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番外編ユーリーの日常

#02 早朝

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縦横にその領地を広げる帝国インペラトリア
中心である帝都の大通りでは、早朝でも馬車や人々が忙しなく行き交っていた。

もうすぐ冬に差し掛かるという時節。
うっすらと白んできた空は陽の光が東の雲を明るく彩り、やがて昇るのだと世界に示している。

中央広場では噴水を取り囲むように、青果や肉・鮮魚・軽食などの露店が立ち並ぶ。
採れたての青果を選ぶ主婦たちは店の前で立ち話に花を咲かせ、
主人を待つ家人や御者たちは露店で湯気の出る軽食を買い、景気はどうだと言い合う。
誰も彼も耳や鼻や頬を赤くし、白い息を立ち上らせて広場を賑やかす。

そんな通りを、黒い影のような青年が歩いていた。

黒い外套に身を包み、首には銀のスカーフを巻き付けていることもあって体躯の程は分からないが、
目深に被る帽子と外套から覗かせる鞘…帯に刺す軍刀が、彼が軍属にあることを証明している。

警邏パトロールなのだろう。
分厚い革のブーツがコツコツと石畳を弾いた小気味のいい音をたてる。
行き交う人々同様、頬と鼻、耳先を赤くし、吐いた息は白く空気に散っていく。


―――軍人が歩けば、すれ違う誰もが…例え身に覚えのない者でも、多少なりともぎくりとする。
市井の取り締まりも兼ねているので、軍人は威圧的であることも求められているものだ。


だが、喧噪…とまではいかないものの、
彼は決して少なくない人ごみの中をまるでそよ風のようにするりと抜ける。

人々も彼をまるで視認できていないかのように、気にも留めない。



「これは、ユーリー様。毎朝の警邏、お疲れ様でございます」

今日初めて青年を見咎めたのは、既に棚を広げて青果を売る女主人だった。
にこにこと愛想よく声をかけられ、青年も足を止めて顔を綻ばせた。

「お、お早うございます」

青年が帽子を取って挨拶をすると、現れたのは黒いくせ毛と黒い目。
穏やかな童顔は見るものを警戒させず、困ったような下がり眉は頼りなさ気な印象を与える。
人の良さそうな笑顔と、優しげな吃音交じりの声。

まるで小動物が軍服を着て歩いているかのような愛嬌があるが、その黒い目の奥だけはどうにも感情が読み取れない。

「毎日の事ですけれど、やっぱりユーリー様が一番最初ですね」

女主人が気安い笑いを浮かべると、そうですね、とユーリーも頷く。

「そ、それで、いつも俺に最初に声をかけてくれるのも、奥さんですね」

ふわりと口元を和らげた笑顔のユーリーに、女主人はどうぞ、と小さなリンゴを三つ差し出す。

「ありがとう」

リンゴを受け取り、力任せに叩いたような歪つな銅貨を3枚手渡す。
そのまま袖で皮を擦って半分かぶりつくと、酸味に混じった苦味と薄い甘みが口に広がる。
シャクシャクとした小気味のいい食感と、喉を通り過ぎる爽やかさは心地良い。

帝国のリンゴは決して美味と呼べる果物ではないが、南北に広がる領土のおかげで一年中食べる事ができる。
加熱すれば甘さも出てくるため調理して食べるのが主流だが、そのまま食べられないこともない。

「本当にお好きですねえ、リンゴ」
女主人が苦笑いする。

ユーリーは毎朝必ずリンゴ3つ買って、その内の一つを食べる。

…と、言うのも毎朝欠かさず挨拶するこの女主人が差し出してくるからである。
先に差し出しておきながら『好きですね』と言われるのには首を傾げるが、かといって不快でもないので口にしたことはない。
この先もずっと、この女主人は自分がリンゴ好きだと疑わないだろう。

