愛だ恋だと変化を望まない公爵令嬢がその手を取るまで

永江寧々

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談笑

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 ディナーへの招待状が来たのはそれから三日後のことだった。
 まさかの予定はその翌日となっており、ドレスを新調する間もないためクローゼットから服を全て引っ張り出して選んだのだが、馬車を降りたアリスの頭には今着ているドレスが自分に似合っているかという不安は既に吹き飛んでおり、目の前にそびえ立つ城に唖然としていた。
 
「お城……」
 
 自分の家を謙虚さを持ってでも大きくないとは言えない。客観的に見てもかなり大きいほうだとは思っていたが、ブラックバーン家は別格も別格。
 玄関へ続く無駄に長い階段。なぜあんなにも広いのかわからないホール。二階に上がってから自分の部屋までの無駄に長い距離。ベンフィールド家は無駄に広い家だと思っていたが、ヴィンセルの屋敷は家というよりもはや城だった。
 
「お待ちしておりました、アリス・ベンフィールド様」
「あ、はっはい! アリス・ベンフィールドです。本日はヴィンセル王子よりお食事にお招きいただき──」
「この老いぼれにそのように丁寧なご挨拶はもったいのうございます。感謝はどうぞ王子にお伝えくださいませ」

 品の良い老執事がいつの間にか傍に来ており、美しいお辞儀を一度アリスへ向けた。裾を摘まんで挨拶をするアリスだが、この場にヴィンセルがいないことが不安でたまらなかった。
 
「あ、あの、ヴィンセル様はお部屋でお待ちでしょうか?」
「王子は公務が長引いておられるようで、先ほど、少し遅れるとの連絡が入りました。こちらから招いておきながらお待たせするのは大変心苦しいのですが、少々お待ちいただけますでしょうか? 申し訳ございません」
「わかりました」
 
 昨日から何度も想像したスマートな挨拶と態度を発揮する場所もなく、一人場違いに思う状況にアリスはただ戸惑いながら案内されるがままに応接間に向かった。
 
「お食事は王子がお戻り次第ご用意させていただきますので、こちらでお待ちください。すぐにお茶を持ってまいります」
「あ、どうぞおかまいなく」
 
 ドアが静かに閉められ、一人になったアリスは安堵の息を吐き出す。
 豪華絢爛な貴賓室に落ち着かず、ソファーに腰かけては立ち上がり、部屋を一周する行動を三回も取った。
 十分ごとに部屋をノックする執事から発せられるのは『もう少しかかるようです』の言葉ばかりで、食事会の予定は約束から一時間以上が過ぎていた。
 
「赤のドレスを着たのは間違いだったかな……」
 
 窓に映る自分に気付き、身にまとう赤のドレスを今更になって違うような気になって落ち着かなくなった。
 侍女を呼んであれでもないこれでもないと何時間も一緒に迷ってもらったのに今更になって気にする自分にアリスはガラスに映る自分と睨めっこをする。
 
「メイク、おかしくないかな……」
 
 一つ気になれば全てが気になり、ドレスの次はメイクが気になった。鏡ではないためメイクがハッキリ映るわけではなく、鏡を取り出して確認する。
 メイドに施してもらった完璧なメイクだが、緊張の汗で落ちてしまっているのではないかと鏡を見ながら不安になった。普段からもっとメイクの練習をしておくんだったと後悔するほどに。
 公爵令嬢でありながら華がない自分はここまで過ごしてきた人生の中で〝モテ〟とは縁遠すぎて自分磨きをしようとはしなかった。
 兄のように目鼻立ちがハッキリしているわけではないし、歩けば誰かが振り返ってくれるわけでもない。
 兄の『お前はそのままでいい。そのままが一番可愛いんだ。メイクなんて化けるためにするものであってお前は化ける必要がない。だってお前は世界で一番可愛いんだから』と捲し立てる圧に勝てず、自分で化粧を覚えようとしなかった。
 施す化粧は淑女としての最低限レベル。
 一度、母親から口紅を貰ったが、いつの間にか蜂蜜でできたリップクリームに変わっていた。なくなったことを食卓で問いかけるとカイルは隠そうともせず『必要ないだろう?』と笑顔で言ったことがあり、偏見まみれの『赤い紅は男を惑わすために引くんだ』と言ったことからもういいかと諦めた。
 自分がモメずとも母親と兄が勝手に言い合いをするのだから、それだけでお腹いっぱいだと何度思ったかわからない。
 それでも今日は薄く赤い紅を引いた。
 十四歳の時、一度だけカイルに『勝手に部屋に入らないで』と言ったことがある。その直後に号泣されてからアリスは部屋に入るなと言えなくなったのだが、さすがにクローゼットまでは漁らないだろうと化粧品をいくつかそこに隠している。
 今日はそれを全部使って化粧をしてもらった。
 
