24 / 93
ヴィンセル・ブラックバーンからのお誘い
しおりを挟む
翌日からティーナは学校に来なくなった。
「カイルがキレる前で良かったんじゃない?」
「もう既に何かしてるかもしれないよ?」
「怖いことを言うな」
ランチタイム、いつもの庭園でティーナが来なくなった報告をするとヴィンセル、セシル、アルフレッドが心配していたのはティーナの精神状態ではなくカイルがベルフォルン家に何か制裁を加えたのではないかということ。
誰も『ありえない』と言わないのはカイルが平気でそういうことをしてしまう人間だとわかっているから。
妹であるアリスでさえそれを否定出来なかった。
「ヴィンセル王子の追っかけたちもちらほら休んでいるようですわね」
「十二人は休んでいるとか」
今日はアリシアとナディアも一緒に庭園に入ってきた。
招待したのは言うまでもなくアルフレッドで、アルフレッド推しのアリシアは招待状を受け取った瞬間、絶叫寸前だった。
ここに来るまでに何度『髪はおかしくない?』『スカート丈は下品じゃない?』『メイクは濃くない?』『口臭は大丈夫?』『声は変じゃない?』と聞き続けて一度ナディアを怒らせている。
今も平静を装っているがカップを持つ手は震えている。
「寒いかい?」
「い、いいえ! 平気ですわ! わたくし、体温は高いほうですの!」
「でも手が震えているよ? レディは身体を冷やしてはいけないんだから暖かくしていないとね」
肩にそっとかけられるアルフレッドの上着。ヴィンセルではないがアリスも鼻を押さえたくなる強い匂いにアリシア以外は全員が呼吸を一瞬止めていた。
「ヴィンセル様、よろしければハンカチを──」
「大丈夫だ」
「大丈夫なのですか?」
「君が傍にいると平気だ」
ハンカチを渡そうとしたアリスは自分の顔が熱を持つのがわかった。
周りに聞かれないようにと耳元で囁くヴィンセルの声もそうだが、あれだけハンカチが手放せなかったヴィンセルがこの匂いに鼻を押さえずとも平気になっている理由が嬉しくも恥ずかしい。
だが、嬉しいと同時に襲いくる不安が心の中で渦巻く。
どっちが本当の気持ちなんだろうかと自問しても答えは出ない。
アリスは赤い顔のままなんとか笑顔を作って「よかったです」とだけ返した。
「セシル様、よろしければこちら、お食べになられませんか?」
「ビスケット?」
「サブレですわ。バターたっぷりのサクサクサブレ。うちのシェフの自信作ですの」
お菓子に目がないセシルを誘うには実物を見せるのが一番。オシャレな小瓶の蓋を開けるだけで周りに広がるバターの良い香りにセシルも興味津々に瓶を覗き込んだ。
「セシル、食べるのか?」
今まで誰が何を持ってきても『いらない』の一言で興味も示さなかったセシル。人の手作りは何が入っているかわからないため気持ち悪くて食べられないと言っていたセシルが食べる気を起こしているように見え、一応の問いかけをしたヴィンセルにセシルは頷いて瓶の中から一枚サブレを取り出した。
「アリスの友達だもん、変なの入ってるわけないだろうし」
アリスが保証人のように言うセシルは粉糖がついた甘い香りのするサブレを眺めて嗅いで、一度ナディアを見てから一口齧った。
サクッと小気味良い音にそれだけで美味しそうだと皆が思う。
「いかがでしょう?」
笑顔で問いかけるナディアだが、アリシア同様に瓶を持つ手が少し震えている。昨日の失神の件もあってもう失神はしないと教室で誓っていたナディアだが、下手に喜ぶ言葉をかけると失神する可能性はあった。
「びっくりするぐらいサクサクだし、噛むとバターの風味が口全体に広がる。あと、バターが染み出てる感じ。カロリー高めな食べ物だね」
「そ、そうなんです。カロリーは高めです。控えめにしようかとも思ったのですが、やはりアボット家自慢のシェフの自信作を味わっていただきたくて」
「自分で作ったって言わないのがいいね」
これはサブレではなく自分を褒められたと感動するナディアは何度も頷く。
「わ、わたくしはサブレなんて作れませんわ。卵に触ったことさえないんですもの。それに、セシル様に嘘をつくなんてわたくしにはとても」
少女の顔を見せるナディアにアリシアがニヤつく。
「カロリー高い物ってなんで美味しいんだろうね」
「カロリーなんか気にしたことないくせに」
「そうだね」
もしセシルがカロリーを気にしていたらどうしようと思っていたが、ナディアの表情が一瞬で安堵に変わる。
