愛だ恋だと変化を望まない公爵令嬢がその手を取るまで

永江寧々

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ランチタイム

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 「おはようございます、お兄様。あの、少しよろしいですか?」
「俺の可愛い妹アリス、おはよう。どうした?」

 生徒会長の朝は早く、この三年間、カイルは家族が揃うのを待つことなく一人朝食を取って家を出る。
 だから今日はアリスも早めに準備をしてカイルが家を出る前に挨拶に向かった。

「あ、あ、あ、あの、お渡ししたい物があるのですがお昼にお届けしてもよろしいでしょうか?」
 
 両手を広げてのハグと頬に数回押し付けられるキスに遠慮する声を漏らしながらも今日の接触のアポをとりつけようとした。
 
「俺が出向こうか?」
「いいえ。お兄様はお食事中もお仕事をなさるでしょう? 私から出向きます」
「今受け取れる物なら今受け取るが」
「まだ出来上がっていないのです。パンを作ったのでお昼にお届け出来たらと思って」
「なら期待して待っておこう。いつもの場所にいるが、道はわかるか?」
「はい」

 上手くアポが取れたことにホッと息を吐き出すとカイルの腕から解放され、鞄を持ったカイルがまた頬にキスをして外へと駆け足で向かう。

「また昼に。行ってきます」
 
 手を振って見送るとアリスも席についた。
 皆でゆっくりと食事をしたのはいつだったかと思い出せないほど遠い昔に感じるのは高校に入ってからカイルがとても忙しく過ごすようになったから。
 まるで社会人のように毎日書類と睨み合っていた。父親よりも多忙な日々を過ごしている日常の中でいつか体調を崩してしまうのではないかとアリスはいつも心配している。
 父親は若いうちに積んだ経験値こそ社会に出て優劣をつけるものだと言って休ませるどころか、その忙しさを経験値にしろと鼓舞していた。 

「倒れないといいけど……」

 疲れた顔は一度も見たことがない。疲れが出ない人間はいない。一日でいいからゆっくりと休んでほしいと思っているのに、カイルは家に持って帰ってきてまで仕事をする。
 父親の期待に応えようとしているのか、それとも何か目標があってそうしているのかはアリスにわからない。
 他の三人と仲が良ければカイルの状況を聞くのだが、生憎それほど仲良しではない。顔見知り程度だ。
 溺愛している妹が焼いたパンを届けてくれる昼を楽しみにしているだろう兄を騙すようで気乗りはしないが、言ってしまったものは変えられない。失敗したと嘘をつけば体調が悪いのかと心配される。だから持っていくしかないのだ。

「アリスお嬢様、ご出発までには焼き上がりそうです」
「早朝からお願いしてごめんなさい」
「ご相伴に預かれて光栄です」
「シェフにそう言ってもらえて、こちらこそ光栄です」

 子供の頃からずっと世話になってきた。
 アリスにパンやお菓子作りを教えてくれたのはもう三十五年、ベンフィールド家のシェフをしているエドガーだ。
 腰が低く、柔和で、彼の作る者はなんでも美味しいため、アリスは彼の手は魔法がかかっているのだと思っていた。十七歳になった今もそう思っている。
 彼の傍で彼のやり方を真似ようとしても手がどう動いているのかわからない。粉を振る動き一つでもアリスが振れば不均等だが、エドガーが振ると均等に美しく粉が広がる。
 
「カイル様もきっとお喜びになる出来ですよ」
「だといいんだけど」
「しかし、今日はたくさん焼いたのですね」
「ティーナの分も入ってるの」
「そうでしたか」

 両親はあまりティーナを好ましく思っていないため、ティーナの分を一緒に焼くというと必ず「ねだられたの?」と聞く。
 エドガーは一度も声色にさえ出したことがない。だからアリスはティーナのことは良心ではなくエドガーに話すようにしていた。

