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第19話 一方その頃、祖国では結界が消えかけていた
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時間を少しだけ巻き戻そう。
エルナとレオンハルトが、ロベルト率いる筋肉部隊と共に王都の城門を突破していた、まさにその頃のことだ。
王城の奥深く、最も安全とされる「聖なる祈りの間」に隣接する控室では、かつてないほどの怒号と悲鳴が飛び交っていた。
「どうなっているんだ! 空の色がまた変わったぞ!」
王太子カイルは、窓の外を指差して叫んだ。
王都の空は、もはや曇天という生易しいものではなかった。
毒々しい紫色の雲が渦を巻き、太陽の光を完全に遮断している。
時折、雲の裂け目から赤い雷が走り、不気味な地鳴りが城の土台を揺らしていた。
「で、殿下……観測班からの報告です! 王都上空の結界濃度が、危険水域を割り込みました! あと数時間……いえ、数十分で完全に消滅する可能性があります!」
側近の文官が、顔面蒼白で報告書を読み上げる。
「数十分だと!? ふざけるな! ミューアは何をしている! 聖女だろうが!」
カイルは部屋の隅にある豪奢なソファへ振り返った。
そこには、ピンク色のドレスを着た少女――ミューアが、クッションに顔を埋めて震えていた。
「いやぁ……怖いですわ……雷が鳴ってますもの……」
「怖いだと!? お前が祈らないからこうなっているんだろうが! さっさと祈りの間へ行って、結界を張り直してこい!」
カイルが掴みかかると、ミューアはヒステリックに泣き叫んだ。
「無理よ! あんなの無理ですわ! 座っているだけでいいって言ったじゃない! なのに、台座に座ると魔力が吸い取られて、気持ち悪くなるんですもの!」
ミューアの訴えは、ある意味で真実だった。
聖女の結界術は、術者の魔力を触媒にして、国中に敷設された魔力ラインにエネルギーを供給するシステムだ。
エルナのように膨大な魔力と精密な制御能力があれば、呼吸をするように自然に行えるが、ミューアのような微弱な魔力しか持たない者にとっては、全身の血液を抜かれるような苦痛を伴う。
これまでは備蓄していた魔石を消費して誤魔化していたが、その在庫もすでに底をついていた。
「お姉様が……お姉様があんなに簡単にやっていたから、私にもできると思ったのに……! あんなの人間業じゃありませんわ!」
「今さら何を言っている! お前が『私の方が優秀だ』と言ったんだろう!」
「だってカイル様が『エルナは地味だ』って言うから! 可愛い私の方が聖女にふさわしいって!」
醜い責任の押し付け合い。
その間にも、窓の外では事態が悪化していた。
バヂヂヂッ!
結界の一部に亀裂が入り、そこから黒い霧のような瘴気が漏れ出し始めたのだ。
瘴気が触れた城壁の石材が、音を立てて腐食していく。
庭園の植物は一瞬で枯れ果て、池の魚が白い腹を浮かべた。
「ひっ……!」
その光景を見たカイルは、本能的な恐怖に足がすくんだ。
彼は知らなかったのだ。
自分が当たり前のように享受していた平和な日常が、エルナという一人の少女の犠牲の上に成り立っていたことを。
雨の日も風の日も、彼女が祈り続け、見えないところで瘴気を防いでいたからこそ、彼は優雅にパーティーを開き、恋にうつつを抜かすことができていたのだと。
「ど、どうすれば……」
カイルは頭を抱えた。
北へ送った調査団も、暗殺者も、そして頼みの綱だった古代兵器部隊も、音信不通だ。
戻ってくるのは「全滅」「敗走」という絶望的な報告だけ。
「そうだ……エルナだ。エルナを連れ戻せばいい」
彼はうわごとのように呟いた。
「あいつは私のことが好きだったはずだ。少し優しくしてやれば、また尻尾を振って戻ってくるに違いない。そうすれば、また元通りの平和な生活が……」
自分の都合の良い妄想に逃げ込もうとした、その時だった。
ドォォォォン!!
