愛だ恋だと変化を望まない公爵令嬢がその手を取るまで

永江寧々

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幼馴染の帰国

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「アリス」
「セシル、どうしました?」
「アリスの顔が見たくなっちゃって」

 教室まで訪ねてきたセシルからの兄以外には言われ慣れていない言葉に照れたような困ったような顔をするアリス。
 廊下から手招きをするセシルに不思議そうに首を傾げながら寄っていくと手を握られた。

「手首の調子はどう?」

 数日前まで包帯が取れた手首を撫でるセシルの優しい声にアリスが微笑む。

「おかげさまで、完治しました。兄やヴィンセル様が大袈裟すぎたんです」
「まだムリはしないほうがいいよ」
「セシルまで過保護になるつもりですか?」
「そうだよ。だってアリスのことだもん」

 捻ったといえど何もできないほど酷い捻り方はしていない。医者の言うとおり、一ヶ月で完治し、もう平気だと手首を揺らして傷みがないことを証明してみせるもセシルは首を振る。

「信用していないのですか?」
「アリスは嘘つきだからなぁ」
「じゃあセシルを家に招待するって嘘をついてもいいですか?」
「それは本当にしてくれなきゃやだ」
「ふふふっ」

 アリスには笑っていてほしい。だからどんな小さなことにでも笑ってくれるのは嬉しい。そうするとセシルも笑顔になるから。

「僕って頼りない?」
「いいえ、頼りになりますよ」
「ホント? 弟っぽいとか思ってない?」
「思って……」
「るでしょ」

 弟がいればこんな感じだろうかと思うことがほとんどだったアリスにとってセシルの言葉は意外なもので、男性として見ていたほうがよかったのだろうかと思うような質問。

「僕だって男なんだよ。アリスより背も高いし、力だってある。銃だって──」
「セシル」

 見る限りでは誰もいない。しかし誰がどこで聞いているかはわからない。
 今はティーナがいない平穏な日常が送れていても、いつ壊れてしまうかわからない。それこそある日、一瞬で崩壊するかもしれない。
 彼が口にした〝銃〟というワードは新たな不穏を招きかねないと首を振った。
 国が法律で禁じている物をセシルは日常的に所持している。それがバレれば停学どころでは済まない。重罪として罰せられる。

「ごめん」

 銃を所持していることが男らしさの証明にはならないとわかっているセシルは不用意な発言をするところだったと謝った。

「どうすればアリスにかっこいい男として見てもらえるの?」
「かっこいい男?」
「ヴィンセルみたいな男が好きなんでしょ?」

 ヴィンセルの名前にアリスがほんの少しだが肩を揺らして反応する。しかし、顔を赤くすることはなかった。
 確かにヴィンセル・ブラックバーンは【かっこいい男】として認識されている。セシルは【可愛い男】だろう。
 弟のように思っていたアリスにとってセシルがヴィンセルのようになるのは想像がつかず、むりやり浮かべた想像に笑ってしまう。

「本気で言ったつもりなんだけどね」

 不満げな声にアリスは表情を戻そうと思うのに笑いが止まらない。

「ンンッ! ごめんなさい」

 なんとか笑いを堪えて咳払いをしたアリスはゆっくり深呼吸して謝罪する。

「ヴィンセルには頬染めるのに僕に頬染めたのは僕が囁いたときだけだったし。覚えてる? 僕が囁いたこと」
「ッ! セ、セシル!」

 耳元で不意に囁かれた日のことを思い出すアリスの耳を指で挟むようにしてくすぐるとアリスが慌てて耳を押さえる。
 セシルは美少年の称号に相応しい整った顔の持ち主だが、不思議とそれだけではなく、時々驚くほどの妖艶さを見せる。 

「僕はアリスをお姉さんみたいって思ったことはないよ」
「姉のように思ってもらえればよかったのですが、まだ頼りないですよね」
「そうじゃない。アリスは美味しいクッキーが作れるしパンも焼ける。変に気取ったりしないし、貴族って感じがしない……っていうのは別に悪い意味じゃないよ、むしろ良い意味。一緒にいて心が安らぐしね。だから姉じゃなくて好きな──」
「アリス」

 セシルの声を遮って名を呼ぶ声に二人は振り向いた。
 アリスにとっては聞き覚えがあり、セシルにとっては聞き覚えのない声。

「……リオ、ちゃん?」
「よお」

 片手を上げて挨拶をする背の高い男。吊り目のせいか意地悪そうに感じる目元、薄い唇がどこか嘲笑めいているように片方だけ上がっている。
 しっかりとネクタイを締めず、シャツはズボンから出ている。貴族が通うこの学園の生徒としては相応しくない着方だが、ブレザーの胸にある紋章の刺繍はこの男がこの学校の生徒である証。
 だが、セシルはこの男に見覚えがない。アリスの知り合いであれば一度は見ているはず。教室に迎えに行ったときもいなかったし、上級生ならカイルから何か聞いているはず。
 アリスを呼び捨てにする男がいたらカイルから粛清を受けているはずだ。
 誰かわからないもどかしさに眉を寄せるセシルに気付いたリオと呼ばれた男が目の前まで歩いてきて背を曲げ、セシルの目線に合わせる。

「可愛い顔してんなぁ、ボク」
「ッ!」

 カッとなるのがわかった。弟ではないと話したばかりのときに子供扱いするような言われ方はセシルの神経を逆撫でする。
 通り過ぎていく令嬢たちが頬を染めて『誰?』と囁いているのはこの男の顔が良いからで、セシルとは正反対の、それこそさっき話していた【かっこいい】と言われる顔立ち。
 
(気に入らない)

 言い返しはしないが、セシルはその感情を思いきり表情に出した。

「リオちゃん、まずは挨拶でしょ」
「アリス、お前の恋人か?」
「いいえ」
「だよな。お前の超過保護なイカれたお兄様が死ぬまで恋人なんか作れるわけねぇもんな」
「リオちゃんがそう言ってたってお兄様に言いつけようか?」
「チクったら殴るからな」
「それも言いつける」

 強気に喋るアリスにセシルは驚いた。親しい相手柄の人間がいることもそうだが、兄にさえ敬語を使うアリスが唯一敬語を使わないこの男は誰で、どういう関係なんだと眉を寄せ続けるセシルはゆっくりアリスの手を引いて自分の腕の中へ抱き寄せた。

「セ、セシル?」
「こんな奴の傍にいたら危ないよ。何されるかわからない」

 セシルの言った『こんな奴の』という言い方にアリスは数回瞬きをしてから吹き出して笑う。

「こんな奴の……ふふふふふふっ、確かにそうですね」
「おい」

 おかしそうに笑うアリスを見てセシルは少し気分が晴れた。
 微笑むことはあってもこうして声を出して笑うことは少ないアリスが自分の言葉で笑ってくれた。それだけなのにセシルは胸がくすぐったくなって、ふわりと温かくもなる。
 薄々自覚はあったが、この瞬間、セシルは確かにハッキリと自分の気持ちを自覚した。

「いつ帰国したの? まだ一年残ってるでしょ?」
「色々あんだよ」
「向こうで喧嘩したの?」
「俺の印象そんなクズかよ」
「そうね。お兄様は知ってるの?」
「許可はもらってた。帰国もこの学園に通うのも、問題起こさないって条件付きでな」
「カイルも知り合いなの?」

 カイルと知り合いでアリスに馴れ馴れしい口を利く男がいればカイルは黙っていないはず。それなのにカイルの口からは一度だって“リオ”という男の名前を聞いたことがない。

「リオちゃんは幼馴染なんです」
「キースじゃないの?」
「あんな軟弱な野郎と一緒にすんな。つーかコイツ、キースに似てね?」
「リオちゃん! 怒るよ!」

 アリスが怒るとそれ以上続けることはしない。
 カイルを『イカれた』と呼ぶということは性格は熟知しているということ。
 逆らって色々報告されるわけにはいかない。

「お前こんなチビがタイプだっけ?」
「ねえ、本当にお兄様に言いつけるよ? 暴言禁止も条件につけてもらおうか?」
「それしか知らねぇのかよ、ブラコン」
「忙しいお兄様を呼び出すのは心苦しいけど、リオちゃんが言うこと聞かないから。お兄様に連絡するね」
「待て待て待て待て待てッ!」

 ポケットから通信機を取り出したアリスの腕を慌てて掴んだリオは笑顔を見せる。目つきの悪い顔が嘘のように笑顔はどこか少年のようで、それもセシルは気に入らないと思った。
 
「俺とお前の仲じゃん。こんな軽口普通だっただろ?」
「エレメンタリースクールの頃の話じゃない」
「お前とこうして会えたから気持ちがその頃に戻っただけだって。お前だって久しぶりに俺に会えて嬉しいだろ?」

 もう一歩下がって片腕だったのを両腕に変えてアリスを抱き締めるセシルを今度はリオが気に入らないといった顔で見る。

「で、こいつは?」
「セシル・アッシュバートン様よ」
「アッシュバートン家の息子? ……ああ、確か五歳の頃にパーティー会場で……」
「やめろッ!!!!!」

 セシルの怒鳴り声にアリスは目を見開いた。セシルは感情的になるタイプではなく、ここまで大きな怒鳴り声は聞いたことがない。
 振り向いて見る顔は声と同じで見たことがないほど怒りに満ちていて、強い目でリオを睨み付けている。

「へえ、ありゃ事実か。そりゃ面白れぇ」
「黙れッ!!!!! それ以上言ったら許さないッ!!!!」
「許さないってどうするつもりだ? え? その可愛いお顔で睨みつけたところで怖くもね──」
「セシルが黙れと言ったのが聞こえなかったのか?」

 穏やかで柔らかな声だが、恐ろしい悪魔の声でも聞いたかのようにリオの肩が大袈裟なほど跳ねた。
 身体を震わせながらゆっくりと向けた先に見えた人物に「げっ」と声を漏らすリオは慌ててアリスの教室に入ってドアから少し顔を出す。

「リオ、学長への挨拶は終わったのか?」
「さ、さっき終わらせた」
「そうか。でもおかしいな。生徒会長である俺への挨拶がまだのようだが」
「い、今! 今だよ! 向かってたんだけど、途中でアリスがいたから声かけた! そしたら会話が弾んで──」
「で、セシルにまで絡んでたわけか?」
「そ、それは……」

 目で訴えるリオからのヘルプをアリスは無視する。
 セシルの過去に何があったのか、リオがそれについて何を知っているのか、アリスは知らない。なんらかの過去があることは銃の一件でわかっている。
 アリスが聞かないことを友達でもないリオが勝手にバラそうとしたのが悪いと首を振った。

「ならこのまま一緒に来い。ここのルールを教えてやる」
「アアアアアリスッ、一緒に行こう!」
「予定があるの」
「アリスッ! 帰りに好きな物なんでも買ってやるから! あ、お前が欲しがってた蝶のブローチ買ってやる!」
「リオちゃんのお金じゃないでしょ。それに蝶のブローチは欲しかった物じゃなくて返してほしかった物。リオちゃんが勝手に持っていったんじゃない」
「返すから! 返すから一緒に来て! カイルと二人になるのだけは絶対に嫌だ! 殺されるッ!」

 あまりに必死なリオに一人で行けと言うのは可哀相な気もするが、黙り込んで俯くセシルを一人にはできなかった。

「リオ、三秒待ってやる。三、二──」
「来た!」

 一瞬でカイルの前に移動して止まったリオに満足げに笑い、そのまま背を向けて歩いていく。
 振り向いたリオが声を出さずに口だけを動かして何か訴えていたがアリスには何一つ伝わっていなかった。
 笑顔で手を振るアリスに拳を構えるもカイルが振り向くと同時に秒でポケットにしまって後をついていった。

「セシル、大丈夫ですか?」
「……うん。大丈夫だよ」

 笑顔がどこか痛々しく、アリスは眉を下げながらも何も聞かなかった。
 こういう時、アリスはどういう言葉をかけていいのかわからない。許さないとまで言った知られたくない過去をアリスが無理に聞きだすわけにもいかず、そっとセシルから身体を離して頬に手を添える。
 小さな手が頬に触れるとその手のひらにセシルが口付ける。

「……仲、良いんだね」
「え?」
「リオって奴と」
「幼馴染ですから。でも、仲が良いかと言われると……んー……わかりません」

 リオと過ごしていた日々を思い出しても良い思い出というのはほとんどなく、仲良くしていた記憶も少ない。
 リオはベンフィールド家に関わるのをやめたほうがいいと思うようなことばかりが思い出として残っているのに、転入初日にアリスに声をかけ、見知らぬ相手にも絡んでいった。
 問題を起こすことが趣味といっても過言ではないような性格をしているリオがなぜこの学園に転入することになったのか、リオの存在がティーナに次ぐアリスの頭痛の種となった。

「ね、敬語やめてほしい」
「え、で、ですが……」
「それに僕に砕けた喋り方して失礼なんてないでしょ? 僕は伯爵家で君は公爵家なんだから」
「それは……そう、ですが……」

 ずっと敬語をやめてほしいと思っていたセシルにとってこれは良い機会だと確信する。
 リオが幼馴染であろうと今誰よりも一緒にいる時間が長いのは自分だと自負しているセシルは誰よりもアリスと仲良くなりたかった。

「アリスは弟がいたとしても敬語で喋るの?」
「どう、でしょう? んー……使わないかもしれないですね」
「じゃあ僕にもそうしてよ。弟みたいに思ってるんでしょ?」
「それは、そうですけど」

 セシルは自分でもズルいとわかっていた。弟のようにではなく、一人の男として意識してほしいと思っているのにアリスの意識を利用して自分の望みを叶えようとしているのだ。
 アリスは公爵令嬢にしては大人しく、流されるタイプ。だから抵抗があるとしてもお願いを続ければ受け入れると確信していた。

「ダメかな? 敬語じゃなんだか他人行儀だよ。」

 少し顔を下げて上目遣いで見てくるセシルにアリスは首を横には触れず、苦笑しながらも頷いた。

「んー……わかり……わかった。敬語やめる」

 その一言でセシルは笑顔になる。そして同時にアリスも嬉しかった。
 たとえその笑顔が無理をしているものだとしても、セシルの望みを一つ叶えられた。
 アリスにとってセシルは放っておけない相手となっている。

「あのリオって子、ネクタイのカラーが青だから二年か」
「どのクラスに入るんだろう」
「僕のクラスは絶対に嫌だ。あーでもアリスと一緒はもっと嫌だ。カイルが決めてくれたらいいのに。そしたら絶対にアリスと同じクラスはないもん」
「そこまでの権力はさすがにないと思うけど……」
「あるといいけど」

 今日の様子を見れば学長に進言していてもおかしくはない。問題行動ばかり起こしてきたリオだが、これからはカイルの監視下にいるのだから問題は起こさないと信じたいものの、安心はできない。
 リオはこれまで何度もカイルに怒られ、それだけでは済まされない状態になったこともあった。
 セシルに絡まないように言っておかなければと穏やかな生活が崩れそうな予感にアリスはセシルと一緒にため息をついた。
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