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第7話 辺境の城は、王城よりも快適です
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アイスバーン城での生活は、一言で表すなら「極楽」だった。
かつて王都で「地味で陰気な聖女」として扱われていた私が、ここでは「城の太陽」だの「女神の再来」だのと崇められているのだから、人生とは分からないものだ。
「おはよう、エルナ。顔色が良くなったな」
朝、私が食堂へ向かうと、すでに席に着いていたレオン様が、新聞を置いて微笑みかけてくれた。
今日の彼は、騎士服ではなく、ラフな白いシャツに黒のベストという姿だ。
襟元が少し開いていて、鎖骨が覗いているのが妙に色っぽい。
氷の呪いが解けて以来、彼は肌の露出を恐れなくなった。おかげで、城中のメイドたちが頬を赤らめて仕事にならないという弊害も出ているようだが。
「おはようございます、レオン様。今日も良いお天気ですね」
私は彼の隣の席に座った。
以前なら、上座と下座に分かれて座るのが貴族の礼儀だが、レオン様が「遠い。隣に座れ」と頑として譲らなかったため、私たちの距離は常に三十センチ以内だ。
「ああ。君のおかげで、この辺境にも春が来たようだ」
彼は自然な動作で私の手を取り、指先にキスを落とす。
毎朝のこの挨拶にも、ようやく慣れてきた……いや、やっぱり慣れない。心臓が早鐘を打つのを感じながら、私ははにかんで誤魔化す。
「そ、それは言い過ぎです。まだ外は雪が積もっていますし」
「だが、城の中は春だ。見てみろ、あの花を」
彼が指差した先、食堂の窓辺には、鉢植えの植物が置かれている。
数日前までは枯れ木同然だったのに、今では可愛らしいピンク色の蕾をつけていた。
私の魔力が回復し、城全体に満ちていくにつれて、植物たちも元気を取り戻しているらしい。
「さあ、朝食にしよう。今日は君の好きなオムレツだ」
運ばれてきた料理は、今日も絶品だった。
ふわふわの卵に、濃厚なデミグラスソースがかかったオムレツ。
付け合わせのソーセージは、近隣の森で獲れたボア(猪のような魔獣)の肉だそうで、噛みしめるとジューシーな肉汁が溢れ出す。
サラダの野菜も、シャキシャキとして甘みが強い。
「辺境の食材がこんなに美味しいなんて、知りませんでした」
私が感動して言うと、レオン様は満足げに頷いた。
「王都の連中は『辺境は不毛の地』と見下しているが、実はここは資源の宝庫なんだ。寒冷地に適応した作物は糖度が高いし、魔獣の肉は魔力を帯びているから滋養強壮にいい。それに……」
彼は悪戯っぽく片目を瞑った。
「地下には巨大な魔力溜まりと、地熱がある。この城の暖房システムや、温泉施設は、王都の魔導技術よりも数段進んでいるんだよ」
「温泉、ですか?」
「ああ。君も体力が戻ったら入るといい。肌がツルツルになるぞ。……一緒に入るか?」
「ぶっ!」
私は思わずスープを吹き出しそうになった。
レオン様は楽しそうに笑いながら、私の背中をさすってくれる。
「冗談だ。……今のところはな」
「今のところは、って何ですか……」
「未来のことは分からないだろう?」
彼は意味深な視線を送ってくる。
この公爵様、呪いが解けてからというもの、私の反応を楽しむのが趣味になっている気がする。
でも、その意地悪さがちっとも嫌ではないのが悔しいところだ。
食後、私はいつものようにレオン様の執務室へ同行した。
私の「仕事」は、彼のそばにいて、時々手を握ったり、魔力を補充したりすることだ。
最初は申し訳なく思っていたけれど、最近ではこの時間が一番落ち着くようになっていた。
執務室のソファに座り、私は読みかけの本を開く。
王都では禁止されていた娯楽小説だ。
レオン様は「好きなだけ読んでいい」と、書庫の鍵を私に預けてくれた。
部屋には暖炉の薪が爆ぜる音と、レオン様が書類にペンを走らせる音だけが響く。
静かで、温かくて、満ち足りた時間。
時折、レオン様がふと手を止めてこちらを見る視線を感じる。
目が合うと、彼はふわりと優しく微笑み、また仕事に戻る。
ただそれだけのやり取りが、私の心をじんわりと満たしていく。
「……失礼いたします」
穏やかな空気を破るように、扉がノックされた。
メイド長のマーサさんが、銀のトレイを持って入ってくる。
その表情は、いつになく硬かった。
彼女の手には、一通の封筒が載せられている。
「旦那様、エルナ様。……王都から、郵便馬車が参りました」
「王都から?」
レオン様の手が止まる。
一瞬にして部屋の空気が冷えた。
彼が不快感を露わにすると、無意識に冷気が漏れ出してしまうのだ。
私はすかさず彼の手に自分の手を重ねた。
温もりが伝わると、彼はハッとして表情を緩め、私に「ありがとう」と目で合図を送った。
「誰からだ。王家か?」
「いえ、差出人は……ミューア・フォレスティ様となっております」
その名前に、私の肩がビクリと跳ねた。
ミューア。
私からすべてを奪い、聖女の座に収まった義妹。
彼女が、今さら私に何の手紙を?
