愛だ恋だと変化を望まない公爵令嬢がその手を取るまで

永江寧々

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ランチタイム2

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 怪訝な顔で椅子を引いていつでも逃げられる体勢を取る彼の姿はまるで野良猫のようで、女嫌いではないという兄の言葉に疑問を感じる。
 それでもティーナは持ち前の明るさと根性で気後れすることなく紙袋から最後の一つを取っては紙袋を置いてからわざわざ両手で差し出した。
 
「ヴィンセル様のお口に合えばいいんですけど」
 
 まるで自分が作ったような言い方で笑顔を見せるティーナの手からパンを受け取ろうとしないヴィンセル。
 
「セシル様が絶賛されてましたし、味には自信があります! 一度食べてみてください!」
「いや…悪いが遠慮する」
「どうしてですか?」
「君の手が汚いというわけではないが、人が触った物を食べたくないんだ」
 
 潔癖症といわれる理由がそこにあった。
 アリスはセシルに渡す時に一つ掴んで渡したのではなく紙袋を出してセシルに取ってもらった。それはここに来るまでに自分の手が清潔である自信がなかったからで、人の口に入る物を手掴みで渡すのは失礼だと思ったから。
 ティーナは自分の手で渡したという事実が欲しくてしたことがヴィンセルには受け入れられないものだった。
 
「アリス、どうしてビニールに入れなかったの? ヴィンセル様が潔癖症なこと知ってたでしょ?」
「え、あ……ごめんなさい。気が利かなくて……」

 自分が悪いのだろうかと思いながらも反射的に謝ってしまう。

「アリスちゃんは悪くないよ。女の子が食べてって言った物を受け取らないヴィンセルが悪いんだから」
「アルフレッド帰れ」
「お花ちゃんたちとの約束断って来てあげてる俺にそんなこと言う?」
「だったら黙ってろ」
 
 初めて聞くヴィンセルの砕けた喋り方。いつもは優しい言葉遣いで断っていただけに同性といる時はこういう感じなのだとアリスには新鮮だった。
 小説の中にいる王子も幼馴染や親友と一緒に過ごすときだけは自分を偽ることなく素の自分を見せる。ヴィンセルも同じなのだと表情が緩みそうになるのをグッと堪えた。
 
「いらないって」

 セシルが追い討ちをかけるように言う。 

「すまない」
「じゃあ次は私が焼いて持ってきますね! ちゃーんとビニールに入れて衛生面もバッチリで持ってきますから!」
「悪いが、誰からも何も受け取らないと決めているんだ。だから君が何をどうやって持ってこようと受け取るつもりはない」 

 ハッキリとだが優しい言い方に彼の性格が出ている。 
 
「ティーナ、何回も入れないよ」
「なんで? カイル様がいるんだし、入れてもらえばいいじゃん」

 今日は渡す物があると言って特別に入れてもらっただけで、そう何度も足を運ぶわけにはいかないのにティーナは当たり前のようにカイルを頼れと言う。
 頼めば入れてくれるのはわかっているが、ティーナのワガママのために兄の優しさを利用したくはないと首を振る。
 
「カイル、それ食べる?」
「宇宙で一番可愛い妹が作った物を兄様が食べないと思うか?」
「彼女が触ったからいらないかなって」 

 意外と大喰らいなのだろうかと思ったアリスは自分用にと取っていたパンをランチボックスごと差し出した。
 
「お口に合ったのでしたらどうぞ。ジャムやバターも入っていますので。お兄様もアルフレッド様も一緒にお使いください」
「いいの? 君のお昼は?」
「カフェテリアに行きます。新作のベーグルサンドがずっと気になっていたものですから」
「ああ、あれね。すごく美味しかった。ハニーマスタードのチキンが一番だったかな。マフィンはブルーベリーが一番だったかな。キャラメルも美味しかったけど、甘すぎだった」
 
 誰よりも小柄なのに誰よりも食べるのだと入手した新情報は可愛らしいもので、アリスは笑顔で頷いた。
 
「ティーナ、あんまり長居しちゃダメだから一緒にカフェテリア行こう」
「やだ! まだいたい! せっかくヴィンセル様に会えたのに! もう少しぐらいイイじゃん!」
 
 頬を膨らませながらの抗議にアリスは迷惑がかかるからと拗ねられるのを覚悟の上で腕を引っ張ってでも連れ出そうと近付くもカイルが前に立ってティーナの前で出口を指さした。
 
「悪いが、これから生徒会の会議なんだ。ご退出願えるかな?」
「私も参加したいです!」
「生徒会の、会議だ」
「私も生徒会に入りたかったのに落選したんです。カイル様、私も生徒会に入れてもらえませんか? 絶対役に立ちますから!」
「申し訳ないが今年はもう決まってしまったんだ。また来年募集するだろうから来年奮闘してほしい」
 
 即答で断るカイルの前でわかりやすく不機嫌になるティーナにとって今年入ることに意味があるのだ。
 セシル以外は全員が三年。今年入らなければ来年ヴィンセルと一緒になることはないのだから。
 四人が役員を務める生徒会は下心ありで立候補する者が多く、履歴書と面接の二段階をクリアした者のみが入れる審査制を取っている。アリスはカイルがいるため応募はしなかったが応募したティーナは絶対に受かると自信があっただけに落選通知が来た時は数日間荒れ続けていた。
 直談判でも容赦なく却下される現実はティーナにとって気に入らないもの。
 
「シスコンの分際で。気持ちわる……」
 
 腹が立ったのか、これ以上の駄々をこねるのはやめて出口へと向かうティーナが通り過ぎ様にボソッと吐き出した呟きは音楽も何もない場所では当たり前にカイルの耳に入ったがカイルは表情を崩すことなく黙って見送った。
 
「アリス、今日は兄様のためにパンをありがとうな」
「こちらこそ神聖な場所に入れて頂いて感謝しています。急がずゆっくり食べてくださいね」
「味わって食べるさ」
 
 ハグと頬へのキスを受けてから手を振れば視線を向けるヴィンセルたちに頭を下げ、すぐにティーナを追いかけた。
 
「ヴィンセル様とアルフレッド様たちとお話出来てすっごく楽しかったー!」
「ティーナ、声が大きいよ」
「だって嬉しくない!? 手作りのパン受け取ってくれたんだよ!? 手にキスまでしてもらっちゃった!」
「ティーナッ!」
 
 この学園内ではあの四人のファンではない者を探す方が大変だろうことぐらいティーナも知っている。
 カフェテリアにいる女子生徒の大半が誰かのファンなのだ。その真ん中でカフェテリア全体に響き渡るほどの声ではしゃいで見せるティーナにアリスが慌てるも本人は聞く耳を持たない。
 
「ちょっとよろしくて?」
 
 カッと後ろでヒールを鳴らした人物に振り返ると立っていたのは三人組の女子生徒。紫のネクタイは三年生のカラー。
 明らかに敵意を持った雰囲気にアリスは緊張から痛いほど心臓が動き、今にも吐きそうだった。
 
「あなた、少し品がないのではなくて?」
「なにがですかぁ?」
「ヴィンセル王子とアルフレッド様にパンを渡したそうですわね」
「はい! 喜んで食べてくれましたよ!」
「アルフレッド様は今ダイエット中ですのよ。嘘も大概になさい」
 
 六本の縦ロールという特徴的な人物は見たことがある。アルフレッドの取り巻きにしてリーダーの女子生徒。
 何度か見かけたとき、彼女はいつもアルフレッドの隣を陣取っていた。
 キレイな縦ロールだと思っていたが、近くで見るととんでもない迫力があった。
 
「嘘じゃないですよ。セシル様なんて美味しい、香りが良いっていっぱい食べてくれたんですから。このハニーマスタードのチキンベーグルサンドをおススメしてくれたのもセシル様ですし。ブルーベリーのマフィンが美味しいよ、キャラメルは甘すぎってね」
「ティーナやめたほうがいいよ」
「なんで? アリスが焼いたパン、大好評だったじゃん!」
「ティーナッ!」
 
