冬に出会って春に恋して

永江寧々

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 山井は語り始めた。椿が帰った二月四日から昨日までの椿の様子を詳細に淡々と。
 その内容に絶句する柊は久しぶりに腹の底から湧き上がる怒りで握った拳が強く震えていた。

「検査って……処女であるかは関係ないですよね。聖女じゃあるまいしそんな事が結婚の条件に入るなんて……」

 処女膜の検査を受けた事を聞いて絶望する。処女でなければなんだと言うのか。いや、婚約者がいるのに他の男に身体を、初めてを許したとなれば大きな問題となる。処女かどうかが問題なんじゃない。身体を許したかどうかが問題なのだ。自分は必要以上の接触はしなかった。服の上からそれらしい動きをしたこともない。でも椿にはわかっていたのだろう。吐き気がしたと言った言葉はきっと選んで使ったのだろうが、そうした下心があることは充分に伝わっていたということ。我ながら情けないことだと苦笑するが、同時に安堵もした。これで自分が中園の時のように酔った勢いで抱いていたら今頃どうなっていたことか。ここに来ていたのは山井ではなく警察だったかもしれない。
 捕まるのは怖くない。実際、保護者の許可なく未成年を住まわせていたのだから犯罪は犯罪。だから覚悟はできている。怖いのは椿が辛い目に遭うこと。処女であったことが確認されたことで罰は免れたはず。それだけに安堵していた。

「でも、山井さんは何故俺の所にいらしたのですか?」
「……あの場所に椿様の居場所はありません。息もできないほど冷たい水の中に沈み続ける辛さを、その中でもがき続ける苦しみを、私は何度も目の当たりにしてきました。現当主である葵様、娘の楓様、そして椿様……三代に渡りお仕えし、お恥ずかしながら皇の鎖にもがく彼女達を見守ることしかできなかったのです」
「当主も苦しんでいたと?」
「人は……変わってしまいます。冷たい水の中で生きてきた者が、自分を沈めていた者が消えて自由を手にした事により長年の鬱憤を吐き出すようになります。開放感と自由の素晴らしさを得た次は自分が同じ事をするようになるのです。世の中には社会規範があるように、皇には皇のやり方が存在する。それを“しきたり”あるいは“習わし”という言葉で正当化し、次の世代に継がせ、今に至ります」
「負の連鎖じゃないですか……!」

 そのとおりだと山井が頷く。

「だからこそ楓様は変えようとなされた。苦しむのは自分の代で終わらせる。自分の娘にだけは水の冷たさではなく太陽の暖かさを教えたいと願っておられました」

 でも死んでしまった。守るつもりだった我が子を残して、一番望まぬ形で痛みと苦しみを与える事になってしまった。

「娘であろうと当主に逆らう事は許されません。そこに親子関係は存在せず、抗った先に待つは不必要な厳しい罰のみ。幼少期からその身に、精神に刻みつけられているはずの恐怖も痛みも皇から娘を開放するためならと幾度となく受けておられました。見ていられないほどの容赦ない罰。それでも楓様の心が折れる事はありませんでした」
「どうして誰も止めないんですか」

 拳と共に声を震わせる柊に山井が目を閉じる。錆びたロボットのようにぎこちなく振る首が誰にもできないのだと伝えた。

「葵様を止められる方がいるとすれば鳳雪勿様だけですが、彼は葵様のやり方に賛同しておられるので……言葉は悪くなりますが、皇葵が死ぬまでやり方は変わらないでしょう」
「鳳刹那が引き継ぐという事は?」
「可能性としては充分考えられます。葵様亡き後、当主に座するのは椿様ですが、実権を握るのは鳳様でしょう」
「椿は置物でも人形でもない。ちゃんと意思がある人間です。誰かの言いなりになるために生まれてきたんじゃない。自分の足で歩いて、自分の目で見て、泣いて、笑って、怒って……そんな当たり前のことが当たり前にできる普通の女の子です」

 柊の言葉に山井が驚いたように目を見開いた後、すぐに嬉しそうに笑って頷いた。

「だから私は貴方様にお話ししておきたかったのです」
「それはどういう──……」

 柔らかな笑みが一瞬で厳しいものへと変わる。

「幸い、鳳様と椿様はまだ入籍しておりません。本来なら予定どおり椿様の誕生日である二月四日に入籍するはずだったのですが、一ヶ月の禊期間を設けてからの入籍へと変わりました」

 またドクンと心臓が跳ねた。これは驚きではない。期待だ。でも笑みは浮かばない。だからどうした。それを話してどうすると冷静な自分がいる。
 スッと指を二本立てた山井が告げた。

