愛だ恋だと変化を望まない公爵令嬢がその手を取るまで

永江寧々

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アンダーソン家で食事会

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 この日、リオは朝から不機嫌そのものだった。

「親父、今日は俺とアリスのデートだって知ってるよな?」
「ああ」
「ならなんでこんなことになってんだよ!」

 デートの申し込みに返事を出したアリスはリオの明言とおり家でデートすることになったのだが、リオの父であるエラディオから出迎えを受け、案内されたのはリオの部屋ではなく食堂。
 テーブルの上に並べられた食事の準備にアリスだけではなくリオまでが驚き、そして不満を口にする。
 明らかに父親一人の食事量ではなく、三人分の食器が並べられており、それが何を示しているのかは明白。
 怒るリオに対してエラディオは冷静に「お礼だ」と言った。

「本日はよくお越しくださいました」
「そんな仰々しい挨拶はやめてください」
「ですが──」
「今日は公女として来たのではなく、リオちゃんの幼馴染として来ただけなんです。おじさんもどうかそうしてください」

 図々しいお願いなのかもしれない。リオがしでかしたことへの罰といえど国外追放は正しかったとは言えない。
 それについてエラディオがどう思っているのかもわからず、こうして食事を用意してくれたのも好意ではなく霊園に場所を用意したことへの礼かもしれないと。
 エラディオはアリスが知る中でも礼儀ある人間。娘にして終わりではなく、もう既にネイサンにも礼は済ませてあるだろう。
 自分にこうするのは直接できなかった謝罪かとアリスは考えてしまう。

「……アリス、君の顔をまた見ることができて嬉しいよ」

 困った表情を見せたあと、エラディオは小さくではあるが優しい微笑みを見せた。

「私もです」
「妻の墓参りに一緒にいてくれたんだってね、ありがとう」
「私もずっと行きたいと思っていたので嬉しかったです」
「妻をこの地に戻してやれて……君のお父上には感謝してもしきれないよ。恥ずかしながら、我が家には妻の棺を乗せて運ぶ霊柩車を雇う金はあっても、あんなに素晴らしい霊園に場所を用意してやることはできない状況でね。尽力していただいて本当に感謝しているんだ。そして君にも」

 アリスはひどく驚いた顔をした。
 自分は何もしていない。父親がアンダーソン家のために何をしたのかさえ知らなかったのだから。父親に直訴したのであれば話は別だが、アリスは身に覚えのない礼に首を振った。

「私は何もしていないんです」
「リオを受け入れてくれたじゃないか」

 首を傾げるアリスにエラディオが笑う。懐かしい笑顔。

「五年前、リオが君にしたことは許されることではない」
「あれは意地悪でしたことではありませんから」
「理由はどうであれ、階段で人を突き飛ばすなんて絶対にしてはならないことだ。それを息子はしてしまった。頭から血を流す君を見て私たちは何度死んで詫びようかと──」
「そんなッ」
「でもカイル君が死んで逃げるなんて許さない。妹はこれから一生残る傷に苦しんでいくのだからお前たちも一生罪悪感に苦しめと言って国外追放で済ませてくれたんだ。ベンフィールド公爵は家まで用意してくださったんだよ」
「国外追放はやりすぎでした」

 そんなことはないと首を振るアリスにエラディンも首を振る。

「私たちは逃げさせてもらったんだ。君を見て永遠と自分たちを責め続けることからも、愚かな息子を叱り続けることからもね。きっとこの国にいたら何もかも放り出して君の家の前で土下座をし続けていただろう。君たちを困らせていることなど考えず自分たちが許しを得て楽になることだけを考えていたはずだから」
「兄はそこまで考えていなかったはずです」
「いいや、考えてくれていたよ」

 なぜそう言いきれるのか不思議だと顔に書くアリスに笑いながら席へと手で促し、エラディンは自ら紅茶を淹れ始めた。

「使用人は……」
「全て解雇したよ。私たちには贅沢すぎる存在だ。二人しかいないのだから自分たちでやれることはやろうと決めた。この屋敷を手放してしまえば多額の現金が手に入り、今より小さい屋敷を選べば使用人を雇って楽もできるのに妻との思い出を捨てられないから固執している。大馬鹿者なんだ、私は」

 三百人も使用人がいる家で暮らすアリスには考えられないことだった。自分のことは自分で、が教育方針の両親の下で育ち、ある程度のことは自分でできるが、それでも使用人がいてくれるから屋敷は美しく保たれている。使用人がいない生活などアリスには想像もつかない。

「おばさんはここが大好きでした。仕事を頑張る愛する夫がいて、生意気だけど愛する息子がいる家が自分のいる場所なんだと笑っていました」

 あの時の笑顔がいつまでも記憶に残っている。

「妻はこの家が好きだった。庭には美しい花々を、ここには美味しい食事を、家にはいつも明るい笑顔と笑い声を──妻という太陽がいたから私たちは何も考えずに生きてこられたんだと気付いた時にはもう遅かった。私が妻のためにしてやれることは何もなく……ただ毎日大丈夫だと言い続けることだけだった」

 病で倒れ、それからずっと闘っていたのだろう。太陽がかげると人々は不安になる。鬱陶しい雲が早く晴れることを願う。
 病という雲に隠された妻の笑顔が早く見たいと願い続けていた夫と息子の半年はどういうものだったのか、想像することさえ苦しかった。

「私はきっととてもひどい顔をしていたんだと思う。だから妻は最後の最期まで大丈夫だと笑顔を見せ続けた」

 想像に難くない最期。きっとそうするだろうと納得できることだった。

「アリスは優しい子だからきっと私たちを恨んではいないだろう。でもやっぱり頭を下げて謝りたかった、と最後まで言っていた。だから妻の思いと共にもう一度謝らせてほしい」

 紅茶を運んできたエラディンが一歩下がって深く頭を下げた。それを見たリオも父親の隣に並んで頭を下げた。
 謝ってほしいことなどない。もう謝罪は本人から受けた。あの痛みや恐怖は覚えていても、恨むことなどありはしない。
 それでもアリスはその謝罪を受け取った。

「許します」

 本当はこんな言葉は必要ないが、それでエラディンの抱えるものが一つでも減るならと考えて告げた。

「ありがとう。感謝します」

 一度上げた頭を再び下げるエラディンが頭を上げるのを待って三人で食事を始めた。

「本当は使用人は数人だけ残していたんだが、自分でやれとリオに言われてね。二人で暮らしているとそんなに散らからないから自分たちでできてしまうんだ。だから今はもういない」
「この食事はおじさんが?」
「ああ、そうだ。買い出しに行ってオススメの調理法なんかを聞くと教えてくれるんだ」
「信じられるか? 子爵自ら買い出しだぜ」
「私もお兄様と買い出しに行くわ」
「お前は当主じゃない。ネイサン・ベンフィールドは買い出しになんか行かないだろ」
「そうね」

 忙しい父親が買い出しに行く時間などない。カイルと同じでバタバタと走り回ることが多いのだ。だが、それを口にしてしまうとエラディンが暇人のように聞こえてしまうため頷くだけにした。

「私が心配するのは生意気かもしれませんが、生活は大丈夫なんですか?」
「生きていくのに必要な資金は得られているよ。贅沢ができないだけだ」
「でも馬車まで手放したと聞きました」
「馬車はね、維持費がかかるんだ。馬の世話係、馬の食事代、獣医、御者の給料、メンテナンス代も……それなら歩けばいいと考えた。足は第二の心臓。婚約者がいない息子のためにも私だけは健康でいなければならないからね」

 貴族の結婚の審査に必要なのは本人の出来だけではなく家柄やと親も含まれる。親が病持ちや病死だった場合、自分たちの孫に遺伝性の病気があったら困ると懸念されることが多い。
 リオの場合、母親が病気で亡くなったため『アンダーソン家の妻は病で亡くなった。生まれてくる子供のことを考えたら……』と言われてしまう可能性がある。
 幸いなのはリオが男であること。男は四十を過ぎようと結婚に何も言われない。言われるとすれば親に『孫はまだか?』と言われる程度。そこだけは安心できる部分だろう。
 
「俺はアリスと結婚するから安心して老いろよ」
「お前なんかがアリスと結婚できるわけないだろう。現実を見ろ」
「あのさ、両親が息子の結婚信じないってどういうことだよ」

 母親も同じことを言っていたのが気に入らないと不愉快を顔に出す息子に父親が肩を竦める。

「お前のような傍若無人な人間は神様が転んでもアリスと結ばせることはないということだ」

 間違ってもそういうことはないと言いきったエラディンにアリスが苦笑する。
  
「ババアは来てほしがってたぞ!」
「アリスならどこの家でも歓迎される。問題はお前だ、リオ」
「俺は昔からこうなんだよ。アリスもそれを知ってる。だから俺を受け入れてんだよ」
「アリスの優しさに甘えるんじゃない」
「息子のデート邪魔しといて説教とはご立派な人間だな。崇拝するわ」
「ああ、してくれ。お前は親を敬う気持ちが足りん」
「貧乏子爵の父親をどうやって敬うってんだよ。敬われるような人間になってから言え」
「そういう部分がアリスを貰うのに相応しくないと言っているんだッ」
「アリスの気持ちが俺に向けば結婚できんだよ! 黙ってろクソジジイ!」

 ああ言えばこう言う親子にアリスはたまらず笑いだす。
 食事は家庭を支える母がいなくなったことで食べきれないほど山盛りで並ぶというわけにはいかないが、それでもアンダーソン家には賑やかな食事の場がある。
 いつもこうなのかはわからないが、アリスは今日この場に来たことで心配事が一つ消えた。
 二人の笑顔が、賑やかにする親子の姿が見られただけで嬉しかった。

「……マジで最悪だ……」
「どうして?」
「今日のデート、ただの食事会だったじゃねぇか」
「楽しかったよ?」
「俺はお前をドキドキさせるようなデートにしたかったんだよ」
「部屋で?」
「そう」

 言いたいことはわかるだろうと言いたげな表情を向けるリオにアリスはあえてわからないと言いたげな表情を返す。だが長くは続かない。まるで睨めっこをしている感覚にアリスの口元が緩み、表情を作っていたことがバレてしまった。

「リオちゃんって意外と男の子なんだね」
「お前を好きだって言った男によくそんな無神経なことが言えるもんだな」
「私の中でリオちゃんはあの頃のままだもの」
「キスでもすれば意識するか?」
「……やだ」

 まるでそれが答えであるかのような拒否にリオがため息をつく。

「お前にとっちゃ俺はいつまでも幼馴染のままか?」
「……たぶん……」
「それがお前の望みか?」
「……ごめんなさい」

 笑顔が崩れていくアリスをリオが抱きしめる。

「リオちゃん?」

 トントンと背中を叩くもリオは何も言わない。

「戻ってこなきゃよかったな……」

 上から降ってくる呟きにアリスは何も言えなくなる。
 アリスは再会できて嬉しかった。だが、リオは後悔していた。理由はわかっている。

「でもお前の傍にいることは俺の望みだからどうしようもねぇんだわ。今更戻ってお前を忘れることもできねぇしな」

 戻ってこなければ失恋することはなかった。だが、その痛手を負ってでもリオはアリスの傍にいたかった。アリス・ベンフィールドの幼馴染としてでもいいから傍にいたいと願ってしまう。

「今日、俺が部屋でお前にキスしてたらどうしてた?」
「……わかんない。戸惑ってたと思う」
「受け入れたか?」
「聞きたい?」
「まさか」
「じゃあどうして聞くの?」
「わかんねぇ。お前と話してたいからかもな」

 もっと楽しいことをと考えてもリオはわからない。自分の口の悪さや突発的に出てしまう反応でアリスを傷つけてしまうことが多く、気をつけていても出てしまうから自分が傷つく話題を振る。
 馬車の前に立ち、別れの言葉を口にすればアリスは帰ってしまう。また明日とてを振って見送っても言葉のとおり明日になれば会えるとしても二人きりではない。二人きりは馬車の中の短い時間だけ。その中で交わす会話は色気もない話。宿題はしたか、生徒会はどうだ。そんなことはどうだっていい。こうしてアリスと二人、これから向かう先で起こることの話ではなく二人だけの話がしたかった。

「……リオちゃんはどうして私と結婚したいの?」
「気がついたらお前のことを好きになってたし、今もその延長戦。お前を好きだって気持ちのままいるからお前と結婚したいって思うんだろうな」
「そっか。……ありがとうって言うのはおかしい?」
「おかしい」
「そうだよね」

 上げた顔を下げるアリスを離して両手で頬を挟むとアリスの目が見開かれる。

「なに警戒してんだよ」
「し、してないけど……する、でしょ?」

 アリスの身体に緊張が走っているのがリオにもわかる。
 急に頬を包まれて真っ直ぐ見下ろされる緊張にアリスはどうしていいかわからなくなった。急に出来上がった雰囲気に笑ってこの場を誤魔化すべきか、それとも嫌だと言って突き放すべきか──
 救いなのは身長差があることで顔がそれほど近くはないこと。アリスが背伸びをしようとリオが屈まなければ何も起きないことだ。

「キスすると思ってんだろ」
「お、思ってない」
「思ってねぇのに緊張してんのかよ」
「だ、だってリオちゃん、こんなことするタイプじゃないもの」
「俺も意外と男の子だからな」

 言った言葉が返ってくる。
 いつもの声よりも少し低い、どこか囁くような静かな声を出すリオにアリスはどうしていいかわからなくなる。
 アリスの中でリオはいつまでも十二歳の少年だが、目の前に立っているのはもう“男の子”ではない。立派な男性への成長しているのだ。
 頬を包む大きな手。包み込まれる大きな身体。見上げなければ合わない位置にある瞳。低くなった声。
 どれも当たり前に成長を示しているのに中身しか見てこなかったアリスは今ようやく彼が“男”であることを意識した。

「アリス」

 静かに名前を呼んだリオの顔が近付いてくることにギュッと目を閉じたアリス。

「……?」

 だが、リオの唇が触れたのはアリスの鼻先だった。
 ゆっくりと目を開けたアリスの視界には悪戯めいた笑みを浮かべるリオのいつもの表情。

「キスされるって思ったんだろ。しねぇよ、バーカ」

 言い方の優しいバカにアリスはからかわれたとわかっても怒る気にもならなかった。

「そういうとこ全然変わってないんだから」
「当たり前だろ。変わってたまるか。ほら、さっさと乗れ。門限過ぎちまうぞ」

 馬車の中へと押し込むリオに従って中に入るとドアを閉めて手を振る。

「お前が結婚するまでは好きでいてやる」
「なにそれ」
「そのまんまだよ。じゃあな、おやすみ」
「おやすみ、リオちゃん」

 アリスが手を振ればリオが数歩下がる。それを見た御者が馬車を出した。離れていく馬車。これから曲がり角を曲がって坂を上がる。そして手の届かない存在だと証明するようなこの国一番の大きな屋敷へ到着する。
 それでもリオは諦めることができない。アリスは幼い頃の初恋の相手。その恋心は今でも薄まることなく胸の真ん中に存在し続けている。
 頭ではわかっていても心はそれに従わない。
 だから完全に諦めなければならない日が来るまでリオはアリスに恋をし続けると決めた。
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