭を下げ、静かに退室していった。
「……大げさだな」
レオンハルト様は苦笑したが、その表情は柔らかかった。
「でも、彼らの気持ちも分かります。ずっと、レオンハルト様のことを心配していたのでしょうね」
「心配、か。……化け物だと恐れられていると思っていたが」
「そんなことありません。マーサさんも、他の使用人の方々も、皆レオンハルト様を敬愛していますわ。だからこそ、貴方が苦しんでいる姿を見るのが辛かったのだと思います」
私の言葉に、彼は少し驚いたように瞬きをした。
そして、握っていた私の手を持ち上げ、指先の一本一本に口付けを落とし始めた。
「……っ、レオンハルト様!?」
「君は本当に、心が綺麗だな」
親指、人差し指、中指……。
ゆっくりと、愛おしむようなキスが続く。
その感触に、背筋がゾクゾクと震えた。
「国を追われ、婚約者に裏切られたというのに、他人を思いやる優しさを失っていない。……カイル王子は、とんだ節穴だ。真の宝石をドブに捨て、メッキのガラス玉を拾ったのだから」
「そ、それは言い過ぎです……」
「いいや、事実だ。だが、感謝もしよう。おかげで君は私のものになった」
彼は私の手のひらに頬を寄せ、甘えるようにすり寄せた。
「エルナ。もっと君の力が知りたい。……試してみてもいいか?」
「試す、とは?」
「君の『祈り』だ。聖女としての力を使えば、さらに呪いを抑制できるかもしれない」
「でも、今の私には十分な魔力が……」
「大丈夫だ。私の魔力を君に流す。君というフィルターを通せば、私の氷の魔力も、聖なる力に変換できるかもしれない」
それは危険な賭けにも思えた。
属性の違う魔力を体に入れるのは、激しい拒絶反応を引き起こすこともある。
けれど、彼を見ていると、不思議と「できる」という確信が湧いてきた。
「……分かりました。やってみます」
私は椅子から立ち上がり、彼に向き合った。
彼も立ち上がり、私の両肩に手を置く。
「いくぞ」
彼の瞳が蒼く輝いた。
次の瞬間、冷たくて強大なエネルギーが、肩から私の中へと流れ込んできた。
普通なら凍りついてしまうような奔流。
けれど、それは私の中心にある「聖女の核」に触れた途端、温かな光へと変わった。
(ああ……これは)
懐かしい感覚。
でも、王都で感じていた義務的な魔力ではない。
もっと純粋で、透き通った力。
私は目を閉じ、両手を彼の胸に当てた。
祈る。
どうか、彼の苦痛が和らぎますように。
彼を縛る氷の呪いが、少しでも溶けますように。
彼が、もっと自由に笑えますように。
『――浄化』
言葉にした瞬間、私の手から淡い金色の光が溢れ出した。
その光は彼の胸に吸い込まれ、全身へと広がっていく。
バキキキッ……!
何かが割れるような音が、彼の体の中から聞こえた。
痛みを伴う音ではない。
硬い殻が砕け落ちるような、開放の音だ。
「……っ!」
レオンハルト様が小さく息を呑んだ。
光が収まると、彼は自分の両手を見つめ、そしてゆっくりと首を回した。
関節が鳴る音さえもしない、滑らかな動き。
「信じられない……」
彼が私を見た。
その顔には、少年のような驚きと喜びが浮かんでいた。
「魔力の通り道にあった澱みが、完全に消えている。……今まで、呼吸をするのさえ冷たい泥の中にいるようだったのが、今は春風の中にいるようだ」
彼は衝動的に私を抱きしめた。
力強い腕。鼓動の音が、私の耳元で高鳴っている。
「すごいぞ、エルナ! 君の祈りは、本当に奇跡だ!」
「レオンハルト様、苦しいです……!」
「ああ、すまない。嬉しくて、つい」
彼は腕を緩めたが、離そうとはしなかった。
むしろ、さらに密着するように私を抱き寄せ、その顎を私の頭に乗せた。
「君を離したくない。……もう二度と、この温もりなしでは生きられない体になってしまったようだ」
「えっと、それは責任重大ですね……」
「ああ、責任をとってもらおう。一生かけてな」
彼の低音ボイスが鼓膜を揺らす。
一生、という言葉の重みに、心臓が跳ねた。
これはプロポーズなのだろうか? それとも、高性能カイロとしての長期契約の確認なのだろうか?
