愛だ恋だと変化を望まない公爵令嬢がその手を取るまで

永江寧々

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直訴

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 何事もなく馬車は学園に到着し、リオと世間話をしながら穏やかな朝を迎えていたアリスの耳に届いた足音。
 紳士淑女が通う聖フォンス学園では緊急事態でもない限り、廊下を走ることは禁止されている。それを無視して豪快な足音を立てるのはアリスだけではない皆が注目していた。

「ちょっと! どういうことなのよ!」

 予想はついていたが、やはり足音はティーナだった。
 足音に含まれた怒気を声にも含んでアリスにぶつける。

「なにが?」

 ティーナと接触したのはリオが問題を起こしたのが最後。それ以降はティーナはずっと休んでいた。
 まだ頬がひどく腫れている状態では登校できなかったのもムリはないと納得ではあるが。
 朝から怒鳴りつけられるようなことは何もしていないのに何事だとアリスはリオがしたことを怒ってきたのかとリオを見るが、リオは無関係だと言わんばかりに肩を竦める。

「訴状なんて送りつけてきてどういうつもり!? アンタの差し金でしょ!」

 目の前の机に思いきり叩きつけられた一枚の紙に目をやると、そこには大きな文字で【訴状】と書かれていた。訴えられたことには驚かないが、それがベルフォルン男爵宛ではなく
ティーナ宛であることには驚いた。
 ハッキリとティーナ宛であることが明記してあるのだ。送った人物がカイル・ベンフィールドであることも。

「お兄様からは何も聞いてない。私があなたを訴える理由はない」
「あるだろ。男爵令嬢が公爵令嬢の腹を蹴った。傷害罪だ」
「リオちゃんが手を出したから帳消し」
「俺の罪は帳消しになったけどお前への罪が帳消しになったわけじゃねぇだろ」
「私を殴ったこと謝りなさいよ! 床に額擦り付けて謝りなさいよ!」
「ならお前もアリスに謝れ。地面に額擦り付けて謝罪しろ」
「はあ!? どうしてこの私がアリスなんかに謝らなきゃいけないのよ! アリスが生意気に調子乗ってるからどっちが上から教えてあげたんじゃない!」

 アリスは慣れた物言いだが、リオはその言葉に額に青筋が浮かび上がるほど腹を立てていた。
 机の上で握る拳が震え、手の甲にも青筋が浮かんでいることに気付いたアリスはその拳が飛び出さないように上から押さえつける。

「どっちが上だァ? アリスに決まってんだろうが。テメーは男爵、アリスは公爵。その時点でテメーは地面に伏せて生きるべきなんだよ」
「リオちゃん、言いすぎ」
「この私? どの口が言ってんだよ。生意気に調子乗ってんのはテメーだ、このブスッ」
「リオちゃんやめて。お口閉じて」
「ムカつかねぇのかよ! 大体お前はいつだってコイツに甘すぎるんだよ! だからナメられんだろ!」
「リオちゃん」

 怒ったリオの面倒さはカイルの次ぐらいにあって、アリスは何度も名前を呼ぶ。段々と少しずつアリスの声が低くなっていることに気付いたリオが開けた口を閉じた。

「ティーナ、私はお兄様が何をしているのか知らない。お兄様は自分がしていることは何一つ私に話してはくれない。あなたもそれは知ってるでしょ?」

 何も教えてくれないと愚痴るアリスにティーナは何度も過保護だと笑った。
 舌打ちをするティーナが机の上の訴状をひったくるように取り、アリスを睨みつける。

「バカなアンタじゃ話にならない! カイルに直接聞いてくる!」
「お兄様を呼び捨てにしないで」
「うーわっ、気持ちわるッ!」
「そのセリフ、鏡見て言えよ」

 ティーナにカイルを呼び捨てにされることのほうが悪態をつかれるよりずっと気分が悪い。
 それについてからかおうとしたティーナに向かってリオが吐き捨てるように投げかけた言葉にギリッと歯を鳴らしたティーナが大股で去っていく。

「救いようのないバカってアイツのことだな」
「同意はしないけど、お兄様のとこに向かうのは考えなしだと思う」
「どのみち詰んでんだよ。お前に文句言い続けて感情的に何かしようものならカイルが出てくるし、カイルに直接言えば自滅する。俺のとこにさえ訴状なんか出さなかったカイルがアイツ宛に訴状だぞ。ベルフォルン家は終わったな」

 アリスは知らないが、リオはハッキリと聞いている。カイルが言った言葉を。

『これで鬱陶しいベルフォルン家を潰せる』

 カイルは確かにそう言った。そして実行されたのが訴状。

「訴状で始まってるだけまだマシだと思うけどね」
「ッ!? びっくりした!」
「お前のクラスここじゃねぇだろ!」

 いつの間に来ていたのか、会話に入ってきたセシルに二人は同じように肩を跳ねさせて驚いた。

「急に姿を消す、なんてことにならなかったのを彼女は喜ぶべきだよ。あのクリストフ・マクレガーのようにね」

 不穏な言い方にアリスの表情が強張る。
 セクハラで有名な音楽教室。アリスも被害者の一人であり、セシルが助けてくれた過去がある。
 あれから一ヶ月もしないうちに異動が決まり、再び音楽に力を入れるためだと学園長から説明があったが、セシルの言い方はまるでカイルが関わっているような言い方に聞こえたアリスはセシルと目を合わせてからリオを見た。
 リオは何も知らないと首を振る。当然だ。リオはクリストフ・マクレガーが異動してからの転入。だが、アリスに関わる問題にカイルが黙っているはずがないことは知っている。

「お兄様がクリストフ先生を異動させたってこと?」
「僕は知らないよ? 彼女はアリスにひどいことをした。それをカイルが黙ってるはずがないと思っただけ」

 アリスもカイルが持つ残忍性について気付いていないわけじゃない。妹のこととなると周りが見えなくなってしまう過保護の域を超えた兄。嫌いではないが、時々ひどく恐ろしく感じることがある。
 本当に移動であればいいが、セシルの『急に姿を消す』という言葉が引っかかっていた。
 もしティーナが急に姿を消すようなことがあれば間違いなくカイルが関わっている。

「お兄様は確かに少し怖い思想の持ち主だけど、人を消したりはできないわ。できない……」

 まるで自分に言い聞かせるように呟くアリスの脳内に浮かんだ映像。セシルと共に誘拐されてカイルが駆けつけたあと、遅れて馬車にやってきたカイルが何をしたか。カイルが出てくる前に数発の発砲音が聞こえた。そのあと、誰も小屋から飛び出してくることはなかった。脅されて腰が抜けたのか、威嚇発砲に怯えて出てこられなかっただけなのか──信じたいと言い聞かせていたものが、そのためのバランスがアリスの中で少し崩れかけていた。


 三年生の教室がある三階まで上がったティーナは「カイル・ベンフィールドの教室はどこ!?」と廊下にいた三年生に大声で聞きながらカイルがいる教室へと乗り込んだ。

「カイル! これはどういうつもり!?」

 既に着席しているカイルの前にアリスにしたのと同じように訴状を机に叩きつけた。

「ティーナ・ベルフォルン、廊下で大声を出すのは感心しないな」
「答えなさいよ! どういうつもりって聞いてるの!」
「年上への言葉遣いを知らないらしいな」
「カイルッ!」

 答えが聞きたいのに答えないカイルに苛立ったティーナがもう一度机を叩くと厳しい目つきが向く。

「お前に呼び捨てにされる覚えはない」

 ゾッとするほど冷たい声と圧を感じる眼力にティーナの肩が跳ねる。

「で、なんの用だ?」

 ニコッと笑う

「私は何も悪いことなんてしてないのに訴えるなんてどういうこと!?」

 ざわつく教室内。カイルからか、それともベンフィールド家から訴えられているのか、その言葉だけでは生徒達には判断できないが訴えられているのは事実。
 それを人が多く集まる場所で自ら暴露するティーナは一体何を考えているんだと、恥を恥とも思っていない性格に驚いていた。

「公爵令嬢の腹を蹴っておきながら自分は何も悪くないと?」
「蹴ったのには理由がある! 私は悪くない! パパもママもそう言ってる! 子供の喧嘩なのに訴状なんて馬鹿げてるし大袈裟だってね!」
「だからベルフォルン家は男爵止まりなんだ。貧乏男爵は頭の中まで貧相か」
「公爵家だからって偉そうにしないでよ! うちがそっちより劣ってるなんて誰が決めたの!?」
「俺だ」

 出た。教室にいたクラスメイト全員がそう思った。
 カイルの言ったことは絶対。白雲もカイルが黒雲と言えば黒雲になり、黒鳥を白鳥と言えば白鳥になる。絶対暴君として君臨しているカイルに誰も逆らいはしない。

「怪我なんかなかったんだし、妹がお腹蹴られたぐらいであんなことするなんて馬鹿じゃないの!? ホント気持ち悪い!」

 この場にいる半数以上が同じことを思っているが誰も口にはしない。訴状を送られている立場でそんなことまで口にすれば何が起きるかわからない。

「怪我はしていないが、怪我をする可能性はあった。内臓破裂か骨折か。どちらにしろ、その凶暴性は見逃すわけにはいかない。気持ち悪いと言われようが、シスコンだと言われようが構わん。アリス・ベンフィールドに暴行を働いたお前には罪を償ってもらう」
「私も殴られたし頭も打った! 気絶したのよ!」
「それは俺のせいでもアリスのせいでもない。リオ・アンダーソンが勝手にしたことだ。文句なら彼に言うんだな」
「リオはアリスが好きなのよ! だから庇った!」
「個人的感情による行動の制限による被害は知らん。俺はお前の家族ではないからな」

 ティーナの表情が不愉快を表現しており、口端が痙攣を起こしているように何度もヒクつかせる。
 アリスを蹴ったからアリスの兄であるカイルが動いた。兄としてティーナに罰を与えようとしている。
 リオはベンフィールド家の人間ではない。リオがどんな感情で動いたことでもカイルが指示していない限りはどんな訴え方をしようと意味がない。
 かといって男爵家であるベルフォルン家が子爵家であるアンダーソン家を訴えることに両親は難色を示した。
 貴族としての力を失っているアンダーソン家なら怖くないとティーナは訴えたが、それでも爵位は爵位だと腰がひけていた。
 そんな両親に失望して直談判に来たわけだが、カイルは取り合わない。

「ねえ、私たちずっと一緒だったじゃない。子供の頃からずっと一緒に育ってきたでしょ? もう家族みたいなものじゃない」

 怒りを笑顔に変えて猫撫で声を出す今更感もティーナは気にしない。
 机の前にしゃがんでお得意の笑顔でカイルを見上げると嘲笑するカイルが見えた。

「お前はベルフォルン男爵令嬢であってベンフィールド公爵令嬢ではない。勘違いするな」

 吐き捨てるように告げられた言葉にカッと赤くなったティーナが立ち上がり訴状を握り潰すように掴んでカイルの机を蹴飛ばす。
 机の上に置いていた教科書が床に落ちるがカイルは反応しない。

「用事が終わったならさっさと戻れ。もうすぐ始業ベルが鳴るぞ」
「言われなくても帰るわよ! 覚えてなさいよ! 絶対許さないんだからッ!」

 男爵令嬢が公爵令息に歯向かうなどおこがましいことこの上ない。それを恐れないティーナを皆が危険視していた。
 誰に何を言われようとも冷静さを欠かないカイルが不気味だった。

「騒がせてすまない。さあ、ベルが鳴る前に座ってくれ」

 カイルの笑顔に皆が一斉に席に着いた。
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