見捨てられ妻なので離縁を決意したら溺愛生活に突入しました!

屋月 トム伽

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1巻

1-3

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 城から出るために通る外廊下は庭に面していて風通しが良く、清涼な風に少しだけ気持ちが和らいだ。それに、朝よりも温かい。
 よく整えられた庭を見ていたら、フィルベルド様とアクスウィス公爵邸のバラ庭園を歩いた六年前のことを思い出した。
 金髪碧眼へきがんで、冷たい印象だったことはしっかり覚えている。その他は、何かあっただろうかと首をかしげた。そんな私を見ていたルトガー様が話しかけてくる。

「この庭は、騎士たちがよく休憩に使ったりもします。奥にはガゼボもありますから、今度フィルベルド様とご一緒すると良いですよ」
「フィルベルド様はお仕事がありますから、お邪魔はしません」

 そもそも、フィルベルド様は最初から私と一緒に住む気はなかった。今は、きっと屋敷が全焼したから気にしているだけだと思う。私たちにはお互いを知る機会はなかったのだから、私がルトガー様の言う「最愛の奥様」であるはずがないのだ。
 そのまま外廊下を進み馬車乗り場に行くと、一組の男女が目に付いた。
 クリーム色の髪を巻いている綺麗きれいな女性を、金髪の男性がエスコートしている。

(フィルベルド様だわ)

 フィルベルド様の出した手に、女性がそっと手を乗せて馬車に乗り込んだ。

(やっぱり、私に好意があるというのは勘違いね)

 フィルベルド様のそばには綺麗きれいな女性がいる。きっと、昼食もあのご令嬢とご一緒したのだと思うと胸がチクンとした。

「あれは……」
「あぁ、アスラン殿下の見舞いに来られていたご令嬢です。お見送りをしていますね」
「殿下の? ……わざわざお見送りをされるんですね」
「あの方は公爵令嬢ですし、部屋で寝込んでいると思われたくないんでしょう」

 確かにアスラン殿下じゃなくてフィルベルド様がお見送りをすれば、アスラン殿下は部屋で休める。でもどうしてフィルベルド様なのだろう。
 お見舞いに来た一人の令嬢を騎士団長自らが見送るなんて、ちょっと考えられない。

「……フィルベルド様は、人気がおありなんでしょうね」
「すごく人気はありますね。あの容姿に騎士団の団長でありながら、次期公爵ですから……ですが、気にすることはありません。寄って来る女性は大勢いますけど、フィルベルド様にはディアナ様がいますから」
「私たちは、白い結婚です」

 やはり、フィルベルド様とは早く離縁するべきだ。彼には女性がいる。私がいるせいで結婚できないのかもしれないと思うと、重くなる胸を手で押さえた。
 どうして好意があるような態度を取るのかわからないままルトガー様と、フィルベルド様が見送った馬車を見ていた。
 令嬢の馬車が見えなくなりフィルベルド様が踵を返すと、私とルトガー様に気づいて彼の足がピタリと止まる。ルトガー様と同時に私も頭を下げた。フィルベルド様は、それを見て早足にどこかへ行ってしまった。


 ルトガー様と馬車に乗り連れて来てもらったのは、リンディス伯爵家の王都の別邸タウンハウス。アクスウィス公爵家ほどではないが、リンディス伯爵家も大きなやしきだった。
 馬車が着くと、すぐに執事と下僕フットマンが迎えてくれる。

「こちらは、リンディス伯爵家ですよね? ご友人ですか?」
「はい。幼馴染おさななじみがいるんです」

 下僕フットマンが開けた馬車の扉からルトガー様と降りると、執事がいつも通りに邸内に招き入れてくれた。

「お嬢様。ご無事で何よりです」
「心配してくれていたのね……ありがとう」

 昔から、友人のイクセルがいるこのやしきに遊びに来ていたから、執事とも旧知の仲だった。
 いつも優しいイクセルの執事は、フィルベルド様の屋敷が全焼し騎士団に私が捜索されていたから、心配してくれたようだ。

「それで、イクセルに会いに来たのだけど……」
「イクセル様でしたら」

 そう執事が言いかけたところで、その本人が心配そうにやって来た。

「ディアナ。良かった……無事だったんだな。屋敷が全焼しても、死者がでたと聞いてないから、どこかにいるものだと思ったが……捜しに行こうかと思っていたところだったんだ」
「心配させてごめんなさい。でも、良かったわ。イクセルが領地に行っていたらどうしようかと思ったのよ」
「帰ったのは先ほどだ。執事も心配して、家に様子を見に行っていたらしいぞ。途中で捜索が終わったみたいだから、見つかったのでは? と今しがたまで話していたんだ」
「そうだったの」
「それよりも、こちらは?」

 私の顔を見るなり安心したイクセルがルトガー様に視線を向けると、彼が笑顔で名乗った。

「お初にお目にかかります。フィルベルド様の部下である、第二騎士団に所属しておりますルトガー・ケインズです。本日は奥様のお供で一緒に参りました」

 イクセルは、奥様というワードに驚いている。私を奥様という人どころか、これまでお供なんかいなかったからだ。

「フィルベルド様?」
「実は、夫が帰って来たのよ」
「良かったじゃないか。今度、ぜひ晩餐ばんさんに招待したい」
「……今度ね」

 再会後のフィルベルド様の行動を思い出すと、紹介することに気が進まない。むしろ、頭が痛い。そのうえ、私は離縁をしようとしているのだ。
 だけど……とりあえず、今日の晩餐ばんさんを何とかしなければと思ってイクセルに会いに来たのだった。

「イクセル。一番安いドレスを買うから、少しだけお金を貸してくれない? ドレスも全部燃えちゃったから、一枚もなくて……もちろんいつもの仕事は手伝うわ」

 夫婦だけとはいえ晩餐ばんさんにはドレスが必要だ。貴族は食事の度に着替えるのだ。面倒だけどそれが貴族の習慣。
 持っていたドレスは屋敷と一緒に燃えてしまった。私には家族はいないしお金もない。頼れるのはたった一人の友人のイクセルだけだった。

「いつも仕事を手伝ってくれているから、ドレスぐらいいつでも買ってやるが……」

 白い結婚のせいで夫にドレスの相談もできないのかと、顎に指を立てたイクセルが思案しながら言った。
 そんな私たちの会話を聞いていたルトガー様が、ドレスの心配をする私をいさめる。

「ディアナ様。ドレスを買うのに、お金をお借りする必要はありませんよ。フィルベルド様におっしゃればいいのです」

 ルトガー様が軽快に言った。
 だけど、私たちは結婚六年目の夫婦なのに相談し合うような関係ではない。それに屋敷を守れなかったことを考えれば、ドレスを買って欲しいなんてお願いなどできなかった。

「……フィルベルド様にご迷惑はかけられませんから」
「迷惑なんて思わないと思いますけど? もしかして、こちらに来られたのはドレスを準備するためでしたか?」
「……今夜一緒にお食事を、と言われていましたから。フィルベルド様に、恥をかかせたくなくて……」

 それに、フィルベルド様が見つめてくるから、ずっとあの部屋にいるのは限界だった。

「ディアナ様。ドレスは、フィルベルド様にお任せください。ディアナ様がお金を借りてまでドレスを準備したと知れば、フィルベルド様が悲しみます」

 ルトガー様が優しく言うけど、落ち込んでしまう。白い結婚とはいえ今の私じゃ妻失格だ。

「ディアナ。こちらの方の言う通りだ。フィルベルド様がお帰りなら、俺じゃなくてフィルベルド様を頼った方がいい。金はいつでも貸してやれるから」
「そうね……ありがとう。イクセル」

 イクセルが私を労る。しかし、あの甘く壊れそうなフィルベルド様を見れば、イクセルはどう思うのだろうか。

(言動が、六年前と別人のようになっているのよ!)

 しかも、ちょいちょい現れる女性の影。私の感情が追いつかない。だけど、イクセルの言う通りだと思えた。

「さぁ、帰りましょう。フィルベルド様がお待ちですよ。奥様に会えるのをずっと待ち焦がれていたのですから」
「そんなこと、あるわけないわ……」

 ルトガー様が帰宅を促すけど、フィルベルド様が私を待ち焦がれているなんて有り得ない。
 この六年、数少ないながらもフィルベルド様からの一方的な手紙も素っ気ないものだった。
『いつも同じ場所にいないから』とお義父様から聞かされていたし、フィルベルド様の仕事の邪魔をする気はなかったから、アクスウィス公爵家を通して私からの手紙を送ってもらうこともしなかった。
 落ち込む私を心配そうに見送るイクセルに別れを告げて、リンディス伯爵邸をあとにした。
 そうしてルトガー様と一緒に城の部屋に戻ると、フィルベルド様が書類を部屋に持ち込んで仕事をしていた。

「ディアナ。息抜きはできたか? 早く帰ってきてくれてよかった」
「はい……ただいま帰りました」
「あぁ、おかえり」

 おかえりと言われたのは久しぶりで、恥ずかしいながらもくすぐったく感じた。

「ルトガー。今日からアスラン殿下は三日ほどお休みになる。警護の手配は全て済ませたから、俺もその間は休むぞ。後は頼む」
「はい。定時報告には参ります」
「そうしてくれ。ディアナ、宿の手配はできたから一緒に行こう。ルトガーに仕事の話があるから、少しだけ待っていてくれ」
「はい。では、廊下で待っていますね」
「すぐに行く」

 テキパキと書類を取って動き出すフィルベルド様は、いかにも優秀な感じだ。思えば、二十四歳という若さで騎士団長についているのは異例のことではないだろうか。
 夫が優秀すぎる。やはり、離縁をすぐにしなければと思いながら廊下に出た。
 憂鬱な気分で廊下で待っていると、フィルベルド様はほんの数分で出てきた。

「待たせてすまない」

 そう言いながら、彼が私の肩を優しく抱き寄せてきてどきりとする。

「では、行こうか」
「はい」

 戸惑いながらも、私は初めて夫と並んで歩き始めた。


   ◇◇◇


 馬車に乗せられて着いた先は、古くからある格式の高い宿だった。
 宿を前に馬車がまって扉が開いた。フィルベルド様が降りると、私に向かって紳士的に手を差し出す。

「ディアナ、おいで」
「はい……」

 なんだろうか。恥ずかしさもあるが、こんな対応をされたことがなくて緊張する。
 馬車から降りると、支配人を先頭に何人もの従業員に出迎えられている。私は一体何者なのかと突っ込みたい。

「フィルベルド様。これは何ごとですか?」
「出迎えのことか? 昔からアクスウィス公爵家が利用している宿だから、いつものことだが……」

 さすが、この国の有力な貴族のアクスウィス公爵家だ。
 優雅な気品にあふれるホールで、フィルベルド様は堂々と支配人と挨拶を交わす。それに習い、私も淑女のように挨拶をした。

「荷物は部屋に?」
「はい。ご指示通りにお運びしました」

 フィルベルド様は、支配人に確認している。落ち着いた顔を見て、やはりこれが私の記憶にあるフィルベルド様だとうなずいた。意味不明な甘いフィルベルド様は何かの間違いだったと願いながら、彼に連れられるままに歩いていた。
 支配人の案内で通された部屋は、大きなベッドのある豪華な最上階の部屋だった。部屋のテーブルにはすでにウェルカムシャンパンが準備されている。それよりも驚いたのは、贈り物が積み重なっていることだった。
 呆然ぼうぜんとしている私の横を通り過ぎ、支配人は静かに部屋を去っていった。
 頭が真っ白になった。きしんだ人形のようにゆっくりと隣のフィルベルド様を見ると、ほんのりと笑みをこぼしている。

「ディアナへの贈り物を買っていたんだ。本当は屋敷に帰ってから並べるつもりだったが、焼けてしまったからな。ここには全部を持って来られなかったから、これはまだ一部なのだが……」
「買っていた!?」
「当然だ。ディアナへの贈り物をかかすつもりはない」

 その言葉に冷や汗が出そうになった。
 年に一度の贈り物。毎年、私の誕生日には、お父様が「フィルベルド様からだよ」と言って、髪飾りやネックレスなど何か一つ贈られていた。でもそれは、白い結婚をさせた娘を不憫ふびんに思ったお父様が、自分で購入して私に贈ってくれているのだと思っていた。そしてお父様が他界してからは、仕送りとともに贈り物は途絶えた。だから、余計にそう思った。

「……もしかして、毎年誕生日に贈り物を?」

 おそるおそる聞いてみる。

「もちろんだ」

 まさか、お父様の言う通り本当にフィルベルド様からの贈り物だったとは!
 最後の贈り物は、あの夜会で着ていた深紅のドレス。それも屋敷の火事で焼けてしまった。

「フィルベルド様。すみません……これまでに頂いたドレスもネックレスも、全てなくなってしまいました」

 落ち込んでしまい、顔が上げられないでいた。

「ディアナのせいではない。それに、この目で見て選んだわけではないから気にするな。隣国にいて自分で渡せなかったどころか、要望を伝えるだけで自分では選べなかった。申し訳ないのはこちらだ」

 私を気遣うフィルベルド様は優しい。何一つ責めたりしない。今も、私への贈り物を手に取り始めている。

「ディアナが気にいるものがあればいいが……自分の趣味には、自信がない」

 何と返事をしていいのかわからなくなり無言でいると、フィルベルド様が困ったように話し出した。

「……先ほどルトガーに聞いたが、晩餐ばんさんのためのドレスを自分で用意しようとしていたらしいな。だが、君は俺の大事な妻だ。ディアナになら毎日でも贈り物をしたい。そう思えるのは君だけだ」

 真っぐ私を見つめるフィルベルド様がうそを言っているようには思えなくて戸惑う。

「さぁ、これに着替えてくれるか? すぐに夕食だ。俺も着替えてこよう」
「はい……ありがとうございます」

 見つめられながら大事な妻と言われて、顔が赤くなる。渡されたドレスが入っているであろう箱を両手で受け取ると、フィルベルド様が目尻を細めて微笑ほほえんだ。

「着替えたら迎えに来るよ」
「は、はい」

 フィルベルド様は、後ろを振り返りながら去っていった。部屋に残された私は、広いベッドの上で大きな箱を開けた。落ち着いた黒っぽいドレスの裾には赤いバラの模様の刺しゅうが施されている。小さな箱にはバラの髪飾り。

綺麗きれいだわ……」

 胸に何かがじわりと広がった。潤んだ目尻をぬぐって、着替えなければと思い服を脱いだ。
 ドレスを整えたあとは、髪飾りをして少しでも見栄えよく見えるようにした。
 しばらくすると、部屋をノックする音が聞こえる。フィルベルド様だ。深呼吸をして扉を開けて彼を迎えた。そこには、見目麗しい彼がタキシード姿で立っていた。

「ディアナ。支度はどうだ?」
「はい、できました」

 照れながら応えると、フィルベルド様が無言になり口元を隠した。顔を横に向ける彼を見て、支度が遅くて怒ってしまったのかと思い、おそるおそる聞く。

「あの……お待たせしましたか?」
「いや。ディアナ……本当に綺麗きれいになった」

 私のドレス姿を見たフィルベルド様は、いとおしそうな様子で息を呑んだ。

「では、行こう」

 フィルベルド様が腕をそっと開ける。その腕に照れながら自分の手を添えて、宿の中にあるレストランの個室へと行った。
 二人の晩餐ばんさんが始まると、ワインが出てきた。食事に合い美味おいしいと思うが、フィルベルド様と初めての晩餐ばんさんに緊張する。落ち着かない気持ちでちらりと彼を見ると、視線が突き刺さりそうなほど彼が私を見ている。
 夫と初めての晩餐ばんさんをともにするのが、離縁を考えている妻だとは……余計に目の前の視線が痛い。

「ディアナ。こんなに美しい君と二人で晩餐ばんさんなんて夢のようだ」
「そ、そうですか……」

 また、おかしなことを言い出した。綺麗きれいなのはドレスだ。

「あの……ドレスはフィルベルド様がお選びになってくださったのですか? とっても綺麗きれいで……」
「隣国から帰る時に、ディアナへの土産をどうしても自分で選びたくて買ったんだ。初めて会った時に、バラに夢中になっていたから好きなのかと……違ったか? お父上からの報告書にも、花やハーブをよく観賞していたと書いてあったのだが?」

 その報告書は、是非とも確認したい。一体お父様は、何を書いていたのだろうか。

「バラは好きです。ハーブとかも、よく見ていましたけど……アクスウィス公爵邸のバラが今までで一番綺麗きれいでした」

 そう言うと、うれしそうに微笑ほほえむフィルベルド様。

「そうか……新しいやしきにはディアナのために庭園を造ろう。コンサバトリーもいいな。君の好きなバラやハーブを植えるのはどうだ? アクスウィス公爵邸のバラを植えてもいい。この休暇の間に、二人で新しいやしきを探さないか?」
「あ、新しいやしき?」
「新しいやしきはいるだろう。しばらくは宿でもかまわないが、早くディアナと暮らしたい」

 新しいやしきに思いをはせたフィルベルド様が、ワインを美味おいしそうに飲んでいた。
 離縁を考えている妻に新しいやしきはいらないと思う。庭園なんかもちろんいらない。と言いたいけど、目の前には次の料理が運ばれてきた。給仕をしているボーイがいるところで離縁の話なんかできずに、私もワインを飲んだ。
 メインには、美味おいしそうな魚料理がやってくる。しかし!

「……魚が好きなのも、書いてありました?」
「書いてあったぞ。今も変わらないだろうか? お茶も好きだということだが、茶葉の詳細は不明だったから教えてほしい。一緒にお茶も飲みに行こう。明日からが楽しみだ」

 いとおしそうに私を終始見つめる甘い様子の夫。顔が良すぎる。絶対に私の夫とは思えなかった。
 緊張した晩餐ばんさんが終わると、フィルベルド様と一緒に部屋の前まで来て二人の足が止まった。
 夫婦なのだから同じ部屋でも問題はないけど、私たちは普通の夫婦とは違う。夫婦関係のない私にいきなり夫婦の夜を求められても、私はどうしていいのかわからないでいた。

「……あの……フィルベルド様」

 動悸どうきのする胸を押さえながら、今夜はお断りしようとした。すると、フィルベルド様の手が伸びて私の頬に添えられた。彼の顔が近づいてきて、ギュッと目をつぶると、軽く唇が触れた。
 頬にキスされるだけで、私の顔は真っ赤にで上がる。バクバクと心臓が脈打った。

「フィ、フィルベルド様……っ」
「本当に可愛かわいい」

 優しく、甘くて、そして、どこかなまめいた雰囲気を醸し出しているフィルベルド様が、私の耳元でささやいた。

「わ、私っ……まだ……」
「ずっと離れていたからな……無理にはしない。今夜も部屋は別に取っている。隣の部屋にいるから、何かあればすぐに来てくれ」

 初めて頬にキスされただけで挙動不審になる私は、別の部屋という言葉を聞いてホッとした。

「だが、その可愛かわいい顔は誰にも見せないでほしい。俺だけのものだ」

 両手で頬を支えられたまま、赤ら顔のまま必死で首をブンブンと縦に振った。

「また朝も迎えに来る。おやすみ、ディアナ」
「お、お、おやすみなさい……!」

 慌てて部屋に飛び込んだ。そんな私を確認するかのように、フィルベルド様は落ち着いて見ていた。
 私は、部屋に入っても落ち着かない。鼓動の早い胸を押さえて息を整える。
 絶対にあれはフィルベルド様じゃない。彼に他人が乗り移っているレベルのおかしさだ。

(まさかっぺたにキスされるとは)

 いや、夫婦だからなんの問題もないけど……あんなに私を待ち焦がれていたとは予想してなかった。

「いったい、どうしましょう……」

 だからといって、頭の中にある離縁の文字は消えない。だってフィルベルド様には……
 それと、もう一つ。あんなにたくさんの贈り物を頂いて、私はまだ約束を果たしてない。そう思えば、やることは一つだと考えキュッと唇を噛み締めた。
 急いで動きやすい服に着替えて、そっと扉を開けた。フィルベルド様が廊下にいたらどうしようと思ったが、彼の姿は見当たらなかった。

「良かった……部屋に帰ったのね」

 ホッと胸をで下ろした。そのままロビーに向かい、外出用のカンテラを従業員に借りて急いで宿を飛び出した。

(早く借家に行かないと)

 夜は暗いが、深夜前の時間なら酒場などの通りには街灯がある。真っ暗の路地裏を歩くよりは安全だから、その道を選んで早歩きで進んだ。
 石畳の街路には、酔っ払いがふらつく足で歩いている。

(早く帰らなくちゃ)

 進行方向にあるバーに差し掛かろうとした時、突然店から男性が出てきた。気づいた時には遅く、ぶつかると思った瞬間、いきなり身体が後ろに引っ張られた。

「きゃっ……」

 バーから出てきた酔っ払いたちは、「ぶつかるところだった。ごめんごめん」とご機嫌で通り過ぎていった。

「ディアナ。危ないぞ」

 身体が抱き寄せられたのには既視感があった。自殺未遂の疑いをかけられた時と同じで、がっしりとした腕に捕らえられている。

「フィ、フィルベルド様……?」
「こんなところで何をやっているんだ? どこに行こうとしている」

 部屋に戻ってから着替えてないのか、フィルベルド様は晩餐ばんさんの時の正装のままで訝しんでいる。怒っているような低い声で表情が厳しい。

「フィルベルド様こそ、どうしてここに?」
「ディアナが宿から出て行くのが見えたからついてきた。君からは目が離せない」

 まさか、宿から出たのがバレていたとは。何も言わない私を見て、フィルベルド様の手にますます力が入った。

「どこにも行かないでくれ。宿が嫌なら、すぐにどこか別の場所を準備しよう」
「ち、違います! そのっ、ちょっとだけ家に帰りたくて……荷物を取ったら、ちゃんと帰ってきます」
「荷物が必要だったのか……なら言ってくれれば一緒に行ったのに。女性がこんな夜遅くに一人で出かけるものではない」
「……すみません」

 心配してくれているのがわかる。申し訳なくなりうつむいてしまう。フィルベルド様が私を離すと、彼が着ていた上着を私の肩にかけた。

「夜は冷える。着ていてくれ」
「でも、フィルベルド様が……」
「俺は大丈夫だ。ディアナに風邪を引かすわけにはいかん」
「あ、ありがとうございます」

 フィルベルド様の優しさに触れると、胸に痛いものはあるが赤くなる自分もいて、大きな上着に包まれた身体が縮こまってしまう。

「気にするな。家はどこだ? 一緒に行こう」
「街外れです……でも、驚かないでくださいね」
「では、行こう」

 もう隠せないと観念した。フィルベルド様は私の肩に腕を伸ばしてきた。突然の仕草に思わず慌ててしまう。

「フィ、フィルベルド様っ! 人に見られますよ!?」
「見られてもかまわないだろう。結婚しているんだから」
「でも……」
「それに、こんな夜遅くに離れて歩かせるわけにはいかん。せめて、手をつないでくれ」

 フィルベルド様の筋張った男らしい手を差し出される。
 恥ずかしいながらも、おそるおそるフィルベルド様の手に乗せるとしっかりと握られた。彼のもう片方の手は、私の持っていたカンテラを持った。

「すみません。勝手に出てきてしまって……」
「一度も家に寄らなかった俺も悪い。女性なら準備もあっただろう。それに、いつかディアナと手をつないで歩きたいとずっと願っていた」

 申し訳なさそうにする私と違って、フィルベルド様は何も責めたりしない。私が気にしないようにと気遣ってさえくれる。
 そんなフィルベルド様と夜の街を抜け、真っ暗な夜道を進み街外れへと二人で歩いた。

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