白に焦がれる紅き誓い

永江寧々

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柳雲リウユン来てくれ!」

 黒龍白虎ヘイロンバイシー本部の医務室のドアを蹴破る勢いで開けた瑞成は手当てを血まみれの人間など視界に入っていないかのように齢八十を超えた老人を雷真ライシンに抱えさせ、先に走らせた。

ジジイの鞄これ!?」
「そ、そうです!」
「解熱剤入ってる!?」
「た、たぶん!」
「たぶんじゃ困るんだよ! 解熱剤出して! 早く!」
「は、はい!!」

 看護師が棚の中から慌てて解熱剤が入った袋を取り出すとひったくりのように奪われ、来た道を戻っていく瑞成に誰もがポカンとしていた。

瑞成ルイチェン、さん?」

 瑞成が慌てる姿を見たことがある人間はほとんどいない。誰もが彼の飄々とした表の一面を見て、それを彼の象徴としている。それが血相を変え、慣れた手つきで医者を攫っていった様子には驚きを隠せないでいた。

「瑞成! 説明せんか!」
「説明なんかしてる暇ない! とにかく診てほしい患者がいるんだ!」
「ワシが患者診ておったことは無視してお前の知り合いを助けろと?」
「そうだよど! どうせ刺されたか撃たれたかだろ! 死んでないなら大丈夫だって! 看護師がいれば処置はできる! 優秀な子雇ってんだから問題ない! こっちはそれどころじゃないんだから!」

 大男に担がれながら目的地に向かうのは初めて。長く黒龍白虎に所属している柳雲でさえこんな瑞成を見るのは初めて。初めてが同時に二つ起きている現状に、一体何事だと怪訝な表情は浮かべるも拒否はしなかった。

紫雫楼ししつろう? お前、いつの間に女を──」
「いいから早く!」

 ドアを開けて玄関に入ると大広間からは更に香姫こうきの数が減っていた。嫌な予感がすると人の声がする奥へと全速力で走っていく。

「どいて!」
「な、なんやの!?」

 道を開けるよう手で促すと香姫たちは驚きながら従う。大きな足音を立てながらやってきた雷真が部屋の前で柳雲を下ろした。

「梅毒と言われても治療法はないぞ」
「娼婦じゃないんだよ!」
「娼婦じゃないならなん……」

 布団の上で浅い呼吸を繰り返しながら朦朧としている状態の少女を見て驚いた。娼館にこんな若い子供が働いているのかと瑞成に振り返るもそれどころではないと彼の表情を見て瑞成の手から鞄を取り、側に座った。

「熱はいつから出ていた?」
「四日前。顔色があまり良くなくて少し早めに寝かせたんだが、翌日の朝にはもう熱が出ていた」
「医者には診せたのか?」
「ああ。医者を呼んで解熱剤を出してもらった」
「でもそれが効かへんねん!」

 廊下で心配そうに見守る香姫たちに下がるよう瑞鳳ズイホウが指示する。

「出された解熱剤を置いておけ」

 呼んだ医者が出してくれた解熱剤が入った袋を開けて一包取り出し、盆の上に置く。

「進行しておるな」
「進行って!?」

 顔色は青白く、唇は青紫になっている。布団を捲って手を持ち上げて爪を見るとそこも唇と同じで青紫。濡らした布で何度も汗を拭くが、すぐに滲んでくる。

「少し開けるぞぃ」

 寝巻きの前を開けて胸に耳を押し当て、誰にもその場を動かず一言も発さないよう口に指を立てる。

捻髪音ねんぱつおんが聞こえる」
「咳が止まらないんです」
「そうじゃろうな」

 胸をジッと見つめる柳雲の眉間に皺が寄る。胸の動きが不均等で、片方だけで呼吸しているように見えている。

「肺炎を患っておる」
「なんで!? すぐに医者呼んで薬飲ませてんで!? なんですぐ下がらんかったん!?」

 紅蓮コウレンに落ち着けと手で促しながら解熱剤が包まれた紙を開いてそれを指で掬って舐めた。

「こんないい加減な調合で解熱効果などあるわけがない」
「いい加減って……」
「薬というものは本来、患者の症状に合わせて煎じねばならん。これはそもそも解熱効果のある薬草を使っておらん。何の薬を出したのか……胃腸薬か?」
「あのクソ医者ッ……ボコボコにしたる!」
「紅蓮落ち着きなさい! それは雪儿シュエアルが治ってから皆で行ってすればいいことだから!」
「今ボコらんと気が済まん! アイツがちゃんと調合しとったら雪儿がこんな苦しむこともなかったんやで!」
「今は一人でも多くの祈りが必要なの。その怒りを祈りに変えてちょうだい」