日頃からあれだけパンやお菓子を食べ漁るセシルがカロリーを気にしていると言おうものならアリスが言おうと思っていたぐらいだ。
思ったことを口にしただけ。セシル・アッシュバートンとの会話にはよくあること。
「美味しい」
「一年分お送りさせていただきますわ!」
「よろしく」
一年分は大袈裟と思うのにセシルはそれを本気にして受け取り、ナディアもまた本気にしていた。
きっと一年間毎日セシルに届けるつもりなのだろう。休日はセシルの家にも。
「み、皆様もどうぞ!」
食べてもらえたと静かに喜ぶナディアは今にも溶けてしまいそうな心を抑えながら皆にもとテーブルの真ん中に瓶を置いた。
一人ずつ手を伸ばして一枚手に取ったサブレは全員が驚くほどサクサクで大好評。
「残りは全部僕のだから」
「欲張りだな」
「ヴィンセルは甘いものに興味ないでしょ」
「僕はダイエット中だしね」
カロリーを気にする男性がいたとナディアは慌てて顔を向けるもウインクで大丈夫だと伝えられた。
ナディアはアルフレッド推しではないため、特別な反応は見せず軽くお辞儀をする程度で終わる。
「それにしてもティーナ・ベルフォルンが休むなんてね。てっきり翌日から仲間を集めて威張り散らしてるもんだと思ってたのに」
「友達は自分しかいないと見下していたはずのアリスが絶縁宣言をしたのが堪えたのでしょうね」
「彼女、相当な自惚れ屋のようですし」
「自分を上げるために人を蹴落とすような子だからねぇ。あの子は美しくないし、花にもなれないね」
ティーナに人気があったのは確かだ。可愛くて誰にでも平等な態度を貫いていた。良くも悪くもありのまま。それがウケていたのだ。
だが、全ての物事に対してありのままが良いというわけではないし、むしろ貴族の世界でありのままで生きるのは逆効果でしかない。
一枚二枚と皮をかぶって場面場面で皮を変えていかなければならないのにティーナはそれをしてこなかった。
「自分は男爵ではなく公爵であるべきという台詞には驚きましたわ」
「男爵が公爵になるなんて奇跡でも起きない限りはありえませんのに、図々しいですわね」
貴族の中で公爵という爵位は特別なもので一代で成り上がれるものではない。
男爵という貴族の爵位ギリギリであるものを差別的に嫌うティーナは貴族として生きるには向かないのだろう。
「大体、彼女はアリスに噛みついて許されていることに感謝すべきですわ」
「わたくしだったら絶対に許しませんわ。お父様に言って没落必須と訴えますわね」
「過激だね」
「あ…わ、わたくしったら!」
「レディはそういう過激な一面を持っている方が魅力的だよ」
「アルフレッド様……!」
アルフレッドがアリシアの顎をクイッと持ち上げるだけで広がるバラの背景。持ち上げられただけでハートになってしまうアリシアの瞳。
もともと推しではあったが、それよりもずっと深くアルフレッドの虜になり、のみ込まれてしまっている。
皆から呆れたように向けられる視線も気にせず、二人はそのうちキスでもしてしまうのではないかと思うほど近くで見つめ合い、二人の世界に入り込んでいた。
「でも実際、彼女が言うようにそれぐらいすれば?」
「私個人の問題に家の力は使えません」
「家の力は君の力だよ」
「それは違います」
「カイルは使うよ?」
「お兄様はちょっと……特殊ですので」
「だいぶね」
正直に言ってしまえばアリスはもう、ティーナとは関わりたくなかった。
今日も何でもない顔で声をかけてくるか、本格的な嫌がらせが始まるのではないかと警戒していたぐらいだ。
それが意外にもティーナは学校を休み、こうして平和な一日を過ごしている。
卒業まで穏やかな時間を過ごすためには何か手を打ったほうがいいのかもしれない。だが、これは完全に個人の問題であって家族を巻き込む問題に発展しているわけではない。それこそ『強要はしていない。アリスが善意でお願いを聞いてくれていただけ』と言われてしまえばアリスは返す言葉もない。自分が聞いてやりたかったのもあるし、断りきれなかったのもある。それらは全て自分の意思によるもの。
そこに自分が被害者面で親に力を借りるのは違うと考えていた。
「だから親は同じレベルの者かそれ以上と付き合いなさいと言うのですわ。下の者と付き合うメリットなどありませんもの」
貴族のほとんどが『上の人間と繋がりを持ちなさい。それがお前のためであり家のためでもある』と親に言われてきただろう。だから男も女もこの学園で自分より上の人間と関りを持とうとする。
