愛だ恋だと変化を望まない公爵令嬢がその手を取るまで

永江寧々

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リオとの時間

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「アリス、一緒に帰ろう。今日は──ッ!?」

 放課後、上機嫌でアリスを迎えに来たセシルは足が地面から浮くほどの浮遊感に目を見開き振り返ると首根っこを掴んで引っ張るカイルと目が合った。

「今日は総会だと前々から言ってあったはずだが?」
「あ、でも今日はちょっと用事が……」
「ほう、サボると?」
「あー……アリス、今日はちょっと用事があるから一緒に帰れないみたい」
「頑張って」

 首根っこを掴まれた猫のように大人しく連行されるセシルに手を振ると鞄を持って廊下に出た。

「アリス」

 追いかけてきたリオが隣に立つ。

「リオちゃんも生徒会でしょ?」
「つっても俺の役割はカイルのパシリ。総会には必要ねぇんだと」
「ふふっ、そうなのね」

 カイルがリオをどう扱っているのか想像がつくと笑うアリスを横目で見ながらリオが頭を掻き、深呼吸をする。

「あー……あのさ、お前、今日はなんか用事あんの?」
「ううん、帰るだけだよ?」
「ふーん……なら一緒に帰るか?」
「リオちゃんの馬車?」
「俺、馬車ねぇもん」
「ないことないでしょ?」
「お前は知らねぇだろうが、馬車には維持費がかかんだよ。だから手放した。そんな遠いわけでもねぇし」

 遠いわけではないと言ってもリオの自宅からここまで徒歩でも四十分はかかる。毎日その距離を歩いているのかと絶句するアリスの額を軽く弾いた。

「贅沢は必要ねぇって話しただけだ。親父も歩くの嫌いじゃねぇし、俺は若いからな」
「で、でも……」

 貴族が全員馬車を所持しているわけではない。貧乏貴族は馬車を持てず歩くこともある。馬車を持っていても一家に一台しかなければ使うのは大黒柱である父親で、子供たちは歩かなければならない。
 アンダーソン家は元々、裕福なわけではなかった。自ら国を出たのではなく追放という形で国を出ることになった貴族がまた昔のようにサロンに戻るのは難しい。
 領地の管理はどうなっていたのか、屋敷の使用人は現在何人いるのかもアリスは知らない。知ろうとさえしなかった。リオが毎朝四十分かけて歩いてきていることすらも。

「リオちゃん、もしよかったらお父様に話して馬車を一台──」
「維持費がかかるから手放したって言ったろ」
「支援してもらえるかもしれないよ?」
「俺らを追い出した人間に支援してもらえってか?」
「……そういうつもりじゃなかったけど……リオちゃんたちからすればそうだよね」
「あ、いや、悪い。言い方間違えた。ごめん。違うんだ、アリス。俺らは支援なんか望んでねぇってだけだ。自分のことは自分でやれば使用人の数も減らせるし、馬車だって歩けるうちは歩けば必要ない。遠出することもないしな。だからお前らからの支援は必要ねぇよ」
 
 嫌味ったらしい言い方になってしまったことを後悔し、慌てて訂正するリオを見上げるアリスの表情にリオが苦笑する。
 苦労という言葉さえも知らないような生まれのアリスにとって馬車のない生活を良しとするアンダーソン家の選択は理解できないだろうことはリオもわかっている。父親に相談して馬車を、と言ったのも同情ではなく親切心からだということも。
 仮に手放した馬車よりも良い馬車が手に入り、馬車と御者にかかる金をベンフィールド家が負担すると言われたところで受け入れるつもりはない。それは彼らのプライドでもあり意地でもあった。

「じゃあ、一緒に登下校するのはどう? 私の馬車に乗って行くの。そしたらリオちゃん毎日歩かなくて済むでしょ?」
「生徒会終わるまで待ってるってのか?」
「図書室に入ればあっという間よ」
「カイルが許さねぇだろ」
「平気。私が言えばお兄様は聞いてくれるわ」
「いやー、どうかな。お前の頼みでも俺と馬車の中で二人きりってのはなー……」

 妹バカのカイルが相手が許すはずがないと首を振るリオの腕を掴んだアリスはそのまま一緒に外へと向かう。
 どこへ向かっているのかなど聞く必要もない。真っ直ぐ馬車へと向かっているのだ。