どちらにせよ、私の居場所はここにあるのだと、強く感じられた。
その時だった。
窓の外、吹雪の向こうから、不穏な気配が近づいてくるのを、私の聖女としての感覚が捉えた。
同時に、執務室の扉が再びノックされた。
「旦那様、急報です!」
入ってきたのは、城の警備を任されている騎士団長だった。
彼は険しい表情で、短く告げた。
「領境で立ち往生していた王家の視察団ですが……強行突破を図ったようです。魔導具を使って吹雪を一時的に晴らし、こちらへ向かってきています。あと一時間ほどで到着するかと」
部屋の空気が、一瞬にして凍りついた。
レオンハルト様が私を抱きしめる腕に、力がこもる。
先ほどまでの甘い雰囲気は消え失せ、彼の瞳は再び「魔公爵」の冷徹さを宿していた。
「……ほう。死に急ぐか、愚か者ども」
彼は私をゆっくりと離すと、マントを翻して窓際に立った。
その背中から、どす黒いほどの冷気が立ち上る。
「私の領土に土足で踏み入ることが、どれほどの代償を伴うか。……教えてやる必要があるようだな」
「レオンハルト様……」
「エルナ、君は部屋にいろ。決して出るな」
彼は振り返り、私に命じた。
けれど、私は首を横に振った。
「いいえ。私も行きます」
「なっ……何を言う! 奴らは君を殺しに来たかもしれないんだぞ!?」
「だからこそです。私が逃げ隠れすれば、彼らはこの城を捜索しようとするでしょう。そうなれば、城の皆さんに迷惑がかかります」
私は真っ直ぐに彼の瞳を見つめ返した。
「それに、私には貴方がついています。……最強の公爵様が守ってくださるのでしょう?」
私の言葉に、彼は一瞬呆気にとられ、それから楽しそうに笑った。
「……ははっ! 君は、見かけによらず肝が据わっているな」
彼は私の元に戻り、再び私の手を握った。
「いいだろう。私の隣にいろ。そして、特等席で見せてやろう。君を捨てた国と、君を選んだ私……どちらが『力』を持っているかを」
レオンハルト様の顔に浮かんだのは、嗜虐的とも言える凄絶な笑みだった。
これから始まるのは、話し合いではない。
一方的な蹂躙、あるいは「ざまぁ」の幕開けだ。
私たちは手を繋いだまま、城のエントランスへと向かった。
廊下ですれ違う使用人たちが、驚きとともに道を開ける。
氷の呪いが解け、堂々と歩く公爵様と、その隣に寄り添う黒髪の元聖女。
その姿は、彼らの目にどう映っただろうか。
城の大扉が開かれる。
猛吹雪が吹き込む中、遠くから馬蹄の音が聞こえてきた。
王家の紋章を掲げた馬車と、重武装の騎士たち。
かつて私を断罪し、追放した者たちの手先が、そこまで迫っていた。
「さあ、お出迎えといこうか」
レオンハルト様が指を鳴らす。
その瞬間、私の視界を覆うほどの巨大な氷の槍が、空中に無数に出現した。
(第5話 完)
13
あなたにおすすめの小説
婚約者を奪った妹と縁を切ったので、家から離れ“辺境領”を継ぎました。 すると勇者一行までついてきたので、領地が最強になったようです
藤原遊
ファンタジー
婚約発表の場で、妹に婚約者を奪われた。
家族にも教会にも見放され、聖女である私・エリシアは “不要” と切り捨てられる。
その“褒賞”として押しつけられたのは――
魔物と瘴気に覆われた、滅びかけの辺境領だった。
けれど私は、絶望しなかった。
むしろ、生まれて初めて「自由」になれたのだ。