「まあ、ね、眠気覚ましになるからね…」
「あたしは焼いた方が好きですけど。」

焼くだけでもぐんと甘くなる事は当然、ユーリーも十分理解している。
というより、好んで生のリンゴを食べる人間はそう多くない。

しかしユーリーは咀嚼しながら、「自分は生のままも嫌いじゃないかな」と頭の中で唸った。

「今朝もしずっ…静かだね。…か、変わったことはない?」

ごくりと飲み込んだあと、女主人に尋ねる。
静か…と言っても、忙しなく賑わう広場で使う表現としてではない。

「帝国一の大豪傑が、毎朝こうして警邏に出て下さってるんです。近頃では早朝が一番平和で明るいですよ」

女主人が嬉しそうに笑うと、ユーリーは頭をぽりぽりと掻く。

「…ちょっと顔が割れすぎたかな…」
「帝都でユーリー・アンドロポフ・オルランの顔を知らない人間はいませんよ。ただ、その外套はいけませんね」

言われて、袖や外套を見渡して首を傾げた。

「だ、だめかな?」
「いくらもうすぐ日が昇るにしても、そんな黒い外套じゃあ人が歩いてんだか、影が歩いてんだか、わかりゃしません。ただでさえユーリー様は肌以外真っ黒なんですから、全身黒ずくめだとまるで幽鬼のようで不気味ですよ」
「ええ…」

本来であれば、軍属であり爵位を持つユーリーに対する女主人…平民の歯に衣着せぬ物言いは、無礼だとその場で切り捨てられても文句は言えない。
だが、女主人の軽口は決して侮りからきているわけではない事を、ユーリーは知っている。

「まあ、ユーリー様が明るい色を着ていたらそれはそれで不気味ですけどね。そのまま真っ黒でいてくだ
さい」
「え、あ、はい」

絶対の信頼と親しみ。そして、最大限の敬意。

彼女はユーリーに対する好意を決して隠さないし、本当にユーリーが嫌がるような言動はしない。
そういう気風の良さが、女主人にはあった。
ユーリーにとってそれはとても有難い事だったから、ついこの女主人のところでリンゴを買ってしまうのだろう。

そうしていつも通り、リンゴを持ち歩きながら広場を歩き出す。

先の女主人の明るさがリンゴに移るのだろうか。
不思議な事に、今度は道々で声を掛けられるようになる。

元々威圧感というものに意識を向けてはいないが、リンゴを持ち歩くだけで一層気安くなるのだろう。
それでも住民からにこやかに挨拶されるのは悪くない。
尤も、話しかけてくるのは大抵熟年層のご婦人か、ご老体が殆どだが。

軽い挨拶を交わしながら通りを歩くと、
ふと、少し離れたところから悲鳴が上がった。

「助けて!…誰か!」

叫びが届くと同時に、前方から痩せぎすの男が人波をかき分け、突き飛ばすように走ってきた。
その手に持っているのは、古く擦り切れた皮袋。

ああ、物盗りかと一瞬のうちに状況を理解したユーリーは、勢いをつけて男に向かって手に持っていた林檎を投げる。

「痛っでえ!」

握りこぶしより小さい程度のそれは丁度真っ直ぐ向かってくる男の口…むき出しにしていた歯に当たり、その勢いでもんどりうった。

男も何かが投げられたのは理解するが、財布をひったくって逃走している以上それに気を取られている暇はない。
逃げれば勝ちなのだ。
早朝のこの時間帯、このあたりに衛士は歩いていない。
今のうちならば、大通りの人ごみに紛れてさえしまえばやりすごせる。

そう思って再び足を踏み出した瞬間。


気が付いたら、視界がぐるりと回って空を見ていた。

「はれ?」

呆気にとられた後、背中にビシッと衝撃が走り、やがて鈍痛が体中に響く。
視界は曇り空を見つめていて、そこで漸く自分が倒れた事を理解する。

動こうにも動けない。
何故、と疑問が湧いたとき。自分の足から影が天に向かって伸びた。

「ちょ、ちょっと、失礼」

影…と思っていたそれは外套。
人間だった。
まだ若い…成人間もない小男が、皮袋を握る指を一本一本力任せに開かせていく。

「なっ…?!」
小男の力は見た目からは想像がつかない程強く、そして動こうにも、びくともしない。
「こ、この小僧!てめえ、なにしやがる!?こ、これは俺のだっ!」
そう叫んで無理やり体を捻ろうとしたのだが、
「そう」
何の気もないような小さな相槌とともにポン、と押され…地面に後頭部を抑えつけられる。
「いってえ…っ!な、くそ、この、ガキ…っ!!」
「な、名前は?」
「ハア?!」

男が声を荒げても、どうにか体を動かそうとしても、小男は無感情にただ男を抑えつけたまま見つめていた。
「あ、貴方の…、名前。…その、名前…あ、ありますか?」
小男は困ったように眉を下げる。
「てめえこの小僧!大人を馬鹿にすんのも大概にしろよ!畜生、畜生、馬鹿にしやがって…!」
「そ、その…馬鹿にしてるとか、で、では…なく…。調書、か、書かないと…いけないので」
夜より暗い真っ黒な両目には、凡そどういった感情を持っているのかが読み取れない。
「調書だぁ!?…って、まさか、お前…!」

男はそこでようやく自分を組み伏せている小男の服に気が付く。
それは紛れもなく衛士のものであり、…そして、その癖の強い黒い髪と黒い目を見る。
衛士の外套に付けられた飾緒には、彼の家紋が記されていた。

太陽が刻まれた盾を背負い、カモミールの葉を掴み羽ばたく鷲。

それは帝国の人間なら誰もが知っている家紋であり、この紋章を付ける事が出来るのはこの世でただ3人のみ。

「ま、ま、まさか、…あんた、…いえ、貴方様は!!」
一瞬で男の顔から血の気が引き、青ざめていく。

「お、おお落ち着いて下さいっ…その、いいですか、とっ…とりあえず、このお財布はもも持ち主に、お返ししますから、は、離して下さい。お、俺も、今、どきますから…」
男よりも動揺しているかのようなその吃音交じりの言動は、聞く限りでは組み敷かれている男よりも焦って聞こえる。
だがその顔はいたって真顔だった。

「…は、はい、はい!…も、申し訳ございませんでした!どうか、お助けを!」

離れると同時に、男は翻って地面に頭を擦り付ける。

「その、どうしても…、どうしても今日までに金が必要で、それで…っ!ま、まだ銅銭1枚たりとも使っておりませんので、どうか、どうか命ばかりは!」
「あ、は、はい…、事情は…詰所で伺います。ご、ご同行いただけますか?」

決して笑顔ではないし、殺気を放っているわけではない。
道を歩いている時と変わらない表情のまま、ユーリーが尋ねると、男はがたがたと震えながら身を縮こませた。

「はい、…はい!」


そうして詰所にひったくりが引き渡され、元の持ち主に財布が戻る。
まだ年若い娘で、郊外にある農場で住み込みで働いていたのだという。

「ありがとうございます、ありがとうございます…!これはむこう一週間分の稼ぎでして、今朝のユーリー様がいらっしゃらなかったら、泣き寝入りでした…!」

そう泣きながら、何度も頭を下げられる。
人々は一連の流れを見て、やれ良かった、やれ安心だと口々に綻ばせていった。

「流石はユーリー様!本当にお見事ですなあ」
「本当に、風が駆けていったと思ったら!」

わいわいと囲まれ始めたので、ユーリーは恐縮しながら、
「す、すみません、そろそろ時間ですので…」
と小さい体を更に丸めてその場を離れる。



平時、戦争のない兵士は街を守る。
ユーリー自身はその身分からして一般兵士に混ざって警邏する必要はない。

本来であれば帝都にいる間、邸宅でのんびりしている筈なのだが、仕事を頼まれてしまったので毎朝登城しなくてはいけない。
元々どうしても早朝起きる癖がついてしまっている。
そうすると、今度は登城までの空いた時間が勿体ないので、城下に借りている邸宅から城までを歩くことにした。

どうせならばと大通りや色々な道を自分の足で歩いて、見て回って、自分が守っている人々を、暮らしを見つめる。
決して豊かとはいえなくとも、自分が見て回ることで市民は安心するし、治安も良くなる。

感謝され、励まされ。
どうせならという消極的に始めた警邏だったが、張り合いが出てやる気にさせてくれるので、明日もまたそうするだろう。

実兄からは「まあお前らしいよ」と笑うものの、否定はされない。
領地で邸宅に閉じこもっているばかりの生活よりもずっと、性に合っていた。



「…ん?」

ふと、大通りに設置されている時計を見上げる。
予定していた時間を大分過ぎ、約束の時間までもう僅かもない。

「…ああっ!」

寄り道をし過ぎたせいか、残りの道は全速力で走る羽目になったのだった。

帝都で、また一陣の風が吹いた。

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