 ティーナに向けられていたものが自分に向けられるとアリスは目を合わすこともできず、ティーナの横で俯く。
 バンッと強くテーブルが叩かれると女子生徒の食べかけのパンが浮き上がるのと同時にアリスの肩も大きく跳ねた。
 
「パンを焼いて渡すだなんて一体どういうつもりなのかしら? アルフレッド様がダイエット中なのご存じありませんの?」
「し、知りませんでした……」
「そんなことも知らずにアルフレッド様にパンを差し出しましたの? とんでもない身の程知らずですわね。恥を知りなさい!」

 鞭で床を叩いたような鋭い声にアリスの肩が上がる。

「すみません」
「それで? 愚かにもヴィンセル王子にも渡したと?」
「は、はい……。あ、でも受け取ってはもらえませんでしたので──」
「当たり前でしょ。あなたごとき──……ねえ?」
 
 品定めするように上から下まで視線を這わせた女がバカにしたようにクスッと笑って両側の女子生徒に同調するよう笑いかける。
 目の前の三人より輝いている自信はない。だが、バカにされる覚えもない。悔しさはあるが、言い返す勇気もないアリスは黙って俯いていることしかできなかった。
 
「どこの馬の骨がどんな環境で作ったのかもわからないような物をヴィンセル王子が受け取るはずありませんもの」

 アリスが紙袋で渡していてもきっとヴィンセルは受け取らなかっただろうと思う断り方だった。
 
「どういうつもりでパンの差し入れようと思ったのかしら?」
「あ、兄に渡すつもりで……」
「兄? ……あなた、どなたかの……妹、さん?」
 
 兄という言葉に三人の怒りが引いたを感じてゆっくり顔を上げると血の毛まで引いているような顔色をしていた。
 もしアルフレッドの妹だったら———いや、アルフレッドでなくともあの四人のうちの誰かでもマズイと恐る恐る問いかける声の震えにティーナが声を上げて笑った。
 
「この子の名前はアリス・ベンフィールド。カイル・ベンフィールド様の妹君よ!」
 
 この学園の生徒会長にしてベンフィールド公爵の嫡男。
 この学園では王子よりも権限を持っているとの噂さえあるカイルの妹にかけた言葉の数々を病的にシスコンの兄が知ればどうなることか、彼らの追っかけである令嬢が知らないはずがない。
 
「さ、さささささっきまでの発言は取り消しますわ! まさかベンフィールド公爵令嬢がパンをお焼きになるだなんて思ってもなかったものですから! オホホホホホッ!」
「やだなぁ、発言は撤回も取り消しも出来ませんよぉ? できるのは誠心誠意な謝罪だけですからねぇ?」
「ティーナいいの、やめて」

 小声で止めるもニヤつき調子に乗ったティーナは聞かない。

「そ、そうですわね! わたくしったら早とちりしてしまって大人げなかったですわね! ホント、せっかちな自分が嫌になりますわ!」
「謝罪になってませんよぉ?」
「き、気にしてないので大丈夫です!」
「アリス、謝ってもらいなよ。また言ってくるかもよ?」
「ティーナやめて。そんなこと言っちゃダメだよ」
 
 なぜこうも人を挑発するようなことばかり言うのかがアリスには理解できない。
 二年生は唯一先輩と後輩どちらもいる学年で、上にも下にも礼儀正しくと教えられている。
 兄に恥をかかさないよう、できる限り目立たず大人しくを目標として過ごしているアリスにとってティーナの挑発は迷惑でしかなかった。
 カイル・ベンフィールドの妹だと知った途端に手のひらを返す相手はどうかと思えど、穏便にしておいたほうが今後の学校生活も楽になるのにティーナはまだ自分の権力であるかのように胸を張ってニヤついている。
 
「ごめんなさいね、許してくださる?」
「もちろんです」
「アルフレッド様に告げ口なさらないでくださる?」
「告げ口できるような距離にいませんから。今日初めてお会いしたぐらいですので」
「そうでしたのね。よかった。感謝しますわ」
 