「気をつけていってらっしゃいませ」
「行ってきます」

 焼けたパンを抱えて馬車に乗り込むといつもしている妄想が働かない。
 昼になったらその妄想相手のいる場所に行くのだと思うだけで胃が締め付けられる。
 今までしてきた妄想の中での自分は王子に会ったら美しいカーテシーで挨拶をし、鈴を転がしたような声で挨拶をする。もはや自分ではない小説の中のレディになりきっているのだ。
 まだ顔も見ていない、彼がいる学校にだって到着していないのに一人きりの馬車の中でさえこんなに緊張している女が本物を目の前に美しいカーテシーなどできるはずがない。
 ましてや鈴を転がしたような声など出るはずがない。もともと持ってはいないのだから。
 緊張しいで口下手。公爵令嬢としての気品もなく、兄のような凜とした佇まいもない。それがアリス・ベンフィールドだと自嘲する。

「あー!! 緊張する!!」

 普段大声を出すことがないアリスの大声に御者も馬も驚いた。

「アリスお嬢様!? いかがなさいました!?」
「ごめんなさい! なんでもないです!」

 申し訳ないと謝り、到着するまで口を閉じていることにした。

「アリスー!」

 パンを持参した昼休み、行く気満々のティーナは授業終了のチャイムと同時にアリスがいる教室に駆け込んできた。

「美味しそー! 一個もらってもいい?」
「もちろん! こっちがティーナの分だよ。生地に紅茶を練り込んであるの。甘いのが好きかわからないからクリームは入れずに塗る用として持ってきた」
「すっごくイイ匂い! アリスは絶対良いお嫁さんになるよ!」
「ありがとう」
 
 紙袋の中に顔を突っ込んでは焼きたてパンの匂いを肺いっぱいまで吸い込むティーナに目を細めながらも向かう先にいる人物のことを思うと心臓が異様に速くなる。
 緊張で吐きそうと小説の中のセリフでよく見るが、アリスはまさに今その感覚を味わっていた。
 まだ間近で見たことはない憧れの人。けして口にはできない想い人。
 誰からも何も受け取らないが、一口だけでも食べてもらえたらと淡い希望を胸にティーナと共に庭園へと向かう。
 
「カイル・ベンフィールドはこの先でしょうか? 妹のアリス・ベンフィールドです」
「伺っております。どうぞお進みください」
 
 王子がいる時はいつも庭園への入り口に門番が立っていることは有名で、緊張しながら話しかけると笑顔はないものの不審がられることなく先へ通してくれた。
 
「ひゃー! すごいね! 初めて入るよ!」
「ティーナ、静かに。大事なお話されてるかもしれないから」
「あ、そだね! ティーナ・ベルフォルンの印象はミスなく最大まで上げとかないとね!」
 
 大声のうるさい女という印象だけは避けなければと小さく咳払いをして背筋を正し、美しい歩き方へと変えたティーナの変わり様に小さく笑うも話し声が聞こえてくる場所の入り口で一度足を止めた。
 笑い声は聞こえず、本当に何か大事な話をしているのではないかと不安になった。
 もしそうならパンだけ渡して帰ろうと決め、一度深呼吸をしてから口を開いた。
 
「カイルお兄様、アリスです」
「アーリースー!」
 
 先程までの真剣さを窺わせる声色はどこへやら幼児に話しかけるような声色で名前を呼ぶ人物が飛び出してきた。
 朝見た光景と全く同じ光景がそこにあり、痛いほど強く抱きしめられたあとはまた頬への口付けの嵐にアリスは暫し心を無にして耐える。終わるまで待つしかないこの時間は子供の頃から変わらず、これからも変わらないだろうと既に悟りを開いている。
 
「腹ペコで待ってたぞ、アリス」
「サラダも何も召し上がらず、ですか?」
「アリスのパンが来るとわかっているのにサラダを入れるのはもったいないと思ってな。さ、入りなさい」