「……捨てておけ」
レオン様が吐き捨てるように言った。
「エルナを傷つけた女からの手紙など、読む価値もない。暖炉にくべてしまえ」
「かしこまりました」
マーサさんがトレイを下げようとする。
けれど、私は呼び止めた。
「待ってください、マーサさん」
「エルナ?」
レオン様が心配そうに私を見る。
「読みます。……彼女が今、何を考えているのか、知っておきたいのです」
逃げてばかりではいけない気がした。
それに、正直なところ、少し気になってもいた。
あの「愛嬌だけが取り柄」のミューアが、聖女の務めを果たせているのかどうか。
マーサさんは一瞬ためらったが、私の意志が固いのを見て取り、恭しく封筒を差し出した。
封筒はピンク色で、甘ったるい香水が振りかけられていた。
それだけで胸焼けがしそうだ。
私はペーパーナイフで封を切った。
中から出てきたのは、可愛らしい丸文字で書かれた便箋だった。
『親愛なるお姉様へ(笑)』
冒頭から煽っている。
私は小さくため息をつき、読み進めた。
『お姉様、まだ生きていらっしゃいますか?
北の果てはとても寒いと聞きましたわ。凍えていないか、妹として心配しておりますの。
でも安心して。王都はとても平和で、温かいですわ。
お姉様がいなくなってから、空気が綺麗になった気がしますもの』
典型的な嫌味だ。
王都の空気が綺麗?
私の感覚では、私が去った時点で結界に亀裂が入っていたはずだ。
おそらく、彼女には瘴気の気配すら感じ取れていないのだろう。
『カイル様も、毎日私に優しくしてくださいます。
「ミューアのおかげで国が明るくなった」って、褒めてくださるの。
お姉様が気にしていた結界の維持も、とっても簡単ですわ。
神官様たちが用意してくれた台座に座って、ニコニコしていればいいだけなんですもの。
お姉様はどうしてあんなに必死な顔をして祈っていたのかしら?
やっぱり、才能の違いですわね』
「……は?」
私は思わず声を出してしまった。
台座に座ってニコニコしているだけ?
そんな馬鹿な。
聖女の結界術は、自身の魔力を触媒にして、国中に張り巡らせた魔力ラインに常にエネルギーを供給し続ける高度な術式だ。
一瞬でも気を抜けば逆流して身体を壊すし、魔力制御には繊細な計算が必要になる。
「どうした、エルナ」
レオン様が覗き込んでくる。
「いえ……ミューアが、聖女の仕事を『座っているだけで簡単』だと書いているのです」
「なんだそれは。聖女というのは、そんなに楽な仕事なのか?」
「いいえ、絶対にあり得ません。おそらく……神官たちが、魔導装置を使って、備蓄していた魔石のエネルギーで結界を維持しているのだと思います」
私は推測した。
王家には、聖女が不在の時のために、緊急用の魔石備蓄がある。
それを使えば、一時的に結界を維持することは可能だ。
だが、それはあくまで「一時しのぎ」。
魔石のエネルギーは有限だし、聖女の生きた魔力に比べれば質も悪い。
それを使い切ってしまったら、今度こそ国を守る術がなくなる。
『お姉様、そちらでの生活は惨めでしょうけれど、強く生きてくださいね。
ああ、そういえば新しいドレスを作りましたの。カイル様からのプレゼントです。
お姉様の古臭いドレスとは違って、最新の流行を取り入れた素晴らしいものですわ。
今度、王都で大きな夜会が開かれます。私が主役の聖女お披露目パーティーです。
お姉様を招待できないのが残念ですわ。まあ、招待しても着ていく服もないでしょうけれど』
手紙は、そんなマウントで締めくくられていた。
私は便箋を折りたたみ、テーブルに置いた。
怒り? 悲しみ?