 ごきげんようと笑顔で足速に去っていった女子生徒がいなくなるとドッと押し寄せる脱力感にテーブルに額を乗せたまま何度も大きく息を吐き出すアリスは生きた心地がしなかったことからの解放感に目を閉じる。
 自分の揉め事はもちろんのこと、他人の揉め事を見るのも聞くのも怖いアリスは誰かと面と向かって喧嘩をしたことがない。ティーナに強く言えないのはそれが理由でもあった。
 自分は全くの無関係で怒られることはないのに、怒られている人を見るだけで動機がしてしまう。怒られるのが自分となると身体が震えて吐き気が込み上げるのだ。
 なんとか改善したいとカイルに堂々としていられる秘訣を教わろうとしても慣れなくていいと言われてしまった。
 まだアリスの中で対処法は見つかっておらず、日々、何かしらの小さな恐怖と戦っている。
 
「あーやだやだ、ああいうのってマジむかつくよね。自分のこと何様だと思ってんだろ。たかが取り巻きのくせしてさ」
「ティーナ、相手は上級生だからああいう言い方はよくないよ」
「あの人たちって所詮はアルフレッド様の取り巻きじゃん。ていうか全員? 誰も恋人でも婚約者でもないわけでしょ? それなのに自分たちは特別ぅ、みたいな感じでマウント取ってくるとか恥知らずはどっちよって感じ」
 
 ハッキリ言える性格は羨ましいと思う。しかし、ティーナの性格は人気と同時に恨みを買いやすい。相手が先輩であろうと教師であろうと勇敢に、無謀に、かかっていくのだから。
 
「ティーナが生徒会に入れなかったのと同じように彼らに近付くことさえできない人もいるわけだから大声で言うのはよくないよ」
「……なに? アリスは私が間違ってるって言うの?」
「そ、そうじゃないよ! そうじゃない、そうじゃないけど……」
「チャンスなんて掴んだもん勝ちじゃん。私にはチャンスがあった。アリスって親友のおかげでね。持つべきものは親友かな、ってね!」
 
 親友がいるのは嬉しい。何でもハッキリ言えるかっこいい親友、笑い合える親友。
 でも時々、ティーナといるといつか大変なことになるんじゃないかと不安もある。
 平穏に暮らしたいと願うアリスの平穏を壊すのはティーナで、幾度も今回みたいなことがあっただけにアリスはティーナと距離を置くべきかもしれないと考えることが増えていた。
 
「あ、次の授業移動教室だった! ね、ピアノのスコアブック持ってたら貸してくれない?」
「私も音楽でクリストフ先生の授業だから」
「ブルーノ先生うるさいんだよね。クリストフ先生は忘れ物しても怒らないでしょ? それにアリスは楽譜なんかなくたって弾けるじゃん! スコアブック、鞄の中だよね? 借りとくから! じゃあねー!」
 
 ティーナは言っても聞かないし、言うだけ無駄。
 クラスメイトからは『何であの子と友達やってるの?』と聞かれることが多く、いつも「意外とイイ子だよ」と答えては首を傾げられる。
 ハッキリ言う性格を好む者、好まない者と分かれるだけにアリスが友達をやっていることに疑問に感じている者がいるのも確か。それでもティーナを見ていると好きな人間のほうが多いことがわかる。
 何度距離を置こうと思っても置けないのはティーナといると楽しいと思うことが多いからで、それは嘘ではない。
 こういう人間なんだと受け入れてしまえば大抵のことは何とかなると父親が言っていた。サロンでは皆そういう風に流れに乗って上手く人間関係を築いていくんだと。
 ティーナが悪いのではなくハッキリ言えない自分が悪いのだとアリスは思ってしまう。それもあってティーナのワガママを受け入れてしまうのだ。
 楽譜がなくても困らないことも、クリストフ先生が忘れ物をしても怒らないのは本当で、ブルーノ先生は忘れ物に厳しい。それなら自分が貸してあげたほうがいいのだと自分に言い聞かせてアリスも音楽室に向かった。
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