 胃の場所が埋まるのがもったいないという意味で言っているのなら重症だとティーナだけではなくアリスも思った。
 肩を抱かれて中へと入るよう促されるとアリスの緊張が一気に最高点に達する。

「皆見てくれ! 俺の可愛い妹のアリスだ! どうだ、世界一可愛いだろ! こんな可愛いレディを見たことあるか? ないだろ? ふふん、これが俺の妹だ」
 
 中へ入ると同時に繰り広げられる大声での自慢はアリスが何より苦手とするもの。
 何一つ秀でたものがないアリスは完璧な兄に自慢されるのが心底嫌だった。それをされると当然、皆からの視線が集中し『それほどでもない』『全然』と思っているのが伝わってくる視線が嫌なのだ。
 何より、兄にも申し訳なくなるのだ。兄のように外見も中身も完璧であれば兄が笑われることもなかったのにと。
 
「お、お兄様やめてくださいッ」
「お前が世界一可愛いのは本当だ、嘘じゃない。兄様が嘘をついてると思ってるのか? 兄様を嘘つきだと?」
「そ、そうではありませんが──」

 目線を合わせて目を細めるカイルの視線に耐えきれず目を逸らすとその視線の先にいた男が優雅に立ち上がった。

「やあ、レディアリス。お会いできて光栄だ。カイルが飽きもせずに三年間毎日自慢し続けるからどんな子か気になっていたんだよ。カイルの言う通り、とても可愛らしいお嬢さんだね」

 ウェーブのかかった艶のある長い銀髪をポニーテールに結い上げる男。

「アルフレッド・アンベール様ですか?」
「おや、知ってくれてるとは光栄だね」
「アリシア……私の友人がファンなんです」
「それは嬉しいね」

 中世的で美しい人──間近で見る美しさはそこら辺の女性よりずっと輝いて見えた。
 あれだけ女性が群がるのもわかるとファンではないアリスでも思った。

「あッ、も、申し訳ありません! ご挨拶を忘れていました! はじめまして、アリス・ベンフィールドです。兄がいつもお世話になっております」
「お前に似てなくて可愛いじゃないか。カイルが自慢するのもわかるなぁ。いいね! アリスちゃん、もしよかったら俺の花にならな、ぎぃぃやぁぁぁあああ!」

 アルフレッドがアリスの手を取って甲にチュッとリップ音を立ててキスをした直後、猫を轢いたような声を上げながら苦しみ始めた。
 
「アルフレッド……妹に触れたら殺すと警告しておいたよな? それを無視してキスまでしやがってお前……ここで死ぬか?」
「うううう腕が折れる! ごめんごめん! 折らないで! 殺さないで! 冗談じゃないか! 君の妹を狙ったりしないよ!」
「お兄様おやめください!」
「二度と近寄るな、このウジ虫!」
「親友にウジ虫って酷くない!?」
 
 痛みに涙を浮かべるアルフレッドの吠えを無視するカイルはアリスのほうを向いたときにはもう、爽やかないつもの笑みに変わっていた。
 女を囲って歩く遊び人のアルフレッドには近寄るなとアリスが言われていたようにアルフレッドもアリスには近付くなと言われていたのだろう。それを無視した結果、骨が軋むほど腕を捻じり上げられウジ虫呼ばわりされることとなった。
 
「これ、僕らの分もあるの?」

 反対側から聞こえた声に振り向くと超が付くほどの美形といわれているセシル・アッシュバートンがいた。
 同じ学年だが、違うクラスなため交流は一切なかった。
 セシルを見るために休み時間になると彼の教室前の廊下はいつも女子生徒が群がっている。
 間近で見たのは初めてで、美少年というに相応しい美しさがあった。
 マッチを乗せたくなるほど長いまつ毛が羨ましいとアリスは思った。
 