しかし、貴族の最高位の爵位を持つ公爵に上の人間がいるとすれば王族。
今は奇跡的にヴィンセルと繋がりを持っているが、カイルがいなければ絶対にありえなかった話だ。
幼い頃から『付き合う人間は選びなさい』と両親から言われて育ったアリスにはそれがよくわからなかった。両親が言う『選べ』は何を基準に見ればいいのか、見る目がないアリスは理解しようにもできないままティーナと付き合い続けてきた。
公爵という最上位と男爵という最下位が一緒にいて得をするのは男爵だけで、公爵にとっては何の得もない。そして得をし続ける男爵がそのうち愚かな夢を見始めた。
それがティーナの言う『自分のほうが公爵の娘に相応しい』というもの。
自分がどういう人間かも気付かず自分の称号に不満を持ち続け、公爵令嬢であるアリスを見下し続けた。
それが、その考えが何よりも哀れでたまらなかった。
「そう言われると僕は伯爵だから彼らは僕と付き合いを控えた方がいいかもしれないことになるけど」
「そ、そういうつもりで言ったのではありません! もし気分を害されたのであれば──」
「セシル、そんな意地悪な言葉は口にすべきじゃないよ。爵位なんて関係ない。僕たちは心で繋がった盟友なんだから」
「アルフレッドが言うと癪に触る。というか、なんか同情されてる気分になる」
「おや酷い、本心なのに。では、セシルはティーナ・ベルフォルンの気持ちがわかると?」
「僕はあそこまで傲慢なつもりはないよ。愚かでもないつもりだしね。でも、同じレベルの人間と付き合わなきゃ格の違いを見せつけられるって気持ちはわかる。きっと、僕がアリスに好きだって言うのも公爵たちからすれば愚かなことなんだろうね」
セシルの言葉に誰もが一度口を閉じた。
この中で伯爵はセシルだけで、あとはセシルより上の称号を持つ者ばかり。誰も共感するとは言ってやれず、その気持ちを理解することもできない。
令息たちは自分より下の爵位の娘を嫁にすることはできても、令嬢たちは自分より下の爵位の男と結婚することはしない。
伯爵であるセシルが公爵令嬢であるアリスに恋をするだけならまだしも、想いを伝えて妻発言までするのは嘲笑されてしまう。
セシルもそこはわかっているが、後悔はしていないし自分を愚かだとも思ってはいない。
ここにいる誰もが皆同じ気持ちだった。
「身分の差は覆せない。だからその身の丈に合った態度を取るしかない。僕の花たちにも男爵や子爵の令嬢たちがいるけど皆ちゃんと出過ぎず一歩引いてる。そんなとこがいじらしいなって思うし、男爵令嬢だからって花に加えないってこともしないね。身分は関係を築く上でとてもわかりやすいものだけど、大事なのは身分より思いやりだよ」
「お前はそうだろうな」
「女の子なら誰でもいいんだもんね」
「心外だなぁ、誰でもいいってわけじゃないよ。ティーナ・ベルフォルンのような女の子は僕でもごめんだね」
アルフレッドが受け入れないのだからよっぽどだと誰も口にはしないが思っている。
「でもね、あの環境は僕が頑張ってるわけじゃない。頑張ってるのは花たちだよ。一歩二歩と前に出て、自分のほうが美しいんだって主張したいだろう。ただ、そこのラインを引き間違えると花は魅力を失う。ティーナ・ベルフォルンは土壌こそ普通だったのに親が良く育つように栄養をあげすぎたせいで自尊心ばかり必要以上に育っちゃったんだろうね。大きく開きすぎた花に魅力はない。慎ましやかであるべきなんだ」
大事なのは自分。正しいのは自分。優先されるのは自分。何でも自分と考えていたティーナは人を大事に出来なかった。それがどんなに悲しく寂しいことか。アリスはそこまで考えたことがなかった。
ずっとティーナと一緒にいたのに、ティーナに疎まれるのが怖くて注意もできなかったことを少し後悔している。
言ったところでティーナが素直に聞き入れるとは思っていないが、それでも何かが変わったかもしれないのにと考えていた。
「ああいう人間ってしつこいから気を付けないとね」
セシルの言葉に皆が頷くと予鈴が鳴ったことで全員が立ち上がってぞろぞろと教室に向かう中、ヴィンセルがアリスの手を掴んだ。
「ヴィンセル様?」
なんだろうかと首を傾げるアリスはヴィンセルの何か言いたげな表情にもう一度椅子に腰かけた。
「どうかしましたか?」
「あ、いや、その……君とゆっくり話す時間がないなと思って……」