「乗って」
「怒られても知らねーぞ」
「お兄様は私には怒らない。怒るならリオちゃんによ」
「お前なー……ありえすぎるからやめろ」
「ふふっ、さ、どうぞ」

 先に乗ったアリスが手招きをするのに合わせて中へと乗り込んだ。
 自分が乗っていた馬車よりもずっと良い馬車。四人乗りの馬車の中でも広めで膝がぶつからない。
 登下校のためなら二人乗りの馬車で充分で、そうしている貴族も少なくないのにアリスは一人で四人乗りを使って登下校している。
 苦労知らずの箱入り娘。強大な力を持つ兄に守られ平々凡々に生きてきた。華やかを好まず、平穏を好み、地味に生きてきた少女をリオは好きになった。
 釣り合わないとわかっていても心が諦めようとしないのだ。

「学園長からの呼び出しはやっぱりティーナのこと?」
「ああ」
「お咎めあった?」
「なしだ。カイルが教育係ってことで話をつけてくれてな」
「お兄様、何か危ないこと言ってなかった?」
「アイツが危ないこと言わなくなったら病気だろ」
「……そう、だね」

 同意したくないがせざるを得ないことにアリスは苦笑しながら頷く。
 アリスはすぐにリオに運ばれて行ったため、あれからティーナがどうなったのかは知らない。
 もし目を覚さないことがあればと考えるとゾッとするが、ベルフォルン家は男爵であり力もない。手を貸してくれる横の繋がりがあればいいが、ベルフォルン男爵は残念ながら味方が少ないと聞いている。望みは薄いだろうと容易に想像がついてしまうことに安堵か同情か、複雑な感情が湧き上がる。

「リオちゃん、手を出すのは良くないよ」
「腹蹴られたんだぞ」
「そうだけど、だからってリオちゃんが手を出すのはダメ」
「俺が手を出さなかったらお前はどうしてたよ?」
「ティーナの髪を掴んでむしり取ってた」
「嘘つけ。お前にそんなことできるわけないだろ。お前いつも受けるばっかだもんな」

 呆れたように吐き捨てるリオにアリスが笑う。

「頭の中では何度も言い返してるし、やり返してる。でもそれを実行したら犯罪者になっちゃうからしないだけ」
「どんな想像してんだよ、コエーな」
「ふふっ、内緒」

 引いたような顔をするリオだが、すぐに笑ってアリスを見る。

「でもね、もう我慢しないって決めたの。やられたらやり返す。ティーナがわがまま言っても知らない。どうでもいい。ティーナとはもう友達じゃないから」

 言いきったアリスにリオの表情が驚きへと変わっていく。
 アリスは昔から自分の意見をハッキリ伝えられず、いつもカイルの後ろでモジモジしているだけだった。
 それが今では自分の意思を持ち、一番恐れていた友人関係の崩壊を認め、自ら断ち切ることにしたのだからあまりの意外さにリオは目を見開いて固まった。

「それじゃあお前は友達いなくなったってわけだ」
「リオちゃんがいる」
「は? 俺友達かよ」
「幼馴染は友達だよ」
「友達ねぇ」

 好意を向けられていると知っていながらも友達だと断言するアリスの残酷さに窓枠に肘を乗せて頬杖をついた。

「アイツはどうなんだよ? 友達か?」
「アイツって?」
「セシル・アッシュバートンだよ」

 二人して互いを『アイツ』だ『彼』だと呼んで名前で呼ぼうとしないことにアリスはおかしくなって肩を揺らす。

「そうだね、セシルも友達。アリシア様もナディア様も私にとって大事な友達なの」
「お前にティーナ以外の女友達ができるとはな」
「昔からいないわけじゃなかったよ? 話す子ぐらいいたもの」
「でもティーナの金魚のフンだった」
「それは認めるけど……」

 ティーナを大事に思っていたから全てを我慢できた。
 だがもう我慢はできない。目に余るほどの横暴さをこのまま許していけば最悪の場合、アリスだけではなく家族まで巻き込まれかねないと思ったからだ。
 ティーナの生き方に文句を言うつもりはないが、巻き込まれたくない。そのためには友人の縁を切らなければならない。
 少し前までならそれを苦痛だと思っていたかもしれない。大切な友達だからと。だがもうアリスの中にその感情は残っていなかった。
 暴走し続けるティーナを止める術をアリスは持っていないし、それを模索しようとも思っていないのだから。

「俺がお前を好きだってこと知ってるって言ったよな?」
「うん」
「どう思ってた?」

 リオの静かな問いかけにアリスは一度天井を見上げて「んー」と小さく唸る。

「どうも思ってなかった」

 ドスドスッと心臓を貫くどころか抉るような発言にリオが天井を仰ぐ。

「嫌だって気持ちはなかったよ」
「嬉しいとかは──……あるわけねぇか……」

 いじめっ子は好きだから意地悪してしまう感情を被害者に理解しろというのは不可能な話。好きだからいじめてくるんだと誰が喜べるものか。
 自分だったら間違いなく殴り返していると想像できるリオの苦笑にアリスが首を振る。

「というか、そういう感情がまだよくわからなかったから。リオちゃんが私のこと好きっていうのはわかってたけど、私はそういうのわからなかった」
「今はわかってんのか?」
「まだ……不確定、かな」
「アイツの気持ちに応えるつもりないってことか?」

 期待を含む眼差しにアリスが視線を逸らす。

「わかんない。どうだろ。セシルといると楽しくて、でも、セシルの気持ちに応えられるかわかんない。セシルはそれでもいいよって言うけど、だからってそれに甘え続けてていいのかなとも思う」
「カイルは反対してんだろ?」
「してるけどセシルは意に介してないみたい」
「図太い奴だな」
「リオちゃんも昔はそうだった」
「ボコられりゃわかる。アイツはお前のためならいつか人を殺す」
「そんなこと……」

 最後まで言い切らず苦笑のまま首を振るアリスにリオは「だろー?」とのんきに言葉を返す。
 カイルの危険さをリオは身をもって知った。アリスのためなら鬼にも殺人鬼にもなれる確信がある。

「ま、アイツもお前に手ぇ出したら即処刑だな」

 頭の後ろに両手を置いて笑うリオはまだセシルが公開プロポーズしたこともキスをしたことも知らない。
 セシルが連れて行かれたのは今日のことが耳に入ってしまっただろうかと少し心配になったが今更戻ったところでできることはない。
 リオのように殴られたとしてもセシルはまだ関わろうと思うだろうか。カイルに怯えはしないだろうか。
 アリスを手に入れることを考えると壁はあまりにも高く分厚い。
 カイルが手段を選ばない男であることを知っているのはセシルとアリス、それにヴィンセルだけ。
 脅かされなければいいがと祈るしかない。

「アリス」
「ん?」

 顔を向けるとさっきまで笑顔だったリオの表情が真剣なものへと変わっていた。

「お前を好きだって気持ちは今も続いてる」
「う、うん」
「俺はいつまでも幼馴染を続けるつもりはねぇぞ」
「……幼馴染やめるってこと?」
「お前と恋人になりてぇってことだ」
「じゃあもしダメだったら幼馴染には戻れないってこと?」

 幼馴染をやめて恋人になると言った相手にアリスが眉を下げるが、純粋な疑問として問いかけた言葉がまたリオの胸を抉る。
 まだ始まってもいないのにダメだった場合の話をされるのはキツい。アリスの中では既にその可能性があるのだとわかったことが辛かった。

「俺はお前がアイツと仲がいいからとか、アイツがお前を好きだからとか考えねぇ。俺は俺のやり方でお前を手に入れる」
「どうやって?」
「それはお前ッ……デ、デートとかあんだろうが!」
「リオちゃんとデートするの?」
「なんだよ……文句あんのかよ」
「ないけど、申し込まれてないから」
「正式に申し込むつもりだっての! ロマンのねぇ奴だな、女は男が行動するまで待ってりゃいいんだよ!」

 とんだ男だと目を細めたアリスの表情は引いたと言わんばかりの呆れたもので、マズったと慌てるリオの視線が泳ぐ。

「違っ、ほらあれだ、俺は確かにお前を傷つけてきたし粗暴かもしれねぇけど、そういう段階はちゃんと踏むつもりだし、お前を失望させるつもりはねぇってことだ」
「言ってること全然違うけど」
「悪かったよ! 焦ると暴言が出ちまうんだ! お前が焦らせるからだぞ!」

 人のせいにするなと言いたいが、焦ると正直に言葉にするリオに笑ってしまい許してしまう。

「誰とも婚約してねんだから俺にだってお前とデートするチャンスぐらいあるだろ?」
「ある、けど……」
「お前といて楽しくねぇなんてことねぇから」

 考えを読んだような言葉に苦笑するアリスの頭を撫でたリオが停まった馬車から降りる。

「送ってくれてサンキュな。また明日」
「うん。明日も迎えに行くから門の所で待ってて」
「ああ」

 セシルのようにキスをする勇気はリオにはない。カイルの信頼だって裏切りたくはない。デートの申し込みをしてもカイルが破いてしまう可能性だってある。そういうこと自体を裏切りだと思うかもしれない。
 それでもリオはアリスを諦めることはできなかった。アリスの気持ちが自分以外のものになるまではまだあるだろうチャンスに縋りたかった。
 笑顔で手を振るアリスに手を上げて馬車が見えなくなるまで見送る。

「親父、手紙の書き方教えてくれ!」

 すっかり少なくなった使用人たちの出迎えに挨拶を返しながら走って飛び込んだ父親の部屋でリオは早速デートの申し込みを書くことにした。
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