「この化粧をお兄様が見たら卒倒するでしょうね」
 
 気に入らないという表情で『ヴィンセルのためにそんな恰好をしたのか。化粧までして』と言うだろう。そして『兄様と出掛ける時はそんなオシャレしてくれないじゃないか!』と泣く。
 
「はあ……」
 
 容易に想像出来てしまうことに溜息をついてはテラスに続くドアを開けて外に出ると少し肌寒く感じるも自分の家から見る景色とは全く違う景色に目を細める。
 アリスは自分の部屋から見える景色も気に入っているが、ここはベンフィールド家がある場所よりも高台にあるため
 これだけ多くの人々が住む国の王子に食事会に招待されたことは本当に現実だろうかとヴィンセントがいないため、今でも疑ってしまう。これは夢か妄想で、だから王子は来ない。このまま一人の時間を過ごして、この景色が消えたとき、自分は見慣れた天蓋を目にして夢だったと気付くのではないかと。
 
「遅くなった!」
 
 バンッと勢いよく開いた音と焦りを含んだような大声に振り向くと息を切らせたヴィンセルがそこに立っていた。
 
「すまない! 会議がなかなか終わらなくて長い時間待たせてしまった。こちらから招いておきながら客人を待たせるなどあってはならないことなのに本当に申し訳ない!」
 
 馬車を降りてから全力で走ってきたのだろうヴィンセルが肩を上下させながら何度も謝る表情があまりにも言葉通り申し訳ないを表現していてアリスは思わず笑ってしまった。
 
「ご公務お疲れさまでした」
「あ、ああ…」
 
 驚いた顔をするヴィンセルに首を傾げるとヴィンセルは首を振って大きく息を吐き出し呼吸を整える。
 
「本当に遅くなってしまった。すぐに食事を持ってくるよう伝えたから、すぐに食事にできる」
「お着替えをなさらなくてよろしいのですか?」
「これだけ外す。着替えるより正装でいられる」
 
 肩につけていたマントを外してソファーにかける行動は上着をソファーにかける兄や父と変わらず、男性は皆こうなのだろうかと新しい発見は面白かった。
 
「ふふっ、どんな格好でも王子がされるのなら正装ですよ」
「寝間着でもか?」
「あ……それはー……」
「冗談だ。だが、そう言ってもらえるのは素直に嬉しい。では、少し移動しようか」
「ここではないのですか?」
「ここは貴賓室だから食事をする場所ではないんだ」
 
 優しく笑うヴィンセルが差し出す腕に手を添えると一緒に部屋を出て廊下を歩く。
 公務の姿は学生服とは違って堅苦しいほどキチッとしており、誰でも見られる姿ではない。この姿を間近で見たいと思っている令嬢は学園中に溢れていて、きっとこうしてディナーに誘われて王子のレアな姿まで見たと知られればまた囲まれるかもしれないが、強くあると決めた以上はもうそれに怯えないと心構えはできていた。
 
「ベンフィールド家はいつも何時に昼食を?」

 食事部屋というにはシンプルで、今日のために用意された部屋であるかのように部屋の真ん中にテーブルと椅子が二つあるだけ。
 王子に椅子を引いてもらう経験などもう二度とないかもしれない。そう思うと緊張する。
 ゆっくりと腰掛け、席に着くと同時にドアが開いて食事が運ばれてくる。

「一時頃でしょうか」
「一時間も遅くなってしまった。申し訳ない。空腹だろう」

 これから一時間半から二時間ほどかけて食事をする。これがディナーであればその二倍の時間をかける。

「いえ、美味しい紅茶とお茶菓子をいただきましたので。あの焼き菓子、きっとセシル様ならお腹いっぱい食べられるのでしょうね」
「セシルはああ見えて大食いだからな」
 
 最近は甘い物を見たり食べたりするとセシルが喜ぶかもしれないと弟感覚で思い出してしまう。過保護すぎる兄がいるアリスにとって世話を焼く弟のような存在は嬉しかった。
 そんなことを言えばセシルが怒るため絶対に言わないが。
 
「セシル様だけ二年生ですが、どういう経緯で仲良くなられたのですか?」
「セシルの父と国王は学生時代からの友人で、子供の頃から一緒だったんだ。幼馴染というやつだろうか」
「それで仲がよろしいのですね。アルフレッド様もそうですか?」
「アルフレッドは社交界で向こうから話しかけてきたんだ。子供の頃からあんな調子だ」
「ふふっ、想像できます」
 
 アルフレッドは子供の頃から自信満々で今と何ら変わらない口調でヴィンセルに話しかけに行く姿が想像できた。バラの花を一輪持っているか胸に挿しているかだろうと想像すると失礼だとわかっていながらもおかしくて笑ってしまう。
 セシルも今と変わらない想像ができ、アリスの中ではそれほどお喋りではなく丸い頭の奥手な少年というイメージがあった。
 
「子供の頃、セシルに会ったことは?」
「ないと思います。私はあまりパーティーに出席しなかったものですから」
「カイルの命令か?」
「いいえ。誰かに話しかけてもらっても上手く話せなくて。それが申し訳なくて行かなくなったんです」
「カイルはあれだけ口達者なのにな」
「そうなんです」
「少し黙ることを覚えて欲しいくらいだ」
 
 兄と比べられることはしょっちゅうで、見た目も性格も全て正反対な兄妹を貴族たちはよく話のネタにした。笑いの種と言ったほうが正しいのかもしれない。それを聞きたくなくてパーティーに参加しないようになったのも一つの理由。子供ながらに恥を覚えたのを今でもよく覚えている。
 カイル・ベンフィールドが兄であることはアリスの誇りで、子供の頃からそれは変わっていない。だが、それは時としてコンプレックスに変わり、アリスの自信を引っ込ませる原因ともなった。
 兄が悪いわけじゃない。兄はいつだって努力を忘れなかった。特別恵まれたものは容姿だけで他は全て自分の努力で手に入れたもの。それを努力一つしない自分が羨んでいいはずがないとわかっているのにいつも『なぜ自分は』と思ってしまう。そんな自分が嫌いだった。
 
「兄は素晴らしい人間なんです。真面目で努力家で人を惹きつける才能もあって皆から尊敬されてる。私は兄が大好きですし、誇りに思っています。私ももっと頑張らないとと最近ようやく思い始めました。遅いぐらいですよね」

 本当に遅い。影に隠れることで注目も浴びず平凡に生きてきた自分を変えようと思ったのが十七歳になってからというのは遅すぎると昨夜は頭を抱えた。
 今年はデビュタントがある。行けるかどうかもわからないが、デビュタントデビュー時には王宮での初拝謁がある。母親か既婚の親族女性によって王族への紹介を受け、そうして初めて正式なデビュタントデビューと認められる。
 それまでに多くの難問をクリアしなければならないとカイルから脅された。
 それでも口下手だから行かない、難問が多いなら行かないというのは逃げでしかないと思い、一応は兄に掛け合ってみるつもりだった。

「あの素晴らしい兄が言うには君も素晴らしい人間だとか」
「私は兄に褒められるような人間ではないんです。自分の足で踏み出したこともない人間が素晴らしい人間であるはずがないので」
 
 ヴィンセルから見てカイルは褒めても『当たり前だ』の一言で終わらせるため褒め甲斐のない人間。
 だが、人が褒めるような箇所を『当たり前』と言いきってしまえるだけの努力してきたのだろうとも思っていた。
 いつも文句一つ言わずに仕事をこなし、学校行事が続いてどれほど多忙を極めても疲れた顔一つ見せないのは王子として見習うべきだといつも背筋を正される。
 妹はそれとは正反対に自分に自信がない。“完璧な兄”の存在がアリスの自信という芽を圧し潰してきたのだとヴィンセルは少し共感できるものがあった。
 
「俺も同じだと言うと君はきっと否定するだろうが、俺も誰かに褒められるような人間じゃないんだ」
 
 否定したげなアリスの表情に苦笑を滲ませながらナイフとフォークを置いて首を振る。
 
「この地位も富も全て俺が努力で掴んだものじゃない。生まれながらに与えられたものだ。王子という称号は王の息子であれば誰でもそうで、自分で掴み取った名誉あるものでないし誇れない」
「ですが、王子は学生でありながら公務をこなし、騎士としての活動もされて、誰よりも多忙な日々を送られています。それは誰にでもできることではないと思います」
「君がもし王女ならどうする? 公務が入っていても学生生活があるからと無視するか?」
「まさか! ……無視できませんね」
 
 仕事はやらなければならない。それは王子に与えられた〝義務〟であり〝責任〟でもある。学生生活があるから他の公務はしないというのは通用しない世界にヴィンセルはいる。
 だが、だからこそアリスは彼をすごいと思った。
 しかしそれはアリスにとってであってヴィンセルは違う。
 