「二週間後、お二人は延期する事なく入籍するでしょう」

 一度口を閉じてこちらを見る山井に柊は言葉を迷っていた。きっと、自分と山井が思っている事は同じだ。でも疑問が残る以上、すぐに返事はできない。

「一つ、お聞きしても?」
「はい」
「何故、椿の味方を?」

 逆らえる者がいないほどの恐怖支配を広げてきた皇葵に何故歯向かおうとするのか。見ていられないほどの罰を与えられるとわかっているのに。椿のためにどうしてそこまでと疑問をぶつけると山井の表情に苦笑が浮かんだ。

「……楓様との約束でございます」
「約束……?」

 今でも鮮明に思い出せるほどの強い約束。映像として甦るは彼女の真剣な表情。

『山井、もし私達に何かあったらあなたがこの子を幸せにして』

 ご冗談を。そう笑い返せないほど真剣な表情と声色に山井は深々と頭を下げて了承した。

『かしこまりました』

 何千回、何万回と口にした言葉がこれほど重く感じた事はない。

『この子には幸せになる権利がある。ううん、義務がある。皇の家に生まれた不幸を背負わせたくない。私達が幸せにするのは当然だけど、人間いつ死ぬかわからないじゃない? だから遺言書じゃないけどあなたに託すわ。絶対に幸せにして。不幸にしたら呪い殺すからね』

 まだ死んでいない。呪われたと思うほど苦しい目にも遭っていない。まだ信じてくれているのだろうか。そう都合良く考えてしまう。
 彼女達が死んだ時、自分はまだ幼い椿を抱えて逃げるべきだった。でも、できなかった。心身共に衰弱していく祖母を心配して必死に寄り添おうとする彼女を、祖母の願いを叶え、信頼を勝ち取ろうとする彼女を連れ出すことが正しいのか迷っている内に手遅れになってしまった。
 申し訳ない。何度墓前で頭を下げただろう。どれほど墓を磨いたところで、どれほど雑草を排除したところで、どれほど謝罪したところで彼女達はもう戻ってこない。大丈夫よと優しく声をかけて抱きしめることすらできないというのに自分はただ見守っているだけ。あの日の約束を果たせずに今日もこうしてのうのうと生きている。

「私はもう皇家とはなんの関係もない人間となりました」
「それは……」
「解雇されました。当然です。皇の跡取りの家出に協力したのですから」

 山井は味方だと言っていた。それは椿が絶対の信頼を寄せ、その信頼を彼が一度も裏切らなかったから。今もそうだ。関係がなくなれば出る手段はないも等しいのに、まるで何か策があるように訪ねてきた。
 動こうとしているのだ。今だからこそ。

「でも、だからこそ怖いものは何もないのです。私は楓様と約束しました。彼女を、椿様を必ず幸せにすると。私が愚鈍な人間であるばかりに長い時間がかかってしまった。ですが、果たさないわけにはいかない。あの子を、あなたの元へ連れていくことが私の使命だと思っています」

 大きく息を吸い込んだ。吐き出せない。肺の中に溜まった空気がそのまま留まっている。
 椿が戻ってくるかもしれない。でもそれは正当な手段ではない。当然だ。正当な手段など存在しない。鳳雪勿が椿との婚約を破棄しない限りは。ありえない話だ。だから山井は自分の人生をかけるつもりだった。命をも。惜しくはない。老人と認識されるまで生きられた。約束も果たさないままのうのうと。これでは地獄行きだ。地獄に行っても構わない。でも天国で彼女達に会って直接詫びたい思いもある。そのためには約束を果たさなけれならない。褒美はいらない。ただ顔を見て謝罪したい。この老体に数千回の鞭が振り下ろされようと、身体中が風穴だらけになろうと、凍えるほど冷たい水の中に沈められようと構わない。既に覚悟はできている。

「椿様は既に覚悟を決めておられます」
「覚悟って……?」

 結婚の覚悟かもしれない。鳳との子供を持つ覚悟かもしれない。愛のない人生を送る覚悟かもしれない。それなのに柊は嫌な汗を感じるほど嫌な予感に襲われていた。

「立花柊様」
「はい」

 鋭い眼光が向けられる。柊の喉がゴクリと鳴った。

「私はこれから思うがままに生きようと思います。まず手始めに椿お嬢様を貴方様にお返し致したい所存。でもその前に貴方様のお気持ちをお聞かせ願えますか」

 問いかけに柊は思わず笑ってしまった。予想外の反応に山井が驚く。
 ここまで来ておいて、あれだけ話しておいて、今更気持ちを聞くのか。ダメ元できた割には確信があったように思える。無関係だと言いながらも椿の詳細を得ているということは皇家の使用人に内通者がいるのではないだろうか。だから算段なく話を持ちかけてきたわけじゃない。巨大な岩を転がすのに蹴って殴ってと無意味な行動をするような人じゃない。ちゃんと使える物を探すタイプだ。
 入籍まで二週間。それはきっと普段の二週間とは違い、きっと迷いを見せた瞬間に過ぎ去ってしまう瞬きをする一瞬のように短いものだろう。

「俺の気持ちなんてあの日から何も変わってませんよ」

 振り返った先にあるカレンダーを見る。おしゃれとは言い難い日めくりカレンダー。この部屋には合わない物。それを一人になった今も外さず、二月三日で止まっている。椿が去った日。今もずっと気持ちは変わっていない。

「覚悟はございますか? 今、貴方様が手にしておられる物全てを失う覚悟が──」
「覚悟なんてする必要もない。欲しい物は一つしかないんですから」

 そう言いきった柊の笑顔に山井が唇を結んで立ち上がった。

「山井さん? ッ!? ちょっ、何を……!」
「恥を偲んでお願い申し上げます」

 床の上に正座してから頭を下げるまでの滑らかな動きに見惚れている場合ではない。土下座をする山井を立たせようと慌てて椅子から降りて床に膝をつき、腕を掴もうと伸ばした手が山井の声によって止まる。

「椿様のために全てを捨ててくださいッ」
 
 震えた声が懇願する。人に全てを捨てろと言うのは簡単ではない。誰にだって生活がある。人生がある。それを一人の女のために捨てろと言う事にどれほどの覚悟がいるのか。不躾、無礼、非常識なんてものじゃない。人に従事する事を人生として選んだ彼には辛い選択のはずだ。厚顔無恥だと自分を責めてもいるだろう。背中の震えがそれを物語っている。

「頭を上げてくれたらお願いを聞きます」

 頭を上げるしかなくなる言葉に身体を起こした山井が見たのは柊の笑顔。
 ぐるっと家の中を見回す柊を見つめる。

「俺、自分で言うのもなんですけど、顔も良いし要領も良いし、一流企業に勤めて年収も誇れるほどあるんです。所謂勝ち組ってやつ。だからそれに見合うようにこの家を買いました。こんな良い家に住んでる俺ってかっこいい。これが俺の生活水準だってナルシスト入ってるけど一目惚れ?みたいな勢いで手に入れた自慢の家」

 山井の表情が曇る。自分のお願いはそうした彼の願いが、思いが込められた家さえも手放せと言っているのだから。勝ち組である人生すら手放せと。

「でもね、この家が居心地良いって思うようになったのは椿と暮らし始めてからなんです。残業なんかせずに早く帰りたい。仕事なんかマジでクソだって思うようになった。椿がこの家にいて、笑顔で出迎えてくれて、美味い飯を作ってくれるあったかい家にしてくれたからこの家がもっと好きになった。でも今はこの家に帰りたくないって思うんです。彼女がいないこの家は、俺にとって帰る価値のない場所。そこら辺にあるホテルも同然に感じるんです。寝るためだけの部屋だって」

 そう語る柊の顔から笑顔が消える事はない。

「ここ捨てて椿が戻ってくるなら喜んで捨てますよ。」

 言いきった。

「こんな物失ったところで痛くも痒くもない。椿がいればどこでだって生きられる。逆に椿がいなきゃどこにいても生きてるって実感がない。たった三ヶ月しか一緒にいなかったけど、俺は彼女を愛してるんです。全てを捨ててもいいと思えるほど彼女を愛してる」

 そう口にすることに迷いはなかった。椿が戻るなら勝ち組の人生など捨ててやる。金も地位も名誉もいらない。欲しいものはたった一つ。それがこの手に戻るなら無職になろうと笑ってやる。

「だから山井さん、お願いします。俺も一緒に彼女を迎えに行きます」

 崩壊した涙腺を、決壊し溢れ出した涙を隠すようにまた頭を下げた山井が震えた声を絞り出して「ありがとうございます」と言った。
 彼の涙が止まるまで声をかける事はせず、背中をポンポンと叩いて床の上であぐらをかいた。
 進めないと諦めていた道に希望の光が見えた。それは駆け出すほど大きなものではないが、掴もうと歩き出せるもの。不安はある。でも動き出すことに後悔はない。むしろ晴々とした気持ちですらあった。
 準備が出来たら連絡する。そう言って山井は帰っていった。
 今すぐには迎えに行けない。期限は二週間。策があるのだろう山井を信じて待ちながら柊も準備をすることにした。全てを捨てる準備を。
 ダメかもしれない。家も会社も全て失って、結果はやっぱりダメでしたと膝をつくことになるかもしれない。でも最初で最後のチャンスに予防線を張るほど利口ではない。イージーモードの人生だろうと関係ない。全て捨てると約束した。そうしなければ手に入らないほどの宝物を手に入れるのだ。後悔はない。

「よし、やるか」

 椿同様、最初で最後の足掻きを始める。
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