城門の方角から、凄まじい爆音が轟いた。
建物全体が激しく揺れ、シャンデリアが落下して砕け散る。
「な、なんだ!? 敵襲か!?」
「ほ、報告! 城門が突破されました! 侵入者は……アイスバーン公爵と、その軍勢です!」
「来たか……!」
カイルは恐怖と同時に、歪んだ安堵を覚えた。
エルナが来たのだ。
向こうからやってきたのだ。
ならば、話し合えばいい。
自分は王太子だ。未来の国王だ。
命令すれば、彼女は従うはずだ。
「玉座の間へ行くぞ! 迎え撃つ……いや、出迎えてやるのだ!」
彼は震える足で立ち上がり、ミューアの手を引いた。
「来い、ミューア! お前もだ!」
「嫌よ! 殺されるわ!」
「うるさい! お前が聖女のふりをし続けないと、私の立場がないんだよ!」
こうして、彼らは玉座の間へと逃げ込んだ。
それが、自ら断罪の場へ足を踏み入れることになるとも知らずに。
***
そして、時間は現在に戻る。
爆破された扉の煙が晴れ、玉座の間にレオンハルトとエルナ、そしてロベルトをはじめとする精鋭たちが踏み込んでいた。
広大な玉座の間は、かつての威厳を失っていた。
窓ガラスは割れ、吹き込む瘴気交じりの風が赤い絨毯を巻き上げている。
壁に飾られた歴代国王の肖像画は傾き、玉座そのものも薄暗い影に覆われていた。
その中央で、カイルとミューアが身を寄せ合っていた。
カイルは剣を抜こうとして手が震え、ミューアは玉座の影に隠れるようにしてこちらを覗いている。
「ごきげんよう、カイル殿下」
エルナの声が、静寂を切り裂いた。
それは鈴を転がすような美声でありながら、玉座の間の隅々まで届く凛とした響きを持っていた。
「エ、エルナ……」
カイルは呆然と彼女を見つめた。
最後に見た時の彼女は、地味な聖女服を着て、涙をこらえながら追放を受け入れていた。
だが、目の前にいる女性はどうだ。
夜空を織り込んだような深い青のドレスを纏い、背筋を伸ばして堂々と立っている。
黒髪は艶やかに輝き、白い肌は宝石のように透き通っている。
何より、その瞳だ。
かつては自分に媚びるように揺れていた瞳が、今は強く、冷ややかな光を宿して彼を射抜いている。
「……綺麗だ」
カイルの口から、無意識に言葉が漏れた。
その言葉を聞いた瞬間、レオンハルトの眉がピクリと跳ね上がった。
「聞き捨てならないな」
レオンハルトがエルナの前に一歩出る。
その全身から放たれる冷気が、玉座の間の空気を一気に氷点下まで叩き落とす。
「私の妻を、そのような欲望に塗れた目で見るな。……眼球をくり抜かれたいのか?」
「ひっ……!」
カイルは悲鳴を上げて後ずさった。
レオンハルトの威圧感は、生物としての格の違いをまざまざと見せつけるものだった。
人間と、捕食者。
それほどの差があった。
「ま、待て! 落ち着け、公爵! 私は話し合いに来ただけだ!」
カイルは必死に取り繕い、剣を捨てて両手を挙げた。
「エルナ、久しぶりだな! 元気そうで何よりだ! いやあ、ずっと心配していたんだぞ? 北の地は寒かっただろう? こんな野蛮な男に捕まって、怖い思いをしていただろう?」
彼はニヤニヤと笑いながら、エルナに歩み寄ろうとした。
その神経の図太さ――あるいは現実逃避の深さに、エルナは呆れを通り越して感心すら覚えた。
「心配? ……殿下、貴方は私に『死ね』と仰って追放なさいましたわ。調査団という名の暗殺者を送り込み、あまつさえ古代兵器で私の新しい故郷を焼き払おうとしました。それが『心配』の表現なのですか?」
エルナの淡々とした指摘に、カイルの顔が引きつる。
