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冗談のような本気
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「カイルはいないな?」
「今日はなんだかバタバタと忙しそうだったから来られないんじゃない?」
「ヴィンセルが急に呼び出すなんて緊急事態かい?」
「アルフレッドは呼んでないぞ……」
「言っとくけど、僕は呼んでないからね」
「二人が仲睦まじく歩く姿が見えたものだからね」
ヴィンセルが誰かを呼び出すのはこれが初めて。
いつも生徒会長であるカイルが食事をしながら仕事をするためにメンバーがここに集まっているのだが、今日はカイルではなくヴィンセルの呼び出しで集まった。
セシルがアリスも呼ぼうとしたが、アリスはダメだとセシルに伝えて二人で話すつもりだったのになぜかアルフレッドが当たり前の顔で来ている。
「今日はブラックバーン家のシェフだから楽しみにしていたんだよ」
「じゃあ今日はお肉だ」
「魚じゃないの!?」
「肉だ。質の良い肉が良い筋肉を作る」
「ヴィンセルのシェフから魚出たことって数えるほどしかないでしょ」
「まあ、お肉も嫌いじゃないけどさ」
嬉しそうに肉だと喜ぶセシルが待機しているシェフに合図して肉を焼かせる。
ほぼ筋肉でできているような身体のために栄養バランスを考えた食事が提供されるのだが、アルフレッドは肉より魚であるため少しがっかりしていた。
「で、どうしたの?」
「アリスのことだが……」
「アリス? 聞きたいことがあるなら本人呼んだほうがいいんじゃない?」
「そうじゃないんだ。そんな軽いことじゃない」
嗅覚が動物並みに鋭いヴィンセルが女性のことで悩む姿を見るのは初めてで、セシルもアルフレッドも彼が何を言い出すのかわからず、ヴィンセルが口を開くのを待った。
「彼女を婚約者にしたいと思っている」
「は?」
「ええッ!?」
想像もしていなかった言葉。
ヴィンセルは二人の反応を想像できていたため普通の顔に戻るのを暫く待った。
自分でも突拍子もないことを言っている自覚はあるだけに二人の反応はなんらおかしなことではないとわかっている。
「婚約者って……それ、冗談、だよね?」
「冗談にしても酷いよ」
「俺の冗談を聞いたことがある奴はいるか?」
ヴィンセルは真面目な性格でアルフレッドと違って冗談を好まない。少しからかう目的で言葉を投げかけても真面目に返ってくるばかりでカイルとアルフレッドたちのように盛り上がったことは一度もない。
だからこそ今の言葉に二人は異常性を感じていた。
「彼女といると落ち着くんだ。彼女の匂いが俺に合っているのか、彼女といるだけで嫌な匂いが浄化されていくようで安心できる。誰かといてハンカチが必要ない時間は初めてだったんだ。だから俺は、彼女が傍にいてほしいと思っている」
本来であれば、あの真面目なヴィンセルが婚約者を考え始めたことを微笑ましく思い、笑顔で相談に乗るべきなのだろうが、二人の表情には微笑み一つない。
「どうした?」
不思議そうな顔をするヴィンセルに溜息をついたのはセシル。
「それってさ、アリスにすっごく失礼なことだってわかってる?」
「失礼?」
やっぱりわかってなかったかと首を振るセシルは受け取った袋の中からパンを出して皿の上に置いた。
「僕はこのパンが好きだよ。匂いも良いし、味も良い。ふんわりしてて噛むとほのかに甘くてバターの風味もしっかりしてる。奥に感じる塩味も良い。焼きたては外がパリッとしてるんだけど中はふわふわ。見た目から中身まで全て最高だと思ってる」
「そうか」
「でもヴィンセルはそこまで気にしないし、味わわない。匂いだけ嗅いで満足するんだ。このパンがどう美味しいのか、どうして美味しいのかを知ろうともしない。だから僕は反対」
セシルの例えにヴィンセルは首を傾げるだけで納得の表情を見せない。
「だから、セシルが言いたいのは君が彼女を婚約者にしたいのは彼女を好きだからじゃなくて彼女の匂いが欲しいからでしょ? 君が言ってることは彼女を消臭剤代わりにしようとしてるってこと。それってものすごーく失礼だと思わない?」
「あ……だ、だがそんなつもりはない」
「もちろん君にそんな意図があるわけがないって俺たちもわかってる。でもさ、それってヴィンセル王子と結婚したい。だって彼ってブラックバーン家の人間なんだもの。って言うレディたちと同じこと言ってるんだよ。ヴィンセル・ブラックバーンに恋してるんじゃなくて、その後ろにある巨大な権力を欲してのこと。そんな令嬢たちと向き合おうと思うかい?」
直球で教えるアルフレッドの言葉にヴィンセルはようやく気付いた。
ヴィンセル・ブラックバーンという男ではなく“ブラックバーン家の王子”が好きな令嬢たちから逃げるのは匂いはもちろんのこと、彼女たちが何を考えて自分を追いかけ回しているのかわかっていたから。
自分と仲良くなりたい理由は“王族ブラックバーン家長男の婚約者”の座が欲しいからであって“ヴィンセル・ブラックバーンという男に恋をしている”わけではないからで、自分の地位をアクセサリーにしようとする令嬢たちが酷く醜く見えて逃げ回っていたのだ。
「でもま、そのままじゃ君も生きにくいわけだし、どうしても婚約者にしたいなら親に頼み込んで婚約者指名してもらえば?」