そして、予想外の出来事が起きる。
――かつて共に魔王を倒した“勇者一行”が、次々と押しかけてきた。
「君をひとりで行かせるわけがない」
そう言って微笑む勇者レオン。
村を守るため剣を抜く騎士。
魔導具を抱えて駆けつける天才魔法使い。
物陰から見守る斥候は、相変わらず不器用で優しい。
彼らと力を合わせ、私は土地を浄化し、村を癒し、辺境の地に息を吹き返す。
気づけば、魔物巣窟は制圧され、泉は澄み渡り、鉱山もダンジョンも豊かに開き――
いつの間にか領地は、“どの国よりも最強の地”になっていた。
もう、誰にも振り回されない。
ここが私の新しい居場所。
そして、隣には――かつての仲間たちがいる。
捨てられた聖女が、仲間と共に辺境を立て直す。
これは、そんな私の第二の人生の物語。
「予備」として連れてこられた私が、本命を連れてきたと勘違いした王国の滅亡フラグを華麗に回収して隣国の聖女になりました
平山和人
恋愛
王国の辺境伯令嬢セレスティアは、生まれつき高い治癒魔法を持つ聖女の器でした。しかし、十年間の婚約期間の末、王太子ルシウスから「真の聖女は別にいる。お前は不要になった」と一方的に婚約を破棄されます。ルシウスが連れてきたのは、派手な加護を持つ自称「聖女」の少女、リリア。セレスティアは失意の中、国境を越えた隣国シエルヴァード帝国へ。
一方、ルシウスはセレスティアの地味な治癒魔法こそが、王国の呪いの進行を十年間食い止めていた「代替の聖女」の役割だったことに気づきません。彼の連れてきたリリアは、見かけの派手さとは裏腹に呪いを加速させる力を持っていました。
隣国でその真の力を認められたセレスティアは、帝国の聖女として迎えられます。王国が衰退し、隣国が隆盛を極める中、ルシウスはようやくセレスティアの真価に気づき復縁を迫りますが、後の祭り。これは、価値を誤認した愚かな男と、自分の力で世界を変えた本物の聖女の、代わりではなく主役になる物語です。
ゴースト聖女は今日までです〜お父様お義母さま、そして偽聖女の妹様、さようなら。私は魔神の妻になります〜
嘉神かろ
恋愛
魔神を封じる一族の娘として幸せに暮していたアリシアの生活は、母が死に、継母が妹を産んだことで一変する。
妹は聖女と呼ばれ、もてはやされる一方で、アリシアは周囲に気付かれないよう、妹の影となって魔神の眷属を屠りつづける。
これから先も続くと思われたこの、妹に功績を譲る生活は、魔神の封印を補強する封魔の神儀をきっかけに思いもよらなかった方へ動き出す。
聖女の妹、『灰色女』の私
ルーシャオ
恋愛
オールヴァン公爵家令嬢かつ聖女アリシアを妹に持つ『私』は、魔力を持たない『灰色女(グレイッシュ)』として蔑まれていた。醜聞を避けるため仕方なく出席した妹の就任式から早々に帰宅しようとしたところ、道に座り込む老婆を見つける。その老婆は同じ『灰色女』であり、『私』の運命を変える呪文をつぶやいた。
『私』は次第にマナの流れが見えるようになり、知らなかったことをどんどんと知っていく。そして、聖女へ、オールヴァン公爵家へ、この国へ、差別する人々へ——復讐を決意した。
一方で、なぜか縁談の来なかった『私』と結婚したいという王城騎士団副団長アイメルが現れる。拒否できない結婚だと思っていたが、妙にアイメルは親身になってくれる。一体なぜ?