 祈りで病気が治るなら医者は必要ないと紅蓮は思うが、医療の知恵もない自分にできるのは祈ることだけだとその場に座り込んで目を閉じた。
 唇が震え、涙が頬を伝う。

「雪儿、熱出たらいつも長引くからって安易に考えとった……」

 呼吸音の異常。聞こえる捻髪音。異常な発汗。顔色、唇、爪の変色。呼吸が浅く、見るからに息苦しい。肺炎だと柳雲は判断し、瑞鳳に必要な物の準備を頼んだ。数名の香姫が手伝うと立ち上がってバタつく中、杏儿シンアルは大粒の涙を流しながら雪儿の手を握って同じ言葉を繰り返していた。

「連れて行かないで。雪儿を連れて行かないで。命が一つ必要なら私のを差し出すから、雪儿を連れて行かないで。お願いします。お願いします……!」

 何度も何度も繰り返していると雪儿の目がうっすらと開いた。

「雪儿!」

 顔を覗き込むも焦点は合っていない。

「雪儿、聞こえる? 大丈夫だからね。お医者様がすぐ治してくれるから。苦しいのなくなるからね。大丈夫よ」

 返事はない。頷きも。

「話しかけても無駄じゃ。朦朧とした状態で、目を開けたのは筋肉の反射か何かだ」
「雪儿、大丈夫よ。ここにいるからね。皆がついてるから大丈夫よ」

 もっと早く、もっと優秀な医者の所へ連れて行くべきだったと押し寄せる後悔に唇を噛む。
 昔は身体が弱くて、冬になると高熱を出して寝込むことがよくあった。ここで色々な物を食べるようになってからはそれほど頻繁に崩すわけではなくなったが、年に数回は風邪を引いて寝込むことがあった。それでもこれほど悪化したことはなかった。

「に……」
「ん? 何?」
「……にゃ……」
「雪儿……」

 誰を呼んでいるのかわかった。

ニャン……」

 母親が見えているのか、雪儿の指先は何かを探すように動いている。

「まっ……て……」
「雪儿! 雪儿こっち見て! ジエちゃんのほう見て! 娘じゃなくて姐ちゃんのほう見て! 声がするほうに来て! そっちに行っちゃダメッ!」

 大声で呼びかけ揺さぶる。母親は連れて行ったりしないと信じているが、雪儿は追いかけるかもしれない。駄目だと言っても縋り付くかもしれない。たった八年しか一緒に居られなかった母親を恋しく思う日もあるだろう。代わりを気取っても母親にはなれない。匂いも優しさも声も違う。姉は結局、姉でしかない。それでも杏儿にとって雪儿は妹であり娘でもある。連れて行かないでと泣きじゃくりながら何度も訴える。
 手を合わせる香姫たちにも力が入る。

「雪儿……」

 離れておくべきなのだろう。わかっている。だが、瑞成の身体はそれに従わなかった。
 杏儿の反対側の雪儿の横に胡座をかいて座ると汗だらけの顔を撫でる。

「雪儿、大丈夫だよ。この爺さんね、知識と薬の調合技術に関しては龍渓ロンシーイチだから。君の苦しみも痛みもすぐに楽にしてくれるよ。苦しいのはもうすぐ取れるからね。大丈夫大丈夫」

 声をかけることしかできない。守りたいという気持ちは結局は自己満足でしかなく、一番苦しんでいるときに声をかけることしかできない無力さに打ちのめされる。

「……ルイ……チェ……」

 雪儿の瞳は既に閉じており、見えていないはず。朦朧とする意識の中で雪儿が感じ取ったのが匂いであると瑞成は気付いた。

『ええ匂いやなぁってずっと思っとった』

 今朝、瑞成は身なりを整えるのに時間を使った。いつもそれなりに時間をかけるのだが、今日は特別。梅雨が明け、気合を入れて紫雫楼を訪れるつもりだったから。雪儿が好きだと言ってくれた匂いを纏い、変な匂いと嫌な顔をされないようにと願いながらやってきた。
 だからこそ、涙が出そうだった。

「杏儿、ごめん」

 そう言った直後、瑞成は雪儿を抱き上げて膝に乗せた。母親が子供を膝の上で寝かしつけるように抱え、抱きしめる。

「瑞成……や……」
「うん。ここにいるよ。雪儿の傍にいるからね」

 苦しげに浅い呼吸を繰り返すばかりだった雪儿の目尻から涙が流れる。それを指先で拭ってやっては「大丈夫」と声をかける。額に口付けを落としては頬を乗せて大丈夫と繰り返す。

「ル、イ……」
「喋らなくていい。無理して呼ばなくてもここにいるから。どこにも行かない。雪儿の傍にいるよ」

 浅い呼吸では喋るのも苦しいだろうと傍にいることがわかるように密着する。それでも何度も名前を呼ぼうとする雪儿に瑞成は何度も「うん」「何?」「ここだよ」と返事をし続けた。
 杏儿は何をするんだと言うこともできなかった。安静に寝かせろと言うことも、触るなと言うこともできない。母親の姿を見ていた雪儿は今、瑞成の匂いに縋り付いている。どこにも行くなと言わんばかりに、迷子の子供のように名前を呼んでいる。
 グッと拳を握り、ギュッと目を閉じたあと、立ち上がって部屋を出ていった。

 
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