「そう、ですね?」
「君と話がしたいんだが、夕飯に招待してもいいだろうか?」
アリスは自分の耳が壊れたか妄想しすぎてついに本人の目の前でまで妄想し始めるようになったのかと焦りを感じた。
表情を崩さないまま自分の頬を思いきり引っ張るアリスはじんじんとした痛みにこれが妄想でないことを確認するもヴィンセル・ブラックバーンが自分を食事に誘うという現実を受け止めきれないでいた。
馬車の中でも大した話はしないのにブラックバーン家に行って食事をしながら盛り上がる話など砂粒ほども持ち合わせていないアリスにはあまりにも重荷で、額から大量の汗が流れ始めた。
「アリス? ど、どうした?」
急に流れ始めた汗をハンカチで拭ってやりながら返事をしない相手に不安交じりに声をかける。
「……私と……食事をする、意味はありますか?」
自分でも失敗した問いかけだと思った。
キョトンとするヴィンセルはそれにクスッと笑って頷く。
「君と話がしたいんだ。食事をしながらのほうが話が弾むと言うだろう?」
ブラックバーン家に行って緊張せずに食事ができるはずがない。もし両陛下がいたら? 挨拶はどうすればいいのか頭から飛んだら人生が終わる。
だが、せっかくヴィンセルが誘ってくれたのだから断りたくはない。
「わ、私でよければ是非」
アリスは目の前に現れた【はい】【イエス】の選択肢を選び、そしてその瞬間に全力で駆け抜ける緊張に全力で後悔していた。
「日時はまた後日、連絡させてもらう」
「は、はい」
「ではまた放課後に」
優しい笑顔で去っていく彼を見送るアリスはあまりの驚きに固まったまま本鈴が鳴ったのも気付かず、椅子に座ったままとなり、授業をサボってしまった。
「カイルがキレる前で良かったんじゃない?」
「もう既に何かしてるかもしれないよ?」
「怖いことを言うな」
ランチタイム、いつもの庭園でティーナが来なくなった報告をするとヴィンセル、セシル、アルフレッドが心配していたのはティーナの精神状態ではなくカイルがベルフォルン家に何か制裁を加えたのではないかということ。
誰も『ありえない』と言わないのはカイルが平気でそういうことをしてしまう人間だとわかっているから。
妹であるアリスでさえそれを否定出来なかった。
「ヴィンセル王子の追っかけたちもちらほら休んでいるようですわね」
「十二人は休んでいるとか」
今日はアリシアとナディアも一緒に庭園に入ってきた。
招待したのは言うまでもなくアルフレッドで、アルフレッド推しのアリシアは招待状を受け取った瞬間、絶叫寸前だった。
ここに来るまでに何度『髪はおかしくない?』『スカート丈は下品じゃない?』『メイクは濃くない?』『口臭は大丈夫?』『声は変じゃない?』と聞き続けて一度ナディアを怒らせている。
今も平静を装っているがカップを持つ手は震えている。
「寒いかい?」
「い、いいえ! 平気ですわ! わたくし、体温は高いほうですの!」
「でも手が震えているよ? レディは身体を冷やしてはいけないんだから暖かくしていないとね」
肩にそっとかけられるアルフレッドの上着。ヴィンセルではないがアリスも鼻を押さえたくなる強い匂いにアリシア以外は全員が呼吸を一瞬止めていた。
「ヴィンセル様、よろしければハンカチを──」
「大丈夫だ」
「大丈夫なのですか?」
「君が傍にいると平気だ」
ハンカチを渡そうとしたアリスは自分の顔が熱を持つのがわかった。
周りに聞かれないようにと耳元で囁くヴィンセルの声もそうだが、あれだけハンカチが手放せなかったヴィンセルがこの匂いに鼻を押さえずとも平気になっている理由が嬉しくも恥ずかしい。
だが、嬉しいと同時に襲いくる不安が心の中で渦巻く。
どっちが本当の気持ちなんだろうかと自問しても答えは出ない。
アリスは赤い顔のままなんとか笑顔を作って「よかったです」とだけ返した。
「セシル様、よろしければこちら、お食べになられませんか?」
「ビスケット?」
「サブレですわ。バターたっぷりのサクサクサブレ。うちのシェフの自信作ですの」
お菓子に目がないセシルを誘うには実物を見せるのが一番。オシャレな小瓶の蓋を開けるだけで周りに広がるバターの良い香りにセシルも興味津々に瓶を覗き込んだ。
「セシル、食べるのか?」
今まで誰が何を持ってきても『いらない』の一言で興味も示さなかったセシル。人の手作りは何が入っているかわからないため気持ち悪くて食べられないと言っていたセシルが食べる気を起こしているように見え、一応の問いかけをしたヴィンセルにセシルは頷いて瓶の中から一枚サブレを取り出した。
「アリスの友達だもん、変なの入ってるわけないだろうし」
アリスが保証人のように言うセシルは粉糖がついた甘い香りのするサブレを眺めて嗅いで、一度ナディアを見てから一口齧った。
サクッと小気味良い音にそれだけで美味しそうだと皆が思う。
「いかがでしょう?」
笑顔で問いかけるナディアだが、アリシア同様に瓶を持つ手が少し震えている。昨日の失神の件もあってもう失神はしないと教室で誓っていたナディアだが、下手に喜ぶ言葉をかけると失神する可能性はあった。
「びっくりするぐらいサクサクだし、噛むとバターの風味が口全体に広がる。あと、バターが染み出てる感じ。カロリー高めな食べ物だね」
「そ、そうなんです。カロリーは高めです。控えめにしようかとも思ったのですが、やはりアボット家自慢のシェフの自信作を味わっていただきたくて」
「自分で作ったって言わないのがいいね」
これはサブレではなく自分を褒められたと感動するナディアは何度も頷く。
「わ、わたくしはサブレなんて作れませんわ。卵に触ったことさえないんですもの。それに、セシル様に嘘をつくなんてわたくしにはとても」
少女の顔を見せるナディアにアリシアがニヤつく。
「カロリー高い物ってなんで美味しいんだろうね」
「カロリーなんか気にしたことないくせに」
「そうだね」
もしセシルがカロリーを気にしていたらどうしようと思っていたが、ナディアの表情が一瞬で安堵に変わる。
日頃からあれだけパンやお菓子を食べ漁るセシルがカロリーを気にしていると言おうものならアリスが言おうと思っていたぐらいだ。
思ったことを口にしただけ。セシル・アッシュバートンとの会話にはよくあること。
「美味しい」
「一年分お送りさせていただきますわ!」
「よろしく」
一年分は大袈裟と思うのにセシルはそれを本気にして受け取り、ナディアもまた本気にしていた。
きっと一年間毎日セシルに届けるつもりなのだろう。休日はセシルの家にも。
「み、皆様もどうぞ!」
食べてもらえたと静かに喜ぶナディアは今にも溶けてしまいそうな心を抑えながら皆にもとテーブルの真ん中に瓶を置いた。
一人ずつ手を伸ばして一枚手に取ったサブレは全員が驚くほどサクサクで大好評。
「残りは全部僕のだから」
「欲張りだな」
「ヴィンセルは甘いものに興味ないでしょ」
「僕はダイエット中だしね」
カロリーを気にする男性がいたとナディアは慌てて顔を向けるもウインクで大丈夫だと伝えられた。
ナディアはアルフレッド推しではないため、特別な反応は見せず軽くお辞儀をする程度で終わる。
「それにしてもティーナ・ベルフォルンが休むなんてね。てっきり翌日から仲間を集めて威張り散らしてるもんだと思ってたのに」
「友達は自分しかいないと見下していたはずのアリスが絶縁宣言をしたのが堪えたのでしょうね」
「彼女、相当な自惚れ屋のようですし」
「自分を上げるために人を蹴落とすような子だからねぇ。あの子は美しくないし、花にもなれないね」
ティーナに人気があったのは確かだ。可愛くて誰にでも平等な態度を貫いていた。良くも悪くもありのまま。それがウケていたのだ。
だが、全ての物事に対してありのままが良いというわけではないし、むしろ貴族の世界でありのままで生きるのは逆効果でしかない。
一枚二枚と皮をかぶって場面場面で皮を変えていかなければならないのにティーナはそれをしてこなかった。
「自分は男爵ではなく公爵であるべきという台詞には驚きましたわ」
「男爵が公爵になるなんて奇跡でも起きない限りはありえませんのに、図々しいですわね」
貴族の中で公爵という爵位は特別なもので一代で成り上がれるものではない。
男爵という貴族の爵位ギリギリであるものを差別的に嫌うティーナは貴族として生きるには向かないのだろう。
「大体、彼女はアリスに噛みついて許されていることに感謝すべきですわ」
「わたくしだったら絶対に許しませんわ。お父様に言って没落必須と訴えますわね」
「過激だね」
「あ…わ、わたくしったら!」
「レディはそういう過激な一面を持っている方が魅力的だよ」
「アルフレッド様……!」
アルフレッドがアリシアの顎をクイッと持ち上げるだけで広がるバラの背景。持ち上げられただけでハートになってしまうアリシアの瞳。