「待って、アリスの気持ちを無視するのは絶対に許さない」
「大丈夫だよ、セシル。今のままじゃ到底受け入れてももらえないだろうから」
アリスは自分に自信がない分、人の感情に敏感。人の顔色を窺って生きている公爵令嬢を見るのは初めてで、ヴィンセルはアリスを見ているともどかしくて仕方ない。
優秀すぎる兄がいると言えど男女では比べる基準が違う。そこまで酷い比べられ方はしていないだろうに自分で感じる劣等感が自信をなくさせているように見えた。
だが、今そんなことを思ったところで彼女を婚約者に選ぶ理由にはならない。かと言って傍にいてほしいとプロポーズしても理由が【匂い】では受けてもらえるはずがなく、アリスにも失礼である。
テーブルに肩肘をつき、片手で額を覆ったヴィンセルは自分の浅はかさにため息をついた。
「アリスちゃん、ただでさえ君にぶつかったのはわざとじゃないかって陰口叩かれてるのに君の婚約者になったなんて知られたら何されるかわからないよ」
「そうなのか?」
「当たり前だよ。大人しそうな子が王子に世話焼いてもらってる状況を追っかけの子たちが面白いと思うわけないじゃないか。ましてや彼女はカイルの妹。その立場を利用して世話焼かせるようにもっていったんじゃないかってね」
「アリスはそんな子ではない」
「俺たちはわかってる。でもアリスちゃんを知らない子からすれば噂こそ真実なんだよ。実際君はこの三年間どのレディに対しても平等だった。親しくせず受け取らずを貫いてきたよね。だからこそアリスちゃんだけ名前で呼ぶことさえ特別扱いになるんだ」
女性に囲まれて過ごすアルフレッドには学園中に流れる全ての情報が入ってくると言っても過言ではない。
今回のアリスの件について誰かが直接アリスに言うことはなくとも、既に噂は蔓延している状態だと聞いた。
今の状況を快く思っていない令嬢たちが多く、それはアリスも感じ取っているだろう。そこにヴィンセルとの婚約話が持ち上がれば噂につけられた導火線に火がつくのもあっという間。そうなれば今まで黙っていた令嬢たちが動き出し、一つの大きな問題が勃発するのは間違いない。
「僕もヴィンセルがアリスを好きになったって言うなら理解するよ。でも匂いが欲しいだけなら理解できないね。だってそれじゃあアリスは絶対に幸せになんてなれないんだから」
「ま、匂いってことはヴィンセルとアリスちゃんは遺伝子レベルで相性がいいんだろうけど、そんな理屈は他のレディには通用してもアリスちゃんには通用しないだろうから。彼女、運命を信じててもその相手が王子だっていうのは絶対に信じなそうだし」
もし婚約の申し込みをしたらどんな顔をするだろうかと想像しても良い反応がないことはヴィンセルにも容易に想像できる。公爵家と王族はそんなに遠い関係ではない。むしろ最も近しい立場だ。そこまで王子王子と一線を引く必要はないのにアリスはいつも一線引いて二歩も三歩も下がろうとする。
王子との距離の取り方としては間違ってはいない。むしろ公女としてそうすべきで、追いかけまわすほうがおかしいのだが、ヴィンセルはそれを少し寂しいと思ってしまう。
相手はカイルの妹で、自分が怪我をさせてしまった相手。だから完治までの一ヵ月、腕代わりになると約束した。
自分たちの間にそれ以上の関係はない。友人でさえないのだ。それなのにいきなり婚約者として申し込んで受け入れてもらえるはずがない。
「王子のごたごたに巻き込むの? アリス、絶対目つけられるよ」
「だろうね。女の嫉妬は怖いから」
「守れるの?」
今もそうだが、二十四時間共にいるわけではない。学年が違うし、自分には職務があってずっと傍にいてやれるわけではない。いっそ婚約宣言でもして令嬢たちを切り離す作戦も頭にはあるが、そもそも自分が婚約者として選んで起こる問題であるため、そんなことをしたからと守っていることにはならない。むしろ逆効果だとヴィンセルは考える。
きっと誰かから暴言を浴びせられたとしてもアリスは強く言い返すことはできないだろう。傍にいてほしいというエゴで彼女の学校生活を台無しにするわけにはいかない。
しかしあの匂いがあれば心が落ち着く。もう二度と出会えないかもしれないと思うと諦めるとも言えなかった。
「守れるかどうかはやってみなければわからない」
「失格」
セシルから下された失格は不合格よりも重いもので、思わず眉を寄せるヴィンセルにわかりやすく首を振る。
「やってみてダメだったらどうするの? 令嬢たちを止められなきゃアリスは傷付くだけだよ。ヴィンセルは傷付かないからいいかもしれないけど、ターゲットはヴィンセルじゃなくてアリスなんだ。やってみなきゃなんてぶっつけ本番、僕が許さない」
「セシル、もしかして君もアリスちゃんが好きなのかい?」
「そうだよ。もうアリスにも伝えてあるし。イイ子だし、料理が上手。大人しいし、優しいし、僕は彼女が頷いてくれるなら今すぐにでも婚約宣言するね」
最初に仲良くなったのはセシルで、同級生ということもあって誰よりも仲がいい。
こうしてパンやお菓子を焼く相手もセシルだけで、まるでアリスにとってセシルが特別な相手であるかのような行動だ。
照れることなくハッキリ好きと伝えるセシルは見た目よりもずっと男を持っているのだとアルフレッドは感心する。
「アリスを消臭剤代わりにしたいなら毎日ハンカチ貰えばいいよ、それみたいにね」