現聖女ですが、王太子妃様が聖女になりたいというので、故郷に戻って結婚しようと思います。
和泉鷹央
恋愛
聖女は十年しか生きられない。
この悲しい運命を変えるため、ライラは聖女になるときに精霊王と二つの契約をした。
それは期間満了後に始まる約束だったけど――
一つ……一度、死んだあと蘇生し、王太子の側室として本来の寿命で死ぬまで尽くすこと。
二つ……王太子が国王となったとき、国民が苦しむ政治をしないように側で支えること。
ライラはこの契約を承諾する。
十年後。
あと半月でライラの寿命が尽きるという頃、王太子妃ハンナが聖女になりたいと言い出した。
そして、王太子は聖女が農民出身で王族に相応しくないから、婚約破棄をすると言う。
こんな王族の為に、死ぬのは嫌だな……王太子妃様にあとを任せて、村に戻り幼馴染の彼と結婚しよう。
そう思い、ライラは聖女をやめることにした。
他の投稿サイトでも掲載しています。
地味で無能な聖女だと婚約破棄されました。でも本当は【超過浄化】スキル持ちだったので、辺境で騎士団長様と幸せになります。ざまぁはこれからです。
黒崎隼人
ファンタジー
聖女なのに力が弱い「偽物」と蔑まれ、婚約者の王子と妹に裏切られ、死の土地である「瘴気の辺境」へ追放されたリナ。しかし、そこで彼女の【浄化】スキルが、あらゆる穢れを消し去る伝説級の【超過浄化】だったことが判明する! その奇跡を隣国の最強騎士団長カイルに見出されたリナは、彼の溺愛に戸惑いながらも、荒れ地を楽園へと変えていく。一方、リナを捨てた王国は瘴気に沈み崩壊寸前。今さら元婚約者が土下座しに来ても、もう遅い! 不遇だった少女が本当の愛と居場所を見つける、爽快な逆転ラブファンタジー!
側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、孤独な陛下を癒したら、執着されて離してくれません!
花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」
婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。
追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。
しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。
夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。
けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。
「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」
フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。
しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!?
「離縁する気か? 許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」
凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。
孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス!
※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。
【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】
(完結)お荷物聖女と言われ追放されましたが、真のお荷物は追放した王太子達だったようです
しまうま弁当
恋愛
伯爵令嬢のアニア・パルシスは婚約者であるバイル王太子に突然婚約破棄を宣言されてしまうのでした。
さらにはアニアの心の拠り所である、聖女の地位まで奪われてしまうのでした。
訳が分からないアニアはバイルに婚約破棄の理由を尋ねましたが、ひどい言葉を浴びせつけられるのでした。
「アニア!お前が聖女だから仕方なく婚約してただけだ。そうでなけりゃ誰がお前みたいな年増女と婚約なんかするか!!」と。
アニアの弁明を一切聞かずに、バイル王太子はアニアをお荷物聖女と決めつけて婚約破棄と追放をさっさと決めてしまうのでした。
挙句の果てにリゼラとのイチャイチャぶりをアニアに見せつけるのでした。
アニアは妹のリゼラに助けを求めましたが、リゼラからはとんでもない言葉が返ってきたのでした。
リゼラこそがアニアの追放を企てた首謀者だったのでした。
アニアはリゼラの自分への悪意を目の当たりにして愕然しますが、リゼラは大喜びでアニアの追放を見送るのでした。
信じていた人達に裏切られたアニアは、絶望して当てもなく宿屋生活を始めるのでした。
そんな時運命を変える人物に再会するのでした。
それはかつて同じクラスで一緒に学んでいた学友のクライン・ユーゲントでした。
一方のバイル王太子達はアニアの追放を喜んでいましたが、すぐにアニアがどれほどの貢献をしていたかを目の当たりにして自分達こそがお荷物であることを思い知らされるのでした。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
全25話執筆済み 完結しました
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる