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第一章 襲われがちなアラサー女子
第9話 不審者に襲われるっ!
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◇◇◇◇
瑠美とのランチをした日から数日。
いつもの日常に戻りつつあった。
「ゆずゆず~。瑠美、子どもの迎えあるからお先ね」
「うん、お疲れ様」
「同窓会の件も忘れないでよー」
「わかってるって」
十六時、瑠美、退勤。
私の時間はこれからが長い。
瑠美のように早くに結婚して子供がいたら、こうして長時間拘束されることもなかったのかなぁとも思うが、私がそうしない未来を選んだのだから自業自得である。
「やぁ、上村さん」
机に座る私に対し、突然、一人の男性がキザな感じで視界に入り込んでくる。
妙に距離が近く、少し嫌悪感がした。
「あ、えっと真田さん、お疲れ様です」
キザな男性は一応知り合いであった。
真田幸男。
三十代後半、シワのない紺色の高級スーツに身を包み、真っ白なインプラントの歯が輝く男。
「もしかして今日も残業かい? 流石に毎日となるといただけないなぁ。俺が許可するから今日はもう上がると良いよ。俺も丁度仕事が終わったから送っていくよ」
真田は、サラッと私の背中に腕を回してくる。
なんだか体の感触を確かめているような触り方に虫酸が走る思いがした。
「いえ、結構です」
「まぁまぁそう言わずに。最近は”不審者”が出るから危ない。それにさ、一応俺ってこの会社の役員なんだけど、上村さん、そこのところ分かってる?」
「それは……」
そう、面倒なことに真田は会長の息子で、現在は役員である。
その肩書で好き勝手しており、会社の金で派手に豪遊しているという噂だ。
他の役員も彼には逆らえず、追従している状況だという。
困ったことに私は、以前から真田に言い寄られており。
仕事の一点張りで誘いを躱してはいるが、断り続けるのも難しくなってきた。
そんな折、助け舟が入る。
「……真田さん、私の部下をあまり困らせないでもらえますか?」
「鬼椿……」
少し早口で真田に圧をかけたのは、パンツスーツを身に纏ったショートカットの女性。
目には化粧ではごまかしきれないような隈があるものの、キリッとした眉や目元は、仕事が出来るキャリアウーマンだ。
彼女の名は鬼椿玲香、私の上司である。
「あ、そういえばこの間、明日歌とお茶したんですよ。……真田さんが最近ゴルフや飲み会ばかりで帰りが遅いって愚痴ってましたよ?」
鬼椿課長はそう言って訝しむような視線を向ける。
言外には、「ゴルフなんて行ってませんよね、奥さんを放っておいて女遊びしてますよね」という意図が伝わってくるようである。
真田の奥さんと鬼椿課長は高校の同級生で、今でも中が良いらしい。
そういうわけで、会社内で真田に対抗できるのは唯一鬼椿課長だけだったりする。
「……ッ! だったら何だと言うんだ」
「たまには家族サービスでもしてあげたほうがいいんじゃないですか? 明日歌やお子さんも寂しがってるでしょうし」
「~~~ッ! お前にそんなことを言われる筋合いはない! ……チッ! これだから売れ残りの年増は嫌いなんだ」
真田は先程までの余裕のある態度は何処にもなく、顔を歪め、捨て台詞を吐き捨てながら去っていった。
「……すみません、鬼椿課長。ありがとうございます」
「いいのよ……。あいつ妻帯者のくせに、新入社員の子にも手を出すクズだから。また何かあったら言いなさい」
「はい。……あの鬼椿課長はあんなこと言っちゃって、大丈夫ですか? 目をつけられちゃうんじゃ……」
鬼椿課長は頼もしい。
しかし私のせいで鬼椿課長がやり玉に挙げられたりするのは嫌だった。
「平気よ。私、もともと上から目をつけられているし、クズ野郎に一言二言いったところで何も変わらないわ」
「強いんですね、鬼椿課長」
「……どうかしら、こんな感じだからあのクズの言うように売れ残りの年増になっちゃったのかしらね。上村さんは私みたいにならないように気をつけなよ。……じゃないと、全部が虚しくなっちゃうから……」
鬼椿課長はそう言って遠くを見るような少しさびしそうな表情をした。
その言葉はひどく私の胸に突き刺さった。
この間瑠美が言っていたことを思い出す。
三十八歳の現在管理職に就いているものの、進退に陰りが見えてきたという。
その話が本当であれば、これまで仕事に全力を注いできた分、落胆が大きいのかもしれない。
「……あの、私は鬼椿課長のこと、尊敬してますから!」
私はかける言葉が見つからず、とっさに告白めいたテンションでそんなことを言ってしまう。
鬼椿課長は一瞬きょとんとした後、微笑み返してくれた。
これまで見たことのないような女性らしい柔らかい表情で、なんだか私はドキッとしてしまう。
「ふふ、ありがとう。……あ、高橋くん」
「は、はい……なんですか?」
鬼椿課長はふと何かを見たのか、デスクに座る気弱そうな青年の名前を呼んだ。
青年はバツが悪そうに反応する。
(あー、また隠れてスマホをいじってたんだろうな)
私はそんな推測をする。
私と同い年で四年後輩の、高橋文哉。
普段はおとなしい性格をしているが、大学卒であることを笠に着たような話し方をしたり、女性蔑視とも取れる発言をしたりするので、課内でも度々揉め事を起こしたりする。
同い年ということで私も話しかけられることはあるが、オーガニックな感じの匂いの香水がきつくて私も苦手としている。
「あなたも、もし上村さんがあの男に絡まれてたら助けてあげてね」
「え、普通に無理でしょ。役員相手に逆らえるわけないじゃないですか。課長は僕のキャリアを何だと思ってるんですか? もしかしてパワハラですか? 録音しますよ」
高橋くんはまるで人間嫌いの犬のように病的な反応をする。
少し狂気を孕んでいて、自分こそが正義というような頑として譲らない勢いである。
女性に対してはこう威勢がいいと言うか、何か気に入らないことがあると、鬼椿課長にも食って掛かるのだ。
「じゃあいいわ、ごめんなさいね。でもスマホはしまって、仕事に戻ってくれる?」
「……はい」
コミュニケーションに難があることは明らかで、誰が何を言おうと自分の否を認めないことから、鬼椿課長でさえも深く付き合おうとはしていない。
ふと鬼椿課長と目が合う。
その目が「めんどくさっ」と言っているのは明白だった。
「あ、上村さん、これから私進捗会議に出るからしばらく空けるわね」
「わかりました」
(これから会議かぁ)
私はなんとなく長引きそうな予感がした。
◇◇◇◇
二十一時。
社内の電気の殆どが消灯して、柚月のいる広報課の区画だけが薄明かりに照らされている。
コーヒーはもう冷めてしまった。
新しく汲みに、給湯室に向かうと、いつものように社内掲示板がある。
『不審者に注意』
最近、近辺に出没するようになったらしく、代金は何かと注意喚起の張り紙を目撃する。
「これ、堂島くんのことじゃないよね……」
深夜に大声を出している時点で不審者には違いないが、この不審者のように女性に襲いかかったりしないだろうから、別人だろう。
「ヒヒッ……気をつけたほうがいいよ、上村さん……」
「ひゃっ」
突然、背後から声をかけられる。
振り返れば、不気味な猫背の男が立っていた。
「なんだ窓際さん……びっくりさせないでくださいよ……」
窓際正雄。
広報課の一員であるが影が薄く、社内にいないことの方が多いため、謎が多い。
どんな仕事をしているのかはわからないが、様々な地元企業に伝のあるらしい。
「ヒヒッ……上村さん、いつも残業しているね。あまり無理はしないほうがいい……」
「ご、ご心配ありがとうございます」
一応心配してくれているのだろう。
ただ、どうにも不気味な館の案内人のような風貌や言い回しが気になってしまう。
「ヒヒッ……上村さんは可愛いからねェ、夜道は気をつけたほうがいいよ。これは窓際おじさんからの忠告だ……」
「は、はい、お気遣いありがとうございます」
窓際さんはそれだけ言い残すと「ヒヒッ」と笑いながら幽鬼のように去っていった。
(なんだったんだろう……)
ふと、スマホの通知を確認する。
しかし、定期更新の通知がない。
電子コミックのアプリを開いてみるも、やはり更新されていない。
「今週は舐犬彼氏の更新はなしかぁ」
仕事終わりの楽しみがないというのは正直堪える。
柚月が残業をこなすことができるのは、すべて舐犬彼氏のおかげなのだが、それがないとなるとやはり精神衛生上よろしくない。
「……堂島くん大丈夫かなぁ」
舐犬彼氏の作者、堂島清光くん。
一体今は何処で何をしているのだろう。
そう思っていると廊下の先から人影が近づいてくる。
その足取りはゆったりしていて、足取りはおぼつかない。
「あ、鬼椿課長」
「……あぁ、上村さん」
人影は鬼椿課長だった。
少し疲れた表情をしていて、なんだか昼間のような迫力はない。
「あの、鬼椿課長大丈夫ですか」
「……今日はもう上がっていいわよ」
「えっ……でも株主総会の報告資料がまだ……」
私が残業しようとすると、鬼椿課長は少し苛立ち混じりに頭をかく。
「っ……それはいいから。もう退勤しなさい、いいわね」
鬼椿課長は有無を言わせぬ調子で言った。
明らかに本調子ではない。
おそらく長引いていた会議で、偉い人に詰められたのだと思う。
「はい……」
なにかしてあげたいが上司に帰れと言われた以上、私は従うしかなかった。
◇◇◇◇
会社を出てからふと、視線を感じた。
先ほど窓際さんに、忠告されたからだろうか。
あるいは、不審者という言葉が耳に残っていたからだろうか。
妙に意識が過敏になっていた気がする。
私は足早で歓楽街を通過し、バスに乗り込んだ。
二十分ほど揺られた後、いつものバス停で降りる。
少し歩けば堂島くんと再会した地点の橋だ。
橋の街灯には、蛾をはじめとする夏の虫たちが飛び回っていた。
たまにカブトムシが顔に激突してくることもあるのが困りものだ。
毎年の夏の風物詩ではあるが、今日は少し雰囲気が違った。
ーー街灯の一つが不気味に点滅している。
パチパチと音を立てて青白い光が灯っては消えを繰り返す。
その間隔がまちまちなのが、不安を掻き立てる。
(あれ? 今何か……?)
点滅する街灯の下に人影が見えたような気がした。
黒いレインコートを身にまとった不気味な人影だった。
私は目をこすり、再び街灯の下を見る。
しかし、ーーそこには誰もいなかった。
「き、気の所為だよね」
私は、内心バクバクに恐怖を感じながらも歩き出す。
ハンプスの音が夜の帳が下りた世界に響き渡る。
カツカツ。
……カツ。
一瞬、足音が重なったような気がした。
ドクンと心臓の脈が跳ね上がる。
気のせいだと思いたいが、私の直感がそれを否定する。
カツカツ。
……カツ……カツ。
(……やっぱり、誰か後ろから付いてきてる!)
「ハァ……ハァ……!」
私は恐怖した。
心拍数が上がり、生きが荒くなる。
もしかしてバスに乗る前に、感じた視線の人物だろうか。
(や、やっぱり不審者?!)
そうだとしたら最初から狙いは私だったということ。
私は歩く速度を早めた。
(怖い、怖い……!)
あまりの恐怖で目からは涙が流れていた。
助けを呼ぼうにも人気がない場所だというのは分かっている。
「ハァ……ハァハァ……お願い、助けて……堂島くん……堂島くん……」
私は無意識にその名を呼んでいた。
あんなことをされたのにどうしてかわからない。
カツカツカツカツ。
……カツ……カツカツ……カツカツカツ。
しかし私の背後の人物もまた、歩みを加速させた。
その速度は私よりも早く、足音はどんどんと近づいてきた。
(私の鈍足じゃ振り切れない……! だめ、追いつかれるッ!)
そして、ついに肩を掴まれた。
私の恐怖は最高潮に達する。
「おい、柚月……ぎゃあ!」
「きゃぁぁぁああああ!」
私は叫び声を上げた。
しかし何故か不審者の方が先に叫び声を上げていた。
それになぜか私の名前が呼ばれた気がする。
ただ、それよりも振り返るとそこには……。
「ーー上村さん、大丈夫か」
サラリーマン風の男を捕らえた堂島くんが立っていた。
以前とは違い、少し日に焼けた姿だったが、それでも見間違えるはずがない。
安心するような低い低音ボイスが、私の恐怖に固まった心を柔らかく解きほぐす。
「うぅ……堂島くん……」
私は、気づけば堂島くんに抱きついていた。
瑠美とのランチをした日から数日。
いつもの日常に戻りつつあった。
「ゆずゆず~。瑠美、子どもの迎えあるからお先ね」
「うん、お疲れ様」
「同窓会の件も忘れないでよー」
「わかってるって」
十六時、瑠美、退勤。
私の時間はこれからが長い。
瑠美のように早くに結婚して子供がいたら、こうして長時間拘束されることもなかったのかなぁとも思うが、私がそうしない未来を選んだのだから自業自得である。
「やぁ、上村さん」
机に座る私に対し、突然、一人の男性がキザな感じで視界に入り込んでくる。
妙に距離が近く、少し嫌悪感がした。
「あ、えっと真田さん、お疲れ様です」
キザな男性は一応知り合いであった。
真田幸男。
三十代後半、シワのない紺色の高級スーツに身を包み、真っ白なインプラントの歯が輝く男。
「もしかして今日も残業かい? 流石に毎日となるといただけないなぁ。俺が許可するから今日はもう上がると良いよ。俺も丁度仕事が終わったから送っていくよ」
真田は、サラッと私の背中に腕を回してくる。
なんだか体の感触を確かめているような触り方に虫酸が走る思いがした。
「いえ、結構です」
「まぁまぁそう言わずに。最近は”不審者”が出るから危ない。それにさ、一応俺ってこの会社の役員なんだけど、上村さん、そこのところ分かってる?」
「それは……」
そう、面倒なことに真田は会長の息子で、現在は役員である。
その肩書で好き勝手しており、会社の金で派手に豪遊しているという噂だ。
他の役員も彼には逆らえず、追従している状況だという。
困ったことに私は、以前から真田に言い寄られており。
仕事の一点張りで誘いを躱してはいるが、断り続けるのも難しくなってきた。
そんな折、助け舟が入る。
「……真田さん、私の部下をあまり困らせないでもらえますか?」
「鬼椿……」
少し早口で真田に圧をかけたのは、パンツスーツを身に纏ったショートカットの女性。
目には化粧ではごまかしきれないような隈があるものの、キリッとした眉や目元は、仕事が出来るキャリアウーマンだ。
彼女の名は鬼椿玲香、私の上司である。
「あ、そういえばこの間、明日歌とお茶したんですよ。……真田さんが最近ゴルフや飲み会ばかりで帰りが遅いって愚痴ってましたよ?」
鬼椿課長はそう言って訝しむような視線を向ける。
言外には、「ゴルフなんて行ってませんよね、奥さんを放っておいて女遊びしてますよね」という意図が伝わってくるようである。
真田の奥さんと鬼椿課長は高校の同級生で、今でも中が良いらしい。
そういうわけで、会社内で真田に対抗できるのは唯一鬼椿課長だけだったりする。
「……ッ! だったら何だと言うんだ」
「たまには家族サービスでもしてあげたほうがいいんじゃないですか? 明日歌やお子さんも寂しがってるでしょうし」
「~~~ッ! お前にそんなことを言われる筋合いはない! ……チッ! これだから売れ残りの年増は嫌いなんだ」
真田は先程までの余裕のある態度は何処にもなく、顔を歪め、捨て台詞を吐き捨てながら去っていった。
「……すみません、鬼椿課長。ありがとうございます」
「いいのよ……。あいつ妻帯者のくせに、新入社員の子にも手を出すクズだから。また何かあったら言いなさい」
「はい。……あの鬼椿課長はあんなこと言っちゃって、大丈夫ですか? 目をつけられちゃうんじゃ……」
鬼椿課長は頼もしい。
しかし私のせいで鬼椿課長がやり玉に挙げられたりするのは嫌だった。
「平気よ。私、もともと上から目をつけられているし、クズ野郎に一言二言いったところで何も変わらないわ」
「強いんですね、鬼椿課長」
「……どうかしら、こんな感じだからあのクズの言うように売れ残りの年増になっちゃったのかしらね。上村さんは私みたいにならないように気をつけなよ。……じゃないと、全部が虚しくなっちゃうから……」
鬼椿課長はそう言って遠くを見るような少しさびしそうな表情をした。
その言葉はひどく私の胸に突き刺さった。
この間瑠美が言っていたことを思い出す。
三十八歳の現在管理職に就いているものの、進退に陰りが見えてきたという。
その話が本当であれば、これまで仕事に全力を注いできた分、落胆が大きいのかもしれない。
「……あの、私は鬼椿課長のこと、尊敬してますから!」
私はかける言葉が見つからず、とっさに告白めいたテンションでそんなことを言ってしまう。
鬼椿課長は一瞬きょとんとした後、微笑み返してくれた。
これまで見たことのないような女性らしい柔らかい表情で、なんだか私はドキッとしてしまう。
「ふふ、ありがとう。……あ、高橋くん」
「は、はい……なんですか?」
鬼椿課長はふと何かを見たのか、デスクに座る気弱そうな青年の名前を呼んだ。
青年はバツが悪そうに反応する。
(あー、また隠れてスマホをいじってたんだろうな)
私はそんな推測をする。
私と同い年で四年後輩の、高橋文哉。
普段はおとなしい性格をしているが、大学卒であることを笠に着たような話し方をしたり、女性蔑視とも取れる発言をしたりするので、課内でも度々揉め事を起こしたりする。
同い年ということで私も話しかけられることはあるが、オーガニックな感じの匂いの香水がきつくて私も苦手としている。
「あなたも、もし上村さんがあの男に絡まれてたら助けてあげてね」
「え、普通に無理でしょ。役員相手に逆らえるわけないじゃないですか。課長は僕のキャリアを何だと思ってるんですか? もしかしてパワハラですか? 録音しますよ」
高橋くんはまるで人間嫌いの犬のように病的な反応をする。
少し狂気を孕んでいて、自分こそが正義というような頑として譲らない勢いである。
女性に対してはこう威勢がいいと言うか、何か気に入らないことがあると、鬼椿課長にも食って掛かるのだ。
「じゃあいいわ、ごめんなさいね。でもスマホはしまって、仕事に戻ってくれる?」
「……はい」
コミュニケーションに難があることは明らかで、誰が何を言おうと自分の否を認めないことから、鬼椿課長でさえも深く付き合おうとはしていない。
ふと鬼椿課長と目が合う。
その目が「めんどくさっ」と言っているのは明白だった。
「あ、上村さん、これから私進捗会議に出るからしばらく空けるわね」
「わかりました」
(これから会議かぁ)
私はなんとなく長引きそうな予感がした。
◇◇◇◇
二十一時。
社内の電気の殆どが消灯して、柚月のいる広報課の区画だけが薄明かりに照らされている。
コーヒーはもう冷めてしまった。
新しく汲みに、給湯室に向かうと、いつものように社内掲示板がある。
『不審者に注意』
最近、近辺に出没するようになったらしく、代金は何かと注意喚起の張り紙を目撃する。
「これ、堂島くんのことじゃないよね……」
深夜に大声を出している時点で不審者には違いないが、この不審者のように女性に襲いかかったりしないだろうから、別人だろう。
「ヒヒッ……気をつけたほうがいいよ、上村さん……」
「ひゃっ」
突然、背後から声をかけられる。
振り返れば、不気味な猫背の男が立っていた。
「なんだ窓際さん……びっくりさせないでくださいよ……」
窓際正雄。
広報課の一員であるが影が薄く、社内にいないことの方が多いため、謎が多い。
どんな仕事をしているのかはわからないが、様々な地元企業に伝のあるらしい。
「ヒヒッ……上村さん、いつも残業しているね。あまり無理はしないほうがいい……」
「ご、ご心配ありがとうございます」
一応心配してくれているのだろう。
ただ、どうにも不気味な館の案内人のような風貌や言い回しが気になってしまう。
「ヒヒッ……上村さんは可愛いからねェ、夜道は気をつけたほうがいいよ。これは窓際おじさんからの忠告だ……」
「は、はい、お気遣いありがとうございます」
窓際さんはそれだけ言い残すと「ヒヒッ」と笑いながら幽鬼のように去っていった。
(なんだったんだろう……)
ふと、スマホの通知を確認する。
しかし、定期更新の通知がない。
電子コミックのアプリを開いてみるも、やはり更新されていない。
「今週は舐犬彼氏の更新はなしかぁ」
仕事終わりの楽しみがないというのは正直堪える。
柚月が残業をこなすことができるのは、すべて舐犬彼氏のおかげなのだが、それがないとなるとやはり精神衛生上よろしくない。
「……堂島くん大丈夫かなぁ」
舐犬彼氏の作者、堂島清光くん。
一体今は何処で何をしているのだろう。
そう思っていると廊下の先から人影が近づいてくる。
その足取りはゆったりしていて、足取りはおぼつかない。
「あ、鬼椿課長」
「……あぁ、上村さん」
人影は鬼椿課長だった。
少し疲れた表情をしていて、なんだか昼間のような迫力はない。
「あの、鬼椿課長大丈夫ですか」
「……今日はもう上がっていいわよ」
「えっ……でも株主総会の報告資料がまだ……」
私が残業しようとすると、鬼椿課長は少し苛立ち混じりに頭をかく。
「っ……それはいいから。もう退勤しなさい、いいわね」
鬼椿課長は有無を言わせぬ調子で言った。
明らかに本調子ではない。
おそらく長引いていた会議で、偉い人に詰められたのだと思う。
「はい……」
なにかしてあげたいが上司に帰れと言われた以上、私は従うしかなかった。
◇◇◇◇
会社を出てからふと、視線を感じた。
先ほど窓際さんに、忠告されたからだろうか。
あるいは、不審者という言葉が耳に残っていたからだろうか。
妙に意識が過敏になっていた気がする。
私は足早で歓楽街を通過し、バスに乗り込んだ。
二十分ほど揺られた後、いつものバス停で降りる。
少し歩けば堂島くんと再会した地点の橋だ。
橋の街灯には、蛾をはじめとする夏の虫たちが飛び回っていた。
たまにカブトムシが顔に激突してくることもあるのが困りものだ。
毎年の夏の風物詩ではあるが、今日は少し雰囲気が違った。
ーー街灯の一つが不気味に点滅している。
パチパチと音を立てて青白い光が灯っては消えを繰り返す。
その間隔がまちまちなのが、不安を掻き立てる。
(あれ? 今何か……?)
点滅する街灯の下に人影が見えたような気がした。
黒いレインコートを身にまとった不気味な人影だった。
私は目をこすり、再び街灯の下を見る。
しかし、ーーそこには誰もいなかった。
「き、気の所為だよね」
私は、内心バクバクに恐怖を感じながらも歩き出す。
ハンプスの音が夜の帳が下りた世界に響き渡る。
カツカツ。
……カツ。
一瞬、足音が重なったような気がした。
ドクンと心臓の脈が跳ね上がる。
気のせいだと思いたいが、私の直感がそれを否定する。
カツカツ。
……カツ……カツ。
(……やっぱり、誰か後ろから付いてきてる!)
「ハァ……ハァ……!」
私は恐怖した。
心拍数が上がり、生きが荒くなる。
もしかしてバスに乗る前に、感じた視線の人物だろうか。
(や、やっぱり不審者?!)
そうだとしたら最初から狙いは私だったということ。
私は歩く速度を早めた。
(怖い、怖い……!)
あまりの恐怖で目からは涙が流れていた。
助けを呼ぼうにも人気がない場所だというのは分かっている。
「ハァ……ハァハァ……お願い、助けて……堂島くん……堂島くん……」
私は無意識にその名を呼んでいた。
あんなことをされたのにどうしてかわからない。
カツカツカツカツ。
……カツ……カツカツ……カツカツカツ。
しかし私の背後の人物もまた、歩みを加速させた。
その速度は私よりも早く、足音はどんどんと近づいてきた。
(私の鈍足じゃ振り切れない……! だめ、追いつかれるッ!)
そして、ついに肩を掴まれた。
私の恐怖は最高潮に達する。
「おい、柚月……ぎゃあ!」
「きゃぁぁぁああああ!」
私は叫び声を上げた。
しかし何故か不審者の方が先に叫び声を上げていた。
それになぜか私の名前が呼ばれた気がする。
ただ、それよりも振り返るとそこには……。
「ーー上村さん、大丈夫か」
サラリーマン風の男を捕らえた堂島くんが立っていた。
以前とは違い、少し日に焼けた姿だったが、それでも見間違えるはずがない。
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