「あ、はい! 趣味で作った物なのでお口に合うかどうか……」
「イイ匂いだから大丈夫でしょ。もらっていい?」
「どうぞ」
 
 皆に比べると童顔で小柄。口数が少なく笑顔もほとんど見せないが、それでも女子生徒からはそれら含めてミステリアスだと人気を博している。
 恋人や婚約者がいるという噂は一切なく、彼もゲイなのではないかと陰で噂されている。
 席から立ち上がることなく手を伸ばすセシルに近付いて袋を差し出すと中を覗き込み、犬のようにクンクンと匂いを嗅いでから一つ取ってかぶりついた。 

(意外……ちぎって食べると思ってた)

 勝手なイメージではあるものの、セシルは口が小さく、なんでも小分けにして食べるのだと思っていたアリスにとって目の前の光景は意外なもの。

「もう一つ欲しい」
「もう一つ、ですか……」

 人数分しか焼いていないためどうしようと迷ってしまう。

「アルフレッドの分があるでしょ」
「食べないとは言ってないけど?」
「ダイエットのために炭水化物やめるんじゃなかった?」
「可愛い女の子の手作りを食べないなんて罪なこと、俺がすると思うかい?」
「へー、じゃあお花たちに言っといてあげる」
「やめて! 大変なことになるから!」
 
 炭水化物ダイエットは聞いたことはあっても男もすると聞いたことがなかったアリスにとってダイエット中と言うアルフレッドには驚きを隠せなかった。
 スタイルの良い相手がどこを気にして痩せるのだろうと首を傾げるだけで聞きはしないが、この美しさは天然ではなく磨かれてできたものなのだと感心する。
 
「僕に惚れると火傷するよ」
「え? あ、違うんです! そういうのではなくて!」
「……すごい……言われたことなかったけど、違うってハッキリ言われるとこんなに傷付くんだ。今すごく心が痛いよ……」

 黄色い声ばかり飛ばされる人生だったアルフレッドにとって惚れると冗談めいて言って頬を染めなかった相手はいない。アルフレッドに否定的な女性でも彼を前にするとその美しさに頬を染めるというのに、アリスは必死に違うと否定した。
 惚れるわけがないだろうと言われているような気になったアルフレッドが胸を押さえてヨロめきながら椅子に座る。

「ごめんなさい! 失言で——」
「アルフレッド? まさかー……アリスに意地悪しようとしてるのかな?」
「そんなわけないじゃないか! あるわけない! そういうのじゃないから!」
 
 謝ろうとするアリスの言葉を遮ったカイルがニッコリ笑うだけでアルフレッドの表情が固まり、額から滝のような汗が流れる。
 ハハッ…と空笑いで焦点の定まらない目を向けるアルフレッドはまるで調教済みの犬のようで少し可哀相に見えた。
 
「これって何のパン?」
「アールグレイの茶葉を生地に練り込み、煮出しに水ではなく豆乳を使ったパンです。中にクルミとレーズンを入れました」
「煮出したの?」
「そうです。ミルクティーで練った後に茶葉を混ぜました」
「へえ……香りがいいね」
 
 笑ったところを見たことがないと言われているセシルだが、今この瞬間、ほんの少しではあるもののアリスにはセシルが笑っているように見えた。
 美味しいとは言われなかったが、香りがいいと言われるだけでも嬉しい。焼き上がった際に香りがちゃんと残っていることにこだわったため、美味しいよりも嬉しいかもしれないとアリスは思った。
  
「俺がまだ食べてないのに一番に食べるなんてどういうことだ!」
「さっさと食べないからだよ」

 呆れたように言い放つセシルの尤もな言葉にカイルがぐぬぬと悔しげに唸る。

「アリス、早く配らないと冷めちゃうよ! ヴィンセル様に冷めたパンを食べさせるつもり?」
「あっ……」
 
 朝焼いたパンが昼になっても焼きたての状態であるわけがないのに、焦れたティーナは奪うように紙袋を取り、通り過ぎ様にカイルに『どうぞ』と笑顔で渡してからヴィンセルの隣に立った。
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