もともと推しではあったが、それよりもずっと深くアルフレッドの虜になり、のみ込まれてしまっている。
皆から呆れたように向けられる視線も気にせず、二人はそのうちキスでもしてしまうのではないかと思うほど近くで見つめ合い、二人の世界に入り込んでいた。
「でも実際、彼女が言うようにそれぐらいすれば?」
「私個人の問題に家の力は使えません」
「家の力は君の力だよ」
「それは違います」
「カイルは使うよ?」
「お兄様はちょっと……特殊ですので」
「だいぶね」
正直に言ってしまえばアリスはもう、ティーナとは関わりたくなかった。
今日も何でもない顔で声をかけてくるか、本格的な嫌がらせが始まるのではないかと警戒していたぐらいだ。
それが意外にもティーナは学校を休み、こうして平和な一日を過ごしている。
卒業まで穏やかな時間を過ごすためには何か手を打ったほうがいいのかもしれない。だが、これは完全に個人の問題であって家族を巻き込む問題に発展しているわけではない。それこそ『強要はしていない。アリスが善意でお願いを聞いてくれていただけ』と言われてしまえばアリスは返す言葉もない。自分が聞いてやりたかったのもあるし、断りきれなかったのもある。それらは全て自分の意思によるもの。
そこに自分が被害者面で親に力を借りるのは違うと考えていた。
「だから親は同じレベルの者かそれ以上と付き合いなさいと言うのですわ。下の者と付き合うメリットなどありませんもの」
貴族のほとんどが『上の人間と繋がりを持ちなさい。それがお前のためであり家のためでもある』と親に言われてきただろう。だから男も女もこの学園で自分より上の人間と関りを持とうとする。
しかし、貴族の最高位の爵位を持つ公爵に上の人間がいるとすれば王族。
今は奇跡的にヴィンセルと繋がりを持っているが、カイルがいなければ絶対にありえなかった話だ。
幼い頃から『付き合う人間は選びなさい』と両親から言われて育ったアリスにはそれがよくわからなかった。両親が言う『選べ』は何を基準に見ればいいのか、見る目がないアリスは理解しようにもできないままティーナと付き合い続けてきた。
公爵という最上位と男爵という最下位が一緒にいて得をするのは男爵だけで、公爵にとっては何の得もない。そして得をし続ける男爵がそのうち愚かな夢を見始めた。
それがティーナの言う『自分のほうが公爵の娘に相応しい』というもの。
自分がどういう人間かも気付かず自分の称号に不満を持ち続け、公爵令嬢であるアリスを見下し続けた。
それが、その考えが何よりも哀れでたまらなかった。
「そう言われると僕は伯爵だから彼らは僕と付き合いを控えた方がいいかもしれないことになるけど」
「そ、そういうつもりで言ったのではありません! もし気分を害されたのであれば──」
「セシル、そんな意地悪な言葉は口にすべきじゃないよ。爵位なんて関係ない。僕たちは心で繋がった盟友なんだから」
「アルフレッドが言うと癪に触る。というか、なんか同情されてる気分になる」
「おや酷い、本心なのに。では、セシルはティーナ・ベルフォルンの気持ちがわかると?」
「僕はあそこまで傲慢なつもりはないよ。愚かでもないつもりだしね。でも、同じレベルの人間と付き合わなきゃ格の違いを見せつけられるって気持ちはわかる。きっと、僕がアリスに好きだって言うのも公爵たちからすれば愚かなことなんだろうね」
セシルの言葉に誰もが一度口を閉じた。
この中で伯爵はセシルだけで、あとはセシルより上の称号を持つ者ばかり。誰も共感するとは言ってやれず、その気持ちを理解することもできない。
令息たちは自分より下の爵位の娘を嫁にすることはできても、令嬢たちは自分より下の爵位の男と結婚することはしない。
伯爵であるセシルが公爵令嬢であるアリスに恋をするだけならまだしも、想いを伝えて妻発言までするのは嘲笑されてしまう。
セシルもそこはわかっているが、後悔はしていないし自分を愚かだとも思ってはいない。
ここにいる誰もが皆同じ気持ちだった。
「身分の差は覆せない。だからその身の丈に合った態度を取るしかない。僕の花たちにも男爵や子爵の令嬢たちがいるけど皆ちゃんと出過ぎず一歩引いてる。そんなとこがいじらしいなって思うし、男爵令嬢だからって花に加えないってこともしないね。身分は関係を築く上でとてもわかりやすいものだけど、大事なのは身分より思いやりだよ」
「お前はそうだろうな」