いいえ、私が感じたのは「呆れ」と、そして「哀れみ」だった。
彼女は何も分かっていない。
自分が座っている台座が、今にも崩れ落ちそうな砂上の楼閣であることも。
カイル殿下の愛が、彼女の「聖女としての利用価値」がなくなれば簡単に冷めるものであることも。
そして何より――私が今、どれほど幸せであるかも。
「……くだらない手紙だったようだな」
レオン様が、私の表情を見て察したように言った。
「ええ。本当に、中身のない手紙でした」
私は微笑んだ。
強がりではなく、心からの笑顔で。
「着ていく服がない、か……」
レオン様が手紙の一文を盗み見たのか、不愉快そうに眉をひそめた。
そして、パチンと指を鳴らす。
「セバスチャン!」
「はい、旦那様」
どこに控えていたのか、執事のセバスチャンが音もなく現れた。
「王都の服飾ギルドを呼びつけろ。いや、最高級のデザイナーを連れてこい。エルナのために、国一番のドレスを仕立てさせる」
「は?」
「あの小娘に、格の違いというものを教えてやる必要があるだろう。……ちょうどいい、来月、我が領で春の祝賀パーティーを開く予定だったな?」
「はい、例年通り、領内の貴族や有力者を招いてのささやかな会を予定しておりましたが」
「規模を拡大しろ。王都の夜会など目ではない、豪華絢爛なパーティーにする。そこでエルナを、私の婚約者として正式にお披露目する」
レオン様の瞳が、ギラリと輝いた。
それは獲物を狙う猛獣の目ではなく、愛する女を着飾らせたいという、ちょっと暴走気味な愛妻家の目だった。
「ちょ、ちょっと待ってくださいレオン様! そんなに対抗しなくても……」
「対抗? まさか。あんな小娘と張り合うつもりはない」
彼は私の手を引き寄せ、熱っぽい視線を注いだ。
「私はただ、世界中に自慢したいだけだ。私のエルナが、どれほど美しく、素晴らしい女性であるかを」
「うぅ……」
そんなことを言われては、顔が沸騰してしまう。
私の心臓の耐久力が心配だ。
「セバスチャン、手配を頼む。金に糸目はつけるな」
「かしこまりました。……それでは、さっそく宝石商と生地問屋にも連絡を入れておきます。エルナ様に似合う、とびきりのものを」
セバスチャンも乗り気だ。
というか、この城の使用人たちは皆、私を着せ替え人形にするのを楽しんでいないだろうか。
「あの手紙はどうしますか? エルナ様」
マーサさんが、テーブルの上のピンク色の封筒を指差した。
私は少し考えてから、それを手に取った。
そして、燃え盛る暖炉の方へと歩いていく。
「薪の代わりにさせていただきます。……香水の匂いがきついので、よく燃えるでしょう」
ポイッ。
手紙は炎の中に吸い込まれ、一瞬で灰になった。
ミューアの悪意も、カイル殿下の虚栄も、ここではただの燃料に過ぎない。
「ふっ……。いいな、その潔さ」
レオン様が楽しそうに笑い、私の腰を抱き寄せた。
「そうだ、エルナ。今の君には、過去の亡霊など必要ない。ここには、君を愛する私と、君を慕う民がいるのだから」
「はい、レオン様」
私は彼の胸に頭を預けた。
本当に、その通りだ。
王都の狭い世界で、顔色を伺いながら生きていた私はもういない。
ここ辺境のアイスバーン城こそが、私の本当の居場所なのだ。
窓の外では、雪が少しずつ溶け始め、春の訪れを告げていた。
だが、遠く離れた王都では、これから本当の「冬」が始まろうとしていることを、私はまだ知る由もなかった。
……まあ、知ったところで「自業自得ですね」としか思わないのだけれど。
こうして私は、義妹からの手紙を完全にスルーし、公爵様の溺愛に浸る日々を継続することになったのだった。
(第7話 完)
かつて王都で「地味で陰気な聖女」として扱われていた私が、ここでは「城の太陽」だの「女神の再来」だのと崇められているのだから、人生とは分からないものだ。
「おはよう、エルナ。顔色が良くなったな」
朝、私が食堂へ向かうと、すでに席に着いていたレオン様が、新聞を置いて微笑みかけてくれた。
今日の彼は、騎士服ではなく、ラフな白いシャツに黒のベストという姿だ。
襟元が少し開いていて、鎖骨が覗いているのが妙に色っぽい。
