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第25話 レオンハルト様、激怒。「私の妻になにをする」
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イザベラ公爵夫人が嵐のように去り、アイスバーン城には再び平穏な日々が戻ってきた――はずだった。
しかし、その日の朝、執事のセバスチャンは眉間に深い皺を寄せていた。
「旦那様、少々奇妙なことがございまして」
朝食後のティータイム。
レオンハルト様と私が寛いでいると、セバスチャンが静かに報告を始めた。
「イザベラ様が連れてこられた使用人やお供の者たちですが……人数確認をしたところ、一名足りないのです」
「足りない? 逃げ出したのか?」
レオン様がカップを置き、訝しげに尋ねる。
「いえ、城門の記録には出た形跡がございません。つまり、まだこの城のどこかに潜伏している可能性が高いのです」
「……ネズミが一匹、残っていたということか」
レオン様の瞳が鋭く細められた。
城内には侵入者を感知する結界が張られているが、正規の手続きで(イザベラ様のお供として)入城した者に対しては反応しない場合がある。
内部に入り込んでしまえば、あとは身を隠すだけだ。
「すぐに城内を捜索させろ。エルナ、君は私のそばを離れるな」
「はい、レオン様」
私は少し不安を覚えた。
イザベラ様が連れてきた人物。
単なる使用人が逃げ遅れただけならいいのだが、もし悪意を持った何者かだとしたら。
彼女は「王命」を盾に私を連れ戻そうとしていた。
そのための「切り札」を、ここに残していった可能性もある。
***
その日の午後。
レオン様は緊急の領地会議のため、どうしても執務室を離れなければならなくなった。
私は警備の厳しい図書室で、大人しく本を読んで待つことにした。
ここなら入り口は一つだし、護衛の騎士も扉の前に立っている。
静寂に包まれた図書室。
私は窓際の席で、北の歴史書をめくっていた。
ふと、微かな甘い香りが漂ってきた気がした。
花のような、あるいは熟れすぎた果実のような、むせ返るような香り。
「……何の匂いかしら」
顔を上げると、本棚の影から一人の男が姿を現した。
「やあ、美しいお嬢さん。一人かい?」
「……!」
私は息を呑んだ。
そこにいたのは、派手な服を着た若い男だった。
金髪碧眼で、見た目は整っているが、その笑顔にはどこか粘着質なものが張り付いている。
服装からして使用人ではない。上質なシルクのマントに、これ見よがしにジャラジャラとつけた宝石類。
明らかに貴族、それもかなり身分の高い人物のようだ。
「誰ですか? ここは立ち入り禁止のはずですが」
私は警戒して立ち上がり、護身用の魔石を握りしめた。
扉の外にいる騎士に声をかけようとしたが、声が出ない。
喉が詰まったような感覚。
そして、手足が鉛のように重い。
(身体が……動かない?)
「おっと、無駄だよ。この部屋には特殊な『麻痺香』を撒かせてもらった。声も出せないし、魔力も練れないはずさ」
男はニヤニヤと笑いながら近づいてきた。
「自己紹介が遅れたね。僕はクリス。隣国、西の帝国の第三皇子だ」
「……!」
隣国の皇子。
なぜそんな大物が、こんな場所に?
しかも、不法侵入者のような真似をして。
「驚いたかい? イザベラおば様に頼まれてね。『北の城には、世にも美しい聖女がいる。彼女を手に入れれば、帝国の繁栄は約束される』って」
彼は私の目の前まで来ると、私の顎を指で持ち上げた。
触れられた瞬間、鳥肌が立った。
「噂以上だ。黒髪の聖女……本当に神秘的で、そそられるね。あの堅物の公爵には勿体ない」
「さ……わら……ないで……」
私は必死に抵抗しようとしたが、指一本動かせない。
麻痺香の効果が強すぎる。
意識はあるのに、身体の自由が利かない恐怖。
「抵抗しなくていいよ。僕と一緒に帝国へ来ないか? あんな氷の城より、ずっと暖かくて豪華な暮らしをさせてあげる。僕の愛妾としてね」
「……っ」
愛妾。
正妻ですらない。
イザベラ様は、私を売ったのだ。
自分の贅沢のために、隣国の皇子に私を「商品」として差し出したのだ。
「王命」など建前で、これが彼女の本当の狙いだったのかもしれません。
「レオンハルト公爵なんて、ただの田舎貴族じゃないか。僕なら君に、世界の半分を与えられるよ」
クリス皇子は、私の髪に顔を埋め、深く香りを吸い込んだ。
「いい匂いだ……。ねえ、ここで少し味見させてもらってもいいかな?」
彼の手が、私のドレスの肩紐にかかる。
嫌悪感で吐き気がした。
助けて、レオン様。
(レオン様……!)
私は心の中で叫んだ。
左手の薬指にはめた、氷魔石の指輪に意識を集中させる。
魔力は練れないけれど、この指輪は私の意志に反応するはずだ。
レオン様がくれた、最強の護符なのだから。
チカッ……。
指輪が微かに光った。
次の瞬間。
ドォォォォン!!
図書室の重厚な扉が、爆発したかのように吹き飛んだ。
木片と砂煙が舞う中、猛烈な冷気が部屋になだれ込んでくる。
「な、なんだ!?」
クリス皇子が驚いて飛び退いた。
麻痺香の甘い匂いが、一瞬にして凍りつくような殺気に塗り替えられる。
煙の向こうから、一人の男が歩いてきた。
黒いマントをなびかせ、その周囲には無数の氷の刃が浮遊している。
蒼い瞳は、この世の終わりのような怒りを宿して燃え上がっていた。
「……私の城で、害虫駆除が必要になったようだな」
地獄の底から響くような声。
レオンハルト様だ。
「レオン……さま……」
私が掠れた声で呼ぶと、彼の視線が一瞬だけ私に向けられ、痛ましげに揺れた。
そしてすぐに、クリス皇子へと戻り、絶対零度まで冷え込んだ。
「貴様。……私の妻になにをする」
「ひっ……!」
クリス皇子は、レオン様の威圧感に腰を抜かしそうになったが、皇族としてのプライドで何とか踏みとどまった。
「む、無礼だぞ! 僕は帝国の皇子だ! たかが公爵風情が、皇族に向かって……」
「皇族? それがどうした」
レオン様は一歩踏み出した。
床がパキパキと音を立てて凍りつき、クリス皇子の足元へと迫る。
「私の領土において、私の法を犯した者は、王だろうが皇帝だろうが裁かれる。……ましてや、私の最愛の妻に手を出そうとした罪。万死に値する」
「ま、待て! これは外交問題になるぞ! 僕に傷をつければ、帝国軍が黙っていない!」
「構わん。国ごと凍らせてやる」
レオン様は躊躇わなかった。
彼の手から放たれた氷の礫が、クリス皇子の頬を掠める。
鮮血が飛び散り、皇子は悲鳴を上げて尻餅をついた。
「痛っ! 血が! 僕の尊い血が!」
「次はその舌を凍らせる。……エルナに触れたその汚い手もな」
レオン様がさらに近づく。
クリス皇子は恐怖で顔を引きつらせ、後ずさった。
背中はもう壁だ。逃げ場はない。
「た、助けてくれ! 悪かった! イザベラに唆されたんだ! 金で聖女を買えると言われて……!」
「母上も同罪だが、実行犯は貴様だ」
レオン様がトドメの一撃を放とうとした、その時。
「待て待て待てぇぇぇ!」
窓ガラスを突き破って、筋肉の塊が飛び込んできた。
ロベルト・バーンスタイン辺境伯だ。
「ぬん! 着地成功!」
彼はガラスの破片をものともせず、仁王立ちした。
そして、殺気立つレオン様と、怯える皇子の間に割って入った。
「レオンハルト! 早まるな! ここでこいつを殺せば、せっかくエルナ嬢が守った平和が台無しだぞ!」
「退け、ロベルト。……こいつはエルナを汚そうとした。生かしておけん」
「気持ちは分かる! 俺だってこいつをマッスル・プレスしてやりたい! だが、殺すのはまずい!」
ロベルト様は必死に説得した。
「殺さずに、最大の苦痛を与える方法があるだろ? ……例えば、帝国の皇帝に身柄を引き渡して、こいつの愚行を全部バラすとかよ」
「……」
レオン様の殺気が少しだけ揺らいだ。
「皇帝は厳格な方だ。息子の不祥事を知れば、廃嫡はおろか、一生幽閉するだろうぜ。……死ぬより辛い余生を送らせてやるのが、一番の復讐じゃないか?」
ロベルト様の提案はもっともだった。
ここで私情に駆られて皇子を殺害すれば、帝国との戦争になり、多くの領民が犠牲になるかもしれない。
それは私が望むことではない。
「……チッ」
レオン様は舌打ちをして、浮遊させていた氷の刃を消した。
しかし、怒りが収まったわけではない。
「殺しはしない。……だが、無傷で返すつもりもない」
彼は指を弾いた。
ヒュンッ!