「そ、それは誤解だ! 部下が勝手にやったことだ! 私は君を連れ戻したかっただけなんだよ!」
彼は必死に弁解を続ける。
「そうだ、君を迎えに行くために軍を出したんだ! 君は王国の宝、唯一無二の聖女だからな! さあ、こっちへおいで、エルナ。私の胸に飛び込んでくれば、全て許してやろう。ミューアとのことも水に流して、君を正妃として迎えてやる!」
カイルは両手を広げた。
自分が最高の提案をしていると信じて疑わない顔だ。
彼の中では、エルナはまだ「自分に愛されたがっている地味な女」のままなのだ。
「……正妃?」
エルナが首を傾げると、カイルは勢いづいた。
「そうだ! あの時は魔が差してミューアを選んだが、やはり君の方が良かった! 君の方が役に立つし、何より……今の君なら、私の隣に立つ資格がある美しさだ!」
「最低ですね」
エルナの声は冷たかった。
怒りすら感じさせない、完全なる軽蔑。
「役に立つから。美しいから。……貴方はいつもそうやって、表面的な価値でしか人を見ない。私の心など、一度も見てくださらなかった」
彼女はレオンハルトの方へ振り返り、彼の手を取った。
その瞬間、彼女の表情が氷解し、花が咲くような愛おしげな笑みに変わる。
「今の私には、心から愛し、愛してくれる方がいます。……貴方の隣など、黄金を積まれてもお断りですわ」
その笑顔の落差に、カイルは言葉を失った。
自分に向けられたことのない、慈愛と情熱に満ちた表情。
それが他の男に向けられているという事実が、彼のプライドをズタズタに切り裂いた。
「な、なんでだ……! 私は王太子だぞ! 次期国王だぞ! あんな辺境の田舎貴族より、私の方が優れているに決まっている!」
「田舎貴族、か」
レオンハルトが嘲笑う。
「その田舎貴族に、貴様の自慢の軍隊は壊滅させられ、城門を突破されたわけだが。……現実が見えていないようだな、愚か者」
「うるさい、うるさい! エルナ、戻ってこい! これは王命だぞ!」
カイルが喚き散らす中、玉座の陰からミューアが飛び出してきた。
「ちょっと! カイル様、何言ってますの!? 私という婚約者がいながら、お姉様を正妃にするですって!?」
ミューアはカイルの袖を掴んで揺さぶった。
「私の方が可愛いでしょ!? 私の方が愛嬌があるでしょ!? なんであんな陰気な女がいいのよ!」
「黙れ! お前が役立たずだからいけないんだ!」
カイルはミューアを突き飛ばした。
ミューアは床に倒れ込み、信じられないという顔でカイルを見上げた。
そして、その視線をゆっくりとエルナに向けた。
憎悪、嫉妬、そして惨めさ。
負の感情が彼女の顔を歪ませる。
「お姉様……! また私の邪魔をするのね! 昔からそう! 私が欲しいものを、いつも横から奪っていく!」
「奪ったことはありません。貴方が勝手に欲しがり、勝手に自滅しただけです」
エルナは冷ややかに見下ろした。
ミューアは立ち上がり、懐から何かを取り出した。
それは黒ずんだ魔石だった。
「許さない……許さないわ! こうなったら、みんな道連れよ!」
彼女が魔石を掲げると、玉座の間の空気が一変した。
天井付近に漂っていた瘴気が、魔石に吸い寄せられるように集まり始めたのだ。
「ミューア、やめろ! 何をする気だ!」
カイルが叫ぶが、もう遅い。
「結界の制御盤を逆流させてやるわ! 王都ごと吹き飛んでおしまいなさい!」
彼女は自暴自棄になっていた。
聖女としての祈りではなく、結界システムを暴走させることで、溜め込んでいた負のエネルギーを一気に解放しようとしたのだ。
ゴゴゴゴゴゴ……!