氷の呪いが解けて以来、彼は肌の露出を恐れなくなった。おかげで、城中のメイドたちが頬を赤らめて仕事にならないという弊害も出ているようだが。
「おはようございます、レオン様。今日も良いお天気ですね」
私は彼の隣の席に座った。
以前なら、上座と下座に分かれて座るのが貴族の礼儀だが、レオン様が「遠い。隣に座れ」と頑として譲らなかったため、私たちの距離は常に三十センチ以内だ。
「ああ。君のおかげで、この辺境にも春が来たようだ」
彼は自然な動作で私の手を取り、指先にキスを落とす。
毎朝のこの挨拶にも、ようやく慣れてきた……いや、やっぱり慣れない。心臓が早鐘を打つのを感じながら、私ははにかんで誤魔化す。
「そ、それは言い過ぎです。まだ外は雪が積もっていますし」
「だが、城の中は春だ。見てみろ、あの花を」
彼が指差した先、食堂の窓辺には、鉢植えの植物が置かれている。
数日前までは枯れ木同然だったのに、今では可愛らしいピンク色の蕾をつけていた。
私の魔力が回復し、城全体に満ちていくにつれて、植物たちも元気を取り戻しているらしい。
「さあ、朝食にしよう。今日は君の好きなオムレツだ」
運ばれてきた料理は、今日も絶品だった。
ふわふわの卵に、濃厚なデミグラスソースがかかったオムレツ。
付け合わせのソーセージは、近隣の森で獲れたボア(猪のような魔獣)の肉だそうで、噛みしめるとジューシーな肉汁が溢れ出す。
サラダの野菜も、シャキシャキとして甘みが強い。
「辺境の食材がこんなに美味しいなんて、知りませんでした」
私が感動して言うと、レオン様は満足げに頷いた。
「王都の連中は『辺境は不毛の地』と見下しているが、実はここは資源の宝庫なんだ。寒冷地に適応した作物は糖度が高いし、魔獣の肉は魔力を帯びているから滋養強壮にいい。それに……」
彼は悪戯っぽく片目を瞑った。
「地下には巨大な魔力溜まりと、地熱がある。この城の暖房システムや、温泉施設は、王都の魔導技術よりも数段進んでいるんだよ」
「温泉、ですか?」
「ああ。君も体力が戻ったら入るといい。肌がツルツルになるぞ。……一緒に入るか?」
「ぶっ!」
私は思わずスープを吹き出しそうになった。
レオン様は楽しそうに笑いながら、私の背中をさすってくれる。
「冗談だ。……今のところはな」
「今のところは、って何ですか……」
「未来のことは分からないだろう?」
彼は意味深な視線を送ってくる。
この公爵様、呪いが解けてからというもの、私の反応を楽しむのが趣味になっている気がする。
でも、その意地悪さがちっとも嫌ではないのが悔しいところだ。
食後、私はいつものようにレオン様の執務室へ同行した。
私の「仕事」は、彼のそばにいて、時々手を握ったり、魔力を補充したりすることだ。
最初は申し訳なく思っていたけれど、最近ではこの時間が一番落ち着くようになっていた。
執務室のソファに座り、私は読みかけの本を開く。
王都では禁止されていた娯楽小説だ。
レオン様は「好きなだけ読んでいい」と、書庫の鍵を私に預けてくれた。
部屋には暖炉の薪が爆ぜる音と、レオン様が書類にペンを走らせる音だけが響く。
静かで、温かくて、満ち足りた時間。
時折、レオン様がふと手を止めてこちらを見る視線を感じる。
目が合うと、彼はふわりと優しく微笑み、また仕事に戻る。
ただそれだけのやり取りが、私の心をじんわりと満たしていく。
「……失礼いたします」
穏やかな空気を破るように、扉がノックされた。
メイド長のマーサさんが、銀のトレイを持って入ってくる。
その表情は、いつになく硬かった。
彼女の手には、一通の封筒が載せられている。
「旦那様、エルナ様。……王都から、郵便馬車が参りました」
「王都から?」
レオン様の手が止まる。
一瞬にして部屋の空気が冷えた。
彼が不快感を露わにすると、無意識に冷気が漏れ出してしまうのだ。
私はすかさず彼の手に自分の手を重ねた。
温もりが伝わると、彼はハッとして表情を緩め、私に「ありがとう」と目で合図を送った。
「誰からだ。王家か?」
「いえ、差出人は……ミューア・フォレスティ様となっております」
その名前に、私の肩がビクリと跳ねた。
ミューア。
私からすべてを奪い、聖女の座に収まった義妹。
彼女が、今さら私に何の手紙を?