ヴィンセルの手の中にあるアリスのハンカチを指すセシルの指摘にヴィンセルはそれをポケットにしまう。
「特別に調合したフレグランスなら良かったんだろうけど、彼女の匂いじゃあね」
女性は臭い生き物だと思っていた。色々な匂いが混ざりすぎて吐き気がするほどヴィンセルの鼻を刺激する。いくら嗜みといえど、鼻が良すぎるヴィンセルにとっては毒ガスも同然。
幼い頃からできるだけ深く息を吸わないようにしてきたが、やはり常にハンカチが手放せなかった。一生そうやって生きていくのだろうと思っていたのが、アリスが現れて変わった。傍にいるだけで生まれ変わったように呼吸ができるし、ハンカチも必要ない。アリスの匂いがベールのように包み込んでくれている感覚だった。
そのためだけに手放したくない感情は全て自分のためで、そんな理由を知ればアリスは傷つき、悲しむだろう。
「ヴィンセルもセシルも婚約者問題について考えるのは大いに結構だけど、大事なこと忘れてない?」
アルフレッドの言葉に首を傾げる二人に四階の窓を指さした。
その指を追って上を見ると二人は揃って口を開ける。
「あ……」
生徒会室にいるカイルがこっちを見ていた。
幸い窓は開いていない。この話が聞こえていたらそこから飛び降りてヴィンセルの首を締めにきていただろう。
アリス本人を攻略するよりもずっと難しいだろう兄カイルの攻略は大抵のことは気にせず我が道をゆくセシルでも難航するのは目に見えていた。
カイル・ベンフィールドという男は重度のシスコンで、聖フォンス学園に通っている人間でそれを知らない者はいない。
大抵の人間がその重症さに引いているのだが、中には『カイルの婚約者になればアリスのように愛してもらえるのではないか』と期待する令嬢も少なからず存在する。
相手が王子であろうと国王であろうとカイルはアリスを嫁にやる気はない。
妹のことになると目つきだけでなく人格まで変わってしまうカイルに本気で逆らおうとする者はこの聖フォンス学園には一人もいないのだ。
「あの笑顔嫌い」
「俺もだ」
「好きだって言う物好きいないでしょ」
ファンを除けば、と言おうとしたアルフレッドが一度口を閉じたのは、カイルのファンはちょっと特殊な子が多いから。
ヴィンセルのようにプレゼントを抱えて追いかけまわすファンのほうがずっとマシだと思わせるような令嬢たちが多く、アルフレッドでさえ近付きたくないと思っている。
「とりあえずアリスちゃんを知る所からはじめたら?」
アルフレッドの意見に頷いたヴィンセルだが、一つ問題があることに気付いたのは帰りの馬車に乗ってからだった。
「ヴィンセル様? 御者の方が指示をお待ちですが……」
今日の下校はセシルもティーナもカイルもいない二人きりの乗車だが、乗り込んでから十分が経とうとしているのにヴィンセルは黙り込んだまま馬車を出そうとしない。
「いつも通りベンフィールド邸までお願いしま──」
「いや、そうじゃない」
「え?」
ようやく口を開いたヴィンセルに顔を向けるとなぜか難しい顔をしていた。帰るだけなのになぜそんな顔をしているのかわからないアリスは自分が何か失礼をしたのかと不安になった。
ブラックバーン家の御者に勝手に行き先を伝えようとしたのはまずかったかと。
「このまま家には帰らず、寄り道はどうだ?」
「寄り道、ですか?」
「スイーツなどいかがだろうか? セシルが美味い店を知っていると言っていたんだ。カラフルな……なんだったか……マンダロン、だったか? そんな物もあるらしい。フルーツなんたらもあるそうだ」
甘い物にほとんど興味がないヴィンセルにとってセシルの情報は呪文そのもので、以前雑誌を見ながら話していたことを思い出して誘うのだが、アリスは首を傾げている。
「私と、ですか?」
「俺は今、君と話しているつもりなんだが……」
「そ、そうですよね! すみません、まさかヴィンセル様からお誘いいただけるとは思っていなくて……」
なぜこうも妄想の中でしたことばかり現実となっていくのだろうと不思議だった。
手首が治るまで世話役として一緒にいる約束だったが、帰りに寄り道をすることは予定外。
どこかへ立ち寄って一緒に食べる妄想は何百回もしたが、まさか現実になるとは思っていなかっただけにアリスは喜びより困惑のほうが大きかった。
「急な誘いであることはわかっているが、もしアリスさえ良ければどうだろうか? マンダロンは嫌いか?」
マンダロンというお菓子を知らないアリスは首を傾げるか、振るか、頷くかの三択で迷っていた。
「好き、です」
セシルがよく食べているお菓子のことを言っているのか、それともマンダロンというお菓子があるのかハッキリしないが、見ればわかると頷きを返した。
「では行くか」
「今から、ですよね?」
「そのつもりだが……今日は予定があるだろうか?」
「いえ、そういうわけではありませんが……」
イエスともノーともハッキリしない返事にヴィンセルはやはり難しい顔をする。
自惚れているわけではないが、王子という立場の人間に放課後デートのようなものに誘われて喜び一つ見せない令嬢がいるのかと困惑していた。
自分から令嬢を誘うのが初めてといえど喜ばれないとは想像していなかっただけにヴィンセルは少しショックだった。
「遅くなるつもりはない。無傷で送り届ける」
王子というより騎士らしい言葉に笑うアリスに安堵し、ヴィンセるが指示待ちの御者に目的地を伝えようと口を開いたが、それより先にアリスが頭を下げて申し出た。
「大変申し訳ないのですが、このまま自宅まで送っていただけたらと思います」
誘ったこともないのだから断られた経験もないのは当然でも、断られたという現実がヴィンセルのプライドを傷つけた。
てっきり一緒に行けるものだとばかり思っていたヴィンセルにとってアリスの反応は予想外で、驚きに固まってしまったが戸惑いは見せず、ベンフィールド邸に向かうよう御者に告げた。
「出してくれ……」
覇気のない声を合図に進んでいく馬車の中、二人は一言も交わすことなくベンフィールド邸に到着するまで一言も交わすことはなかった。
「本日もありがとうございました」
「ああ」
「では、失礼いたします」
「ああ」
軽くお辞儀をして階段を上がっていくアリスを目で追うヴィンセルはその姿が屋敷の中へ消えるまで馬車を出さなかった。
「坊ちゃま?」
「出してくれ」
セシルが誘えば行ったのだろうか? 自分が誘ったから遠慮したのか?
ヴィンセルはアリス・ベンフィールドという少女がよくわからなくなっていた。
気が弱く、人からの誘いや押し付けは断れない性格だと思っていた。実際、ティーナの誘いや押しにはいつも負けている。だから自分の誘いも困った顔をしながら……いや、緊張しながら受けてくれるものだと勝手に思い込んでいた。
ヴィンセル自身、甘い物はあまり好きではない。だからアリスが甘い物を堪能している間、自分は珈琲だけ飲もうと思っていたのが珈琲どころか店に向かうことさえできなかった。
「ハッキリ断れるのか……」
新たな関係を作り上げるのに王子という称号は何の役に立たず、初めての誘いは断られ、思い上がっていた自分が情けなく恥ずかしくなった。
「お嬢様? いかがなさいました?」
「な、なんでもない!」
「さようですか? お顔が赤いようですが……もしご気分でも悪いのでしたらお医者様を──」
「大丈夫! ちょっと暑かっただけだから!」
「お嬢様?」
部屋へと駆け上がっていくアリスに首を傾げるメイドは一度玄関のドアを開けて外の気温を確認し、どう転んでも暑かったと言える気温ではないことにもう一度首を傾げるもすぐに笑う。
走っていく馬車は王家の紋章入り。馬車の中でヴィンセル王子と何かあったのかもしれない。
侍女はアリスがヴィンセルに恋心を抱いているのは知っている。
今回の怪我についてカイルは相当怒っていたが、今回のことで何か進展があればいいとずっと思っていただけに、キスの一つでもあったのだとしたらと足取り軽く持ち場へと戻っていった。
「びっっっっっっくりした……」
部屋に入ってそのままドアにもたれかかりながら床へとずり落ちていくアリスは尻もちをついてようやく呼吸ができたような気がした。
放課後、教室にやってきたセシルが『今日は用事があるから先に帰る』と言い、カイルは生徒会の仕事が長引いているらしく同乗出来ないだろうと聞き、ティーナからは無視が始まったため帰りの馬車で二人きりという状況だけでも緊張していたのに、スイーツを食べに行かないかと王子から誘われる異常事態は天変地異の前触れかと疑ったほど。
「……行きたかったなぁ……」
本当はすぐにイエスと答えたかった。妄想の中で繰り広げられる甘い会話と共に甘いスイーツを食べて二人きりの時間を楽しむ。妄想の中では何百回と繰り返したことだ。
それが叶うチャンスだったのに、アリスは断ってしまった。
あそこでパニックを起こさなかったのは自分でも不思議なぐらいで、頭の中で現実のアリスと妄想好きのアリスが口論した結果、現実のアリスが勝ってしまったのだ。
(緊張でマナーが役に立たないかも。フォークからケーキがこぼれ落ちたらどうする? 手が震えてスコーン落としちゃったら? 熱い紅茶で火傷する情けない姿見せたら? マンダロンの食べ方を知らなかったら? 目を見られず下向いたまま会話したら……)
容易に想像出来る光景は行けば現実になるだろうという確信があったため、断ってしまった。
愚かな選択だと今になって後悔する。
「いくじなし。手が治ったらもう一緒に登下校なんてないのに……バカッ……」
鞄を抱きしめ膝を抱えてこぼす呟きは誰が返事をしてくれるわけでもなく消える。
惜しんでも後悔しても時間は過ぎていく。過ぎた時間は戻せないのに、向こうから降って湧いたチャンスを掴めない自分に嫌気がさす。
「ティーナだったら──……」
こんな時に思い出すのがティーナであることも嫌だった。
首を振って掻き消すとそのまま前に傾いて床に上半身をつけるアリスは今日のことを思い出しては一生後悔するだろうと想像に難くない遠くない未来を思って目を閉じた。
「今日はなんだかバタバタと忙しそうだったから来られないんじゃない?」
「ヴィンセルが急に呼び出すなんて緊急事態かい?」
「アルフレッドは呼んでないぞ……」
「言っとくけど、僕は呼んでないからね」
「二人が仲睦まじく歩く姿が見えたものだからね」
ヴィンセルが誰かを呼び出すのはこれが初めて。
いつも生徒会長であるカイルが食事をしながら仕事をするためにメンバーがここに集まっているのだが、今日はカイルではなくヴィンセルの呼び出しで集まった。
セシルがアリスも呼ぼうとしたが、アリスはダメだとセシルに伝えて二人で話すつもりだったのになぜかアルフレッドが当たり前の顔で来ている。
「今日はブラックバーン家のシェフだから楽しみにしていたんだよ」
「じゃあ今日はお肉だ」
「魚じゃないの!?」
「肉だ。質の良い肉が良い筋肉を作る」
「ヴィンセルのシェフから魚出たことって数えるほどしかないでしょ」
「まあ、お肉も嫌いじゃないけどさ」
嬉しそうに肉だと喜ぶセシルが待機しているシェフに合図して肉を焼かせる。
ほぼ筋肉でできているような身体のために栄養バランスを考えた食事が提供されるのだが、アルフレッドは肉より魚であるため少しがっかりしていた。
「で、どうしたの?」
「アリスのことだが……」
「アリス? 聞きたいことがあるなら本人呼んだほうがいいんじゃない?」
「そうじゃないんだ。そんな軽いことじゃない」
嗅覚が動物並みに鋭いヴィンセルが女性のことで悩む姿を見るのは初めてで、セシルもアルフレッドも彼が何を言い出すのかわからず、ヴィンセルが口を開くのを待った。
「彼女を婚約者にしたいと思っている」
「は?」
「ええッ!?」
想像もしていなかった言葉。
ヴィンセルは二人の反応を想像できていたため普通の顔に戻るのを暫く待った。
自分でも突拍子もないことを言っている自覚はあるだけに二人の反応はなんらおかしなことではないとわかっている。
「婚約者って……それ、冗談、だよね?」
「冗談にしても酷いよ」
「俺の冗談を聞いたことがある奴はいるか?」
ヴィンセルは真面目な性格でアルフレッドと違って冗談を好まない。少しからかう目的で言葉を投げかけても真面目に返ってくるばかりでカイルとアルフレッドたちのように盛り上がったことは一度もない。
だからこそ今の言葉に二人は異常性を感じていた。
「彼女といると落ち着くんだ。彼女の匂いが俺に合っているのか、彼女といるだけで嫌な匂いが浄化されていくようで安心できる。誰かといてハンカチが必要ない時間は初めてだったんだ。だから俺は、彼女が傍にいてほしいと思っている」
本来であれば、あの真面目なヴィンセルが婚約者を考え始めたことを微笑ましく思い、笑顔で相談に乗るべきなのだろうが、二人の表情には微笑み一つない。
「どうした?」
不思議そうな顔をするヴィンセルに溜息をついたのはセシル。
「それってさ、アリスにすっごく失礼なことだってわかってる?」
「失礼?」
やっぱりわかってなかったかと首を振るセシルは受け取った袋の中からパンを出して皿の上に置いた。
「僕はこのパンが好きだよ。匂いも良いし、味も良い。ふんわりしてて噛むとほのかに甘くてバターの風味もしっかりしてる。奥に感じる塩味も良い。焼きたては外がパリッとしてるんだけど中はふわふわ。見た目から中身まで全て最高だと思ってる」
「そうか」
「でもヴィンセルはそこまで気にしないし、味わわない。匂いだけ嗅いで満足するんだ。このパンがどう美味しいのか、どうして美味しいのかを知ろうともしない。だから僕は反対」
セシルの例えにヴィンセルは首を傾げるだけで納得の表情を見せない。
「だから、セシルが言いたいのは君が彼女を婚約者にしたいのは彼女を好きだからじゃなくて彼女の匂いが欲しいからでしょ? 君が言ってることは彼女を消臭剤代わりにしようとしてるってこと。それってものすごーく失礼だと思わない?」
「あ……だ、だがそんなつもりはない」
「もちろん君にそんな意図があるわけがないって俺たちもわかってる。でもさ、それってヴィンセル王子と結婚したい。だって彼ってブラックバーン家の人間なんだもの。って言うレディたちと同じこと言ってるんだよ。ヴィンセル・ブラックバーンに恋してるんじゃなくて、その後ろにある巨大な権力を欲してのこと。そんな令嬢たちと向き合おうと思うかい?」
直球で教えるアルフレッドの言葉にヴィンセルはようやく気付いた。
ヴィンセル・ブラックバーンという男ではなく“ブラックバーン家の王子”が好きな令嬢たちから逃げるのは匂いはもちろんのこと、彼女たちが何を考えて自分を追いかけ回しているのかわかっていたから。
自分と仲良くなりたい理由は“王族ブラックバーン家長男の婚約者”の座が欲しいからであって“ヴィンセル・ブラックバーンという男に恋をしている”わけではないからで、自分の地位をアクセサリーにしようとする令嬢たちが酷く醜く見えて逃げ回っていたのだ。
「でもま、そのままじゃ君も生きにくいわけだし、どうしても婚約者にしたいなら親に頼み込んで婚約者指名してもらえば?」
「待って、アリスの気持ちを無視するのは絶対に許さない」
「大丈夫だよ、セシル。今のままじゃ到底受け入れてももらえないだろうから」
アリスは自分に自信がない分、人の感情に敏感。人の顔色を窺って生きている公爵令嬢を見るのは初めてで、ヴィンセルはアリスを見ているともどかしくて仕方ない。
優秀すぎる兄がいると言えど男女では比べる基準が違う。そこまで酷い比べられ方はしていないだろうに自分で感じる劣等感が自信をなくさせているように見えた。
だが、今そんなことを思ったところで彼女を婚約者に選ぶ理由にはならない。かと言って傍にいてほしいとプロポーズしても理由が【匂い】では受けてもらえるはずがなく、アリスにも失礼である。
テーブルに肩肘をつき、片手で額を覆ったヴィンセルは自分の浅はかさにため息をついた。
「アリスちゃん、ただでさえ君にぶつかったのはわざとじゃないかって陰口叩かれてるのに君の婚約者になったなんて知られたら何されるかわからないよ」
「そうなのか?」
「当たり前だよ。大人しそうな子が王子に世話焼いてもらってる状況を追っかけの子たちが面白いと思うわけないじゃないか。ましてや彼女はカイルの妹。その立場を利用して世話焼かせるようにもっていったんじゃないかってね」
「アリスはそんな子ではない」
「俺たちはわかってる。でもアリスちゃんを知らない子からすれば噂こそ真実なんだよ。実際君はこの三年間どのレディに対しても平等だった。親しくせず受け取らずを貫いてきたよね。だからこそアリスちゃんだけ名前で呼ぶことさえ特別扱いになるんだ」
女性に囲まれて過ごすアルフレッドには学園中に流れる全ての情報が入ってくると言っても過言ではない。
今回のアリスの件について誰かが直接アリスに言うことはなくとも、既に噂は蔓延している状態だと聞いた。
今の状況を快く思っていない令嬢たちが多く、それはアリスも感じ取っているだろう。そこにヴィンセルとの婚約話が持ち上がれば噂につけられた導火線に火がつくのもあっという間。そうなれば今まで黙っていた令嬢たちが動き出し、一つの大きな問題が勃発するのは間違いない。
「僕もヴィンセルがアリスを好きになったって言うなら理解するよ。でも匂いが欲しいだけなら理解できないね。だってそれじゃあアリスは絶対に幸せになんてなれないんだから」
「ま、匂いってことはヴィンセルとアリスちゃんは遺伝子レベルで相性がいいんだろうけど、そんな理屈は他のレディには通用してもアリスちゃんには通用しないだろうから。彼女、運命を信じててもその相手が王子だっていうのは絶対に信じなそうだし」
もし婚約の申し込みをしたらどんな顔をするだろうかと想像しても良い反応がないことはヴィンセルにも容易に想像できる。公爵家と王族はそんなに遠い関係ではない。むしろ最も近しい立場だ。そこまで王子王子と一線を引く必要はないのにアリスはいつも一線引いて二歩も三歩も下がろうとする。
王子との距離の取り方としては間違ってはいない。むしろ公女としてそうすべきで、追いかけまわすほうがおかしいのだが、ヴィンセルはそれを少し寂しいと思ってしまう。
相手はカイルの妹で、自分が怪我をさせてしまった相手。だから完治までの一ヵ月、腕代わりになると約束した。
自分たちの間にそれ以上の関係はない。友人でさえないのだ。それなのにいきなり婚約者として申し込んで受け入れてもらえるはずがない。
「王子のごたごたに巻き込むの? アリス、絶対目つけられるよ」
「だろうね。女の嫉妬は怖いから」
「守れるの?」
今もそうだが、二十四時間共にいるわけではない。学年が違うし、自分には職務があってずっと傍にいてやれるわけではない。いっそ婚約宣言でもして令嬢たちを切り離す作戦も頭にはあるが、そもそも自分が婚約者として選んで起こる問題であるため、そんなことをしたからと守っていることにはならない。むしろ逆効果だとヴィンセルは考える。
きっと誰かから暴言を浴びせられたとしてもアリスは強く言い返すことはできないだろう。傍にいてほしいというエゴで彼女の学校生活を台無しにするわけにはいかない。
しかしあの匂いがあれば心が落ち着く。もう二度と出会えないかもしれないと思うと諦めるとも言えなかった。
「守れるかどうかはやってみなければわからない」
「失格」
セシルから下された失格は不合格よりも重いもので、思わず眉を寄せるヴィンセルにわかりやすく首を振る。
「やってみてダメだったらどうするの? 令嬢たちを止められなきゃアリスは傷付くだけだよ。ヴィンセルは傷付かないからいいかもしれないけど、ターゲットはヴィンセルじゃなくてアリスなんだ。やってみなきゃなんてぶっつけ本番、僕が許さない」
「セシル、もしかして君もアリスちゃんが好きなのかい?」
「そうだよ。もうアリスにも伝えてあるし。イイ子だし、料理が上手。大人しいし、優しいし、僕は彼女が頷いてくれるなら今すぐにでも婚約宣言するね」
最初に仲良くなったのはセシルで、同級生ということもあって誰よりも仲がいい。
こうしてパンやお菓子を焼く相手もセシルだけで、まるでアリスにとってセシルが特別な相手であるかのような行動だ。
照れることなくハッキリ好きと伝えるセシルは見た目よりもずっと男を持っているのだとアルフレッドは感心する。
「アリスを消臭剤代わりにしたいなら毎日ハンカチ貰えばいいよ、それみたいにね」
ヴィンセルの手の中にあるアリスのハンカチを指すセシルの指摘にヴィンセルはそれをポケットにしまう。
「特別に調合したフレグランスなら良かったんだろうけど、彼女の匂いじゃあね」
女性は臭い生き物だと思っていた。色々な匂いが混ざりすぎて吐き気がするほどヴィンセルの鼻を刺激する。いくら嗜みといえど、鼻が良すぎるヴィンセルにとっては毒ガスも同然。
幼い頃からできるだけ深く息を吸わないようにしてきたが、やはり常にハンカチが手放せなかった。一生そうやって生きていくのだろうと思っていたのが、アリスが現れて変わった。傍にいるだけで生まれ変わったように呼吸ができるし、ハンカチも必要ない。アリスの匂いがベールのように包み込んでくれている感覚だった。
そのためだけに手放したくない感情は全て自分のためで、そんな理由を知ればアリスは傷つき、悲しむだろう。
「ヴィンセルもセシルも婚約者問題について考えるのは大いに結構だけど、大事なこと忘れてない?」
アルフレッドの言葉に首を傾げる二人に四階の窓を指さした。
その指を追って上を見ると二人は揃って口を開ける。
「あ……」
生徒会室にいるカイルがこっちを見ていた。
幸い窓は開いていない。この話が聞こえていたらそこから飛び降りてヴィンセルの首を締めにきていただろう。
アリス本人を攻略するよりもずっと難しいだろう兄カイルの攻略は大抵のことは気にせず我が道をゆくセシルでも難航するのは目に見えていた。
カイル・ベンフィールドという男は重度のシスコンで、聖フォンス学園に通っている人間でそれを知らない者はいない。
大抵の人間がその重症さに引いているのだが、中には『カイルの婚約者になればアリスのように愛してもらえるのではないか』と期待する令嬢も少なからず存在する。
相手が王子であろうと国王であろうとカイルはアリスを嫁にやる気はない。
妹のことになると目つきだけでなく人格まで変わってしまうカイルに本気で逆らおうとする者はこの聖フォンス学園には一人もいないのだ。
「あの笑顔嫌い」
「俺もだ」
「好きだって言う物好きいないでしょ」
ファンを除けば、と言おうとしたアルフレッドが一度口を閉じたのは、カイルのファンはちょっと特殊な子が多いから。
ヴィンセルのようにプレゼントを抱えて追いかけまわすファンのほうがずっとマシだと思わせるような令嬢たちが多く、アルフレッドでさえ近付きたくないと思っている。
「とりあえずアリスちゃんを知る所からはじめたら?」
アルフレッドの意見に頷いたヴィンセルだが、一つ問題があることに気付いたのは帰りの馬車に乗ってからだった。
「ヴィンセル様? 御者の方が指示をお待ちですが……」
今日の下校はセシルもティーナもカイルもいない二人きりの乗車だが、乗り込んでから十分が経とうとしているのにヴィンセルは黙り込んだまま馬車を出そうとしない。
「いつも通りベンフィールド邸までお願いしま──」
「いや、そうじゃない」
「え?」
ようやく口を開いたヴィンセルに顔を向けるとなぜか難しい顔をしていた。帰るだけなのになぜそんな顔をしているのかわからないアリスは自分が何か失礼をしたのかと不安になった。
ブラックバーン家の御者に勝手に行き先を伝えようとしたのはまずかったかと。
「このまま家には帰らず、寄り道はどうだ?」
「寄り道、ですか?」
「スイーツなどいかがだろうか? セシルが美味い店を知っていると言っていたんだ。カラフルな……なんだったか……マンダロン、だったか? そんな物もあるらしい。フルーツなんたらもあるそうだ」
甘い物にほとんど興味がないヴィンセルにとってセシルの情報は呪文そのもので、以前雑誌を見ながら話していたことを思い出して誘うのだが、アリスは首を傾げている。
「私と、ですか?」
「俺は今、君と話しているつもりなんだが……」
「そ、そうですよね! すみません、まさかヴィンセル様からお誘いいただけるとは思っていなくて……」
なぜこうも妄想の中でしたことばかり現実となっていくのだろうと不思議だった。
手首が治るまで世話役として一緒にいる約束だったが、帰りに寄り道をすることは予定外。
どこかへ立ち寄って一緒に食べる妄想は何百回もしたが、まさか現実になるとは思っていなかっただけにアリスは喜びより困惑のほうが大きかった。
「急な誘いであることはわかっているが、もしアリスさえ良ければどうだろうか? マンダロンは嫌いか?」
マンダロンというお菓子を知らないアリスは首を傾げるか、振るか、頷くかの三択で迷っていた。
「好き、です」
セシルがよく食べているお菓子のことを言っているのか、それともマンダロンというお菓子があるのかハッキリしないが、見ればわかると頷きを返した。
「では行くか」
「今から、ですよね?」
「そのつもりだが……今日は予定があるだろうか?」
「いえ、そういうわけではありませんが……」
イエスともノーともハッキリしない返事にヴィンセルはやはり難しい顔をする。
自惚れているわけではないが、王子という立場の人間に放課後デートのようなものに誘われて喜び一つ見せない令嬢がいるのかと困惑していた。
自分から令嬢を誘うのが初めてといえど喜ばれないとは想像していなかっただけにヴィンセルは少しショックだった。
「遅くなるつもりはない。無傷で送り届ける」
王子というより騎士らしい言葉に笑うアリスに安堵し、ヴィンセるが指示待ちの御者に目的地を伝えようと口を開いたが、それより先にアリスが頭を下げて申し出た。
「大変申し訳ないのですが、このまま自宅まで送っていただけたらと思います」
誘ったこともないのだから断られた経験もないのは当然でも、断られたという現実がヴィンセルのプライドを傷つけた。
てっきり一緒に行けるものだとばかり思っていたヴィンセルにとってアリスの反応は予想外で、驚きに固まってしまったが戸惑いは見せず、ベンフィールド邸に向かうよう御者に告げた。
「出してくれ……」
覇気のない声を合図に進んでいく馬車の中、二人は一言も交わすことなくベンフィールド邸に到着するまで一言も交わすことはなかった。
「本日もありがとうございました」
「ああ」
「では、失礼いたします」
「ああ」
軽くお辞儀をして階段を上がっていくアリスを目で追うヴィンセルはその姿が屋敷の中へ消えるまで馬車を出さなかった。
「坊ちゃま?」
「出してくれ」
セシルが誘えば行ったのだろうか? 自分が誘ったから遠慮したのか?
ヴィンセルはアリス・ベンフィールドという少女がよくわからなくなっていた。
気が弱く、人からの誘いや押し付けは断れない性格だと思っていた。実際、ティーナの誘いや押しにはいつも負けている。だから自分の誘いも困った顔をしながら……いや、緊張しながら受けてくれるものだと勝手に思い込んでいた。
ヴィンセル自身、甘い物はあまり好きではない。だからアリスが甘い物を堪能している間、自分は珈琲だけ飲もうと思っていたのが珈琲どころか店に向かうことさえできなかった。
「ハッキリ断れるのか……」
新たな関係を作り上げるのに王子という称号は何の役に立たず、初めての誘いは断られ、思い上がっていた自分が情けなく恥ずかしくなった。
「お嬢様? いかがなさいました?」
「な、なんでもない!」
「さようですか? お顔が赤いようですが……もしご気分でも悪いのでしたらお医者様を──」
「大丈夫! ちょっと暑かっただけだから!」
「お嬢様?」
部屋へと駆け上がっていくアリスに首を傾げるメイドは一度玄関のドアを開けて外の気温を確認し、どう転んでも暑かったと言える気温ではないことにもう一度首を傾げるもすぐに笑う。
走っていく馬車は王家の紋章入り。馬車の中でヴィンセル王子と何かあったのかもしれない。
侍女はアリスがヴィンセルに恋心を抱いているのは知っている。
今回の怪我についてカイルは相当怒っていたが、今回のことで何か進展があればいいとずっと思っていただけに、キスの一つでもあったのだとしたらと足取り軽く持ち場へと戻っていった。
「びっっっっっっくりした……」
部屋に入ってそのままドアにもたれかかりながら床へとずり落ちていくアリスは尻もちをついてようやく呼吸ができたような気がした。
放課後、教室にやってきたセシルが『今日は用事があるから先に帰る』と言い、カイルは生徒会の仕事が長引いているらしく同乗出来ないだろうと聞き、ティーナからは無視が始まったため帰りの馬車で二人きりという状況だけでも緊張していたのに、スイーツを食べに行かないかと王子から誘われる異常事態は天変地異の前触れかと疑ったほど。
「……行きたかったなぁ……」
本当はすぐにイエスと答えたかった。妄想の中で繰り広げられる甘い会話と共に甘いスイーツを食べて二人きりの時間を楽しむ。妄想の中では何百回と繰り返したことだ。
それが叶うチャンスだったのに、アリスは断ってしまった。
あそこでパニックを起こさなかったのは自分でも不思議なぐらいで、頭の中で現実のアリスと妄想好きのアリスが口論した結果、現実のアリスが勝ってしまったのだ。
(緊張でマナーが役に立たないかも。フォークからケーキがこぼれ落ちたらどうする? 手が震えてスコーン落としちゃったら? 熱い紅茶で火傷する情けない姿見せたら? マンダロンの食べ方を知らなかったら? 目を見られず下向いたまま会話したら……)
容易に想像出来る光景は行けば現実になるだろうという確信があったため、断ってしまった。
愚かな選択だと今になって後悔する。
「いくじなし。手が治ったらもう一緒に登下校なんてないのに……バカッ……」
鞄を抱きしめ膝を抱えてこぼす呟きは誰が返事をしてくれるわけでもなく消える。
惜しんでも後悔しても時間は過ぎていく。過ぎた時間は戻せないのに、向こうから降って湧いたチャンスを掴めない自分に嫌気がさす。
「ティーナだったら──……」
こんな時に思い出すのがティーナであることも嫌だった。
首を振って掻き消すとそのまま前に傾いて床に上半身をつけるアリスは今日のことを思い出しては一生後悔するだろうと想像に難くない遠くない未来を思って目を閉じた。
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