城全体が激しく揺れ始めた。
窓の外では、紫色の空が裂け、巨大な魔法陣のような亀裂が出現した。
そこから、無数の黒い影――魔物たちが溢れ出してくるのが見えた。
ガーゴイル、ワイバーン、そしてもっとおぞましい異形の群れ。
結界が消えたことで、待機していた魔物の大群が王都になだれ込んできたのだ。
「ひぃぃぃっ! 魔物だ! 魔物が来る!」
カイルは腰を抜かし、這いつくばって逃げようとした。
しかし、出口はロベルトのマッスル部隊が固めている。
「ぎゃははは! 見なさい! これが私の力よ!」
ミューアは狂ったように笑っていたが、その手にある魔石は制御不能な熱を持ち始めていた。
彼女自身も、暴走する魔力に飲み込まれそうになっている。
「……馬鹿な女だ」
レオンハルトがため息をついた。
「自ら国を滅ぼす引き金を引くとはな。……エルナ、どうする? このまま放っておけば、城だけでなく王都の民も巻き添えになるぞ」
彼は冷静だった。
彼の実力なら、自分とエルナだけを守って脱出することは容易い。
王都が滅びようが知ったことではない、というのが彼の本音だろう。
しかし、エルナは真っ直ぐに窓の外を見つめていた。
燃え上がる市街地、逃げ惑う人々、空を覆う魔物の群れ。
かつて自分が守り続けてきた景色が、崩壊していく。
「……レオン様」
エルナは彼のマントの裾を握った。
「私は、この国に捨てられました。カイル様にも、父にも、裏切られました」
「ああ」
「でも……あの街には、私に水をくれて感謝してくれた人々がいます。罪のない子供たちがいます」
彼女の瞳に、強い光が宿る。
「見殺しにはできません。……それに、私が本物の聖女であることを証明する、これ以上ない舞台ですわ」
彼女の言葉に、レオンハルトはニヤリと笑った。
それは、愛する女の強さを誇る、最高の笑顔だった。
「いいだろう。……見せてやれ、エルナ。誰がこの国の真の支配者なのかを」
「はい!」
エルナは一歩前に踏み出した。
暴風が吹き荒れる中、彼女の青いドレスが翻る。
首元のチョーカーと、左手の指輪が、呼応するように輝き始めた。
「ミューア、よく見ていなさい。……聖女の力とは、破壊するためにあるのではありません」
エルナは両手を広げた。
その姿は、混乱と恐怖に包まれた玉座の間で、唯一の希望の灯火のように見えた。
「守り、育み、浄化する。……それが、私の役目!」
彼女が叫んだ瞬間、世界が色を変えた。
(第19話 完)
エルナとレオンハルトが、ロベルト率いる筋肉部隊と共に王都の城門を突破していた、まさにその頃のことだ。
王城の奥深く、最も安全とされる「聖なる祈りの間」に隣接する控室では、かつてないほどの怒号と悲鳴が飛び交っていた。
「どうなっているんだ! 空の色がまた変わったぞ!」
王太子カイルは、窓の外を指差して叫んだ。
王都の空は、もはや曇天という生易しいものではなかった。
毒々しい紫色の雲が渦を巻き、太陽の光を完全に遮断している。
時折、雲の裂け目から赤い雷が走り、不気味な地鳴りが城の土台を揺らしていた。
「で、殿下……観測班からの報告です! 王都上空の結界濃度が、危険水域を割り込みました! あと数時間……いえ、数十分で完全に消滅する可能性があります!」
側近の文官が、顔面蒼白で報告書を読み上げる。
「数十分だと!? ふざけるな! ミューアは何をしている! 聖女だろうが!」
カイルは部屋の隅にある豪奢なソファへ振り返った。
そこには、ピンク色のドレスを着た少女――ミューアが、クッションに顔を埋めて震えていた。
「いやぁ……怖いですわ……雷が鳴ってますもの……」
「怖いだと!? お前が祈らないからこうなっているんだろうが! さっさと祈りの間へ行って、結界を張り直してこい!」
カイルが掴みかかると、ミューアはヒステリックに泣き叫んだ。
「無理よ! あんなの無理ですわ! 座っているだけでいいって言ったじゃない! なのに、台座に座ると魔力が吸い取られて、気持ち悪くなるんですもの!」
ミューアの訴えは、ある意味で真実だった。
聖女の結界術は、術者の魔力を触媒にして、国中に敷設された魔力ラインにエネルギーを供給するシステムだ。
エルナのように膨大な魔力と精密な制御能力があれば、呼吸をするように自然に行えるが、ミューアのような微弱な魔力しか持たない者にとっては、全身の血液を抜かれるような苦痛を伴う。
これまでは備蓄していた魔石を消費して誤魔化していたが、その在庫もすでに底をついていた。
「お姉様が……お姉様があんなに簡単にやっていたから、私にもできると思ったのに……! あんなの人間業じゃありませんわ!」
「今さら何を言っている! お前が『私の方が優秀だ』と言ったんだろう!」
「だってカイル様が『エルナは地味だ』って言うから! 可愛い私の方が聖女にふさわしいって!」
醜い責任の押し付け合い。
その間にも、窓の外では事態が悪化していた。
バヂヂヂッ!