「女の子なら誰でもいいんだもんね」
「心外だなぁ、誰でもいいってわけじゃないよ。ティーナ・ベルフォルンのような女の子は僕でもごめんだね」
アルフレッドが受け入れないのだからよっぽどだと誰も口にはしないが思っている。
「でもね、あの環境は僕が頑張ってるわけじゃない。頑張ってるのは花たちだよ。一歩二歩と前に出て、自分のほうが美しいんだって主張したいだろう。ただ、そこのラインを引き間違えると花は魅力を失う。ティーナ・ベルフォルンは土壌こそ普通だったのに親が良く育つように栄養をあげすぎたせいで自尊心ばかり必要以上に育っちゃったんだろうね。大きく開きすぎた花に魅力はない。慎ましやかであるべきなんだ」
大事なのは自分。正しいのは自分。優先されるのは自分。何でも自分と考えていたティーナは人を大事に出来なかった。それがどんなに悲しく寂しいことか。アリスはそこまで考えたことがなかった。
ずっとティーナと一緒にいたのに、ティーナに疎まれるのが怖くて注意もできなかったことを少し後悔している。
言ったところでティーナが素直に聞き入れるとは思っていないが、それでも何かが変わったかもしれないのにと考えていた。
「ああいう人間ってしつこいから気を付けないとね」
セシルの言葉に皆が頷くと予鈴が鳴ったことで全員が立ち上がってぞろぞろと教室に向かう中、ヴィンセルがアリスの手を掴んだ。
「ヴィンセル様?」
なんだろうかと首を傾げるアリスはヴィンセルの何か言いたげな表情にもう一度椅子に腰かけた。
「どうかしましたか?」
「あ、いや、その……君とゆっくり話す時間がないなと思って……」
「そう、ですね?」
「君と話がしたいんだが、夕飯に招待してもいいだろうか?」
アリスは自分の耳が壊れたか妄想しすぎてついに本人の目の前でまで妄想し始めるようになったのかと焦りを感じた。
表情を崩さないまま自分の頬を思いきり引っ張るアリスはじんじんとした痛みにこれが妄想でないことを確認するもヴィンセル・ブラックバーンが自分を食事に誘うという現実を受け止めきれないでいた。
馬車の中でも大した話はしないのにブラックバーン家に行って食事をしながら盛り上がる話など砂粒ほども持ち合わせていないアリスにはあまりにも重荷で、額から大量の汗が流れ始めた。
「アリス? ど、どうした?」
急に流れ始めた汗をハンカチで拭ってやりながら返事をしない相手に不安交じりに声をかける。
「……私と……食事をする、意味はありますか?」
自分でも失敗した問いかけだと思った。
キョトンとするヴィンセルはそれにクスッと笑って頷く。
「君と話がしたいんだ。食事をしながらのほうが話が弾むと言うだろう?」
ブラックバーン家に行って緊張せずに食事ができるはずがない。もし両陛下がいたら? 挨拶はどうすればいいのか頭から飛んだら人生が終わる。
だが、せっかくヴィンセルが誘ってくれたのだから断りたくはない。
「わ、私でよければ是非」
アリスは目の前に現れた【はい】【イエス】の選択肢を選び、そしてその瞬間に全力で駆け抜ける緊張に全力で後悔していた。
「日時はまた後日、連絡させてもらう」
「は、はい」
「ではまた放課後に」
優しい笑顔で去っていく彼を見送るアリスはあまりの驚きに固まったまま本鈴が鳴ったのも気付かず、椅子に座ったままとなり、授業をサボってしまった。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】6人目の娘として生まれました。目立たない伯爵令嬢なのに、なぜかイケメン公爵が離れない
朝日みらい
恋愛
エリーナは、伯爵家の6人目の娘として生まれましたが、幸せではありませんでした。彼女は両親からも兄姉からも無視されていました。それに才能も兄姉と比べると特に特別なところがなかったのです。そんな孤独な彼女の前に現れたのが、公爵家のヴィクトールでした。彼女のそばに支えて励ましてくれるのです。エリーナはヴィクトールに何かとほめられながら、自分の力を信じて幸せをつかむ物語です。
さようなら、私の愛したあなた。
希猫 ゆうみ
恋愛
オースルンド伯爵家の令嬢カタリーナは、幼馴染であるロヴネル伯爵家の令息ステファンを心から愛していた。いつか結婚するものと信じて生きてきた。
ところが、ステファンは爵位継承と同時にカールシュテイン侯爵家の令嬢ロヴィーサとの婚約を発表。
「君の恋心には気づいていた。だが、私は違うんだ。さようなら、カタリーナ」