クリス皇子の両手足が、瞬時に氷漬けにされ、壁に張り付けられた。
「ぎゃぁぁぁ! 冷たい! 痛い!」
「帝国へ送り返すまでの間、地下牢で頭を冷やしていてもらおう。……私の妻に恐怖を与えた分、たっぷりと絶望を味わえ」
「ひぃぃぃ……!」
クリス皇子は泡を吹いて気絶した。
セバスチャンがすぐに衛兵を呼び、彼を引きずっていく。
これで、侵入者は排除された。
「エルナ!」
レオン様が私に駆け寄り、麻痺香の効果を中和する魔法をかけてくれた。
身体の自由が戻ると同時に、私は彼に抱きついた。
「レオン様……!」
「すまない、遅くなった……! 怖かっただろう。……無事でよかった」
彼の腕が震えていた。
私を失うかもしれないという恐怖。
そして、私を守りきれなかった自分への怒り。
「怖かったです……でも、レオン様が来てくれると信じていました」
私は彼の胸に顔を埋めた。
彼の匂い、彼の温もり。
それが何よりの薬となって、私の心の震えを鎮めてくれる。
「もう二度と、君を一人にはしない。……片時も離さない」
彼は私を強く抱きしめ、何度も髪にキスをした。
「……それにしても、イザベラだ」
彼がつぶやいた声には、深い失望と、決別が含まれていた。
「まさか、ここまで腐っていたとはな。……実の息子から妻を奪い、他国へ売り飛ばそうとするとは」
「彼女はもう、母親ではありませんね」
「ああ。……今回の件で、彼女には相応の報いを受けてもらう。王家と帝国、双方から追及されれば、彼女の破滅は免れない」
イザベラ様は、自分の蒔いた種によって、自滅の道を歩むことになるだろう。
王都へ逃げ帰ったところで、待っているのは安息ではない。
「さて、エルナ。……部屋に戻ろう」
レオン様は私をお姫様抱っこした。
「麻痺香の影響が残っているかもしれない。……私が直々に、看病してあげるよ」
「看病、ですか?」
「ああ。身体を温めて、魔力を補充して……君の不安が消えるまで、ずっとそばにいる」
彼の瞳が、甘く熱い光を帯びる。
これは、ただの看病では終わらない予感がする。
けれど、今の私には、彼のその重いくらいの愛情が必要だった。
「はい……お願いします」
私が頷くと、彼は嬉しそうに微笑み、私を連れて図書室を後にした。
その夜。
レオン様の看病(という名の溺愛)は、予想以上に甘く、激しいものだった。
「他の男の匂いを消す」と言って、彼は私の一寸の隙間もなく愛撫し、自身の痕跡を刻み込んだ。
恐怖の記憶は、彼の愛によって完全に上書きされ、私は幸せな疲労感の中で眠りについた。
***
翌日。
帝国への引き渡し手続きは、セバスチャンとロベルト様が迅速に進めてくれた。
クリス皇子の愚行(不法侵入、誘拐未遂、公爵夫人への暴行未遂)は、証拠と共に帝国の皇帝へ送られた。
激怒した皇帝は、即座にクリス皇子の廃嫡を決定し、身柄を引き取るための使者を派遣してきた。
同時に、アイスバーン公爵家への謝罪と、莫大な賠償金も支払われることになった。
さらに、この件に関与していたイザベラ様についても、帝国からの抗議を受けた王家が動き出した。
彼女は王族としての地位を剥奪され、辺境の修道院へ幽閉されることが決定したという。
彼女が望んだ「華やかな老後」は、永遠に失われたのだ。
「自業自得だな」
報告を受けたレオン様は、冷ややかにそれだけを言った。
彼の中で、母親という存在は完全に過去のものとなったのだ。
「これで、本当に邪魔者はいなくなりましたね」
「ああ。……今度こそ、私たちの平和な生活の始まりだ」
レオン様はサンルームで、私に膝枕をさせながら、穏やかに微笑んだ。
窓の外では、春の日差しが雪を溶かし始めている。