結界の一部に亀裂が入り、そこから黒い霧のような瘴気が漏れ出し始めたのだ。
瘴気が触れた城壁の石材が、音を立てて腐食していく。
庭園の植物は一瞬で枯れ果て、池の魚が白い腹を浮かべた。
「ひっ……!」
その光景を見たカイルは、本能的な恐怖に足がすくんだ。
彼は知らなかったのだ。
自分が当たり前のように享受していた平和な日常が、エルナという一人の少女の犠牲の上に成り立っていたことを。
雨の日も風の日も、彼女が祈り続け、見えないところで瘴気を防いでいたからこそ、彼は優雅にパーティーを開き、恋にうつつを抜かすことができていたのだと。
「ど、どうすれば……」
カイルは頭を抱えた。
北へ送った調査団も、暗殺者も、そして頼みの綱だった古代兵器部隊も、音信不通だ。
戻ってくるのは「全滅」「敗走」という絶望的な報告だけ。
「そうだ……エルナだ。エルナを連れ戻せばいい」
彼はうわごとのように呟いた。
「あいつは私のことが好きだったはずだ。少し優しくしてやれば、また尻尾を振って戻ってくるに違いない。そうすれば、また元通りの平和な生活が……」
自分の都合の良い妄想に逃げ込もうとした、その時だった。
ドォォォォン!!
城門の方角から、凄まじい爆音が轟いた。
建物全体が激しく揺れ、シャンデリアが落下して砕け散る。
「な、なんだ!? 敵襲か!?」
「ほ、報告! 城門が突破されました! 侵入者は……アイスバーン公爵と、その軍勢です!」
「来たか……!」
カイルは恐怖と同時に、歪んだ安堵を覚えた。
エルナが来たのだ。
向こうからやってきたのだ。
ならば、話し合えばいい。
自分は王太子だ。未来の国王だ。
命令すれば、彼女は従うはずだ。
「玉座の間へ行くぞ! 迎え撃つ……いや、出迎えてやるのだ!」
彼は震える足で立ち上がり、ミューアの手を引いた。
「来い、ミューア! お前もだ!」
「嫌よ! 殺されるわ!」
「うるさい! お前が聖女のふりをし続けないと、私の立場がないんだよ!」
こうして、彼らは玉座の間へと逃げ込んだ。
それが、自ら断罪の場へ足を踏み入れることになるとも知らずに。
***
そして、時間は現在に戻る。
爆破された扉の煙が晴れ、玉座の間にレオンハルトとエルナ、そしてロベルトをはじめとする精鋭たちが踏み込んでいた。
広大な玉座の間は、かつての威厳を失っていた。
窓ガラスは割れ、吹き込む瘴気交じりの風が赤い絨毯を巻き上げている。
壁に飾られた歴代国王の肖像画は傾き、玉座そのものも薄暗い影に覆われていた。
その中央で、カイルとミューアが身を寄せ合っていた。
カイルは剣を抜こうとして手が震え、ミューアは玉座の影に隠れるようにしてこちらを覗いている。
「ごきげんよう、カイル殿下」
エルナの声が、静寂を切り裂いた。
それは鈴を転がすような美声でありながら、玉座の間の隅々まで届く凛とした響きを持っていた。
「エ、エルナ……」
カイルは呆然と彼女を見つめた。
最後に見た時の彼女は、地味な聖女服を着て、涙をこらえながら追放を受け入れていた。
だが、目の前にいる女性はどうだ。
夜空を織り込んだような深い青のドレスを纏い、背筋を伸ばして堂々と立っている。
黒髪は艶やかに輝き、白い肌は宝石のように透き通っている。
何より、その瞳だ。
かつては自分に媚びるように揺れていた瞳が、今は強く、冷ややかな光を宿して彼を射抜いている。
「……綺麗だ」
カイルの口から、無意識に言葉が漏れた。
その言葉を聞いた瞬間、レオンハルトの眉がピクリと跳ね上がった。
「聞き捨てならないな」
レオンハルトがエルナの前に一歩出る。
その全身から放たれる冷気が、玉座の間の空気を一気に氷点下まで叩き落とす。