「……捨てておけ」
レオン様が吐き捨てるように言った。
「エルナを傷つけた女からの手紙など、読む価値もない。暖炉にくべてしまえ」
「かしこまりました」
マーサさんがトレイを下げようとする。
けれど、私は呼び止めた。
「待ってください、マーサさん」
「エルナ?」
レオン様が心配そうに私を見る。
「読みます。……彼女が今、何を考えているのか、知っておきたいのです」
逃げてばかりではいけない気がした。
それに、正直なところ、少し気になってもいた。
あの「愛嬌だけが取り柄」のミューアが、聖女の務めを果たせているのかどうか。
マーサさんは一瞬ためらったが、私の意志が固いのを見て取り、恭しく封筒を差し出した。
封筒はピンク色で、甘ったるい香水が振りかけられていた。
それだけで胸焼けがしそうだ。
私はペーパーナイフで封を切った。
中から出てきたのは、可愛らしい丸文字で書かれた便箋だった。
『親愛なるお姉様へ(笑)』
冒頭から煽っている。
私は小さくため息をつき、読み進めた。
『お姉様、まだ生きていらっしゃいますか?
北の果てはとても寒いと聞きましたわ。凍えていないか、妹として心配しておりますの。
でも安心して。王都はとても平和で、温かいですわ。
お姉様がいなくなってから、空気が綺麗になった気がしますもの』
典型的な嫌味だ。
王都の空気が綺麗?
私の感覚では、私が去った時点で結界に亀裂が入っていたはずだ。
おそらく、彼女には瘴気の気配すら感じ取れていないのだろう。
『カイル様も、毎日私に優しくしてくださいます。
「ミューアのおかげで国が明るくなった」って、褒めてくださるの。
お姉様が気にしていた結界の維持も、とっても簡単ですわ。
神官様たちが用意してくれた台座に座って、ニコニコしていればいいだけなんですもの。
お姉様はどうしてあんなに必死な顔をして祈っていたのかしら?
やっぱり、才能の違いですわね』
「……は?」
私は思わず声を出してしまった。
台座に座ってニコニコしているだけ?
そんな馬鹿な。
聖女の結界術は、自身の魔力を触媒にして、国中に張り巡らせた魔力ラインに常にエネルギーを供給し続ける高度な術式だ。
一瞬でも気を抜けば逆流して身体を壊すし、魔力制御には繊細な計算が必要になる。
「どうした、エルナ」
レオン様が覗き込んでくる。
「いえ……ミューアが、聖女の仕事を『座っているだけで簡単』だと書いているのです」
「なんだそれは。聖女というのは、そんなに楽な仕事なのか?」
「いいえ、絶対にあり得ません。おそらく……神官たちが、魔導装置を使って、備蓄していた魔石のエネルギーで結界を維持しているのだと思います」
私は推測した。
王家には、聖女が不在の時のために、緊急用の魔石備蓄がある。
それを使えば、一時的に結界を維持することは可能だ。
だが、それはあくまで「一時しのぎ」。
魔石のエネルギーは有限だし、聖女の生きた魔力に比べれば質も悪い。
それを使い切ってしまったら、今度こそ国を守る術がなくなる。
『お姉様、そちらでの生活は惨めでしょうけれど、強く生きてくださいね。
ああ、そういえば新しいドレスを作りましたの。カイル様からのプレゼントです。
お姉様の古臭いドレスとは違って、最新の流行を取り入れた素晴らしいものですわ。
今度、王都で大きな夜会が開かれます。私が主役の聖女お披露目パーティーです。
お姉様を招待できないのが残念ですわ。まあ、招待しても着ていく服もないでしょうけれど』
手紙は、そんなマウントで締めくくられていた。
私は便箋を折りたたみ、テーブルに置いた。
怒り? 悲しみ?
いいえ、私が感じたのは「呆れ」と、そして「哀れみ」だった。
彼女は何も分かっていない。
自分が座っている台座が、今にも崩れ落ちそうな砂上の楼閣であることも。
カイル殿下の愛が、彼女の「聖女としての利用価値」がなくなれば簡単に冷めるものであることも。
そして何より――私が今、どれほど幸せであるかも。
「……くだらない手紙だったようだな」
レオン様が、私の表情を見て察したように言った。
「ええ。本当に、中身のない手紙でした」
私は微笑んだ。
強がりではなく、心からの笑顔で。
「着ていく服がない、か……」
レオン様が手紙の一文を盗み見たのか、不愉快そうに眉をひそめた。
そして、パチンと指を鳴らす。
「セバスチャン!」
「はい、旦那様」
どこに控えていたのか、執事のセバスチャンが音もなく現れた。
「王都の服飾ギルドを呼びつけろ。いや、最高級のデザイナーを連れてこい。エルナのために、国一番のドレスを仕立てさせる」
「は?」
「あの小娘に、格の違いというものを教えてやる必要があるだろう。……ちょうどいい、来月、我が領で春の祝賀パーティーを開く予定だったな?」
「はい、例年通り、領内の貴族や有力者を招いてのささやかな会を予定しておりましたが」
「規模を拡大しろ。王都の夜会など目ではない、豪華絢爛なパーティーにする。そこでエルナを、私の婚約者として正式にお披露目する」
レオン様の瞳が、ギラリと輝いた。
それは獲物を狙う猛獣の目ではなく、愛する女を着飾らせたいという、ちょっと暴走気味な愛妻家の目だった。
「ちょ、ちょっと待ってくださいレオン様! そんなに対抗しなくても……」
「対抗? まさか。あんな小娘と張り合うつもりはない」
彼は私の手を引き寄せ、熱っぽい視線を注いだ。
「私はただ、世界中に自慢したいだけだ。私のエルナが、どれほど美しく、素晴らしい女性であるかを」
「うぅ……」
そんなことを言われては、顔が沸騰してしまう。
私の心臓の耐久力が心配だ。
「セバスチャン、手配を頼む。金に糸目はつけるな」
「かしこまりました。……それでは、さっそく宝石商と生地問屋にも連絡を入れておきます。エルナ様に似合う、とびきりのものを」
セバスチャンも乗り気だ。
というか、この城の使用人たちは皆、私を着せ替え人形にするのを楽しんでいないだろうか。
「あの手紙はどうしますか? エルナ様」
マーサさんが、テーブルの上のピンク色の封筒を指差した。
私は少し考えてから、それを手に取った。
そして、燃え盛る暖炉の方へと歩いていく。
「薪の代わりにさせていただきます。……香水の匂いがきついので、よく燃えるでしょう」
ポイッ。
手紙は炎の中に吸い込まれ、一瞬で灰になった。
ミューアの悪意も、カイル殿下の虚栄も、ここではただの燃料に過ぎない。
「ふっ……。いいな、その潔さ」
レオン様が楽しそうに笑い、私の腰を抱き寄せた。
「そうだ、エルナ。今の君には、過去の亡霊など必要ない。ここには、君を愛する私と、君を慕う民がいるのだから」
「はい、レオン様」
私は彼の胸に頭を預けた。
本当に、その通りだ。
王都の狭い世界で、顔色を伺いながら生きていた私はもういない。
ここ辺境のアイスバーン城こそが、私の本当の居場所なのだ。
窓の外では、雪が少しずつ溶け始め、春の訪れを告げていた。
だが、遠く離れた王都では、これから本当の「冬」が始まろうとしていることを、私はまだ知る由もなかった。
……まあ、知ったところで「自業自得ですね」としか思わないのだけれど。
こうして私は、義妹からの手紙を完全にスルーし、公爵様の溺愛に浸る日々を継続することになったのだった。
(第7話 完)
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