長い冬が終わり、北の地にも本格的な春が訪れようとしていた。
「エルナ」
「はい、レオン様」
「そろそろ、結婚式の準備を始めないか?」
「結婚式……」
「ああ。王都での騒動や、色々な邪魔が入って延び延びになっていたが。……もう待てない」
彼は私の手を取り、指輪に口付けた。
「世界で一番美しい花嫁姿を、私に見せてくれ」
「……はい、喜んで」
私は涙ぐみながら頷いた。
数々の困難を乗り越え、ようやく辿り着いたゴール。
いや、これはゴールではなく、新しいスタートラインだ。
公爵家の結婚式。
それは国を挙げての大イベントになるだろう。
マダム・ロゼが張り切りすぎて倒れないか心配だが、きっと素晴らしい式になるはずだ。
「楽しみですね、レオン様」
「ああ。……だが、その前に」
彼は悪戯っぽく笑った。
「式までの間、花嫁修行と称して、もっと君を独占させてもらうが……構わないな?」
「ふふっ、お手柔らかにお願いします」
幸せな笑い声が、春の風に乗って広がっていく。
北の空は、どこまでも青く澄み渡っていた。
(第25話 完)
しかし、その日の朝、執事のセバスチャンは眉間に深い皺を寄せていた。
「旦那様、少々奇妙なことがございまして」
朝食後のティータイム。
レオンハルト様と私が寛いでいると、セバスチャンが静かに報告を始めた。
「イザベラ様が連れてこられた使用人やお供の者たちですが……人数確認をしたところ、一名足りないのです」
「足りない? 逃げ出したのか?」
レオン様がカップを置き、訝しげに尋ねる。
「いえ、城門の記録には出た形跡がございません。つまり、まだこの城のどこかに潜伏している可能性が高いのです」
「……ネズミが一匹、残っていたということか」
レオン様の瞳が鋭く細められた。
城内には侵入者を感知する結界が張られているが、正規の手続きで(イザベラ様のお供として)入城した者に対しては反応しない場合がある。
内部に入り込んでしまえば、あとは身を隠すだけだ。
「すぐに城内を捜索させろ。エルナ、君は私のそばを離れるな」
「はい、レオン様」
私は少し不安を覚えた。
イザベラ様が連れてきた人物。
単なる使用人が逃げ遅れただけならいいのだが、もし悪意を持った何者かだとしたら。
彼女は「王命」を盾に私を連れ戻そうとしていた。
そのための「切り札」を、ここに残していった可能性もある。
***
その日の午後。
レオン様は緊急の領地会議のため、どうしても執務室を離れなければならなくなった。
私は警備の厳しい図書室で、大人しく本を読んで待つことにした。
ここなら入り口は一つだし、護衛の騎士も扉の前に立っている。
静寂に包まれた図書室。
私は窓際の席で、北の歴史書をめくっていた。
ふと、微かな甘い香りが漂ってきた気がした。
花のような、あるいは熟れすぎた果実のような、むせ返るような香り。
「……何の匂いかしら」
顔を上げると、本棚の影から一人の男が姿を現した。
「やあ、美しいお嬢さん。一人かい?」
「……!」
私は息を呑んだ。
そこにいたのは、派手な服を着た若い男だった。
金髪碧眼で、見た目は整っているが、その笑顔にはどこか粘着質なものが張り付いている。
服装からして使用人ではない。上質なシルクのマントに、これ見よがしにジャラジャラとつけた宝石類。
明らかに貴族、それもかなり身分の高い人物のようだ。
「誰ですか? ここは立ち入り禁止のはずですが」
私は警戒して立ち上がり、護身用の魔石を握りしめた。
扉の外にいる騎士に声をかけようとしたが、声が出ない。
喉が詰まったような感覚。
そして、手足が鉛のように重い。
(身体が……動かない?)
「おっと、無駄だよ。この部屋には特殊な『麻痺香』を撒かせてもらった。声も出せないし、魔力も練れないはずさ」
男はニヤニヤと笑いながら近づいてきた。
「自己紹介が遅れたね。僕はクリス。隣国、西の帝国の第三皇子だ」
「……!」
隣国の皇子。
なぜそんな大物が、こんな場所に?
しかも、不法侵入者のような真似をして。
「驚いたかい? イザベラおば様に頼まれてね。『北の城には、世にも美しい聖女がいる。彼女を手に入れれば、帝国の繁栄は約束される』って」
彼は私の目の前まで来ると、私の顎を指で持ち上げた。
触れられた瞬間、鳥肌が立った。
「噂以上だ。黒髪の聖女……本当に神秘的で、そそられるね。あの堅物の公爵には勿体ない」
「さ……わら……ないで……」
私は必死に抵抗しようとしたが、指一本動かせない。
麻痺香の効果が強すぎる。
意識はあるのに、身体の自由が利かない恐怖。
「抵抗しなくていいよ。僕と一緒に帝国へ来ないか? あんな氷の城より、ずっと暖かくて豪華な暮らしをさせてあげる。僕の愛妾としてね」
「……っ」
愛妾。
正妻ですらない。
イザベラ様は、私を売ったのだ。
自分の贅沢のために、隣国の皇子に私を「商品」として差し出したのだ。
「王命」など建前で、これが彼女の本当の狙いだったのかもしれません。
「レオンハルト公爵なんて、ただの田舎貴族じゃないか。僕なら君に、世界の半分を与えられるよ」
クリス皇子は、私の髪に顔を埋め、深く香りを吸い込んだ。
「いい匂いだ……。ねえ、ここで少し味見させてもらってもいいかな?」
彼の手が、私のドレスの肩紐にかかる。
嫌悪感で吐き気がした。
助けて、レオン様。
(レオン様……!)
私は心の中で叫んだ。
左手の薬指にはめた、氷魔石の指輪に意識を集中させる。
魔力は練れないけれど、この指輪は私の意志に反応するはずだ。
レオン様がくれた、最強の護符なのだから。
チカッ……。
指輪が微かに光った。
次の瞬間。
ドォォォォン!!
図書室の重厚な扉が、爆発したかのように吹き飛んだ。
木片と砂煙が舞う中、猛烈な冷気が部屋になだれ込んでくる。
「な、なんだ!?」
クリス皇子が驚いて飛び退いた。
麻痺香の甘い匂いが、一瞬にして凍りつくような殺気に塗り替えられる。
煙の向こうから、一人の男が歩いてきた。
黒いマントをなびかせ、その周囲には無数の氷の刃が浮遊している。
蒼い瞳は、この世の終わりのような怒りを宿して燃え上がっていた。
「……私の城で、害虫駆除が必要になったようだな」
地獄の底から響くような声。
レオンハルト様だ。
「レオン……さま……」
私が掠れた声で呼ぶと、彼の視線が一瞬だけ私に向けられ、痛ましげに揺れた。
そしてすぐに、クリス皇子へと戻り、絶対零度まで冷え込んだ。
「貴様。……私の妻になにをする」
「ひっ……!」
クリス皇子は、レオン様の威圧感に腰を抜かしそうになったが、皇族としてのプライドで何とか踏みとどまった。
「む、無礼だぞ! 僕は帝国の皇子だ! たかが公爵風情が、皇族に向かって……」
「皇族? それがどうした」
レオン様は一歩踏み出した。
床がパキパキと音を立てて凍りつき、クリス皇子の足元へと迫る。
「私の領土において、私の法を犯した者は、王だろうが皇帝だろうが裁かれる。……ましてや、私の最愛の妻に手を出そうとした罪。万死に値する」
「ま、待て! これは外交問題になるぞ! 僕に傷をつければ、帝国軍が黙っていない!」
「構わん。国ごと凍らせてやる」
レオン様は躊躇わなかった。
彼の手から放たれた氷の礫が、クリス皇子の頬を掠める。
鮮血が飛び散り、皇子は悲鳴を上げて尻餅をついた。
「痛っ! 血が! 僕の尊い血が!」
「次はその舌を凍らせる。……エルナに触れたその汚い手もな」
レオン様がさらに近づく。
クリス皇子は恐怖で顔を引きつらせ、後ずさった。
背中はもう壁だ。逃げ場はない。
「た、助けてくれ! 悪かった! イザベラに唆されたんだ! 金で聖女を買えると言われて……!」
「母上も同罪だが、実行犯は貴様だ」
レオン様がトドメの一撃を放とうとした、その時。
「待て待て待てぇぇぇ!」
窓ガラスを突き破って、筋肉の塊が飛び込んできた。
ロベルト・バーンスタイン辺境伯だ。
「ぬん! 着地成功!」
彼はガラスの破片をものともせず、仁王立ちした。
そして、殺気立つレオン様と、怯える皇子の間に割って入った。
「レオンハルト! 早まるな! ここでこいつを殺せば、せっかくエルナ嬢が守った平和が台無しだぞ!」
「退け、ロベルト。……こいつはエルナを汚そうとした。生かしておけん」
「気持ちは分かる! 俺だってこいつをマッスル・プレスしてやりたい! だが、殺すのはまずい!」
ロベルト様は必死に説得した。
「殺さずに、最大の苦痛を与える方法があるだろ? ……例えば、帝国の皇帝に身柄を引き渡して、こいつの愚行を全部バラすとかよ」
「……」
レオン様の殺気が少しだけ揺らいだ。
「皇帝は厳格な方だ。息子の不祥事を知れば、廃嫡はおろか、一生幽閉するだろうぜ。……死ぬより辛い余生を送らせてやるのが、一番の復讐じゃないか?」
ロベルト様の提案はもっともだった。
ここで私情に駆られて皇子を殺害すれば、帝国との戦争になり、多くの領民が犠牲になるかもしれない。
それは私が望むことではない。
「……チッ」
レオン様は舌打ちをして、浮遊させていた氷の刃を消した。
しかし、怒りが収まったわけではない。
「殺しはしない。……だが、無傷で返すつもりもない」
彼は指を弾いた。
ヒュンッ!