「君は陛下をどう思う?」
「私は直接お会いしたことがありませんので分かりませんが、父が言うにはとても慈悲深く素晴らしいお方だと。平民だけではなく貴族のこともちゃんと考えてくださると言っていました」
「そうだな」
 
 アレクシス・ブラックバーン国王は支持率の高い王で、国王の悪口を言う者は誰もいないと誰もがそう口にする。
 貴族にとっても市民にとってもイイ国であるよう常にそのことを軸に動いてくれている。
 
「息子から見ても陛下は完璧な人間だ。子供の頃から一度も疲れた顔を家族に見せたことがない。難しい顔も見せず、多忙な日々を送りながらも家族との時間も取る。オンとオフのスイッチがちゃんと切り替えられる素晴らしい方だ。真似ようと思っても俺はまだそのスタートラインにさえ立てていないなとよく思う」
 
 完璧な人間が身内にいれば比べられるのは当然だが、誰も好き好んで比べられるような人間になっているわけではない。比べられれば比べられるほど焦りが生じ、上手くいかないこともある。
 
「皆は俺をすごい人間だと言ってくれる。学生生活を過ごしながら公務と騎士の活動を股にかけるできた人間だと。だが実際は仕事だからしているだけなんだ。王子だからそうしなければならない。騎士団は自分が望んで入団したのだが、王子は自分が望んで手に入れたものではない。陛下のように国民のことも家族のことも平等に愛することなどできるのかと考えることが増え、その度に自分を恥じている」
「王子はまだ十八歳です。陛下のようにはいきません」
「陛下は十七で王になった」
 
 若き善王と呼ばれたアレクシス・ブラックバーンは十七歳にして国の頂点に立ち、批判されることなく今まで立派に務めを果たしてきた。
 貴族や民たちから『前王は素晴らしかった』などと言わせることはなく、誰からも愛される素晴らしき国王なのだ。
 
「もしこのまま王になれば俺はきっと皆の期待を裏切ることになる」
「そんなことはありません」
「国民のためを思うことができない人間がどうして王になれる? 王は完璧でなければならない。皆の期待を越えて皆を率いていかなければならない。……会議一つ上手くまとめられない俺に王が務まるわけがない」
 
 アリスは今までヴィンセル・ブラックバーンは完璧な男だと思っていた。優しく、責任感があり、仕事ができて顔が良くてスタイルが良い──内外共に完璧だと。
 だが実際はそうじゃない。
 コンプレックスなどないだろうと思っていたのは勝手な決めつけであって、実際はこんなにもコンプレックスと恐怖を抱えていた。
 自分の意思とは関係なく継がされる王という巨大な称号。それは王子とは比べ物にならないプレッシャーがあり、玉座という誰もが憧れる椅子は己を王として縛り付ける物に感じている。
 王冠をかぶり、玉座に腰掛けるともう逃げられない。
 いつ来るかわからないその日を心待ちにするのではなく、恐怖として待ち構える王子の気持ちを汲んでやる人間はこの世界に何人いるのか。
 初めて聞く王子の心の奥の感情にアリスは胸に小さな痛みを感じた。
 
「月並みでしかないのですが……そのお気持ちがあるのなら、王子はきっと良き王になられるのではないかと私は思います」
 
 アリスの言葉に皿から顔へと視線を上げたヴィンセルの目に小さく微笑むアリスが映った。
 
「兄が生徒会長に就任したとき、一度質問したことがあるんです。どうしてヴィンセル王子ではなくお兄様が生徒会長をなさるのですか、と」
 
 それは生徒だけではなく教師陣も言っていた言葉だった。
 ヴィンセル自身も自分がやるものだと覚悟していたためカイルが立候補したときは驚いた。
 
「すると兄はこう言ったんです。ヴィンセルは公務がある。そこに生徒会長の職までやらせるのは無責任だと」
「無責任?」
「王子という職は逃げようと思っても逃げられない。でも生徒会長という職は学校の中だけであり、やるもやらぬも自由。生徒会長になって今更内申点を上げずとも既に満点がついているはずだ。しなければならないことに奮闘しているその上に王子がするべきと決まっていないことを王子だからとわけのわからない理由をつけて任命する必要などないだろうって。聖フォンス学園は行事が多く、生徒会長になれば多忙を極める。もし生徒会長に任命してアイツが倒れたら誰が責任を取る? 誰も取れないだろう。アイツ自身、王子だという理由で引き受けようとしてるバカなんだから自業自得か管理不足と言って終わるさ。周りは期待をかけるだけかけて救いもしない。そんな無責任に関わりたくはないからな。忙しいを理由に仕事が間に合わないとバカみたいに焦る姿も見たくない。だから俺がやるんだ、と」
 
 仕事を家に持ち帰ってまでこなす兄は書類から目を離さず淡々と語っていたが、そのときの笑みが優しかったのをアリスは覚えている。
 
「……アイツ、俺には『俺の輝かしい功績を奪うつもりか? 王子の称号だけじゃ物足りないほど強欲なのか? 俺は生徒会長になって内申点を上げるんだ。邪魔をするな』と詰め寄ってきたのに」
 
 初めて聞くカイルの真意にヴィンセルは涙が出そうなほど嬉しかった。
 どこに行くにも何をするにも付きまとう“王子”という称号。それは楽なときもあれば苦労するときもあり、良くも悪くも『王子だから』と言われる。
 それが重たくて苦しくて、いつも逃げ出したい思いでいっぱいだった。
 だが逃げ出せない。自分が逃げ出せば『アレクシス・ブラックバーンの息子は無責任だ』と親の顔に泥を塗ることになる。
 どんなに息が苦しくとも、どんなに吐き気がしようとも自分は“王子”だから我慢しなければならない、受け入れなければならないと自分に言い聞かせ、その場で叫び出したい感情を何度も押し殺して生きてきた。
 誰もそんな自分に気付いてはくれず、当たり前のように全てを押し付けてきたのにカイルは違った。
 
「アイツは可哀相じゃない。苦労屋なんだ。だから傍にいる奴が少しだけ、ほんの一部だけでも持ってやればいい。俺の両手が開いていればアイツが抱えている物二つは持ってやれるから、そこにできた隙間を余裕と呼べばいいんだと。兄はいつもほんの少しできた時間を余裕と言ってるんです」
「そういえば……」
 
 ヴィンセルはいつだったかカイルに『お前、自分が可哀相だと思ってるのか?』と聞かれたことがある。至極真面目な顔をして聞くものだから『思っているわけないだろう』と答えたが、アリスが言うような続きはなかった。カイルに『余裕を持て』と言われた時、ヴィンセルはなぜだかカッときてある行動に出たことがあった。
 
「砂時計をカイルの前に置いたことがある。お前ならこの三分で何が出来る? 人に余裕を持てと言うぐらい余裕があるなら俺を驚かせるぐらいのことはできるんだろうなと言ったんだ」
 
 アリスは聞き返さなかった。兄が何をしたのか大体の想像はついていたから。
 
「そしたらカイルは何もしなかった。砂時計の砂が落ちるのを三分間ただジッと見つめているだけだった」
 
 予想通りの行動にアリスは笑顔になる。
 アリスは過去にそのカイルを見たことがあった。
 
「ペンを置いて砂時計を見つめることが余裕だとカイルは言った。そして──」
「休憩すら満足に取れない奴に頂点は取れない、ですか?」
「そう、まさにその通りだ」
「兄はいつもそう言うんです。父の口癖ですから」
 
 親子で同じことを言っているのが嫌だと母は言うが、いつも笑っていた。アリスも同じ状況で同じことを言う二人が面白くて好きだった。
 人は忙しすぎると次のことを考え続けるため、休むことを忘れ、休むことに罪悪感を抱く。休憩している間に何かできるだろう。何文字か書ける、何枚か終わる、休憩時間が無駄だという考えばかりが頭を占めて休憩もせず無駄に疲れていく。疲れは思考は鈍らせ、手の動きは遅くなり、結果、作業全体が遅れてしまう。ほんの少し手を止めて休憩を挟む。それだけで効率は変わってくるのに余裕がなければそれもできない。その考えにすら至らないのだと父はカイルにそう言っていた。
 
「カイルに怒った俺の頭の中には休憩なんて言葉はなかった。急がなければ、やらなければとそればかりだった。……そう考えると俺よりカイルの方がよっぽど王子に向いてるような気がするな」
「兄が国王になれば、独裁国家になることは間違いないでしょうね」
「独裁……」
 
 カイルの独裁国家は想像に難くない。今の生徒会がそうなのだから。
 あの厳しい顔つきで『俺が白と言えばカラスも白だ!』と言っているのを想像するとおかしくて二人は肩を揺らしながら笑い合った。
 
「はっくしゅん!」
「あらやだ風邪?」
「誰かが俺の噂をしている」
「考えすぎよ。そんな人気者じゃないでしょ」
 
 食事中にくしゃみをした息子の言葉を否定する母親に眉を寄せながらもヴィンセルがしているんだと妹と二人で食事をしている光景を想像し、眉を寄せて珈琲を一気に飲み干した。
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