「私の妻を、そのような欲望に塗れた目で見るな。……眼球をくり抜かれたいのか?」
「ひっ……!」
カイルは悲鳴を上げて後ずさった。
レオンハルトの威圧感は、生物としての格の違いをまざまざと見せつけるものだった。
人間と、捕食者。
それほどの差があった。
「ま、待て! 落ち着け、公爵! 私は話し合いに来ただけだ!」
カイルは必死に取り繕い、剣を捨てて両手を挙げた。
「エルナ、久しぶりだな! 元気そうで何よりだ! いやあ、ずっと心配していたんだぞ? 北の地は寒かっただろう? こんな野蛮な男に捕まって、怖い思いをしていただろう?」
彼はニヤニヤと笑いながら、エルナに歩み寄ろうとした。
その神経の図太さ――あるいは現実逃避の深さに、エルナは呆れを通り越して感心すら覚えた。
「心配? ……殿下、貴方は私に『死ね』と仰って追放なさいましたわ。調査団という名の暗殺者を送り込み、あまつさえ古代兵器で私の新しい故郷を焼き払おうとしました。それが『心配』の表現なのですか?」
エルナの淡々とした指摘に、カイルの顔が引きつる。
「そ、それは誤解だ! 部下が勝手にやったことだ! 私は君を連れ戻したかっただけなんだよ!」
彼は必死に弁解を続ける。
「そうだ、君を迎えに行くために軍を出したんだ! 君は王国の宝、唯一無二の聖女だからな! さあ、こっちへおいで、エルナ。私の胸に飛び込んでくれば、全て許してやろう。ミューアとのことも水に流して、君を正妃として迎えてやる!」
カイルは両手を広げた。
自分が最高の提案をしていると信じて疑わない顔だ。
彼の中では、エルナはまだ「自分に愛されたがっている地味な女」のままなのだ。
「……正妃?」
エルナが首を傾げると、カイルは勢いづいた。
「そうだ! あの時は魔が差してミューアを選んだが、やはり君の方が良かった! 君の方が役に立つし、何より……今の君なら、私の隣に立つ資格がある美しさだ!」
「最低ですね」
エルナの声は冷たかった。
怒りすら感じさせない、完全なる軽蔑。
「役に立つから。美しいから。……貴方はいつもそうやって、表面的な価値でしか人を見ない。私の心など、一度も見てくださらなかった」
彼女はレオンハルトの方へ振り返り、彼の手を取った。
その瞬間、彼女の表情が氷解し、花が咲くような愛おしげな笑みに変わる。
「今の私には、心から愛し、愛してくれる方がいます。……貴方の隣など、黄金を積まれてもお断りですわ」
その笑顔の落差に、カイルは言葉を失った。
自分に向けられたことのない、慈愛と情熱に満ちた表情。
それが他の男に向けられているという事実が、彼のプライドをズタズタに切り裂いた。
「な、なんでだ……! 私は王太子だぞ! 次期国王だぞ! あんな辺境の田舎貴族より、私の方が優れているに決まっている!」
「田舎貴族、か」
レオンハルトが嘲笑う。
「その田舎貴族に、貴様の自慢の軍隊は壊滅させられ、城門を突破されたわけだが。……現実が見えていないようだな、愚か者」
「うるさい、うるさい! エルナ、戻ってこい! これは王命だぞ!」
カイルが喚き散らす中、玉座の陰からミューアが飛び出してきた。
「ちょっと! カイル様、何言ってますの!? 私という婚約者がいながら、お姉様を正妃にするですって!?」
ミューアはカイルの袖を掴んで揺さぶった。
「私の方が可愛いでしょ!? 私の方が愛嬌があるでしょ!? なんであんな陰気な女がいいのよ!」
「黙れ! お前が役立たずだからいけないんだ!」
カイルはミューアを突き飛ばした。
ミューアは床に倒れ込み、信じられないという顔でカイルを見上げた。
そして、その視線をゆっくりとエルナに向けた。
憎悪、嫉妬、そして惨めさ。
負の感情が彼女の顔を歪ませる。
「お姉様……! また私の邪魔をするのね! 昔からそう! 私が欲しいものを、いつも横から奪っていく!」
「奪ったことはありません。貴方が勝手に欲しがり、勝手に自滅しただけです」
エルナは冷ややかに見下ろした。
ミューアは立ち上がり、懐から何かを取り出した。
それは黒ずんだ魔石だった。
「許さない……許さないわ! こうなったら、みんな道連れよ!」
彼女が魔石を掲げると、玉座の間の空気が一変した。
天井付近に漂っていた瘴気が、魔石に吸い寄せられるように集まり始めたのだ。
「ミューア、やめろ! 何をする気だ!」
カイルが叫ぶが、もう遅い。
「結界の制御盤を逆流させてやるわ! 王都ごと吹き飛んでおしまいなさい!」
彼女は自暴自棄になっていた。
聖女としての祈りではなく、結界システムを暴走させることで、溜め込んでいた負のエネルギーを一気に解放しようとしたのだ。
ゴゴゴゴゴゴ……!
城全体が激しく揺れ始めた。
窓の外では、紫色の空が裂け、巨大な魔法陣のような亀裂が出現した。
そこから、無数の黒い影――魔物たちが溢れ出してくるのが見えた。
ガーゴイル、ワイバーン、そしてもっとおぞましい異形の群れ。
結界が消えたことで、待機していた魔物の大群が王都になだれ込んできたのだ。
「ひぃぃぃっ! 魔物だ! 魔物が来る!」
カイルは腰を抜かし、這いつくばって逃げようとした。
しかし、出口はロベルトのマッスル部隊が固めている。
「ぎゃははは! 見なさい! これが私の力よ!」
ミューアは狂ったように笑っていたが、その手にある魔石は制御不能な熱を持ち始めていた。
彼女自身も、暴走する魔力に飲み込まれそうになっている。
「……馬鹿な女だ」
レオンハルトがため息をついた。
「自ら国を滅ぼす引き金を引くとはな。……エルナ、どうする? このまま放っておけば、城だけでなく王都の民も巻き添えになるぞ」
彼は冷静だった。
彼の実力なら、自分とエルナだけを守って脱出することは容易い。
王都が滅びようが知ったことではない、というのが彼の本音だろう。
しかし、エルナは真っ直ぐに窓の外を見つめていた。
燃え上がる市街地、逃げ惑う人々、空を覆う魔物の群れ。
かつて自分が守り続けてきた景色が、崩壊していく。
「……レオン様」
エルナは彼のマントの裾を握った。
「私は、この国に捨てられました。カイル様にも、父にも、裏切られました」
「ああ」
「でも……あの街には、私に水をくれて感謝してくれた人々がいます。罪のない子供たちがいます」
彼女の瞳に、強い光が宿る。
「見殺しにはできません。……それに、私が本物の聖女であることを証明する、これ以上ない舞台ですわ」
彼女の言葉に、レオンハルトはニヤリと笑った。
それは、愛する女の強さを誇る、最高の笑顔だった。
「いいだろう。……見せてやれ、エルナ。誰がこの国の真の支配者なのかを」
「はい!」
エルナは一歩前に踏み出した。
暴風が吹き荒れる中、彼女の青いドレスが翻る。
首元のチョーカーと、左手の指輪が、呼応するように輝き始めた。
「ミューア、よく見ていなさい。……聖女の力とは、破壊するためにあるのではありません」
エルナは両手を広げた。
その姿は、混乱と恐怖に包まれた玉座の間で、唯一の希望の灯火のように見えた。
「守り、育み、浄化する。……それが、私の役目!」
彼女が叫んだ瞬間、世界が色を変えた。
(第19話 完)
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