上 下
21 / 70

第21話

しおりを挟む
 コンサートホールのロビーには、大勢の客が開演を待っていた。
 ネットで調べた通り、皆きちんとした服装をしている。
 花束を持っている人も数多くいて、ここなら僕も違和感がない。
 しかも入場ゲートの横に、それらを受け付ける窓口を発見。安堵して足早にそこへ向かう。
「すみません。これを佐賀美さんに」
 ぎこちなく係員へ花束を差し出す。
 そのカウンターにはたくさんの花束が置かれ、他にも高級ブランド菓子の紙袋、ワイン、シャンパンなどが並んでいる。
「かしこまりました。失礼ですが、お名前をいただけますか」
「藤沢と申します」
「藤沢様――あ! 少々お待ちくださいませ」
 係員はそう言うと、急いで奥の方へと引っ込んだ。

 混雑する窓口で訳も分からず立っていると、後ろから僕の名を呼ぶ声がする。
「藤沢様、どうぞこちらへ」
 先ほどの係員が、僕の花束を持って立っている。
「佐賀美様から、藤沢様が見えましたら、楽屋にお通しするようにと言付かっておりまして」
「え! そうなんですか」
「ですので、どうぞ花束をお持ちください」
 
 僕は花束を抱え、係員の後ろについて関係者専用通路を歩く。
「こちらでございます」
 そのドアの横には、佐賀美様御控室と紙が貼られている。
 個室だなんて、もろに特別待遇ではないか。
 驚きと緊張で花束を握り締めている僕の横で、係員がドアを静かにノックする。
「はい」
 聞き覚えのある声が中から聞こえた。
 現場事務所で聞く、馴染みのイントネーション。
「藤沢様が見えております」
「どうぞ」
 係員は僕に笑顔で会釈をすると、小走りでもと来た通路を戻って行く。一人残された僕は、緊張しつつドアを開けた。
「失礼します」
「おう。来てくれたか。疲れてるのに、ありがとな」
 佐賀美さんは嬉しそうに目を細める。
「しっかり寝たので、平気です」
 後ろ手で閉めたドアの前で、僕はその姿に息をのむ。
 華やかで上品な、演奏会用の黒スーツ姿。 いつも会社で見る作業服や普段の背広とは全く違い、危うい色気さえ漂う。
 佐賀美さん、揚羽蝶みたいだ――
 こんな綺麗な人、見たことがない。
 こんな妖艶な人、見たことがない。
「ええっと……あの、これ、どうぞ」
 しどろもどろになりながら、僕は花束を差し出す。
「ありがとう。逆に気を使わせちゃったね」
 このような場面は慣れているのか、佐賀美さんは両手で丁寧に受け取る。
 すぐそばのテーブルには、数えきれないほどの花束と、洋酒や高級ブランド菓子の山。
 そうか。これだったんだ。 
 初めて佐賀美さんの部屋へレッスンに行った日、なぜ大量の高級なお菓子を僕にくれたのか、今ここでようやく納得できた。
 ピアニストである佐賀美さんへの、熱烈なファンからの贈り物だったのだ。
「すごい数ですね。お店が開けそう」
「いやいや。他の出演者よりは少ないよ」
 謙遜しつつも、誇らしげに照れ笑いする。
 その中でもひときわ目立っている大きなスタンド花は、如月楽器店からのものだった。
 その隣には、佐賀美さんの出身校と思われる大学からの、豪華なフラワーアレンジメント。僕の知らない佐賀美さんが生きている、もう一つの世界がそこにあった。
「義理もあるから、こんなになるんだよ」
 佐賀美さんが肩をすくめる。
「義理なんかじゃないですよ。全部、佐賀美さんの実力です」
「でも俺は、藤沢君の花束が一番嬉しいよ」
「またまた」
「いや、ほんとだってば」
 そう言って、僕が贈ったバラの花束に佐賀美さんは顔を埋める。
「いい香りだ……」
 瞳を閉じて恍惚としている表情に、僕は見とれて言葉も出ない。
 長いまつ毛。額にかかる豊かな黒髪。透き通るような白い肌――それら全てが僕の心をかき乱す。
 でも、同じ性であるがゆえ、告白する事すら許されない。
 そうだ。「悟られた日」がお別れの日。
 絶対に忘れてはならない、僕の中の、悲しい境界線。
 だから僕は、胸の痛みを必死にこらえながら、目の前の愛しい人を見つめるしかなかった。

「……またあの時と、同じ顔をするんだね」
 佐賀美さんが、静かに言った。 
「え?」
「ほら、倉庫のピアノが撤去されたら、もうレッスンできないねって、話をした時の」
「ああ……」
「どうして今も、そんな顔をするのかな」
 優しい声で問いかける。
「……分りません」
 本当は、百も承知なのだけれど。
「そんな顔をされると、俺はどうしてよいのか困ってしまうよ」
「すみません」
「謝らなくていい。だから、いつものように笑ってごらん」
 顔を近づけて僕に言う。
 だが、深い絶望が邪魔をして、どうしても笑顔が作れない。
「会社にいる時のような、屈託のない笑顔を俺に見せてくれないか」
 甘い吐息に、鼓動が激しくなる。
 そして同時に、佐賀美さんが抱いているバラの花束の芳醇な香りが、僕の心を突き崩し始めた。
 華奢で、か弱い花なのに、大型建設重機よりも絶大な威力で僕に襲いかかってくる。

 佐賀美さんは、じっと僕を見つめている。 澄んだ瞳で、僕の心の奥を探るかのように。
 どうしてこの人は、こんな事をするのだろう。
 ただ単純に、チケットをくれた時のように、僕をからかっているだけなのか。
 それとも――? 
 いや、それはありえない。僕の空しい願望でしかない。
 頼むから、そんなふうに見つめないで欲しい。
 無防備に、真っ直ぐに、僕の心を覗き込まないで欲しい。
「藤沢君。俺はステージに立つ前に、君の笑顔が見たいんだ。最高の演奏をするために」
「――!」
 その言葉を聞いた途端、感情が大きく揺れて、じわりと瞼の奥が熱くなる。
 だめだ。ここで泣いてはいけない。
 泣いたら破滅だ。明日から会社に行けなくなる。佐賀美さんの現場の補佐が出来なくなる。ささやかな会話を交わす、穏やかな日常が消え去ってしまう。
 しかし、その思いとはうらはらに、涙が溢れ、喉の奥から嗚咽が漏れる。
 僕はバラに手折られてしまった。
 いとも簡単に、あっけなく。
 しかも、皮肉にも、自分が持って来たバラによって。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

冒険旅行でハッピーライフ

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:263pt お気に入り:17

会社の女上司と一緒に異世界転生して幼馴染になった

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:63pt お気に入り:215

貴方へ愛を伝え続けてきましたが、もう限界です。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:1,029pt お気に入り:3,803

らりぱっぱっぱっぱ

68
BL / 完結 24h.ポイント:35pt お気に入り:86

処理中です...