クリス皇子の両手足が、瞬時に氷漬けにされ、壁に張り付けられた。
「ぎゃぁぁぁ! 冷たい! 痛い!」
「帝国へ送り返すまでの間、地下牢で頭を冷やしていてもらおう。……私の妻に恐怖を与えた分、たっぷりと絶望を味わえ」
「ひぃぃぃ……!」
クリス皇子は泡を吹いて気絶した。
セバスチャンがすぐに衛兵を呼び、彼を引きずっていく。
これで、侵入者は排除された。
「エルナ!」
レオン様が私に駆け寄り、麻痺香の効果を中和する魔法をかけてくれた。
身体の自由が戻ると同時に、私は彼に抱きついた。
「レオン様……!」
「すまない、遅くなった……! 怖かっただろう。……無事でよかった」
彼の腕が震えていた。
私を失うかもしれないという恐怖。
そして、私を守りきれなかった自分への怒り。
「怖かったです……でも、レオン様が来てくれると信じていました」
私は彼の胸に顔を埋めた。
彼の匂い、彼の温もり。
それが何よりの薬となって、私の心の震えを鎮めてくれる。
「もう二度と、君を一人にはしない。……片時も離さない」
彼は私を強く抱きしめ、何度も髪にキスをした。
「……それにしても、イザベラだ」
彼がつぶやいた声には、深い失望と、決別が含まれていた。
「まさか、ここまで腐っていたとはな。……実の息子から妻を奪い、他国へ売り飛ばそうとするとは」
「彼女はもう、母親ではありませんね」
「ああ。……今回の件で、彼女には相応の報いを受けてもらう。王家と帝国、双方から追及されれば、彼女の破滅は免れない」
イザベラ様は、自分の蒔いた種によって、自滅の道を歩むことになるだろう。
王都へ逃げ帰ったところで、待っているのは安息ではない。
「さて、エルナ。……部屋に戻ろう」
レオン様は私をお姫様抱っこした。
「麻痺香の影響が残っているかもしれない。……私が直々に、看病してあげるよ」
「看病、ですか?」
「ああ。身体を温めて、魔力を補充して……君の不安が消えるまで、ずっとそばにいる」
彼の瞳が、甘く熱い光を帯びる。
これは、ただの看病では終わらない予感がする。
けれど、今の私には、彼のその重いくらいの愛情が必要だった。
「はい……お願いします」
私が頷くと、彼は嬉しそうに微笑み、私を連れて図書室を後にした。
その夜。
レオン様の看病(という名の溺愛)は、予想以上に甘く、激しいものだった。
「他の男の匂いを消す」と言って、彼は私の一寸の隙間もなく愛撫し、自身の痕跡を刻み込んだ。
恐怖の記憶は、彼の愛によって完全に上書きされ、私は幸せな疲労感の中で眠りについた。
***
翌日。
帝国への引き渡し手続きは、セバスチャンとロベルト様が迅速に進めてくれた。
クリス皇子の愚行(不法侵入、誘拐未遂、公爵夫人への暴行未遂)は、証拠と共に帝国の皇帝へ送られた。
激怒した皇帝は、即座にクリス皇子の廃嫡を決定し、身柄を引き取るための使者を派遣してきた。
同時に、アイスバーン公爵家への謝罪と、莫大な賠償金も支払われることになった。
さらに、この件に関与していたイザベラ様についても、帝国からの抗議を受けた王家が動き出した。
彼女は王族としての地位を剥奪され、辺境の修道院へ幽閉されることが決定したという。
彼女が望んだ「華やかな老後」は、永遠に失われたのだ。
「自業自得だな」
報告を受けたレオン様は、冷ややかにそれだけを言った。
彼の中で、母親という存在は完全に過去のものとなったのだ。
「これで、本当に邪魔者はいなくなりましたね」
「ああ。……今度こそ、私たちの平和な生活の始まりだ」
レオン様はサンルームで、私に膝枕をさせながら、穏やかに微笑んだ。
窓の外では、春の日差しが雪を溶かし始めている。
長い冬が終わり、北の地にも本格的な春が訪れようとしていた。
「エルナ」
「はい、レオン様」
「そろそろ、結婚式の準備を始めないか?」
「結婚式……」
「ああ。王都での騒動や、色々な邪魔が入って延び延びになっていたが。……もう待てない」
彼は私の手を取り、指輪に口付けた。
「世界で一番美しい花嫁姿を、私に見せてくれ」
「……はい、喜んで」
私は涙ぐみながら頷いた。
数々の困難を乗り越え、ようやく辿り着いたゴール。
いや、これはゴールではなく、新しいスタートラインだ。
公爵家の結婚式。
それは国を挙げての大イベントになるだろう。
マダム・ロゼが張り切りすぎて倒れないか心配だが、きっと素晴らしい式になるはずだ。
「楽しみですね、レオン様」
「ああ。……だが、その前に」
彼は悪戯っぽく笑った。
「式までの間、花嫁修行と称して、もっと君を独占させてもらうが……構わないな?」
「ふふっ、お手柔らかにお願いします」
幸せな笑い声が、春の風に乗って広がっていく。
北の空は、どこまでも青く澄み渡っていた。
(第25話 完)
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