ステファンとの未来を失い茫然自失のカタリーナに接近してきたのは、社交界で知り合ったドグラス。
ドグラスは王族に連なるノルディーン公爵の末子でありマルムフォーシュ伯爵でもある超上流貴族だったが、不埒な噂の絶えない人物だった。
「あなたと遊ぶほど落ちぶれてはいません」
凛とした態度を崩さないカタリーナに、ドグラスがある秘密を打ち明ける。
なんとドグラスは王家の密偵であり、偽装として遊び人のように振舞っているのだという。
「俺に協力してくれたら、ロヴィーサ嬢の真実を教えてあげよう」
こうして密偵助手となったカタリーナは、幾つかの真実に触れながら本当の愛に辿り着く。
報われなかった姫君に、弔いの白い薔薇の花束を
さくたろう
恋愛
その国の王妃を決める舞踏会に招かれたロザリー・ベルトレードは、自分が当時の王子、そうして現王アルフォンスの婚約者であり、不遇の死を遂げた姫オフィーリアであったという前世を思い出す。
少しずつ蘇るオフィーリアの記憶に翻弄されながらも、17年前から今世まで続く因縁に、ロザリーは絡め取られていく。一方でアルフォンスもロザリーの存在から目が離せなくなり、やがて二人は再び惹かれ合うようになるが――。
20話です。小説家になろう様でも公開中です。
王女殿下のモラトリアム
あとさん♪
恋愛
「君は彼の気持ちを弄んで、どういうつもりなんだ?!この悪女が!」
突然、怒鳴られたの。
見知らぬ男子生徒から。
それが余りにも突然で反応できなかったの。
この方、まさかと思うけど、わたくしに言ってるの?
わたくし、アンネローゼ・フォン・ローリンゲン。花も恥じらう16歳。この国の王女よ。
先日、学園内で突然無礼者に絡まれたの。
お義姉様が仰るに、学園には色んな人が来るから、何が起こるか分からないんですって!
婚約者も居ない、この先どうなるのか未定の王女などつまらないと思っていたけれど、それ以来、俄然楽しみが増したわ♪
お義姉様が仰るにはピンクブロンドのライバルが現れるそうなのだけど。
え? 違うの?
ライバルって縦ロールなの?
世間というものは、なかなか複雑で一筋縄ではいかない物なのですね。
わたくしの婚約者も学園で捕まえる事が出来るかしら?
この話は、自分は平凡な人間だと思っている王女が、自分のしたい事や好きな人を見つける迄のお話。
※設定はゆるんゆるん
※ざまぁは無いけど、水戸○門的なモノはある。
※明るいラブコメが書きたくて。
※シャティエル王国シリーズ3作目!
※過去拙作『相互理解は難しい(略)』の12年後、
『王宮勤めにも色々ありまして』の10年後の話になります。
上記未読でも話は分かるとは思いますが、お読みいただくともっと面白いかも。
※ちょいちょい修正が入ると思います。誤字撲滅!
※小説家になろうにも投稿しました。
私の願いは貴方の幸せです
mahiro
恋愛
「君、すごくいいね」
滅多に私のことを褒めることがないその人が初めて会った女の子を褒めている姿に、彼の興味が私から彼女に移ったのだと感じた。
私は2人の邪魔にならないよう出来るだけ早く去ることにしたのだが。
【完結】灰かぶりの花嫁は、塔の中
白雨 音
恋愛
父親の再婚により、家族から小間使いとして扱われてきた、伯爵令嬢のコレット。
思いがけず結婚が決まるが、義姉クリスティナと偽る様に言われる。
愛を求めるコレットは、結婚に望みを託し、クリスティナとして夫となるアラード卿の館へ
向かうのだが、その先で、この結婚が偽りと知らされる。
アラード卿は、彼女を妻とは見ておらず、曰く付きの塔に閉じ込め、放置した。
そんな彼女を、唯一気遣ってくれたのは、自分よりも年上の義理の息子ランメルトだった___
異世界恋愛 《完結しました》
【完結】ありのままのわたしを愛して
彩華(あやはな)
恋愛
私、ノエルは左目に傷があった。
そのため学園では悪意に晒されている。婚約者であるマルス様は庇ってくれないので、図書館に逃げていた。そんな時、外交官である兄が国外視察から帰ってきたことで、王立大図書館に行けることに。そこで、一人の青年に会うー。
私は好きなことをしてはいけないの?傷があってはいけないの?
自分が自分らしくあるために私は動き出すー。ありのままでいいよね?
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる