愛だ恋だと変化を望まない公爵令嬢がその手を取るまで

永江寧々

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サイコパスな男

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「転校生の名はリオ・アンダーソン。アンダーソン子爵の一人息子でな。それはそれは大層甘やかされて育った馬鹿息子だ。礼儀は知らん、頭は悪い、すぐ手が出る。イケメンだと言われているらしいが、俺から言わせればあんなものはイケメンでもなんでもない」
「カイルが言うと嫌味だよね」

 人を紹介するにあたってボロカスに言うのはカイルぐらいだろうとアルフレッドは思った。

「子供の頃、愚かにもアリスに片想いしていたらしく、それはそれはクソくだらんちょっかいをかけてきたんだ」
「クソ……」

 カイルはあまり口汚く誰かを罵ったりしない。彼には乱暴な言葉など必要ない。カイル・ベンフィールドという名と努力で培ってきた実力だけで他者を圧倒し、討論すれば秒で相手を論破する。
 どこで情報を掴んでくるのか、この国の貴族の裏情報はほとんど頭に入っているらしく、大人たちが集まるサロンでさえカイルに逆らおうとする者は一人もいない。
 カイル・ベンフィールドという人間は悪魔より恐ろしいともっぱらの評判だった。
 そんな男が「クソ」という言葉を使ったということはよほど腹立たしいことが過去にあったのだと推測する。それも自分のことではなくアリスのことで。

「まあ、身の程知らずのバカだったもんで、事あるごとにアリスにちょっかいをかけてきた。それも犯罪級の」
「犯罪級ってもしかして……」

 乱暴でもしたのだろうかとの心配するのはリオ性格ならありえるような気がしたからで、セシルはアリスを見てからカイルを見た。

「五歳の頃、パーティーで会った時だったか……あいつはアリスのドレスをめくったんだ」
「……それが犯罪級?」
「アリス・ベンフィールドのドレスをめくったんだぞ?」
「あ、ああ、そうだね、重罪だ」

 躾のなっていない子供なら貴族といえどスカートめくりぐらいする。当然それは許される行為ではないが、それを〝犯罪〟と呼ぶ者は少ないだろう。
 カイルは違う。カイルはアリスのことになるとアリスが肩を押されただけで〝犯罪〟にしてしまうはず。

「だから俺は二度とそんなことをしないように指を折ってやった」

 驚きのあまり、ではなく、想像通りの言葉に誰も驚いた顔は見せなかった。過保護なまでに妹を守り続けるカイルならそれぐらいのことはするだろうと皆予想がついているのだ。
 きっとこれはまだ手慣らしにすぎないだろうとも。

「十歳の時、リオはアリスの鞄を放り投げて地面に落とし、それだけでは飽き足らず蹴飛ばしたんだ。誕生日に両親が贈ってくれた大事な鞄だったのに、それをアイツは『お前に新品なんて必要ないだろ』と言ってな」
「鞄、ズタズタにしたの?」
「まさか」

 アルフレッドが安堵したのも束の間──

「二度とそんなことしないよう言いつけて足を折った」

 鞄を蹴っただけで足の骨を折られるとはリオも思っていなかっただろうとメンバーの中に同情心が生まれつつあった。
 ただ鞄を投げて蹴っただけだ。鞄が傷ついたのなら弁償させればいいだけなのに蹴った足を折る、それこそ犯罪だと思うも誰もツッコミはしない。

「で、最後なんだが……」

 三つ目で最後というのは意外だが、全員の視線はカイルではなくアリスに向き、それを受けたアリスが苦笑する。

「蕾が開花しようとする愛らしい十二歳の時だ。奴はアリスを階段から突き落としたんだ。信じられるか? 卒業式にだぞ? 人生で一番のオシャレをして、この世で誰よりも光り輝いていた俺の愛らしい蕾を奴はその薄汚い手で触っただけじゃなく、無惨にも茎を折って摘んだんだ」
「例えが何言ってるかわからないけど、それって大丈夫だったの?」
「落ちたときに頭を打って血は出ましたが、命に関わるほどではなかったので」
「何を言ってるんだ! あれは死刑ものの重罪だぞ! 俺は落ちていくアリスを見て心臓が止まるかと思ったし、血を流すアリスを見て汗が噴き出した」

 カイルの言い方は大袈裟であれど、五年経った今でもあの瞬間の光景は鮮明に覚えている。突き飛ばされたときの不思議な感覚、リオの真っ赤な顔が真っ青に変わった瞬間、カイルの怒声、生徒の悲鳴、教師や親の必死な声──大騒ぎになった。

「殺してないよね?」
「転入してきただろ」
「そうだけど」

 ヴィンセルのツッコミにアルフレッドは納得するが、妹に近付くだけで許さないのに突き飛ばしたとなれば殺してしまってもおかしくないと思っているため、あのリオ・アンダーソンは実は幽霊で、成仏しきれていないだけじゃないのかとバカげたことまで考えていた。

「同じ目に遭わせてやっただけだ」
「指折って足折って突き飛ばすのフルコース?」
「まさか。それはやりすぎだ」
「じゃあ……」

 アリスが苦笑していることから〝同じ目〟でないと予想はついており、皆ごくりと喉を鳴らしてカイルの言葉を待った。

「階段の途中で立ち尽くしてたアイツを上まで引っ張っていっただけだ」
「お兄様、嘘はいけません」
「そうだな。階段の一番上から蹴り飛ばして地面に叩きつけられたリオに馬乗りになって半殺しにしただけだ」

 笑顔で言いきった〝だけ〟の言葉に皆が固まる。

「一番上まで何段?」
「二十五段とかだろ」
「私が落ちたのは七段とかだったんです。それなのにお兄様は一番上から……」

 リオがアリスを突き飛ばしたのは七段。たとえ薄い階段であろうと二十五段から突き飛ばせば命に関わるだろう。たった十二歳の子供になぜそこまでできるんだと皆は改めてカイル・ベンフィールドのイかれ具合にゾッとした。

「これを言えば大体の人間が反論するが、俺は痛みは教育に必要だと思っている。正しくは恐怖。恐怖は抑止力だ。恐怖の種を植え付ければそれが良い花を咲かせて強大な抑止力を生み出す。まだ十三歳だったから種は一つしか植えられなかったが、リオは従順な犬になったさ」

 笑顔で言い放つカイルにヴィンセルは動悸が止まらなかった。今回、拳一発で済んだのが奇跡だと思った。
 ヴィンセルはリオほどアリスにひどいことはしていないが、カイルからすればどちらもアリスを傷つけた男であることに変わりはない。
 二度とアリスの前に現れるなと言われはしたが、今回こうしてカイルから誘ってくれたことでアリスと言葉は交わせずとも顔を合わせることはできた。それには感謝している。
 だが、同時にリオとの過去を話すことは自分への警告なのかもしれないとヴィンセルは嫌な汗が滲むのを感じていた。

「次、アリスに傷をつけたら俺は何をするかわからない」
「だろう、ね」
「だから皆も気を付けてくれ。アリスを傷つけたら俺はお前達と縁を切らなければならなくなる。それだけは避けたい。今まで仲良くやってきたんだからこのまま卒業したい」

 ヴィンセルだけではなくセシルへの警告でもあるのだろう。アルフレッドは自分に媚びる女にしか興味がないため除外されているが、一番厄介なのはセシルだとチラッと視線が送られた。

「傷つけなかったらいいの?」

 直球すぎる質問にカイルは笑顔のまま数秒答えなかった。

「俺はアリスが幸せになれる相手なら誰でもいいと思っている」
「そこら辺の馬の骨でも?」
「誰でもの中にそこら辺の馬の骨は入っていない。〝俺が認めた奴なら誰でもいい〟という意味だ」
「だろうね」

 横暴すぎるカイルが認める人間などいるはずがない。アリスが誰かに恋をしていると知ればその男を徹底的に調べあげ、それがどういう人間であろうとアリスに近付かないように工作するに決まっている。
 前回の件でヴィンセルは予選落ちしたようなもので、アルフレッドはアリスを対象として見ていない。セシルはそういう対象として見ているが、アリスはセシルをそういう対象に見ていない。そこはカイルがまだセシルを近付けさせないという対策を取らない理由の一つ。
 もしそこにリオが間に入ってきたとしてもアリスがリオを好きになる可能性は限りなく低く、一番優位なのは自分だとセシルは一人頷いた。

「僕はアリスが好きだよ。アリスも僕を好きになるだろうし」
「ほう、すごい自信だな。今のうちに言っておくが、アリスの婚約者は俺を超える男でなければ認めない」
「カイルよりサイコパスな人間いないよ」
「セシル、お前は口を縫ってもらえ。それがいい」
「カイルが縫えば僕も縫うよ」

 笑顔で言い合う二人はよく似ているし、相性も良いのではないかとアリスは思った。

「僕だけは認めてくれてもいいんじゃないの?」
「お前は特別じゃない。だから誰も認められない」
「カイルはアリスちゃんの人生の邪魔するつもりかい?」

 アルフレッドがずっと抱いていた疑問を投げかけるとカイルがおかしそうに声を上げて笑いだす。

「邪魔だと? おいおいおいおいおいおいおいおい、アルフレッド何を言ってるんだ? これはアリスの幸せを守るためにしていることだ。アリスが恋をしているなら話は別だが、アリスはまだ恋をしていない。恋をしたからといってそれを認めるかもまた別の話だけどな。とにかく、アリスの婚約者は俺が決める。これはベンフィールド家の決まりだ」
「害でしかないじゃないか……」

 アリスはなぜこんな兄を放置しているのか、アルフレッドは不思議だった。
 もし誰かに恋をしたとき、カイルは全力でそれを邪魔するだろう。そのとき、アリスは心を鬼にして号泣するカイルを拒絶しなければ女としての幸せは一生掴めない。それをわかっているのだろうかとアリスを見るもアリスはセシルとランチボックスに入れていたクッキーを一緒に食べていて目は合わない。

「アリスちゃんはいいの? カイルが人生の邪魔するんだよ?」
「アルフレッド」
「カイルの気持ちはわかってるから、とりあえずアリスちゃんの話聞こうよ」

 ちょうどクッキーをかじるところだったアリスは慌てて口元についた欠片を払ってアルフレッドに顔を向ける。

「私、正直言うと恋とか愛とかってわかってないんです。恋愛小説はたくさん読んでいても、実際自分がするとなると全く想像がつかなくて。憧れと恋がどう違うのかも自分に説明がつかなくて……」

 思わずヴィンセルを見たアリスはバチッと合った視線を慌てて逸らした。

「それは皆同じだよ。やってみなきゃわからない。誰と付き合うにしても同じルートなんてない。恋は手探りでしていくものだからね」
「手探り……」

 手探りでする恋と言われても想像がつかないアリスがカイルを見ると優しい微笑みが映る。
 恋なんてまだ早いと口にはしないが、思っているだろうというのが伝わってくる。

「恋、してみたくない?」
「んー……」
「想像できないうちはまだなのかもしれないね」

 きっと傷付くのが怖いのだろうとアルフレッドは理解している。誰だって傷付かない恋愛がしたい。最愛の人を見つけ、伴侶となり、一生笑顔でいられたらどんなに幸せだろうかと誰もが思う。だがそれは絶対に不可能で、時には喧嘩もするし傷つけ合うこともある。それを二人で乗り越えられるかどうかが重要なのだが、アリスは気が弱いだけに夫の言うことに従う人形のようになってしまいそうで兄でもないのにアルフレッドも心配になった。

「でもアリスと一番仲が良いのは僕だから。リオなんたらが入る隙なんかないし」
「アイツが整形して人体実験で性格が変わろうとアリスはやらん」
「それもう彼じゃなくなってるよね?」

 勝ち誇ったように笑みを浮かべるセシルはオレンジジュースを飲み干してアリスの手を両手で握る。

「こうやって手を繋いで、一緒に手探りの恋をしようよ」
「セ、セシル!」
「僕じゃ、ダメ?」

 光が当たって透ける髪の美しさもそうだが、瞬きをする度に揺れるまつ毛に目がいく。
 握った手を唇に寄せてアリスの顔を覗き込む上目遣いのセシルの顔は凶器と言っても過言ではないほど整っている。
 心臓が速くなるのを感じながらアリスはカイルの前でこういうことをするのは危険だと手を引こうとするも離してはくれない。

「セシル、今すぐ手を離せ」

 自分の席にあった椅子をカイルは軽く蹴ったはずなのに茂みに突っ込んだ見てセシルは頬を引きつらせる。
 ヴィンセルがアリスを泣かせたことはカイルの中でいつまでも怒りとして燻っており、セシルが友人ではなく男としてアリスの傍にいようとするのならそれなりの対応をすると決めていた。

「お兄様、あまり横暴な態度を取るようなら私にも考えがあります」
「……考え?」
「今日から一週間、お兄様とは口を利きません」
「なっ!?」

 晴天の空から放たれた雷がカイルに直撃し、黒焦げになった。ぷすぷすと音を立てながら黒煙をあげるカイルを皆心配そうに見ていたが、アリスは気にしていない。
 カイルにはこれが一番効果的だと知っている。あまりカイルにショックは与えたくないが、今回ばかりは仕方ないと心を鬼にすることにした。

「お兄様が横暴な態度をおやめになるのであれば今日も明日も楽しくおしゃべりします」
「ッ~~~~~……わかった……」
「ありがとうございます」

 アリスはすぐに笑顔を見せるもカイルは黒焦げのまま黒板に頭をもたれかからせて落ち込んでいる。
 このまま放っておけばカビかキノコが生えそうだとアルフレッドは思った。

「セシル、ちょっと食べ過ぎじゃない?」
「まだお腹いっぱいになってないし」
「でもカロリー摂りすぎだよ」
「羨ましい?」
「羨ましすぎて憎らしい」
「じゃあもっと食べよーっと」
「可愛くないねぇ!」

 賑やかな会話が行われる中、カイルは黒焦げのままで、残されたヴィンセルはずっとアリスを見ていた。
 それはきっとアリスも気付いているが、目が合ったところでどうすればいいのかわからないから目を合わさないようにしている。
 このまま二度と話せないのだとしても一度だけ謝りたい。
 そう思っているのに、それができない。謝りたいのなら手紙を出せばいい。セシルに渡して届けてもらえばいい。カイルに内容を確認してもらって渡してもらうこともできる。謝るのであればそれだけでいいはずだ。だがそれをしないのは、アリスとちゃんと話がしたいと思っているから。

(焦らず、セシルのように友達から始めればよかった……)

 どこかで自惚れていたのだろう。自分の地位に、自分の人気に。
 アリスは顔で人を選ぶタイプではないとわかっていたはずなのに、苦しみから解放されたいと自分の感情や欲を優先させた罰だと受け入れてはいるものの、辛かった。

「ヴィンセル様もおひとついかがですか?」
「え?」

 話しかけられると思っていなかったヴィンセルは酷く驚いた顔でアリスを見た。

「クッキー、よろしければおひとつ……」

 驚いたヴィンセルに驚いたアリス。二人で驚いた顔をしながらもアリスはクッキーの袋を差し出し、ヴィンセルはそこから一つだけ取った。

「クリームもありますので、よろしければどうぞ」
「あ、ああ……ありがとう」

 ヴィンセルのお礼に微笑み返すアリスにヴィンセルは異様な動き方をする心臓を押さえた。

(もっと君と話がしたい……)

 笑い合ったのはほんの少しの時間だった。それでも二人で交わした何気ない会話や笑顔はヴィンセルにとって楽しいものだった。
 興味などなかったくせに、彼女があの香りを持たなければ話そうとさえ思わなかったくせにと自嘲するヴィンセルはそのままクッキーを一口かじる。
 セシルに向けるその笑顔をもう一度自分に向けてほしいと願いながら見つめていたが、昼休みの間にもう一度目が合うことはなかった。
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